15日、金曜日の晩にみました。
2010年の11月、Cannon Films特集で見て以来。 もう5回くらい見ているのだが、日本語字幕つきはこれが初めてかも。
Cassavetesの遺作。メジャーなスタジオでは全部断られてCannonに来て、Cannon側は2時間以内にしてほしいと要請したのだが、彼はできなくて、逆に増量してきた、と。
筋はなんだかよくわからない、というかどうでもよいの。
作家をやっているらしい男が女の子達を囲ったり、歌手をおっかけまわしたり、息子(たぶん)をべガスに連れてったり、面倒を起こした姉(たぶん)の面倒をみたり、いろんなことをする。
さよならだけが人生だとか、日々是好日とか、そういうことではない。 毎日が"Opening Night"みたいにめちゃくちゃで軋轢だらけで、でもあの映画にあった焦燥や苛立ちはここにはない。
興味があること、必要なことがあって、そのために生きている。それ以外のことはぜんぶどうでもいい。
そういうふうにして生きていると、こんなふうになる。
その理由のすべて、水のように空気のように必要なそれをとりあえず愛、と呼んでみてはどうか、と。
いろいろ考えてみたのだが、それは「神」でも「善」でも「アート」でもなくて、やっぱし愛としか言いようのないなにかなの。
だから拒絶や拒否の前にJohn Cassavetesは、流血してしまうのだし、Gena Rowlandsは、横になって動けなくなってしまう。
なんでそうなの? と言われても彼らにはわからないだろう。 そうなんだから。
変なひとたち、なのかもしれないが、それは始めからそういう生のかたちをもったなにかなのだ、としか言いようがない。
ここには生に関わるほとんどすべてが入っている。
女の子もおかまも、アルコールも歌もダンスも、離婚も裁判も引っ越しもギャンブルもボーリングも小切手も、血縁も連れ子も子連れも動物も、横臥も階段落ちもびんたも流血も、ほとんどぜんぶある。 それらがぐんにゃり歪んで見えるくらいの至近距離、彼らの匂いや息遣いが感じとれるくらいの近接距離から撮られている。
カタログ的ななにかとして、それらのベースにある思想や言葉を伝えるものとして導入されるのではなく、単にいくつかの動きとして、フィルム上に残された獣道として、これらは目の上を横切っていく。
愛がとめどなく流れていくさまを追う、というよりも、愛が彼らの血となり体液となって流れていくその鼓動を顕微鏡でみて、聴診器で聞く、それらを ね! ね! ね! って示す。
ここにないのは誕生と死(自死も含めて)で、なぜなら始まりと終りはとりあえず関係ないからだ。
こういうのを見てしまうと、巷でいう元気になる映画とか癒される映画とか、そういうのはぜんぶ屑だと思う。
ここには生そのものが曝されていて、ただただ流れていて、それだけで超然としてて、すばらしい。
さっきから同じことしか書いていないのでもうやめますけど、死ぬまでにあと20回は見よう。
この映画にリアルタイムで、84年に出会っていたらどんなんなっていたか、を想像してみる。
… たぶん、今の50倍くらいろくでなしになっていたに違いない。
6.20.2012
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