12日、月曜日の晩、Film ForumのVirtualで見ました。
アメリカのアートコレクターで篤志家のAgnes Gund – “Aggie”のドキュメンタリー。監督は彼女の娘のCatherine Gundさんで、家族ならではのほんわかしたやりとりも描かれていて、それはこの映画に関してはよい方向に作用しているような。
彼女は1991年から2002年迄MoMAの総裁(President)をやって、NY市の学校の子供達へのアート教育を推進するプロジェクト”Studio in a School”をしたり、有名なところでは自分のコレクションのRoy Lichtensteinの“Masterpiece”(←タイトル)を$165ミリオンで売って、”Art for Justice Fund” - 正当な刑事裁判や更生プログラム導入のための –を立ち上げたり、映画関係だと”Pink Flamingos” (1972)をMoMAのコレクションに加えたのは彼女だったり。
わたしがアメリカに行って最初に見た展覧会はMoMAの”Henri Matisse: A Retrospective” (1992-1993)で、あれは今思いだしても空前絶後のとんでもないやつだったが、この辺りを境に、90年代中~後半のMoMAは従来のモダン・クラシックス路線から結構エッジ―で辺境の見たこともない変てこなやつらを積極的に紹介するようになっていった気がする。その背後にはYoung British Artistsの台頭とかいろんな事情があったのかもしれないが、そういったシーンの裏にいたのが彼女でした、と。
クリーブランドの銀行家の、アートとは全く縁のないごく普通の家庭で育った彼女がなんで? という生い立ちの部分と、先のLichtensteinとかRauschenbergとかRothkoといったアーティストとの交流と彼らの作品を集めていく話、そしてLouise BourgeoisやMarina Abramovićといった女性アーティストとの話や彼らのコメントを車に乗った母と娘の会話が繋いでいく。
とりとめないと言えばそうかも、だし、彼女のどこになにがどう引っかかって、ばかでかい(見るひとが見たら)ゴミと紙一重のようななんかの塊だの堆積だのをアートだと思って買ったり集めたりしてきたのか、その思惑とか謎は明らかにされないし、その手つきが結果的に招いたアート市場のバカバカしい高騰についてどう考えているのか等、もやもやするとこともあるのだが、そこは掘ってもわかんないか。
ただ、上映後におまけで付いていた監督とAggieへのインタビューも含めて見たときに、改めてアートは社会にとって何でありうるのか - 昨今の学問は、人文は、アートは何の役に立つのか – っていう、どっかの国で巻き起こっているしょうもない議論(ほんとにやだ。あの連中ぜんぶ肥溜めに漬けこんで地底人の餌にしてやりたい)の行方とかその考え方についてはきちんと整理されている気がした。
得体のしれない、見たこともないような何かに遭遇した時に感じる戸惑いとか疑念とか、これはなんだろ? なんでこんな色と形なんだろ? と考えたり話を聞いたり想像したりする力は共感(empathy)する力に繋がっていて、それが”Justice”について考える際にはぜったいに必要になるのだ、と。そんな単純なパスではないだろ(悪についても同様のことが言えないだろうか?)とは思いつつも、これってひとつの解にはなっているのかな、って。 見たくない考えたくないそんなの時間のムダ、みたいな連中に共通した物言いとか、ひとめ見ただけの入り口で拒絶する返し方とか、そうとしか思えないもん。「反知性主義」なんて大層なものでもないの、ただ幼児がイヤイヤしてるか卑しい卑怯者がいじめたくていじめているだけなの。(過去散々あったので地獄に堕ちろ、よりもっとひどいことを頭のなかで叫んだり思ったりしている)
でも、本屋がなくなり図書館がなくなり映画館はアニメばかりで美術館は年寄りに占拠され劇場もライブハウスも閉鎖、という今の状態は非常に相当にやばい、と深刻に思っていて、だからAggieみたいな人がいるだけでアメリカは羨ましい。なんでいま、Gerhard Richterに30億円つぎこんで喜んでいるのか、そっちじゃないだろうに。
