7.24.2014

[film] Daniel Schmid - Le chat qui pense (2010)

19日、渋谷でみました。 「ダニエル・シュミット―思考する猫」 
もういっこのタイトルがあるとしたら「ダニエル・シュミット―思考する山岳男根」、とか。

本人&関係者のインタビューと作品からのクリップを繋いでダニエル・シュミットの作品世界を概観する。
フランス語、イタリア語、ドイツ語、英語、日本語、いろんな言語が飛び交いいろんな国のひとが彼について、彼の作品についていろんなことを語るのだが、ダニエル・シュミットの世界は揺るがず、ダニエル・シュミットの世界としてただそこにある。
でも、揺るがないといっても完成度と様式美で圧倒する世界が頑としてある、というよりは葉が茂ったり散ったり雪が降ったり、季節ごとに、年を追って変容していく山肌を近くから遠くから眺めているようなかんじ。

「思考する猫」は落ち着きなく走り回る犬ではなくて、やっぱし猫、椅子に座ってじっくりと思考する猫で、その猫がやはり同様にどっしりと動かず、ゆっくりと歌って舞いながら朽ちてゆく男女の、その愛の行方を捕えようとする。

ていうようなことを、ダニエル・シュミットの個々の映画を見たり思い出したりしながらしみじみ実感できるかというとそこがまたくせもので、見ているときはなんかたるかったり眠かったりすることも多くて、このドキュメンタリーを見ながら、ああそうなんだねえ、と思うことも多かった。
なので、ダニエル・シュミットの映画のガイド・整理としてはとてもよいし、彼の映画に再び向きあってみたくなる、そういう内容だった。
彼の映画って、断片断片は古い写真のように残像として残っているものの、ストーリーみたいのってあんま残ってないねえ。

で、映画のあとの蓮實重彦さんのトークがあまりにすばらしく、ていうかそちらで語られたダニエル・シュミット像が山岳男根の件も含めてあまりに鮮烈だったので、映画のほうが薄らいでしまったくらい。 さっきまで見ていた映画のなかでダニエル・シュミットについて語っていたひとが、目の前に現れて同じひとのことを語る、というのはなんかダニエル・シュミットぽいかも、とか。

やっぱし人間て、熟れて腐れてなんぼだよね、とか。 もんだいはいかに腐るか、だよね、とか。

この人のトーク、前回は溝口の国際シンポジウムだったかも。 その前は2003年のコロンビア大学の小津の国際会議だった、かしら。

トークの内容は、おもしろいに決まっているのだが、いつも思うのは、なんでこの人のお話はいつなに聞いてもこうなんだろうか、と。 初めて聞くであろう人にも映画のことよく知らない人にもおもしろく聞こえるに違いないその語りって、ものすごい謎だわ。 元総長としか言いようがないわ。

トークの最後に紹介された(映画の最後にも出てくる)、シュミットの世界観 - 総体としては悲観的絶望的、でも細部において楽天的であること - そこに現れる奇跡 - が凝縮された「トスカの接吻」のオー・ソレ・ミオを歌うシーン。 各自が勝手にやってて、張りあげているのは大昔にそうであったはずの声で、なにもかも破綻し、腐れてぶっこわれて、お先まっくらなようで、でも奇跡的な調和 - 調和というのではないな、なんかアンバランスなかたちでバランスがバランスしている、みたいな。 あの画面のなかにいたおばあちゃんおじいちゃんとあらゆる過去の欠片とお茶目な音楽の神様などに、惜しみない拍手を。


ダニエル・シュミットのウィキペディアは更新されないねえ。  いまの3倍増し、ていうのが総長指令なのに。

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