4.17.2021

[film] Palm Springs (2020)

4月11日、日曜日の晩、Amazon Primeで見ました。こちらでもようやく公開された。

タイムループもの+Rom-com、と聞いていて、でもRom-comっていうのはそもそも荒唐無稽なものだから、それもまたありよね、くらいで見て、これってRom-comっていうよりはスクリューボール・コメディの方かも、とか。 以下、ネタバレとは言えないと思うけど、自分で考えて楽しみたいひとは読まないほうがよいかも。

11月のPalm Springsのホテルのベッドで目覚めたNyles (Andy Samberg)は、傍にいた恋人のMisty (Meredith Hagner)と気のぬけたセックスをして、このためにやってきた友人のTalaとAbeの結婚式に参加して、突然スピーチを振られてどうしようってなったTalaの妹Sarah (Cristin Milioti)を救ってあげて、そこからふたりは仲良くなって、砂漠の外れのようなところでセックスしようとしたら突然Nylesの背中に矢が刺さって、あうう.. ってよろよろ洞窟の方に向かうNylesを追っていったSarahは..

Nylesはその日にどんな酷い目にあっても死んだり殺されたりしても必ず結婚式の朝に同じホテルの部屋で目覚めるというタイムループに嵌っていて、それをもう嫌になるくらい繰り返して、抜け出すためにあらゆることを試みて自殺しようがなにしようが結局元に戻ってしまうので、ぜんぶ諦めててきとーに過ごしている(だから結婚式にもアロハシャツ姿で出る)。洞窟までついてきたSarahもその状態になった - Nylesを殺そうとした男 - Mike (JK Simmons)もそれに嵌っている同類だ、って説明されたSarahはそんなの冗談じゃない、って抜け出すためにいろんなことを試そうとして、Nylesもそれに付きあっていくのだが、彼はなにをやっても無駄であることを知っている。

過去のタイムループものというと"Groundhog Day" (1993)とか"Edge of Tomorrow" (2014)とかが浮かんで、これらの原因は自分の心にあったりなんかの装置だったりいろいろで、今回のは(たぶん)ループする世界とループしない我々がいる世界は別の次元にあって、一方は死に向かって流れていく世界で、もう一方は一日単位のループを延々繰り返していく世界である、と。

この日のお昼にNetflixの短編”Two Distant Strangers” (2020)- これもタイムループもの – を見てて思ったのは、タイムループものの主人公ってなんでみんな揃って絶望しているんだろう、って。毎日同じようなことを繰り返して同じような結果と後味と共に目覚めるのってそんなにきついのか? 今のコロナのロックダウンのどこにも行けないのなんて、ほぼ同じじゃないか? って。線で流れていく時間の最後にある死と、円になって廻って終わりのない時間のどっちの絶望のが深いのか、とか。

ループする世界では痛みはリアルに来るけど記憶はリセットされない。つまり記憶や知識はずっと生きて残っていくのであれば、いっぱい勉強できるし、いくらでも映画みたり本読んだりできるし、いっぱい本買ったって積みあがらなくて翌日には片付いている(.. さみしいか)し、悪くないのではないか。実際にSarahはそういう繰り返しを使って突破口を見つけたのだし。

だからNylesがプールでぷかぷか毎日やってるのも別にいいじゃん、しかない。地球が終わったらさすがにこれも終わるんじゃないか、とか。 Mikeとか式場にいたおばちゃんみたいにこの状態のなかに幸せを見いだしてゆったりと生息している人も割といそうだし、それでいいと思うし。(だめ?)

