11.01.2026

[dance] Hofesh Shechter Company “Theatre of Dreams”

10月25日、日曜日の午後、彩の国さいたま芸術劇場で見ました。
埼京線が最寄りの与野本町の駅に止まってくれなくて少し焦った。
 
イスラエル出身の振付家Hofesh Shechterが主宰するイギリスをベースとしたカンパニーの公演。現地では2024年に上演されている。休憩なしの90分。
 
客電がついた状態で、ジーンズ姿のひとりのダンサー(男)が客席の通路からステージにゆっくり歩いていくと、彼のために幕に隙間があいて、昇ってそこに入ると少しづつ人数を増やしながら全体では12人(たしか)のダンサーによる群舞が始まる。照明の暗い黒と青と赤、奥に向かって幾層にもレイヤーになって続く奥まで、右左で閉じたり遮っては開いてを繰り返すカーテン幕と、その奥に隙間に見え隠れしながら蠢いて重なったり連なったりしていくダンサーたち。背後ではややノイジーで工場のように圧迫感のある音(Hofesh Shechter自身が作っているそう)が壁としてずっと覆っていて、照明(by Tom Visser)も音と一緒にダイナミックに明滅して、(イメージする)夢に入っていく、夢の世界に取り込まれて閉じこめられ抜けられなくなっていく様がわかりやすく描かれる。ところどころ一列二列に並んでの止められない群舞やひとりで立ち尽くしてどうしようの不安や理不尽… 等は当然のようにPina BauschのTanztheaterを思い起こさせたりするのだが、これらみんな「夢だから」とか「悪夢だし」で片づけてしまえそうなやつかも。というかそもそもダンスというのは現実の反対側の夢や幻想がもたらすものではなかったか、と。
 
途中から赤いスーツを纏った3人組のミュージシャン(パーカッション、管、ギター、ヴォイスなど全員がマルチ)がステージの右奥でバッキングするようになると、ダンサーの動きにライブのダイナミズムが重なるようになって、夢の世界が外に滲み出てじわじわ圧してくるかんじになって、でもまだ夢は夢かなー、って見ていると、その流れで「さあみんな立って踊って~(日本語)」でステージ側から煽られ客電がついて、ダンサーもわらわら客席に降りてきたりふつうのライブのようになる。(ダンス見にきてあんま立ったり踊ったりしたくない派)
 
このまま止まらずに最後まで立って見るのはしんどいかも、と思ったらこれは終盤の入口だったようで、ダンサーたちは元に戻って座ることもできて、ただ音楽はより激しいラテン寄りのパーカッシヴなのに変わり、ええじゃないかええじゃないかの止まらないようなの(どっちみち止まっていないのだが)になって、最後は神殿のような(幕の上の飾りとか)ところにたどり着いて、たぶんもうじき目覚めがやってくるのかも、くらい。
 
“Dreams”というお題だけで90分を流すのはしんどいかも、と思っていたが一応ストーリー的な流れと、音楽と照明とカーテン幕をうまく使って全体の熱がうねって上がって収まっていく様を描き、これが“Theatre of Dreams”なのだ、と見せる。 強弱、揃える揃えないのバランスも含めてとてもうまく考えられたステージではあった。
 
迫ってくる夢の始まりから終わりまでの冷熱と明暗を叩きつける強さで一気に見せる、その強度と完成度は申し分ないと思ったのだが、どこから始まるでも終わるでもない夢にだらだら浸ったり醒めたりを繰り返し、その流れで映画館とか美術館を彷徨って仕事なんてやだー、の日々のぐだぐだを生きているものとして、あのびっちりきびきびと動いていくテンションはきついわー、とちょっと思ってしまったのだった。

無意識とかしらんけど、夢ってまずあんなふうにオーガナイズされていない、なによりも自分しか見れない、共有不能・不要のどうしようもなく隠微で腐れたしょうもないものであってほしかったの。 Pinaの「夢」がすばらしいのはそのどうしようもなく不恰好でみっともないとこにあったのだと思うし。

[film] Blue Heron (2025)