おまけのインタビュー映像のトークではBLMが盛りあがって大統領選を前にした今、出るべくして出たわね、ってインタビュアーの女性は語っていたが、そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。Aggie本人はふふん、て笑っているだけで、あまり語らず、それってソーシャルなあれこれを操る詐欺師かアーティストの謎めいた微笑みにしか見えなくて、でも彼女になら騙されてもいいや、って。
孫たちとのやりとりも素敵で、あんなおばあちゃんがいたらなー。
10.15.2020
[film] Aggie (2020)
10.14.2020
[film] Śniegu już nigdy nie będzie (2020)
11日、日曜日の晩、LFFのオンライン上映で見ました。
ポーランド映画で、BFIのプログラマーのGeoff Andrewさんが薦めていたので。英語題は”Never Gonna Snow Again”。制作にMatch Factoryが入っていていかにもそんなかんじの。女性のMalgorzata Szumowskaさんと撮影担当のMichal Englertさんの共同監督作品。
森の奥から何かを担いだ男がひとり歩いてきて町に入ってお役所のような建物に入って役人のような男と面会して、やりとりから男はこの土地への滞在許可を求めてきたこと、担いでいるのはベッドであることがわかって、男は役人の頭を軽くマッサージしてあげると役人はことんと落っこちて、男は自分の書類に自分でスタンプを押したのを持って部屋を去る。
彼がZhenia (Alec Utgoff)で、そのまま住宅街 – 近隣一帯が囲われていて同じタイプの裕福そうな白い一軒家が並んでいる - の一軒のドアを叩くと、出て来た女性はZheniaのことを知っているようで、Zheniaは子供が散らかし放題にした床にベッドを広げて目の下のクマが深くてグチだのなんだの喋りまくる彼女にマッサージをして、終わると彼女はすっきりしたようで、Zheniaは出ていく。
そうやってその界隈の数軒を回っていくのだが、どの家でも彼は知られていて普通に入れて貰ってマッサージを終えると感謝されたりして、その繰り返しのなかで、誰かと誰かが浮気をしていたり、末期ガンを患っている男がいたり、ブルドッグ(かわいい)を3頭飼っているおばさんがいたり、そのエリアの住人たちがどんなふうなのかわかってくるのと、Zheniaには特異で不思議な治癒力みたいなの - 催眠術も使ったり - があるらしいことがあまり喋らない(たまにロシア語で受け答えをしている)Zheniaの行動からわかってくる。
どちらかというとコメディタッチで、そのうち個性的な住人たちが突然白目を剥いて襲いかかってきたり夜空に向かって変な踊りを始めたりしそうな緊張感を孕みつつも、やはりZheniaはどこから来た何者なのか、が気になってくる。彼はチェルノブイリの事故が起こる7年前のあの日、あの近くで生まれていて、彼が質素な借り部屋から窓の外を眺めるときその景色は琥珀色の火花や塵が雪のように舞っていたあの時の光景に繋がっていって、住人の子供に「今年は雪は降るのかしら?」と聞かれた彼は”Never Gonna Snow Again”、と静かに答えるの。
Zheniaと彼の家族があの事故によってどうなって今の彼がここにいるのか、彼の持っている力は事故と関係があるのかないのか、彼は果たして天使なのか悪魔なのかその両方なのか、なにひとつ明らかにされないのだが、その彼のぽつんとしたありようとこの囲いの外のどこにも行けなさそうな住民たちとの緊張関係がよいの。どんな要求もお願いも受けとめて実現してくれる彼の紙一重に見える脆さと透明さはとてつもない惨事や災厄をもたらすわけではないし、そんなやわな住民たちでもなさそうなのだが、そこにふわりと残る像があって、よいかんじ。
それをチェルノブイリのせい、とかチェルノブイリがなければ.. とか言うことはしなくて、でも、チェルノブイリのことは例えばこんなふうに残る必要があるしこうして残っているし、と語っている気がする。それって良いことなのか悪いことなのか? 「もう雪が降ることはない」 - これも同様の問い - 雪のないクリスマスとか寒さだけしかない冬とか – から導かれる未来のことで、その先に希望とか幸せはあるのだろうか? というと、そんなにあるとは思えないのだが、でも日々のあれこれは続いていく。
そしてこの地の果てのような土地で起こっているようなことって、例えば福島 - 『風の電話』 - とか水俣のような土地の物語に繋がっていくのではないか、とか。