この状態から抜け出すのに愚直に努力を続けて諦めない、っていうのも大事な要素としてあって、それって愛のテーマに繋がりやすいなにか、なのかもしれない。タイムループものではなくて、記憶のリセットものだけど“50 First Dates” (2004)はだからこそ感動的なのだし、でもここはなにかをかけ間違えたらとっても臭くなりがち。というあたりを押さえたNylesの振る舞いと、反対側でひとりで猛然と量子科学の勉強をはじめたSarahの対比がよくて、でもここからふたりのラブストーリーにジャンプするのってループを抜けるのと同じくらい難しくはないだろうか。

でもそんなのだって可能だと思わせてしてしまう程度にてきとーでいい加減なあんちゃんを演じたAndy Sambergの勝ちでよいのかも。 彼だから - 昔だったらAdam SandlerとかPaul Ruddあたりなら - できた曲芸だったのかも。Cristin Miliotiさんもがんばって彼を引っ張りまわしてよいのだが、理想をいうと”His Girl Friday” (1940)のRosalind Russellみたいに機関銃みたいに喋りまくるひとだったらもっと。

続編はふたつの世界の間に穴を開けて悪いことを企む悪の組織が現れて、そことの抗争にふたりが巻き込まれて大変なことになるの。JK Simmonsがレジスタンスのリーダーとなって戦うの。もうコメディじゃないの。

4.16.2021

[film] Gli intoccabili (1969)

4月6日、火曜日の晩、Criterion Channelで見ました。

『死刑台のメロディ』のGiuliano Montaldo監督によるアメリカを舞台にしたイタリア映画。音楽はEnnio Morricone、タイトルをそのまま英語に訳すと”The Untouchables”だが、英語題は”Machine Gun McCain”で、邦題は『明日よさらば』。

昔の日活とか東映みたいな(←適当)B級ギャングドラマなのだが、主演がJohn Cassavetesで、彼のキャリアのなかでいうと”Faces” (1968)と”Husbands” (1970)の間にある主演作品で、裏の細かい時系列はわからないが、この作品でPeter Falkが登場し、やがてBen GazzaraやSeymour Casselがここに加わって艶にまみれた伝説のCassavetes一家が形成されていく、その過程にあるすれっからしちんぴら映画として見るとなかなか捨てがたい。

西海岸をほぼ掌中に収めたギャングのボスAdamo (Peter Falk)が勢いにのってラスベガスのカジノに手を伸ばそうと三下のJack (Pierluigi Aprà)を動かしていたら東海岸の大ボスDon Francesco (Gabriele Ferzetti)がおまえなに調子に乗ってんねん、て釘を差してきて、でもすでに遅しで、AdamoはJackのパパで襲撃のプロ - 12年間服役しているHank “Machine Gun” McCain (John Cassavetes)を刑務所からリリースしてしまったのだった。

出所してきた無口で無表情のHankはバーにいた女性Irene (Britt Ekland)を引っかけて、彼女とふたりで黙々と(なんの相談も指示もない、その黙々っぷりがすごい)爆弾をこさえて、カジノの外のガソリンスタンドとかカジノの中の植え込みとかいろんな場所に淡々と仕掛けていって、時間が来てどかんどかん打ち上げが始まって大騒ぎになると、消防隊員の格好で中に入っていってごっそり戴いてしまう。(”Ocean’s 11”よか豪快でシンプルで好き)

東方のボスはまじか?やんのか? って怒り狂ってAdamo一家の皆殺し作戦を開始してAdamoを含めてばっさばさ殺していって、もうちょっと拷問するとか急襲するとか嫌がらせとか馬の首とか工夫したいろんな見せ方もあるだろうに、あっさり草を刈るみたいにAdamoもJackもやっちゃって、次はHankだ、ってなるのだが、“Machine Gun” McCainだから手強くてそう簡単にはやられない。でも包囲網が狭まっていくと、彼はかつての相棒で一緒に刑務所に入って先に出所していたRosemary (Gena Rowlands)のところを訪ねるの。

このふたりが再会するシーン、べつにごく普通に向かい合って見つめ合ってぼそぼそいうだけなのにほとばしる侠気と色気の重力がとてつもない。ここを見れたのでよいわ、になる/がある映画。そのための台詞も動作もいらない、このふたりがどれだけ特別なふたりだったのかを示す - 他にもいっぱいあるけど、この映画もそこに含まれる一本。 で、ここから”Bonnie and Clyde”でもやるのかしら、と思ったらそっちには行かなくて、次に目を合わせたらもうお別れ、ってはじめからわかっているふたり。

