8日、金曜日の晩にへろへろ状態でみました。
気がついたら始まっていたCassavetes特集。 年寄りであればあるほど、這ってでも見ておきたい。
寝るかもー、とか思ったがぜんぜんそうならなかった。 やはりおそるべしだわ。
主演の舞台"The Second Woman"がPreview中のMyrtle(Gena Rowlands)はある晩、追いかけてきた熱狂的なファンの娘が車に轢かれるのを見て以来、だんだんおかしくなっていって、最悪の状態でOpening Nightを迎えるのだが、彼女はぐでんぐでん状態で劇場に現れる。
ジャンルでいうとバックステージもの、なのだが、ここで焦点が当てられるのは表の舞台と裏の舞台、という場所の違い、隔たりというより、時間の経過であって、それもOpening Nightという舞台初日に向けたそれ、だけではなく、例えば轢き殺されてしまう17歳のナンシーに流れていた時間と、老いに直面してのたうちまわっている彼女のそれ、でもあるし、女の時間と男の時間、生の時間と死の時間、みたいなより大きめのテーマのなかで語られるのもある。
舞台の上で起こってしまったこと、その時間を巻き戻すことはできない。
この老猫Myrtleはそれを十分自覚した上で、劇作者やプロデューサーをさんざん引っ掻きまわして、ふん、て言うの。
流れていく時間、流れてしまった時間について、そこで起こった出来事について、いろんなひとがいろんなことをいうし、いうことができる。
でも、ひとつだけ確かなことは、時間は流れていって、戻らない、ということだ。
Opening Nightは何万回も、何億夜でもありうる、でも、それはたった一度しか起こりえない夜のことでもある、わかっているよね? と。
(これと同様の断言を"Love Streams"では「愛」についてやっている)
映画こそが、廻っていくフィルムの不可逆性に寄り添って、生と人生のすべてをぶちこみうるメディウムであるのだ、と静かに語っているの。
もういっこのテーマはもちろん愛、愛が必要なんだよう、なのであるが、それはいいよね、なの。
それから演技論、みたいのもあるのだろうが、これはもう凄すぎて論じるだけバカみたいな気がするので見てぶっとんでください。
ラストのOpening Nightのパーティのシーン、Peter FalkとSeymour Casselが映っているとこ、今回はちゃんと確認できた。 まえ見逃していたんだよねー。
6.16.2012
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