で、最後にZheniaを訪ねてくる人たちのところで、ああーって。それもあるのか。
主演のAlec Utgoffさんの不思議な存在感がよくて、この人なら”Ghost” (1990)のPatrick Swayzeをやれるかも(そんなに見たくはないけど)。
マッサージ台を担いだマッサージ師のrom-comといえば、”Enough Said” (2013)があって、あれはよかったな。また見たい。
10.13.2020
[film] Saint Maud (2019)
10日、土曜日の午後、Curzon SOHO - 映画館で見ました。
Edgar Wrightさんが最近、ロンドンのCurzon SOHOの入り口とか誰もいない客席とかトイレの壁紙とか、もう閉じてしまったPicturehouse Centralの写真とかをTwitterにポストしていて、おこがましいけどああ同志だわ、って思って、その彼がこれを絶賛していたので見る。あとThe Final GirlsのAnna Bogutskayaさんもほめていたので。ホラーは怖いので見ないのだけど、これは見たほうがいいらしい。
昨年のLFFでも上映されていた英国産ホラーで、作・監督はRose Glass(かっこいい名前)さんでこれが長編初監督作となる。英国での配給はStudio Canalで、米国での配給はA24。オープニングの週末の興行成績はUK4位だって。
まず、タイトルが黒字白抜きでものすごくでっかく出るのでそれだけでなんか怖い。
英国の北東の海辺の町スカボローに契約看護師のMaud (Morfydd Clark)がいて、素っ気ないひとり部屋で信仰にすべてを捧げる質素な暮らしをしていて、彼女の次の患者は丘の上に立つお屋敷にひとりで暮らすAmanda Köhl (Jennifer Ehle)で、車椅子の彼女はもうそう長くはなくて、Maudはそこに住みこみで末期のケア - 食事を作り食べさせ、投薬し注射し、マッサージしたり入浴させたり – をしていくことになる。
モダンダンスのダンサーでコレオグラファーだったAmandaはやってくる死のことをあっさり受けとめていて、だからタバコも酒もやるし、享楽的な友人たちを呼びこんで遅くまで騒いだりしていて、Maudは神のご加護と自分の献身が足らないからだわ、って懸命に彼女のためにお祈りしてケアをして、そういう想いが通じたのか悪いと思っているのか、AmandaはMaudの前では静かにされるがままで、柔らかい笑顔と感謝と、メッセージを加えたWilliam Blakeの画集を贈ってきたりする。
でもその状態もAmandaの友人がやってくると簡単にひっくり返されて、そうやって強引に開かれたパーティの場でぶちきれたMaudはクビになってしまう。ひとり部屋に籠ったり気晴らしに町に出て遊んでみても自責の念とAmandaへの想いが募るばかりでそのうち幻覚のようなものを見たり瘡蓋ばりばり剥がしたり身体がおかしくなったりしてくる – 気がするだけなのか本当なのか、まだまだ修行が足らないというのか。
神への想い、信仰が極限まで行った時、それは(それに応えて神は?)その本人の身体や心にどんなことをしでかすのか、そして他者には何をしようとするのか、それをキリスト教/キリスト者の世界観のなかではなく、もう少し広い情念と受難の相克のなかで暴走させてみると、例えばこんなふうになる。神でも悪魔でもやろうと思えばヒトには試練の名の元でどんなことだってできてしまうはずなので、それをどこまで表現として神々しいもの(→奇跡)にするか、エクストリームなぐさぐさに持っていくか、程度問題なのだろうが、ここでは孤独なMaudとより高いところでダンスをしていたAmanda - 顔立ちがちょっと似ている - の間で起こりうるケース =「ホラー」としてとても納得できるかんじ - なのでものすごくわかって、わかっているのに床面にずり落ちていくのが怖い。
過去の映画のなかではやはり”Persona” (1966)だろうか。あの映画で起こり得たかもしれない転移や変異のどこかに虫(バグ)が混入して融和や昇華のシナリオが破綻するとこんな世界がやってくる。悪魔が降りてきたわけでも霊的ななんかでもなさそうで、信仰のサイコドラマの、ひょっとしたら隣の部屋で実際に起こっていてもおかしくない痛さと生々しさがたまんないし、聖Maudにとってこれは崇高な愛のドラマ以外のなにものでもない、ということ。そう、怖がるようなことではないのよ、って..
