21日木曜日の午後、休みを取ってCassavetes2本見ました。
この翌週で特集は終わってしまうし、翌週は米国というのがわかっていたので、こういう手を使うしかなかったの。
(あのさ、CriterionのDVD持ってるわけだし、ここは見ないで我慢する、ていう手もあったよね?)
"Faces"(1968)は、2011年の元旦に見たのが最後。
いつ見ても強烈で、強烈に変な映画で、でも変な夢のようにいつまでも残る。 残ってもそんなに嬉しくもないのだが。
最初のほうはすけべなおやじたちが酔っぱらって「おんなを抱きてえー」とか大声でわあわあ騒いでいるだけなの。
たまに相手の言うことにぴきってキレて、突っかかったりなだめたり、そんな描写がえんえん続く。
こんなんで映画になるのかー、と思っていると、話はだんだん絞られてきて、夜更けに若い妻を置いて女(Gena Rowlands)の家に行った初老のおやじ(John Marley )と、夫のいない間の夜遊びで拾った若い男(Seymour Cassel)を家に連れこんだ若い妻のふたりのひと晩を追っていく。
それでも、なにが"Faces"で、映画がなにを言わんとしているのかはあまり見えてこない。
映画に出てくる人たちが難しいことを言っているわけではぜんぜんないし、理解に苦しむようなことをやったりするわけでもない。
ただ、彼らは自分がしていること、しようとしていることを明確には言わないし、カメラもそういう方向には動いていかない。
彼らの目が開いたり閉じたり、顔が引きつったり歪んだり泣いたりするその様だけを執拗に追う。 その顔と頭が乗っかっている物理的な身体やその動きは、とりあえず追っかけるけど、なんでそこに向かっているのかは予測できないし、結局わからない。
歳とったらわかるようになるかも、とか昔は思っていたが、別にわかんない、でいいや。
愛と憎悪のあいだで際限なく変容を続けるいろんな顔たち。 それをひと晩丁寧に追っかけていくだけで、これだけのドラマが作れてしまうという驚き。 Thin Line Between Love and Hate ♪
あとは、ああいうなかで生きている人たち - との間の距離というものについて、遠いとか近いとか、そういうことをわかりやすいかたちで考えさせてくれる。 大文字でうさんくさく語られがちな「人間のドラマ」、みたいのを因数分解していったらこんなふうなところに落ちるのではないか、例えば。
メインに出てくる家はCassavetes自身の持家で、修羅場のコアはここで撮影されていて、台所に掛かっている絵が同じだから"Love Streams"も同じ場所で撮られたのだということがわかる。 "Faces"の夫婦はどこかに越していったのだろうか? 殺しあいでもやっちゃったのだろうか?
そして、"Faces"の16年後に同じ場所で撮られた遺作は、憎悪の部分を取っぱらい、感情の局部としての顔からも遠ざかり、ひたすら垂れ流されていく愛とその器である不器用な体とその動き、にフォーカスしていくことになるの。
こういうスパンで見てみると、なんだかすごいねえ、と改めてびっくりしてしまうのだった。
6.28.2012
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