7.05.2014

[film] S21: The Khmer Rouge Killing Machine (2002)

もう、ここ数週間の低気圧は、Killing Machineとしかいいようがなくて土日もいちんち1本見るのが精一杯でしんでる。 29日の日曜日の昼、渋谷で見ました。

『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』- 『虐殺の記憶を超えて―リティ・パニュ監督特集』の一本。

“The Act of Killing”という映画の予告を見て内容を聞いて、それがみんなに「衝撃」と言わせてしまうなにかを抱えているのはなんとなくわかるのだが、カンボジアで起こった国家ぐるみの大虐殺行為をあまり知らないままに見てしまう(まだ見てないや、終っちゃった?)のはどうなのか、という気が少しだけしていて、そういうときにこれが上映されるのを知ったので。

クメール・ルージュの政治犯収容所「S21」- 一万数千の処刑と虐殺が行われ、生き残ったのは3人だけ、そこで生き残ったひとと暴行・虐待をしたひとを収容所跡地で対面させ、当事者達によって当時の「現場」を「再現」してみよう、という。

加害者側は当然のように「好きでやっていたわけではない、従わなかったら自分が殺されていた」と繰り返すのだが、だからと言ってBad Karmaが許されるわけではない、と自分の親にまで突き放されてしまうので泣きながら対面の場にやってくる。

被害者で生き残り側の画家のおじさんは、当時の情景を絵にして見せて、こうだったよな、とか言ってみるのだが、加害者側はそれを前にしても同様に「従わなかったら…」というだけで、当時の収容所での事実に関する証言は普通に出てくるし、見回りや監視の再現も澱みなくすらすら出来てしまうところがおそろしい。
つまり、すべては上から命令されたからやっただけで、その行為がなぜ、どうして悪いことだったのか、が現在に至っても明確に理解できていないらしい…

例えば加害者側がふつうに使う「敵」という言葉、でもこれって同じ国に住む、ぼくらの隣人だよね? 同様に死体をばらす際に使われる「粉砕」という言葉、これっていくらなんでも酷くない? とか言われてもなんだか噛みあわない、ここがこの映画の、明らかにされた地獄絵以上におそろしいところなのだと思った。 善悪の彼岸で行われてしまった虐殺と拷問、その行為の「善悪」について今に至るまで当事者の一部では整理がついていない、「悪」が悪として認知されていない、という事実が。

だから教育がだいじなんだよ、なんて綺麗ごとをいうつもりはなくて、今の日本の最悪さも結局のところここだよねえ、としみじみしてしまうのだった。 前の戦争をちっとも反省していない(反省する必要なんてなかった)連中の子孫が勝手にありもしないどこかに仮想敵を置いてふたたび戦争を、人殺しを夢見ている、んで、その暴走をわれわれは止めることができない。 くそったれ。

上が(集団が)そう命令したから人を殺した、この映画の能面つけたような旧看守達と同じように人を殺すのだね君たちは?  「敵」を「粉砕」するんじゃないよ、「人」を「殺す」んだよ。「自国の防衛」の裏にあるのは、ただの「戦争」でありただの「人殺し」なんだよ。 わかってるよね?

ほんとくそったれだわ、と低気圧頭痛が更にひどくなったのだが、映画のラストに出てくる「粉砕」された破片とそれを掬いあげる手、の映像を忘れないようにしよう。 同じ監督による「消えた画 クメール・ルージュの真実」も見にいこう。

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