こういう映画でよく使われる「非情」っていうのをドライであっさり、とするとこんなに非情でさばさばしたやつもない、ってくらい、アクションは撃つ - 撃たれる - 倒れるだけ。現場の実情もこんななんだろうな、っていう殺伐感がたっぷり。Machine Gunもそんなにばりばり撃ちまくるわけでもないし、むしろ爆弾しかけるところの所作の方が印象に残るくらい。強いも弱いも、頭いいもわるいもない、やるかやられるかだけで、やられたら終わる、それだけのー。

でもなんであのカジノはやっちゃだめだったのか、そこだけあんまよくわかんなかったかも。


ぜんぜん関係ないけど、深夜の映画チャンネルで”Creation Stories” (2021)ってやってて、Alan McGeeとCreationレーベルのサクセスストーリー(not ドキュメンタリー)で、流れてくる曲とかベタで恥ずかしいし、どうせOASISの自慢話とかだろうし、ってちゃんと見ていなかったのだが、Television Personalitiesの”Part Time Punks”とか(本人たちの演奏ではないけど)が流れてきたのでおおー、ってなった。リピートしているので今度ちゃんと見よう。Richard Jobsonが俳優として出たりしているのね。

4.15.2021

[film] Conte de printemps (1990)

4月5日、月曜日の晩、イースターの連休はなんだったのだろう… ってしょんぼりしつつFilm ForumのVirtualで見ました。ここでÉric Rohmerの「四季の物語」が順番に(リリース順みたい)かかる。これがリリースされた90年代の前半はNYにいて、映画にそんな興味もなかったので見ていなかった。ちょっと楽しみ。英語題は”A Tale of Springtime”。  邦題は『春のソナタ』。もう春だし。

リセの哲学教師のJeanne (Anne Teyssèdre)が誰もいない部屋に入って乱雑に脱ぎ捨ててある服とかを片付けようとして少し考えてやめて、本棚からカントとかを拾って(そこに並んでいるのはヘーゲル、フッサール、プラトン、ゲーテの「ファウスト」、ウィトゲンシュタイン、など)、今度は別のフラットの部屋に入ってそこに現れた女性との会話を聞くと、前にいた方がつきあっている男の部屋で、新しい方が彼女の部屋 – 壁にはウィトゲンシュタインの写真、ホックニーにマティス – であることがわかり、そこに泊まりに来ているいとこがごめんもうちょっとだけここにいてもいい? と頼むので、いいわよ、とか返している。

Jeanneはそのままどこかのパーティに出かけて18歳のNatacha (Florence Darel)と出会い、Natachaはうちいま誰もいないから泊まりにおいでよ、と誘い、Jeanneは実は行くところないんだ、ってそれに乗る。彼女の父親のIgor (Hugues Quester)は文化庁のようなところで仕事をしていて女友達と一緒にいるので家にはほぼ寄りつかないのだという。そうしてNatachaは壁に掛かっている彼女の祖父や祖母の肖像のこととか、音楽院でやっているシューマンの「暁の歌」を弾いてくれたり、どこかに消えた家宝のネックレスのことで父を恨んでいることなどを語る。 でも翌朝になるとめったに現れないはずのIgorが現れて、なんとなくその流れで彼がつきあっているÈve (Eloïse Bennett)も加えて4人で食事をすることになる。

どうもNatachaはネックレスの件絡みでÈveのことが気に食わないようで、週末に彼女の田舎の別荘に行ったらIgorとÈveが既にいたのでなんか嫌だな、ってJeanneとÈveの間の哲学の話(カントの分析とか総合とかを食卓で言いあうの)は置いて嫌味たらしくÈveを追い払って、そのあとでNatachaは自分の彼と仲良く出かけてしまい、JeanneとIgorをふたりきりにしてしまう… これもまたNatachaの思惑なのか。

哲学がどうであれ(たぶん関係ないこともない)、登場人物たちの相性だの直感だのがどうであれ、風に吹かれたり水に流されたりするように人は寄っていくところに寄るし、離れるときには離れて、その決断の行方も、それが恋になるかどうかなんてのも知らんわ - 神のみぞ知る、でいいの。

