3.19.2024

[film] Nu aștepta prea mult de la sfârșitul lumii (2023)

3月9日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
Previewで、上映後に監督とのQ&Aつき。英語題は”Do Not Expect Too Much from the End of the World”。2時間43分もあった…

ベルリンで金熊を獲ったルーマニアの監督Radu Judeの”Bad Luck Banging Or Loony Porn” (2021) - 『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』に続く作品。

ブカレストで映像関係のコーディネーションをしているAngela (Ilinca Manolache)が朝起きてうううーって呻きながら車に乗って、オーストリアのクライアントDoris (Nina Hoss)に依頼されている職場の安全啓蒙ビデオに出演する障害者 - 職場で事故にあって車椅子生活になってしまった人や家族の家を訪ねて、ビデオ出演にふさわしいかどうかを含めてインタビューをしていく。

AngelaがDorisと直接やり取りをするわけではなく、映像制作の注文を受けた会社からの下請けのようなかたちで、すぐ上から適当にスケジュールをねじ込まれたり突然連絡が取れなくなったり、インタビューに向かった先の家の生活も楽ではなくて悲惨だったり、いろいろしんどいのを見たり聞いたり消化したりしつつ、だがそれが仕事なのでー。

Angelaの登場する場面は粗めのモノクロなのだが、彼女の中でいろいろ溜まってきて毒を吐きたくなると、スマホでTikTokに向かってBobițăという別キャラ - フィルターをかけて声も変えてスキンヘッドにチョビ髭、革ジャンのマッチョな男 – に変貌してむしゃくしゃするあれこれをぶちまけて言ってやったぜ、ってやる。ここの映像はカラーになる。

Angelaの車でいったりきたりの仕事と並行して、ブカレストの女性タクシードライバーを描いたLucian Bratuの“Angela merge mai departe“ (1981) - “Angela Moves On” – チャウシェスク時代に作られた – からのクリップが挿入されて、ここは昔のフィルムのかんじが出たカラー。この作品の主人公だった”Angela” - 女優本人といまのAngelaが並ぶ場面もある。

最後の40分は採用された障害者とその家族の撮影場面でワンショットの静止画。障害者となった当人が仕事場での危険と安全を訴えるそのメッセージがステークホルダーの意向だの「適切」な用語への変更だのにより漂白されていくさまが当人たちの苛立ちや当惑もそのままに映しだされる。

あとはAngelaが最上位クライアントのDorisを乗せて高速道路を走っている時、ここの危険な区間で交通事故による死者がいっぱい出ている、という発言の後に、道端のいろんなお墓が次々とモンタージュされていったり。死者も障害者もこんなふうに静かにしていてくれればよいから…(最近、どっかの国でも)。

搾取され酷使されるばかりの労働者、レイヤーになったブルシット・ジョブのしんどさ、ミソジニーに障害者差別にポリコレに、現代を生き抜いてどうにか暮らしていくためにこれだけのゴミやクソやノイズを浴びて耐えていかなければならないのだ、という状況をいろんなアプローチで引用したりコラージュしていって、最後に”Do Not Expect Too Much from the End of the World” – このタイトル自身も引用 - という。

このタイトルも含めてひどいでしょ、しょうもないでしょ、という便所の落書きみたいな作品であろうとしているのだと思うし、でもここを起点に考えるところや「アイデア」はいっぱいありそうだし、観客は大喜びで大ウケして(あんなに笑うのか...)見ているのだが、なんかものすごく不快で見ていて嫌になった。 前作の”… Loony Porno”でもなんでこんなことがあんなふうになっちゃうの? という事態をこれでもか、って仔細に描いてあーあ、だった記憶があるが、こんなのSNSにいくらでも転がっているムカつく動画とどこが違うのか、ていうとそこだよ!それ! って即座に返ってきそうな。

エンドロールでは、映画内の発言は以下の方々の言葉から引用されています、ていうのと、小林一茶と与謝蕪村と松尾芭蕉の俳句(の英訳)まで流れてくるのだが、そういうのも含めてなにこれ? って。

ブカレストがチャウシェスク政権時代からの膿を引き摺ってひどい状態になっていることはわかるし、(どっかの国もそうだから)想像できるし、でもそれってこんな形で笑ったり、いいね!してよいものかどうかがわからない。もう笑うしかないんだよ、なのかもしれない。でもわたしはこの映画で描かれていることについて、この映画が(おそらく)求めているふうに笑ったり頷いたりしてすませるのは嫌なのだと思う。

いろんなレビューでは60年代のゴダールとかゴダールが生きていたらこういうのを、とか言われているのだが、60年代のゴダールなんて「60年代の」ゴダールっていうあの時代のものでしかないし、ゴダールの「いま」は自分で死を選んだんだよ、その意味をちゃんと考えるべきじゃないの?

なんかすごく疲れてぐったりしたのでQ&Aには参加しないで帰ったの。

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