例えば”Midsommar” (2019)の怖さと比べたらこっちの方が断然。文化人類学と神学の距離の違い、というか。ロケーションとして英国の海辺の町って – こないだ見た”Make Up” (2019)もそうだったけど、やっぱし怖いかも。
彼女の次作の音楽はTrent Reznor & Atticus Ross組にお願いしたい。パーティの時にバックで聞こえてくるのはESGの”You're No Good”とか、Gang of Fourの”At Home He's A Tourist”とか、The Jesus Lizardとか、よい趣味なの。
Sight & Sound Magazineの最新号はこの作品がメインのホラー特集で、なんでこんな寒くて暗くて雨ばかりの季節にそんなのやりたがるのかしら。
10.12.2020
[film] Possessed (1931)
今月に入って、Criterion Channelで”Starring Joan Crawford”という枠で25本の選集がリリースされている。 彼女の主演作品のいくつかは2018年のBFIの彼女の特集で見て、でももっといろいろ見たいので、ここで見ていく。
これは10日、土曜日の昼間に見ました。彼女の主演で1947年にも同名の作品 - 邦題『失われた心』が作られていて、原作から何から全く異なるものなのだが、どちらも自分を所有するのは何か誰か、自分は誰のものか、という問いを巡りつつ、あたしはあたしのもんじゃボケ! っていう作品で、2011年に出版された彼女の評伝本(by Donald Spoto)のタイトルも”Possessed”、ていうの。
Marian (Joan Crawford)は、ペンシルベニアの製紙工場で働いて、母と実家暮らしで、同じ工場で働くAl (Wallace Ford)からは早く結婚しようぜ、って下品に迫られているのだが、もうそういう生活が嫌になっていて、外を歩いていったらゆっくり走っている列車の中にはいろんな人生が見えて - このシーン、すばらしいの - その客車にいた金持ちっぽいWally (Skeets Gallagher)が声をかけてきてシャンパンを飲ませてくれて、成功したいのならNYに来たまえってカードをくれたので、意を決してNYのWallyのアパートに来て訪ねたら、本当に来ると思わなかったわって追い払われて、 でも入れ替わりでWallyのところにやってきた法律家のMark (Clark Gable)にやけくそで絡んでみたら、この娘は .. って火がついた。
そこから3年、MarianとMarkは結婚はしていないものの、恋人のように(恋人なんだけど)いつも一緒にいて、その間にMarianはフランス語や社交や接待の術も身に付けてMarkの仕事をきっちり支えているのだが、そこにセメント会社の社長になったAlが契約の相談でMarkを訪ねてきて、そこにMarianがいたもんだから性懲りもなく彼女に結婚を迫ってきてうんざりする。丁度Markが知事選に立候補を考えている時で、彼の友人たちがMarianとの関係をどうにかしないとスキャンダルになるぞ、って陰で言っているのを聞いたMarianは、あたしはAlと結婚するからさよなら、って姿を消す。
選挙戦はMarkの方が優勢で進んでいくのだが、対立候補側はスキャンダルで潰すべく演説会でMarianの名前を出して動転させてやれ、って企んでいて。でもその会場にはMarianも来ていて..