これまでの「六つの教訓的物語」や「喜劇と格言劇」のシリーズは、主人公たちの決断や思いがいろいろあってそれらはこういう結果になりました、っていう因果を本を読むようにすとん、て腑に落としてくれる瞬間があって、このシリーズでも主人公たちは決断したり思惑があったり、でもその行く末は四季が移ろうように、音楽が流れて遠ざかるように揺れて集まったりくっついたり別れたり、誰も結果責任(やな言葉)みたいのを負おうとしていないように見える(し、彼らは前シリーズの登場人物たちほど、自分達のことを語ろうとしていないような)。登場人物たちは不安定なサークルの渦のようなものに身を任せていて、演じている彼ら自身も自分がどこに向かっているのかわかっていないような顔をしている。 ドラマのありようとしてはぜんぜん違うかんじで、これはこれで面白い。世を渡っていくためのお勉強になるならないでいうと、ちっともならないけど、そういうもんだし。まだ一つ目なのでなんとも言えないけど。

こういう人々のありようにもう少し意地悪なSMぽい目線を持ち込むと成瀬みたいになるのではないかしら。善人も悪人もいない、ただ乱れたり流れたり動いていく(だけの)世界。


今日の夕方、Rough Tradeのストリーミングで、Richard Thompson氏の自伝本 - ”Beeswing: Fairport, Folk Rock and Finding My Voice, 1967–75”の出版を記念して、彼とJoe Boyd氏の対談があった。時間は50分くらいだったので、そーんなに深い話にはならず、Joeがすばらしいと思う曲は”Sloth”と”The Angels Took My Racehorse Away”だとか、共演したミュージシャンのなかで印象に残っているのはDavid Thomasだったとか。

4.14.2021

[film] Days of Wine and Roses (1962)

4月5日、月曜日(イースターの休み)の昼、Criterion Channelで見ました。

邦題は『酒とバラの日々』。タイトルと冒頭に流れるHenry Manciniの主題歌からロマンチック(やや曇り)程度のを想像していたら後半に情け容赦ないどん底に突き落とされてしまう。 原作はJP Millerがテレビ用に書いた58年の脚本を書き直したもの。

サンフランシスコのPR会社の営業マンJoe (Jack Lemmon)はクライアントの秘書のKirsten (Lee Remick)と船上のパーティで出会って、営業の一環で彼女にも声を掛けてデートするようになる。初めのうちは硬くてつんけんしたかんじだった彼女もJoeがBrandy Alexanderとかを教えて楽しく話しかけていくうちにお酒の楽しさを知ったのかJoeが好きになったのか結婚することにして、造園業をしているKirsenの父Ellis (Brandy Alexander)のところに伝えにいくと、あまりよい顔をしないけどわかった、って。その後に娘のDebbieも生まれて、ここまでのふたりも家族もとても幸せそうに見える。

ふたりの飲酒はどんどん泥沼にはまっていって、Joeは業績不振で大手クライアントの担当を外されてそのまま会社を辞め職を転々としてガラスに映った浮浪者みたいな自分の姿に震え、ひとり家飲みをするようになったKristenはアパートで火事を起こしそうになり、やはりこれはいかん、とふたりはDebbieを連れてEllisのところに行って、彼の造園業を手伝うことにする。はじめのうちは力仕事は楽しいな、だったのが、ちょっとだけ息抜きしようか、って力仕事の後のお酒はおいしいな、になった途端、もっとよこせって我慢できなくなり自分が温室に隠しておいた酒瓶を探して売り物の植木をぐしゃぐしゃにして病院送りになる。

Joeはアルコール依存症のサナトリウムで拘束衣を着せられて担当のひとと沢山セッションをした結果、なんとか抜けることができたのだが、EllisによるとKirstenが家に帰ってこない、という。最後に2日間断酒してきたというKirstenがJoeと対面するのだが、自分は依存症ではない = 意思の力で止めようと思えば止められるのだ、というKristenと、いやそうなっていないではないか、というJoeは最後まで折り合わなくて …   最後に浮かんでいるバーのネオン(LIQUORS)がなかなか恐ろしい。JoeはKristenを追ってまた溺れていくのではないか、とか。

