17日の日曜日、新宿に出て見ました。へろへろ。
なんでアンコール上映とかやってるのか、ぜんぜんわかんないのだが、そういえば見ていなかったし。
Marguerite Durasであるからして、当然ふつーの映画ではなくて、映画というかたちを通して演じられる朗読劇、である。例えば。 原題は「アガタ、または終わりなき読み」みたいな。
ひとっこひとりいない冬の海、そこに向かって建てられた廃墟のようなホテル。
紙に書かれたテキストが映しだされ、女性の声(Duras自身)が語り始める。 自分は明日の朝4時に出発すること、それによってなにかが決定的に終ること、そして語りの相手(兄)との間にかつてあったいろいろなこと。
画面上に現れる海やホテルの映像が、ナレーションで語られる内容を支えたり補強したりしているわけではないことがだんだんわかってくる。 むしろ、語りの内容(例えば夏の日の別荘での思い出)から遠ざかるようにして映像(例えば冬の日の閑散とした海とホテル)は後からやってくる。
語りにはたまに男(Yann Andréa)の声が被さる。
男と女、ふたりの姿は時折画面のはじっこに幽霊のように現れたり消えたりするが、両者の姿がアクションのかたちをとって交錯したりぶつかったりすることはない。
ふたりは台本のなか、互いに語りあい響きあう声としてのみ、この世にいて、別々の凧糸で繋がっているかのようだ。
時折、ピアノによるブラームスのワルツが静かに流れる。
これは妹が小さい頃に練習してもできなかった曲、と説明されるの。
難しいとか、そういうことはぜんぜんない。映像はなにが映っているかすぐわかるし、語りの中味は小学生だってわかる。 映像と言葉の関わりと、それによって現わされる世界とか時間(現在 - 過去)のありようが我々のよく知ったそれとは違う、というだけのことで、その作法というか、そういうものだと気づいてしまうと、これはこれでとても気持ちよいものでした。
この映画にはっきりとある、見る側を遠くに突き放してつーんとしている冷たさ、って、80年代初期のものなのだろうか。 今の若い子って、こういうのにぽーっとしてかっこいい!とかあんま思わないのかなあ。
椅子のうえで小さく猫みたいに丸くなるBulle Ogier、かわいー。
あと、こういう映画はフィルムのちりちりしたノイズと一緒のが合うなー、と思った。
6.24.2012
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