そういう時代だからしょうがないのだろうが、とにかく政治経済は男性がぜんぶ動かして女性はそれを下から支えて運良く金持ちと結婚できればアガリ、という価値観が吹きまくっているのでうんざりで、でもやっぱりJoan Crawfordのざけんじゃねえぞ、の念が底から力強く湧きあがってくるのがたまんなくて、特に終わりの演説会場のとこなんて拳を握ってしまって、そのあとの鮮やかなラストに痺れるの。 映画館でみたら絶対拍手が起こるやつ。
Sadie McKee (1934)
1日、木曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
邦題は『蛍の光』? - 最後にちょっと流れるだけなんだけど? 監督は↑と同じClarence Brown。
Sadie McKee (Joan Crawford)は、お金持ちの社長の家でメイドとして自分の母と一緒に働いていて、社長の息子でNYで法律家として成功している幼馴染のMike (Franchot Tone)が久々に戻ってきて楽しい雰囲気になったのだが、その席でMikeが工場で働くSadieの恋人のTommy (Gene Raymond)のことを悪く言ったので喧嘩して飛びだして、工場をクビになったTommyと一緒にNYに駆け落ちしてしまう。
NYに来たふたりは文無しで、でもなんとか安下宿を紹介してもらって翌日は婚姻登録をしましょうね、って正午に会う約束をしてSadieは宿を出るのだが、ひとり宿でふんふん歌っていたTommyの声を聞いた隣部屋のどさ回り歌手Dolly (Esther Ralston)が彼を気に入って一座に入れて連れていってしまう。
ひとりどん底に叩き落とされたSadieはナイトクラブでダンサーをしながらのし上がる機会を狙って、大金持ちだけどしょうもないアル中のJack Brennan (Edward Arnold)と仲良くなり、彼の法務担当であるMikeへの当てつけもしてやれって、Jackと結婚してしまう。
まだTommyに未練があるので彼の舞台を見にいったりしつつ、アル中で容態がやばくなったJackの面倒を見て、でもTommyは病気が原因でどこかで捨てられたことを知ったSadieはJackに別れたいと告げて、裏でSadieに未練があるMikeはTommyを探してあげるのだが、やっと再会したときにTommyは手遅れで死んじゃうの。 でも、亡くなる直前にTommyからMikeのことを聞いたSadieは…
いろんな怒りとかでめらめらして絶対のしあがってやる、ってそれなりの地位を手にして、でも本当は最初に結婚を誓った彼のことを想ってて、その横で2人の金持ち男たちが代わりばんこで見守ってくれて、という典型的なJoan Crawford最強伝説の星雲を形作る1本で、ベタだけどおもしろいったら。
それにしても、彼女ってどれだけ田舎の工場やメイドで働いてて都会に出てきて.. っていう役をやってきたのだろうか、どれだけそういう役柄を期待されてきたのだろうか、って。
10.11.2020
[film] The Forty-Year-Old Version (2020)
8日、木曜日の晩、CurzonのVictoria - 映画館で見た。
客は - そうだろうなーと思ったけど - 自分ひとり。 もうNetflixのストリーミングで見れるようになっているのね。
Radha Blankさんが作・監督・主演をして、今年のサンダンスのドラマ部門で監督賞を受賞している。
Radha (Radha Blank)はNew Yorkのウェスト・ハーレムのアパートでひとりで暮らしている劇作家(Radha Blank本人もずっと劇作家)で、10年前は"most promising 30 under 30”に選ばれていたのに今は仕事もなく、新作も書けず、高校生を相手に演劇のワークショップをして食い繋いでいるのだが、生徒にも小馬鹿にされたりしてぱっとしない。
高校の頃からの友人でエージェントをしてくれているArchie (Peter Y. Kim)の口利きで大物プロデューサーのJosh Whitman (Reed Birney)にパーティで会わせて貰うのだが、彼女が書いている戯曲 “Harlem Ave.”について彼がジェントリフィケーションとか小賢しいことをいってくるのでむかついて掴みかかって、おじゃんになる。
もう劇作のキャリアはこれで終わりだって思って泣いて、怒りにまかせて書いた言葉をラップにしたれ、ってインスタでみつけたDJのD (Oswin Benjamin)に連絡してBrooklynのRockaway Ave.の彼のスタジオを訪れる。そこではいろんな若者が煙もうもうの中なんかやってて、おばさんなんか用? だったDは、Radhaのライムを聴いてびっくりして、自分のやっているライブイベントに彼女を呼ぶのだがフロアに自分のとこの生徒がいたりするのを見て緊張して大失敗したRadhaはもうだめだ、って再び劇作の方に戻る。
劇の方はArchieが粘ってWhitmanとの仲を修復してくれて、白人女性の演出家を入れて“Harlem Ave.”の上演プロジェクトが始まって、そちらが忙しくてDからのCallにも出なくなっていくのだが、劇の方も決して順調というわけではなくて、これでいいのか? って自問したりArchieと喧嘩したりしつつ初日がやってきて..