10月25日、日曜日の昼、ル・シネマ渋谷宮下の9Fで見ました。
システムのメンテナンスでずっとオンラインでチケットが取れないので窓口で買った。
 
カナダのSophy Romvariの作・監督長編デビュー作で、ハンガリー・カナダ共同制作。監督がヨーク大学の修士修了で作った短編ドキュメンタリー”Still Processing” (2020) – 未見- が元になっているそう。
 
90年代半ばのバンクーバー島で、道路脇の一軒家に車に乗った一家が越してくる。母(Iringó Réti)と父(Ádám Tompa)と小学生低学年くらいのSasha (Eylul Guven)と二人の兄弟と、他の子達より少し年長のティーンで父親がちがうJeremy (Edik Beddoes) の6人で、父は会社には行かずに家のPCでプログラミングのようなことをしていて、全体としてはとても静かな家族。両親は、子供たちの前では英語、彼らに聞かれたくない内容の時はハンガリー語で会話をする。
 
そのうち、家族がとても静かに見える背景には、ひょろっとしてメガネをかけてたまに薄笑いを浮かべる程度で殆ど喋らないJeremyの何をしでかすかわからない厄介な挙動、存在があることがわかってきて、万引きで捕まって手錠をかけられて帰宅したり、壁をどすどすやっていたり屋根に登っていたり、ずっとどこかに消えてしまったり。その度に父と母は口論になるので家族は静まり、医者や外部からやってきたソーシャルワーカーがいろいろ言うけど - どっかに移す“voluntary placement”とか - 原因も対策も的を得たなにかのようには思えない。
 
他方で、家族みんなで博物館に行ったり、暗室で写真を現像したり、水遊びをしたり、やはり静かではあるが楽しい思い出もいくつか描かれるので、どこにでもある家族の斑な思い出、不安定でも途切れず続いていく、いこうとする何かはみんなの中にある。
 
映画はそのトーンを変えることなく、気がつけば現代に飛んで続いていて、映像作家であるらしい女性がオンラインで療養士や専門家の意見交換を聞いたり、アーカイブの箱を開けてみたり、そのうちその中心にいるのが成長したSasha (Amy Zimmer)であることがわかる。彼女はJeremyがどうしてあんなふうだったのか、なにが彼をあんなふうにしたのか、あの時、家族はどうすればよかったのか、自分にできることはなかったのか、をいまだに踏みしめるように追っていて、そのうち彼がもうこの世にはいないことも明らかになるのだが、でもそれでも… という静かな思いに彼女とカメラは引っ張られているよう。
 
家族みんなで博物館に行ったときに聞いたBlue Heron(アオサギ)の大きくなるとどこかに飛んでいっちゃいます後はどうなることやら、という、その生態、何を考えているのかまったくわからない顔(サギ類って本当にそう)がJeremyに重ねられて、どうしたものか、どうすることができようか、が改めて浮かぶ。アオサギ、京都にいくとよく見るけど、あんたいっつもそんなふうで、なに考えてんの? しかないよね。
 
小さい頃の不安定だった家族との思い出を撮る、成長してから振り返る、というと”Aftersun” (2022)を思いだしたりもするが、あそこまでエモや情愛に溢れていないし、Paul Mescal(的な人物)が引っ張ったりするわけでもない。淡々と振り返って、あれこれ重ねていくだけ、だけなのに/だけだから、助けてあげられなくてごめんね、また会いたいよ、がじんわり迫る。でもアオサギはどこかに飛んでいっちゃった。
 
JeremyはPearl Jamの曲から取ったのかしら? って少しだけ。
 

10.28.2026

[film] 太陽に背く者 (1959)