アルコール依存症の恐怖をふたつの側面から描いていて、ひとつは意識していないのに(自分では大丈夫だと思っていたのに)気がついたらそうなっていた、というのと、もうひとつはいつでも抜けられるはずだったのに抜けることができない、っていうのと、そんなのそこらの教科書にも書いてあることだけど、ここの場合、Joeは仕事を円滑に進めるために入った、っていうのと、その仕事の場でKristenに誘いをかけた、っていうのと、Kristenにとってのお酒はJoeが教えてくれて、Joeと一緒に家庭をつくる - そういう中ではまっていった、っていうのと、ふたりは愛しあっていてその関係をよくするためにもお酒は効いたよね、っていうふたりの内側にあるいろんな認識とか縛りが、互いに抜けられない穴を掘って互いを嵌めようとしている。

これだからこんなに怖いんですよ、っていうのは簡単でわかりやすいのだが、この作品ではそういう描き方をしていない。夫婦関係を維持していくというのは酒とバラの日々を生きることなのだ、それはドラッグと違って犯罪ではないし、時と場合によってすばらしい夢や歌をもたらしてくれるじゃないか、とか。 Joeは更生できそうだしさ、とか。 だからこそ怖いし、映画は道徳的なガイドにはなっていない。べつにそんなの求めていないのでいいけど。

お酒は少し舐めたら死んでしまうので、ふたりの境地とか、こないだのドキュメンタリー ”Bloody Nose, Empty Pockets” (2020)のような世界はたぶん永遠にわからないし到達できないのだが、やっぱり損しているのだろうか? 「損」とか言っちゃいけないのかな。

お酒が絡むやつで最近みたのは、”The Flight Attendant” (2020)っていうHBOの連続ドラマで、アル中のFlight Attendant (Kaley Cuoco)が、フライト先のバンコクで、ファーストに乗っていた客の男とデートして酔っ払ってホテルで朝に起きたらベッドで彼が首を切られて死んでいて、自分はなにも覚えていないから容疑者にされる可能性があって(というか、ファースト容疑者になって)、いろんな人や組織が絡んでくるのだが、やばくなったらウォッカをがぶ飲みすると頭が冴えて、死んだ彼の亡霊が現れてアドバイスをくれたりするの。例えばこんな使い方もある。  

4.13.2021

[film] Moonrise (1948)

4月4日、日曜日の昼、Criterion Channelで見ました。 監督がFrank Borzageの最後の作品とあったから、くらい。原作はCosmopolitan誌に掲載されたTheodore Straussの同名小説。日本での公開情報は不明。

冒頭、シルエットのみで、絞首刑が実行される暗いシーンが描かれる。そのシーンに続くかたちでバージニア州の小さな町に暮らす少年Danny は、首吊り男の〜、犯罪者の子供~、って周囲の子供たちから散々に虐められている。

大きくなったDanny (Dane Clark)は、あまり変わらず虐められ蔑みの対象になっていて、あまり明るいふうではなくて、ダンスパーティーの晩にも同級生だったJerry Sykes (Lloyd Bridges) が昔のようにねちねち因縁つけてくるのでいいかげんにしてくれ、って森で殴り合いになって、そのつもりはなかったのに正当防衛に近いかたちで彼を殺してしまい、動転しつつも自分は悪くないし、って死体を薮の奥の方に隠す。

Dannyは、自分が犯してしまった罪がばれて捕まることに怯えつつもSykesと婚約しようとしていたGilly (Gail Russell)に近づいて仲良くなって、でも明るく真面目な彼女と親密になればなるほど、結婚とか意識しようとすればするほど、Sykesのことが重くのしかかってきて、村の外れの小屋で犬と暮らす黒人のMose (Rex Ingram)と血とか神様をめぐって会話したり、Dannyが現場に落としてしまった彼のナイフを拾った唖の少年Billy (Harry Morgan)に辛くあたってしまったり、祖母(Ethel Barrymore)に父のことを聞いたりしていって、反対側で行方不明になったSykesを探して彼の父親 - 裕福な銀行家 - やシェリフを中心に捜査網が敷かれて聞きこみが始まり、精神的にも追い込まれて身動きが取れなくなっていって…