もう40になるのにいまだにフリーに近い状態で、壁を見つめたまま自分が本当になにをやりたいのかわかんないまま延々もやもやしている、そういう状態を微細に具体的に描いていて、すばらしいモノクロの画面 - 構想中の劇作の内容に入るとカラーになる - がドキュメンタリーのように生々しく、嘘があるとは思えなくてじっと固まって見入ってしまう。
彼女は少し前にアーティストだった母を亡くして、兄(弟?)ともごたごたがあり、自分がやりたいこと - それを母が生きていたらそれをどう思っただろうって意識してて、その時に白人がスポンサーとなって彼らがあれこれ口を出してくる劇作は本当にこれでいいのか、ってずっと悩んでて、他方でラップはその反対側で自分の言葉でストレートに相手をぶちまかそうとする気持ち良さがあって、自分を好きになってくれたらしいDのことも含めて、どうしたらいいのか… っていうのを、近所のおじちゃんおばちゃんたちのコメントやアパートの前に居ついたホームレスの声も交えておもしろおかしく描いてて、笑えるところもいっぱいあるのだが、年齢によってはぼんやり考えてしまったりする人も多い気がする。
ただこれで129分はちょっと長くて、90分くらいにできたら傑作になったかも、なのだが切れなかったんだろうな。この10年のジェントリフィケーションの流れとか、演劇の側から言いたいことがいっぱいあって、そこに自分のこれからをどう重ねたり折り合ったりすべきなのか、考えながら書いていったのではないか。
モノクロ画面のかんじでなんとなく“Clerks” (1994)を思い出した。これも行き場を失った若者(たち)のコメディだったねえ。
Radhaが最後にぶちかます“The Forty-Year-Old Version”がかっこいいったらないのだが、このタイトルは”The 40 Year Old Virgin”(2005) っていう今から15年前に作られたコメディ映画から来ているのよ。たぶん。
古本屋のSecond Shelfの実店舗の方がしばらく閉まるというので、金曜の夕方に予約いれて慌てて行ってきた。店を畳むわけじゃないから心配しないでいいわよ、って言われた。 久々だったのであれこれ買ってしまったのだが、"Studies in Modern European Literature and Thought"っていう叢書(?)でアイリス・マードックがサルトルについて書いている一冊があって、おもしろそう - と思ったら翻訳も出ていた..
10.10.2020
[film] Eternal Beauty (2019)
前にも後ろにもいろいろ詰まってきたので束ねて書いていく。なにがなんでも書かなきゃいけない、とかそんなことはまったくないのだが、自分の備忘のために。
3日、土曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
昨年のLFFで上映された作品で、作・監督は”Submarine” (2010)に主演していたCraig Robertsさん。
Jane (Sally Hawkins)はparanoid schizophrenia - 妄想性統合失調症と診断されていて、本人も家族もそれは分っていて投薬を含めた治療を続けているのだが、そんな彼女の笑えるような笑えないような、浮かんだり沈んだりの日々 – 両親とのこと、姉妹とのこと、甥とのこと、医院で出会ったやはり病人との恋とか - をややコメディタッチで描く。彼女の周りの世界と彼女から見た - 我々には見えないもの聞こえないものが登場する夢や妄想も含めた世界が切れ目なく繋がっていくので初めは少し混乱するが、色使いや画面のトーン、Janeの衣装も含めて注意深く配置されていて、徒に「普通」と「異常」の境界を浮かびあがらせたり異様さを誇張したり過剰に思い入れたり「回復」を期待したりゴールに置いたり、そういうことはしていない。
監督の家族に身近にいた女性 - 監督は彼女のことをスーパーヒーローだと思っていたそう - をモデルにしていて、ケンブリッジの医療コンサルタントの助言も受けているようなのでそんなにずれたものにはなっていないと思う。けど、こういうのって人や症状の度合いによって、家族や環境によって、それが起こしてしまったかもしれない事故とか傷とかによって受け止め方はそれぞれだろうし汎用的なことをいうのは難しそうだけど、この辺はなんとか纏められている気がした。