10月17日、土曜日の昼、シネマヴェーラの特集『映画を輝かせるために』の邦画篇で見ました。
結局この特集の邦画の方、見れたのは2本だけだった。

監督は酒井辰雄、脚本は浅野辰雄、関沢新一、瀬川昌治、撮影は倉持友一。
 
昭和30年の冬、京都の西陣で、呑んでいたちんぴら同士の小競り合いがバーの外の路地に広がって、ひとりが夜の路上で刺殺され、4人組が逮捕されるが、捜査を担当した志村喬、杉浦直樹、田中春男の3人の刑事は言いたい放題で二転三転していくちんぴら達の証言に翻弄され、証拠探しで夏も冬も街中を這いずり回り、裁判では拷問虐待されたとか言われて世間から叩かれ、ぼろぼろになりながらも捜査を続けていく志村喬たち、それを支える妻の田中絹代など、地味な犯罪捜査・刑事モノ、というより世の中にはいろんな人がいるなー、のような広がりを見せる。
 
ちんぴらの喧嘩や恫喝の迫力と、とにかく全方位で耐えて黙々と捜査を続ける刑事たちと、それらを眺めつつバーでなんもしない記者とか、狭いながら太陽に背く者たちのいろんな世界がまるごと詰まっていて、それらを志村喬と田中絹代がぜんぶさらっていく。このふたりの労苦によってこの時期の日本は支えられていたのだな、ということがわかった。

 
愛することと生きること (1959)
 

10月20日、火曜日の晩、国立映画アーカイブの特集『映画監督 木村荘十二』で見ました。
この監督も作品もまったく知らないのだが、知らないので見てみるしかない。

『1957年に売春防止法が施行されたが、依然として対策が必要であるとの認識から、一般の理解と協力をより深めるべく製作された啓蒙映画』(チラシより)だそう。 『赤線地帯』 (1956)のその後、赤線の彼方に。 47分。
 
新宿の路地裏の暗い連れこみ宿の一室でひとり自殺を図った娼婦のたか子(小沢弘子)が婦人相談員の峰岸(平松淑美)や民生委員の協力を得ながら、少しづつ回復していく話。回想のなかでたか子は田舎で坑夫の実(左右田一平)と結婚して、職がないので東京に出てきたもののやっぱり職は見つからず、仕方なく売春を始めて、実はそれを横で見ていることしかできず、たか子は妊娠していることがわかり… というような経緯が綴られる。
 
みんな苦しかったし誰も悪くない、とされるのかもしれないが、やっぱり大枠では男がダメで悪いし酷いし、そうして弾かれた女性を女性たちが集まってどうにかしなきゃ、になる構図はこないだの『ファーストボイス』まで変わらず。外側だけだとお先真っ暗の、ものすごく暗い話なのだが甘さや湿り気をなくして、背後の善も悪も強く出さず、コトの経緯(どんなんなっても、こんなふうに救うことができる)をきちんと追って、最後、次の女性を救いに向かう女性たちがかっこよいの。
 
しかし、↑のも1959年。暗く大変な時代だったのだなあ、って。
 

末っ子大将 (1960)
 
上のとの2本立て。婦人団体(大阪母親プロ)の筋書の公募により村田忠昭が書いた原作を依田義賢が脚本に仕上げている。 後に『暴れん坊大将』と改題されたそうだが、そんなには暴れてないかも。
 
兄弟を亡くしながらも母親(望月優子)の愛情を受けて育つ7人兄弟の末っ子少年が読みあげる作文、という形式で母と子の日々のやりとりを追っていく。成瀬の『おかあさん』 (1952)みたいになるのか、と身構えたがそんなことはなかった。
 
犬を簡単にあげちゃうところとか、少年に空き巣の疑いをかけた警官とのやり取りのおもしろさとか、依田義賢すごいかも、ってなるのと、望月優子の笑顔もすばらしいの。 これも『愛すること...』と同じで湿っぽくなる隙間がなく、みんながきびきびと動いていって止まらないのがよかった。
 

ロケーション (1984)
 

10月22日、木曜日の晩、シネマヴェーラの特集『映画を輝かせるために』で見ました(邦画ふたつめ)。

森﨑東監督による松竹映画。 森﨑東の映画って見たことなかったかも。 原作はスチールカメラマン津田一郎の同名本。
 
ピンク映画のカメラマンの西田敏行が自宅に戻ると妻で主演女優の大楠道代が自殺未遂していて、監督の加藤武も喘息で倒れていなくなってどうしようって、でも現場に向かって宿屋の掃除婦の美保純を強引に主演に据えて撮り始めたら彼女は故郷にお墓参りに行く、というのでロケ隊ごと移動して、とにかく止めずに撮っていく。よくある現実とフィクションと現場がぐだぐだになっていくバックステージものなのだが、全員が自分の足元しか見ていないし、西田敏行も美保純もすぐに簡単に裸になってしまう人たちなので、どうにかなってしまう。
 