故意ではなく犯してしまった犯罪を隠しきれるのか、っていう過酷で辛い因果や運命を晒していくノワールの体裁を取りながらも、人はなぜ罪を犯してしまうのか、その血は遺伝したりするものなのか、それは避けられない、救われない社会の因襲のようなものなのか、といったテーマの周りで恋人、隠者、障害者、シェリフ、アライグマ、などがDannyにいろんなことを語りかけてくる。特に猟犬に追い詰められた木の上のアライグマへの仕打ちはDannyにとってはきついし、まっすぐにDannyを信じてくれるGillyにはどんな顔をして会ったりすればいいのか、とか。 正答はないけど、理由はどうあれ、人を殺してしまった事実を消すことはできない。

ただなんでDannyがGillyに近寄っていったのか、GillyはなんでSykesからDannyにあっさり切り替えてしまったのか、その辺が少し腑に落ちなかったかも。最初はDannyによる復讐の連鎖とか口封じとかダークでネガティブな道行きになるのかと思ったら、その逆の方でそのままだと落ちて底に沈んでしまうところをなんとか、少しでも明るい方に引っぱりあげようとするドラマになっていた。だから”Sunrise”ではなくて”Moonrise”(見あげてごらん)なのか。

お先まっ暗の悲劇に終わらなくて、少しだけ希望が見えたりするのはFrank Borzageだとは思ったものの、興行的にはまったく当たらなかった、というのはなんかわかって、戦後のテーマとしては暗すぎたか、まだあまり目を向けたくないやつだったのかも、って。

あと、ここで展開されているアメリカの小さな町での被害 - 加害(虐め)の構図 - そこに据えられた弱者が弱者のまま抜け出せなくなる沼 - って今に至るまでずっと変わっていないよね。いま見てもわかるし、辛くなるし。 直接の繋がりはないけど間もなく現れる公民権運動もこういう土壌からのー。


今日から屋外での会食とか、生活必需品以外のお店とかヘアサロンとかが再オープンした。 とりあえず夕方、Hatchards(本屋)に行って、チケットを買ったのに行けずに終わったベルギーのJan van Eyckの展覧会のカタログとかでっかいやつをどかすか買った。ここの3階の床をぎしぎしさせながら棚を渡っていく気持ちよさときたら。 今朝は雪が降って寒かったのだが、外で飲みたい人たちはほんとに幸せそうにやっていた。 4回目が来ても構うもんかっていう笑顔。

今日Hatchardsで買ったガイド本。知っているところもあるけどまだまだ。がんばる。
https://www.accartbooks.com/uk/book/writers-london/

4.10.2021

[theatre] Romeo and Juliet - National Theatre

4月4日、日曜日の夜21:00にSky Artsチャンネルで放映されたのを見ました。そりゃ見るわ。

今から約1年前、演出のSimon GodwinがNational Theatre向けに、このキャストで上演の準備を進めていた舞台がCovid-19で実現できなくなった。でも折角準備を進めていたNational Theatreは、これまでのNational Theatre Live - 観客に向かった舞台で上演されたものを映像に収めたものではなく、この劇をNational TheatreのLyttelton stageを使って17日間に渡って上演(とは言わないか..)して撮影して、それを”An original film for TV”として放映することにする。スクリーンやTV画面で見られることを前提に作られた演劇。 長さは90分。

関係者のインタビューを読んだりすると、演劇関係者が映画の撮りかたや編集を学んだりしながら試行錯誤して作っていったのがわかる。いろいろ苦労したのだろうけど、イメージしたのはリハーサルとかワークショップとか朗読劇とかをちょっと綺麗に整えただけ - 舞台での一定期間の興行で得られたであろう収入との収支計算もあったのだろう - のようにも見える。フラッシュバックもフラッシュフォワードもあるし、クローズアップもいっぱいなのだが、技巧としてはとっても稚拙でストレートすぎる気がしたり – 例えば誰もがよく知っているBaz Luhrmannのぎんぎらに凝りまくった“Romeo + Juliet” (1996)と比べてしまうと - 編集も衣装も音楽も(たぶん予算規模も)大人と子供ではないか、と思ってしまう。