それにしても、“Happy-Go-Lucky” (2008)から”Godzilla” (2014)や”Paddington” (2014)を経由して”The Shape of Water” (2017)まで、やはりSally Hawkinsという女優さんは異世界の動物たちと繋がっているとしか思えないし、この作品は“Happy-Go-Lucky”の裏バージョン、と言ってもおかしくないくらいに、彼女を中心とした世界ができあがっている。
もういっこ、監督が画面の色使いも含めてリファレンスにしたのがPaul Thomas Anderson の”Punch-Drunk Love” (2002)である、と。なるほど、あの映画のBarry (Adam Sandler)のかんじは確かに。
途中で聴こえてくるBeth Ortonの”Blood Red River”がなんか沁みた。
Petite fille (2020)
5日、月曜日の晩、これもCurzon Home Cinemaで見ました。フランスのドキュメンタリーで、英語題は”Little Girl”。
8歳になるSashaは身体的には男子で生まれて、でも3歳くらいから両親に大きくなったら自分は女の子になるんだ、と話し始めて、両親は混乱するものの、性同一性障害について勉強して、無知からか知っていたからかいろんな理由でSashaを追い込んだり酷い仕打ちをしてくる学校や地元の病院と戦っていくことにする。
映画はSashaを守るって決意を固めた両親 - 特に母親へのインタビューと、彼らが向かうパリの専門医のところに行って、Sashaを囲んで意地悪や酷いことをする学校や友達とどう対峙していくのかを話し合うところとか、庭や公園で遊んだりバレエ教室でレッスンを受けたりするSashaの姿を追う。
医師の話をじっと聞きながら目に涙をためて懸命に持ちこたえようとしているSashaを見ているとトランスジェンダーの「問題」とされる問題って、人権問題そのものだと思うし、これは常套の「知らなかった」「傷つけるつもりはなかった」で済んでしまう時代ではもうない。差別や暴力が許されないのと同じく。 教育もメディアもきちんと正しい事実とその反対の誤りを伝えて広めていかなきゃいけないし、社会も福祉も制度面でそれを支えるものになっていかないといけない… んだけど。
なんだけど、両親や彼女の兄のコメントを聞いて、こんな家族としてごくあたりまえのことを言っているだけなのに感動してしまうのってまだまだだよね、っていうのと、ここまで同様のケースでどれだけの子供たちが苛まれたり潰されたり殺されたりしてきたのだろう、って暗澹となる。
そんな人は周りにいなかった、っていう人は自分が見ようとしなかった、周囲が見せようとしなかった、本人がひっそり隠していた、それだけなんだよ、ってどれだけ言ってもどっかの政治家のバカにはわかんないだろうから、こういう映画を見せるのが一番よいと思った。トランスは本人の嗜好とか傾向とか偏向とか、そういうのではない - 教育や指導や矯正でどうにかなるものではまったくないのだ、などなどを改めて。
それと、これまでなんでこういう状態が維持されてきたのか、これを維持存続させてきた共同体の意識とか機構とかってなんなのか、って。 自分がアートに向かう理由ってこのへんで、かろうじて正気を保てているのも、たぶん。
週末だわ。
10.09.2020
[film] Kajillionaire (2020)
7日、水曜日の晩21:00、London Film FestivalのVirtualで見ました。
Fesの初日にリリースされたこれはシアターではやってくれなくて、オンラインでのみ。劇場では明日から一般公開される模様。
Miranda Julyの新作。長編映画としては”The Future” (2011) 以来となるがここにくるまでの間、彼女は本を書いて、iOS app“Somebody”を作って、ロンドンのデパートにチャリティーショップを開いて、インスタ上であんなこんなおもしろいことをいっぱいやってきた。そういう中での新作は所謂映画的文体やストーリーテリングの成熟や新境地みたいなとことはあまり関係ない、見る人が見たら相変わらず変なの、としか言いようがないやつかもしれないけど、自分にはものすごくおもしろいやつだし大好きだわ。