あと、これが映画デビューとなる助監督役の竹中直人ほか、現在は程よくじじいとして枯れている連中がみんな若くて、べったべたの80’s(演技)ムーブをしているのが楽しくて、そういう中でのこんなこともあったりして、のノリで転がっていく自由が楽しくて、これらが恥ずかしく見えない(笑えるか、というと微妙。ただこれは当時から)のはさすが。 これだから映画ってすばらしいな! にならないところも。
 
想定していない悪夢が続いていく撮影現場のやけくそと居直りを幾重にも自在な、どうとでもしたれ、のフリーフォームのなかに描いて、最初と最後が西田敏行の尻(入浴シーン)なのに、なんでこんなに爽やかな後味のになってしまうのか、謎としか言いようがないの。
 

10.27.2026

[film] NAZA (2026)

10月24日、土曜日の午後、シアター・イメージフォーラムで見ました。
 
監督は“No Other Land” (2024)のYuval Abraham とRachel Szor - ふたりのイスラエル人。Guardian紙とJW Filmsの制作による英国映画/ドキュメンタリーで、こないだのヴェネツィアでプレミアされて喝采を浴びて審査員特別賞を受賞している。

既に50以上の国で公開され、グローバルのストリーミングは11月下旬からGuardianのサイトで可能になるとのこと。
 
テルアビブの夜中のビルの上 - 屋外(室内だと盗聴される可能性があるから)でYuval Abrahamが匿名のイスラエル軍の関係者24名に3年間に渡ってインタビューをしていった記録(もう1人のRachel Szorは撮影担当)、それだけの77分。 インタビューされる軍関係者の顔は見えないように、声も変えられている。
 
戦闘や虐殺の凄惨な現場が映しだされるわけではない。夜の、相手の表情が見えない聞き語りと軍関係者が自分で描いたりする説明の絵図と、たまに向かいのビルのなかで瞬くディスプレイとか、その程度の、全体としては極めて静かな都会の夜を映した映画。 なのだが、しばらく吐気が止まらなくなる、そういう強さをもった内容ので、でも必見。 現代の戦争ではここまでのことができてしまう、それが許されてしまう、という現実は広く知られるべき。
 
NAZAはIsrael Defense Forces (IDF)が使うヘブライ語の軍内の符牒で 、Nezek Agavi - Collateral damage - 巻き添え被害 - 民間人の巻き添えとなる規模を示す単位のこと。 彼らが標的とするハマス構成員を殺害する際に巻き添えで殺される可能性のある民間人(含子供)の数で、NAZA20、というのはその暗殺の巻き添えで近くにいる20人の女性や子供が殺される可能性がある、ということを示し、NAZA20までなら上の承認を必要とせずに即時で実行可能、それ以上であっても却下されることはほぼなく、ハマス構成員のまわりのNAZAを全部足すとガザの総人口を軽く上回ってしまう、と。つまり…
 
何度も言及される2023年10月7日のハマスによるイスラエル攻撃、これへの報復、というかたちでイスラエル軍はガザ地区での標的特定のためにAIや携帯電話による監視、盗聴、妨害、建物内部まで含めた地図、地形へのリンクを用意し、目的(報復)達成のためにあらゆるインテリジェンスにテクノロジーを駆使して、実証実験も含めてやりたいように実行してきた。インタビューに答える軍関係者は、そこにおける自分の役割を語り、その「実行」については、AIがドローンが狙撃部隊が、という言い方をするが、目的はガザ地区からパレスチナ人を一掃する(ジェノサイド)こと、で統制されている。
 