でもたぶんそれがこの90分の「フィルム」ではうまく機能している気がした。

最初のシーンはいろんな仕掛けや機材がむき出しの稽古場のようなところに登場人物全員が集まってリハーサルでも始めようか、というシーン(少しだけIvo van Hoveふう)。全員が互いの顔を見ながらこいつはどんなものかな、みたいに値踏みをしているような場面で、Juliet (Jessie Buckley)は挑発的な微笑みでRomeo (Josh O’Connor)を見つめて、Romeoがその一撃で持っていかれる瞬間を見ることができる。ここから先の90分間は、その衝突の流れ弾がCapuletとMontagueの両家に飛んでって、ダンスフロアとか月夜の晩に跳ね返って正面から衝突したふたりはその勢いと思い込みを抱えて前のめりにつんのめったままぼぅん、て自滅する。それだけの、2分で終わってなんも残らないパンクみたいなやつ。儚さもくそもないような。

舞台は1ステージ上に組まれたセットのみなのでカメラが屋外に出ることはなくて、その中心に寄った四角四面の行き場のない世界で、”The Crown”のPrince Charlesで、“Only You” (2018)で、“God's Own Country” (2017)でたっぷりみることのできる自嘲と嘲笑の渦にまみれ自身のエモに溺れてわけわかんなくなって自壊するあのJosh O’Connorの演技と、始まる前から”I'm Thinking of Ending Things”になっているJessie Buckleyが正面からぶつかって、どんな色の火花を散らして月夜の晩の歓喜から絶望まで一直線に転がりおちて台の上に横たわるのか、それを囲む家族や友人たちがどんな顔をしてそれを眺めるのか、見てほしい。

彼らの他に、氷のように冷たいLady Capulet (Tamsin Greig)とかその反対で温かいNurse (Deborah Findlay)とか、ゲイのMercutio (Fisayo Akinade)とか、Friar Laurence (Lucian Msamati)とか、印象に残る演者もいっぱいなのだが、やはり真ん中のふたりが良すぎてどうでもよくなるような。

ここでのJessie Buckleyさんは“Romeo + Juliet”のClaire Danesに少し似ている。でも“Romeo + Juliet”でどうしてもぎりぎり好きになれないのはLeonardo DiCaprioのRomeoなので、こっちのふたりの方がー、とかいろいろ悩んだり。

舞台の上でこのふたりがのたうちまわって重なって動かなくなるまでを3時間くらいかけてライブでじっくり眺めたい、と思ってしまった、ということはこの作品は失敗なのだろうか? でもこれはこれでよくて、集中力で疾走したデモテープの勢いがあるので、この放映が当たって、ちゃんとした舞台版か、映画でもよい(監督は誰がよいだろう? 女性に撮ってもらいたいな)から、再演してほしい。


お昼少し前にエディンバラ公爵フィリップ王配の訃報が入ってきて、あらゆるTVプログラムはフィリップ追悼で埋められてしまった。いろんな過去のニュース映像 - ウェディングだけで何種類あるんだ? - が次々に流れてきて、どれもおもしろいのでずっと見ている。彼、The Durrellsのコルフ島で生まれたのね。 わたしにとって彼とJohn le Carréが英国のかっこいい老人(男)の代表格だったので、もう英国のかっこいい老人類(男)は全滅してしまった、ということになる。
どの記録映像を見ても、ほんとうに女王は彼のことを好きだったんだなー、ふたりは愛し合っていたんだなー、ってしみじみする。そんなふたりを70年以上に渡って見ることができた英国民は幸せだったと思うよ。
いまは女王様のことがとても心配。

4.09.2021

[film] Cast a Dark Shadow (1955)