Los AngelesにRobert (Richard Jenkins)、Theresa (Debra Winger)、Old Dolio (Evan Rachel Wood)の詐欺・泥棒を生業にしている3人家族 - 喋ってばかりの父のRobertといつも不機嫌で足を引きずっている母のTheresaと、実行役で娘のOld Dolio (Evan Rachel Wood) - がいる。Old Dolioは両親の指示を受けると柵を乗り越えくぐって監視カメラをよけて他人の郵便受けに手を突っこんで引っこ抜いた郵便物から贈り物やクーポンやマネーオーダーをくすねて、3人はそれを金に換えたり、ゆすったり交渉したりのプチ悪事を繰り返してて、ずっと3人固まって行動している割にそんなに仲がよさそうにも見えなくて、報酬は3人で割っていたりして本当の家族かどうか疑わしいくらい。 工場に隣接したぼろい事務所に暮していて、ある時間になると壁の隙間から泡がぶわーって溢れてくるので掃除したりしている。ここの家賃も滞納していて家主Stovik (Mark Ivanir)からは溜まった3ヶ月分の$1500を支払え、って言われて困って、飛行機で荷物を紛失した場合は$1500くらい貰えるってあるのを見て3人でNY (LaGuardia)に飛んでそのまま戻ってきたりする。
で、その戻りの飛行機でRichardとTheresaは隣に座ったMelanie (Gina Rodriguez)と仲良くなって、陽気で楽しそうでフェミニンな彼女は、いつもぶかぶかの同じ服を来てぼさぼさ伸び放題の長髪で低い声でお爺さんのようにぼそぼそ喋るOld Dolioとは親との関係も含めてまったく正反対なのだが、LAに着いた彼女は3人と行動を共にすることになって、Old DolioはMelanieがなんだか気に食わなくて..
『万引き家族』(見てない)とか『パラサイト』で描かれた苦楽を共にする家族のドラマとか家族のありようを描くのとは全然違って、貧困を描くものでも、そのありかたを問うようなものでもなくて、”The Future” (2011)でシェルターにいた子猫のPaw-Pawの引き取られ先としてとりあえず置かれていたような、その程度のものかも。 あの映画でじたばたしながら希求されていた「未来」に相当するのが、この映画ではお金 – に置換可能なモノとか紙とかで、ビリオネアの上のとてつもない大金持ち(Kajillionaire)を狙ってて、なぜそれらをそんなに求めるのか、必要なのか、についてはあまり言及されない。ただ、そういう分割できたり交換可能だったりするモノとかカネでこの世界とか宇宙は帯とか星雲をつくって循環しているようで、たまに襲ってくる地震がそんな彼らの足下を揺らして星屑にしようとするのだが、いったいどうしろというのか。 そしてそういう世界で、愛とか、いったい何でありうるのか。
Miranda Julyの映画でいつも描かれる、どうしてもここではないあそこに行きたい、欲しい、なりたい、のにうまくいかなくて届かなくて、”The Future”にあったように窓を開けて外に向かって思いっきり叫ぼうとするその瞬間がところどころに充満している。誰もが誰かに向かってたまらずに声をあげようとするその瞬間とその持続でドラマが成り立っているような。Old Dolioがそういうので綻びて壊れそうになっているその時、その反対側でMelanieも同様に膨れあがって行き場を失って突っ立っている - そういうふたりであることがわかってきたり。
2017年にロンドンのデパート(Selfridges)でキリスト教、ユダヤ教、仏教、イスラム教の宗教を超えたチャリティーショップ(Interfaith shop)を開いた彼女の経験が反映されたりしているのだろうか? どこから集められたのか、どこにどう使うのかわからないようなのも含めて並べられていた品々は、間違いなく今の世界を構成する有機無機ななにかとしてそこに吹きだまっていた。それらはそうやって人から人の手に流通していくことで世界が保たれている - ように見えて、そういうのがラグジュアリーなテナントの間に突然現われて、消えた。
それにしても、この映画でのEvan Rachel Woodのとんでもなさをどう形容したらよいだろう。それまで体をよじったりひん曲げたり、常にその表皮や殻や毛に絶望していたかのような彼女が、突然狂ったように踊り出すあの瞬間。 あそこにはどんなダンス映画でもミュージカルでもありえないような奇跡的に突出したなにかがある。あれを見せたかったが故にMirandaは(自分が出演せずに)彼女を主演にしたのではないだろうか。
“Old Dolio”って、ゴリオ爺さん(Old Goriot)と関係あるのかしら? 考えすぎかしら?
今週、ちょっと長すぎ。