というような語り口だけを取れば淡々としたやり取りが、静かなテルアビブの夜景にしみていく。そこにモンタージュされるTVのニュース映像に映るネタニヤフの姿、「みんなでやれば…」みたいなスローガンの看板、シネマテークでのランズマン特集など。
 
やり口は異なるもののここで進められている殺人の自動化効率化による住民の徹底的な排除と殲滅、はナチスがやったこととどこがどう違うのか、仮に違っていたとしてもこの組織的、計画的な取組みの何をもって、どう正当化しうるのか、まったく理解できない。
 
そしてこんな国と関係(友好だろうがビジネスだろうが)を結ぼうとしている自分の国がほんとうに恥ずかしい。お金のためで、自分の税金がそこに流れているのだとしたら許せないし、勝ち組だからみたいな意識なのだとしたらサイテーのクズ以下だし、あんなふうに人を、子供を殺して平気な連中と対話なんてできるはずがあろうか。
 
いま行われている選挙の結果如何で、大量殺戮が更に進んだりしませんように(祈)。
この映画が将来裁かれるであろうIDFについての、悪についての証拠映像となりますように。
 

Là-bas (2006)

 
10月23日、金曜日の晩、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。今回の特集で自分がみた最後の1本。 上映後に彼女の映画の編集を担当してきたClaire Athertonさんとのオンライントーク付き。 英語題は”Down There”、邦題は『彼方』。
 
Artist in residenceでテルアビブにアパートを借りて滞在するChantalが現地で撮ったドキュメンタリーで、簾のようなカーテン越しに見える隣のアパートでなにかしている住民たちの様子、海辺、夜景などに、彼女の声、電話での会話等が被さっていく。見知らぬ街に滞在するということ、そこから見える風景がすべてで、そこで感じられる距離、断絶、違和、それらの知覚や経験を確かめるようにひとつひとつ置いていく。 その落ち着きのない落ち着き。
 
目に映る耳に聞こえる平坦な平穏な景色、その彼方、背後、少し遠くで実行されてきた(ことを知っている)非道な暴力、その歴史と蓄積、その均衡のありように戸惑い、緊張・疲弊するさまが景色の切り取られかた、声の様子、などから窺うことができて、それは後のClaireさんとのトークでも、そういうかたちで編集していった – 彼女が書いていた大量のテキストを声におとす、等 - ことがわかって、なるほどー、だった。
 
そしてこの翌日に”NAZA”を見ると、その映像構成の類似に驚いてしまう。(製作者たちは影響を受けた作品として『関心領域』や”SHOAH”を挙げているようだが) 
 
この20年後、おなじ街の夜景が、こんなかたちで再現されることになるなんて、Chantalは想像しただろうか? そんなようなことも含めての『彼方』、もう一度見返してみたくなる。

10.26.2026

[film] September 30, 1955 (1977)

10月21日、水曜日の晩、菊川のStrangerで見ました。

監督はJames Bridges、撮影はGordon Willis、音楽は『エデンの東』 (1955)のLeonard Rosenman。邦題は『ジェームズ・ディーンにさよならを』。 

ここで始まる、これまで劇場公開されてこなかった作品を紹介する「CULT CLASSICS」のシリーズ第一弾、とのこと。

アーカンソー州の小さな映画館で大学生のJimmy J (Richard Thomas)が『エデンの東』をぼろぼろ泣きながら見ていて(映画のラストシーンも音楽もそのまま画面に映される)、終わるとひとり名残惜しそうに映画館を出て、相当にJames Dean (JD)が好きなんだろうな、というのがわかる。翌日 – 1955年9月30日の昼間、フットボールの練習中にラジオからJDが自動車事故で亡くなった、というニュースを耳にした彼は、そんなバカな!って全てを放って走りだし、ラジオ局に向かってアナウンサーがニュースを読むのを聞いても本当らしいので錯乱して、同じくJDを芯から愛するBillie Jean (Lisa Blount)と電話で話して、恋人のCharlotte (Deborah Benson)やルームメイトたちを誘って、川辺で呑もう! ってデリでアルコールを万引きして吞みながらJDがいかに偉大かを話して、泥でオスカー像を作ったり、夜に降霊式をやろう、ってBillie Jeanも誘うことにする。