4月3日、土曜日の昼、Criterion Channelで見ました。
ここの特集で”Starring Dirk Bogarde”という特集が始まっていて、12本紹介されている。見たことあるのもあるけど、まずはこの作品あたりからー。

“Alfie” (1966)や”Educating Rita” (1983)のLewis Gilbertが監督して、Dirk Bogardeが主演したとっても英国っぽい白黒ノワールなのだが、日本公開はされていないのね。原作はJanet Greenによる舞台劇”Murder Mistaken”。

冒頭、遊園地のカートに乗ってお化け屋敷を抜けていくアトラクションにEdward (Dirk Bogarde)とMonica (Mona Washbourne)のふたりが乗っていて、暗闇のなかMonicaは怖がってはしゃいで大騒ぎなのだがEdwardはその横でやや苦い顔をしたりしている。見た目だとふたりの年齢は結構離れているようなので、親子かしら? と思うのだが、実は妻と夫のふたりで、EdwardはMonicaのことをとても大事そうにケアして家に帰ってからもお酒飲む?とかお茶は?タバコは? とかこまこま気遣って、やがて彼女が椅子でうとうとして動かなくなると、ガス暖炉の栓を開いて彼女をその脇に引き摺っていって横に寝かせると自分は外にでる - 家政婦には外出すると伝えてあった。

Monicaの死は事故(部屋を暖めようと暖炉に寄って栓を開いたところで寝こんでしまった)として片づけられるのだが、彼女のお抱え弁護士だったMortimer (Robert Flemyng)はEdwardのことをずっと怪しいと思ってMonicaに指導していて、彼女の死後、全ての遺産がEdwardの懐に行かない - 家以外の殆どの財産は彼女のたったひとりの親族である妹のDoraのところにいくのだ – その彼女はジャマイカにいるから残念でした、とEdwardに伝える。

しらばっくれつつもちぇ、ってなったEdwardが次に見つけてきた獲物はMonicaよりは少し若い裕福な未亡人(でもまだEdwardよりたっぷり年上)のFreda (Margaret Lockwood)で、バーでの出会いからなんとか結婚するところまでいくのだが、よいとこのお嬢さんではない彼女はお財布周りについてはなかなか難物で脇が硬くてちっとも言うことを聞いてくれない。初めからあんたのことは信用していないからね、ってつんけんしている。(それでも結婚するところはやや不思議)

そうしているうちに今度は馬術学校に通うために近辺の不動産を探しているCharlotte (Kay Walsh)と知り合って、昔不動産屋をやっていたEdwardは彼女に近づいてFredaの嫉妬心を煽って撹乱してやれ作戦に出てみるのだが、実はそれが誰かのめぐらせた別の罠で、このCharlotteこそMonicaの妹のDoraであることがわかって…  なんだかんだついてなくてかわいそう、って言いたくなる程度に割と間抜けなEdward..

例えば、Hitchcockの”Suspicion” (1941) - 疑念に取り憑かれた男女の視点と立場を逆転させてターゲットをシニアにしたらこんなふうになる(っていうのはやや褒めすぎか)。 Edwardは徹底して冷酷で知的な悪漢というよりは、やや考慮が足らなくて隙もたっぷりで特定の女性層には強くて(そう思いこんでいて)Monicaには悪いけど、FredaとCharlotteに出会ったのが運の尽きだった、なのだがそういう時の弱さ小狡さも包めてDirk Bogardeが投げてくる影の微妙さがよいの。悪に染まったり取り憑かれたりした男の闇の強さというよりは、そこで顕になってしまう弱さの方が際立ってしまう - そこに飛びこんでやられてしまう女のドラマもある。 映画はそこまで描ききれていないかんじはあるのだがー。

イギリスのこういうノワールって、気候とかお屋敷の構造とか使用人との関係とか階級とか、そういうのがぜんぶ絡まって互いのことをどこまでも信じることができない/信じようとしないどろどろ関係の下地がベースになっているのと、そういうのがあるが故に反射的に燃えあがって止まらない永遠の愛、みたいのもたまにある気がする。さっきからなにかを思い出そうとしているのだが出てこないのでもう寝る。