Jimmy JはJDのことになると急に暴力的・病的・感情的になったりついていけないのだが、それが当時のふつうの体育会系の若者の挙動なのか、あの頃のJDのオーラがもたらした何かなのか、って見ていくのだが、ゴスできめてきたBillie Jeanも参加した夜の降霊式は大惨事に終わって、大火傷を負ってベッドで動けなくなったBillie Jeanに対してJimmy Jは…

大好きだったJDの死によって永遠に喪われてしまった、自分のなかで死んでしまったなにかを当時の風景のなか、自分史のなかに置いて振り返るような哀悼に満ちた青春映画、なのだと思っていたのだが、それにしては主人公の行動は軽いんだか重いんだかめちゃくちゃだし、最後なんて邪悪すぎて、ふつうのJDのファンが見たらがっくりくるだろうし、とにかく美しいと思いたいあの頃のことを、渦中にあった人々が振り返るような形のものになっていない、していないのがすごい。あの頃のことなんて思いだしたくもないのだ、ということならなんとなくわかる。

特に包帯ぐるぐるのBillie Jeanに公開されたばかりの『理由なき反抗』 (1955)を見に行ったJimmy Jが無邪気に興奮して映画のJDと同じ格好をしてバイクも買ったし、とかポスター剝がしてきたよほら、ってやるとか、ファンがファンに対していちばんやっちゃいけないようなことをするとか、でもそういうのがある(どちらかというとそんなのばっかりである)ことはわかるので、思いだしたくないなにかどこかを突かれたような気がして、それってさー、に。

上映後の遠山純正、髙橋佑弥両氏によるトークもその辺を廻っていたが、最後に遠山さんより小森のおばちゃまがこれを見たらどう思っただろうか? という問いが提起され、これ以上に衝撃だったのが、もう一人の方が小森のおばちゃまが誰かを知らないこと、なのであった…

この上映企画の第二弾は“Last Summer” (1969)になるのかー。これも後味はなかなか…


The Breakfast Club (1985)


↑のに続けて見ました。おまけが貰えてうれしかったJohn Hughes監督作品。昨年の40th Anniversaryはロンドンでも見たし、封切りの時からだと4〜5回は見ているのではないか。 だし、これからも見ていくことになるのだろう。そのたびになんかしょうもない気になってしまうのはどうしてなのか?

若者たちが互いを認めるはあるにしても、わかりあう、親友になる、そんな話ではないの。1984年3月24日の土曜日、イリノイの学校に集められて閉じこめられた傾向もなにもばらばらな5人の男女学生が、泣かせたり泣いたり笑ったり騒いだり踊ったりをする、それだけの1日で、この後にどうなるか、どうなってしまうのかはわからない。最初にくる印象としては、自分の居場所があるんだ! みたいなことよりも、嫌味を言われたり傷つけられたりの居たたまれない生々しさが常にくる。40年経っても、この他者が容赦なくぶつかってくる無礼で嫌なかんじ、だけはずっと健在で、それって↑のJimmy Jの意地の悪いのと重なる。 この作品が数十年に渡って、ずーっと見られ続けているのって、この苦み故なのではないかしら、って思った。 ここのところだけ生々しくて”Don't You (Forget About Me)”で浮かびあがるのもそこなのだよきっと、とか。 (↑のと続けて見たことでそうなった効果とかあるかも)
 

10.23.2026

[thatre] Christopher Rüping "Gier (Crave/渇望)" by Sarah Kane

10月18日、日曜の夕方、東京芸術劇場のプレイハウスで見ました。
舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」(アーティスティック・ディレクター:岡田利規)の演目のひとつ。

原作は英国の劇作家Sarah Kane(1971-1999)による”Crave” (1998)、同年エジンバラで、Kaneがwriter-in-residenceをしていたPaines Ploughによって初演された。彼女にとって4作目(遺作のひとつ前)の戯曲で、彼女の過去の戯曲の暴力描写がもたらす印象や偏向を避けるべくMarie Kelvedonという筆名で発表されたそう。演出はドイツのChristopher Rüping。

休憩なしの105分。舞台の奥正面にスクリーンがあって、最初はドイツ語タイトルの”GIER”が中央小さめに投影されている。スクリーン上部に日本語の字幕、英語字幕対応は別デバイスになるらしい。向かって左手に、右側を向いた椅子とそれを収めようとする撮影スタジオのような機材が一式、ステージ手前右に鍵盤兼指揮者、その並びに客席の方を向いたライブの弦奏者が3名。

舞台に出てくる俳優は男2,女3の計5名。原作では、A, B, C, Mの4名のみで、それぞれ名前も属性も役割も明らかにされていないが、原作者が過去のインタビュー等で、A (Author, Abuser) – 年長の男性、B (Boy) – 若い男性、C (Child) – 若い女性、M (Mother) – 年長の女性である、と大枠を語っている。彼らは地味な服装でばらばらの動きをして、会話になるようなならないような短いフレーズのような台詞を互いにだったり世界に向かったり - 吐き、でも会話を深めたり一緒に動いたりすることはない。そして原作の設定にはない女性(Wiebke Mollenhauer)が左手の椅子に座り、白バックに彼女の顔を中心に置いた画像がライブでスクリーンに大きく映しだされる。彼女だけは最後まで喋らず、他の4人は彼女に向かってそれぞれ自分たちの言葉をばらばらと投げて、彼女はそれを無言で受けとめていて、たまに表情を変えたりするが、そこから動くことは許されていないよう。

AがCに何か言ったり、MがBに何か言ったりはあって、それによって近寄ったり遠ざかったり、自由な4人はダンスのように動いたりもするが、それらはすべて舞台中央の彼女の表情、その動きに吸い込まれていくようにも見える。

5人目の女性が誰なのかについては、いろんな解釈が成り立つだろう。原作者のSarah Kane自身と取ることもできるし、見ている観客 – 我々自身、ということもできるし、それよりもう少し広くて遠い、所謂傍観者・観察者ということも。自分はアニメーション映画 “Inside Out” (2015)の主人公の頭のなかに湧いてでて彼女の頭や行動を統御していくエモに近いようなやつらに近いのではないか、と思った。答えはそれぞれで、正解なんてない、のだろうが。 そして、この5人目の人物によって全体を見渡しやすくなった、とは思ったものの、そのわかりやすさはかえって危険だったりしないか? とも。

劇の終わりのほうで、女性は突然メイクを始めて、しばらくするとそのメイクを自分で崩しはじめ、最後には思い切ったように全てをきれいに拭い去って、『外の世界は過大に評価されすぎている』というフレーズを残し、椅子を立ってステージ~劇場を抜けて池袋の街に走りだす (その後ろ姿をライブカメラが併走して捕らえていく)。

ここまでくるとメッセージとして見えてくるものはあるのだが、原作にない設定のキャラがここまで終わりを巻きとってしまってよいのか? は当然あって、しかもそれが、分裂~混沌~統合~解放・引き受け、のようなわかりやすいストーリーラインに沿ったものに見えたので、こんなのでよいの? って思った。 こんなようなアタッチメントを許容する抽象度、自由度をもった原作なのかもしれないし。でも、最後あんなふうにプールに飛びこんじゃうことができるのなら幸せなのよ。(ビルから飛び降りたらどうしよう… って思った)

原作戯曲のエンディングがどんなものなのか知らないのだが、「(それでも)さあ、街へ出よう!」みたいのはどうなのかしら、にちょっとだけなった。 Wiebke Mollenhauerの笑顔はとても素敵だったのだが。

10.22.2026

[music]「The Wonderful and Frightening World of The Fall」 ~ザ・フォールの深遠な世界

10月15日、木曜日の晩、SUPER DOMMUNEに行って見て聞きました。

発売になったばかりのFall本『ザ・フォールの素晴らしき世界』の刊行記念で著者の上村彰子さんと司会の鈴木喜之さん他ゲストによるトークとミニライブとDJ。

7月にイギリスから船便が着いて、オーディオ機器の前に箱が積まれて家で音楽を聴けない状態になってしまった(箱を開けてお片付けをすればよいだけなのになぜそれができない?)ので、ライブ以外で音楽を聴くのはこういう機会とか場所に出かけるしかない、という情けないことになっている。

The Fallについては、2022年8月のRock Cafe Loftでのトークにも行って、轟音で楽曲を視聴する〜浸る、というよりこれってなんなの?へんなの~ のような与太話と共に珍奇なものを眺めたり流したりしていくのがなんだかとても気持ちよかったので。(なぜちっとも明るくないのに、気持ちよくないのに気持ちよいのか問題)

あと、14日の夜に映画『審判』を見て、Josef KからThe Fallへ。カフカからカミュであり、自分が最初にThe Fallと出会った日本編集オムニバス盤『Clear Cut』のA面1曲目(Josef K “It's Kinda Funny”)~2曲目(The Fall “City Hobgoblins”)の流れそのままなので、なんだかうれしい。

中心にあるThe Fall本については、まだ読んでいる最中だが、The Fallの全体像ってディスコグラフィやバンドの変遷を追うだけでは捕捉できないのだ、ということを言うために現地側と日本側双方で見えた聴こえたものをぜんぶきちんと追った上で、音楽史におけるマンチェスターの位置づけや、曖昧に片づけられがちな「ポストパンク」の時間的、概念的な広がりについて触れ、それを語るためにそもそものパンク(遺物ではなく現在の)とは、まで踏みこんだ後、そんな文脈やストーリーから離れて「ぞっとするもの」がひしめく彼の詞の世界に至る。で、結果的にThe Fall抜きでは成りたたないような(実際そうなのだが)形で70年代からの英国音楽を俯瞰・総括してしまっている。あんな隅っこにいた、入れ歯がたがたのマイナーなバンドでそれができてしまう、それがThe Fallだとできてしまうのだ、それがThe Fall(のThe Wonderful and Frightening World)の淵なのだ、と。 イギリスには当然のように大量のThe Fall本があって、それらはThe Fallが有史以前からあるようなものとして書かれているのに対して、ここでの書きよう、丁寧な網羅ぶりはすばらしい。

特に日本でのリリースまできちんと追っているのはえらいなー、だった。Rough Tradeの日本盤は第一弾リリースの時だけ、あとはきちんと売ろうとしているとは思えない宣伝コピーとかライナーもムダとしか思えず輸入盤のみ、にシフトしてしまったので、日本でもそれなりに追うことで受容史のようなものは見えてくるものなのか、とか。

トークの最後の方、締めくくりのように語られた、端からきちんきちんと追って聴かなくても流しておいて、お!ってなればよい、というのはThe Fallを聴く正しい態度で、彼らの音楽そのものが、集中して聞きこむような態度を拒むようなバラック、パルプ感(→ Mark Fisher)に溢れている、というか、田舎道を壊れた車で走っていく感覚(Simon "Ding" Archerのでげでんでげでんベース)があり、流れていく景色をちゃんと見つめたら気持ち悪くなる、止まらないけど、そのうち勝手に、簡単に壊れる – くらいの距離感で聞いていくやつー。

Mark E Smithのあの湧いた端から吐きだすようなポエトリー手前の雑言をどうトラックに乗せるのか、どう乗っかるか、それらのせめぎ合いの気持ちよさ、がThe Fall的な音楽のベースとしてあるような気がしていて、あれは言っていること・言われていることを含めて、たぶんイギリス的に気持ちよい形式なのだと思う。

あと、なんでMark E SmithやThe Fall(だけ)があんなふうに出てきたのだろうか、って思うとき、アメリカのクリーブランド、David ThomasのPere Ubu(←Alfred Jarry起源) - どちらも一時期Rough Tradeにいた – のアヴァン・ガレージ、砂漠の広がりを補助線として引いてみたい(のだが、オーディオが..)。どちらもよれよれになっても、最後までステージの上で歌う – がなるように呻くように歌って吠えることをやめなかった犬じじい共。

あと、本のなかの、MarkのリストにあったPeter Hammillも(ずっと聴いてきているので)宿題で。