1.03.2023

[film] ケイコ 目を澄ませて (2022)

12月19日、月曜日の夕方、テアトル新宿で見ました。英語題は”Small, Slow But Steady”。

監督は三宅唱、原案はケイコのモデルとなった小笠原恵子さんの『負けないで!』(2011)。16mmによる撮影(月永雄太)も照明も音響もすばらしくきちんとオーケストレートされていて、目と耳に触れて入ってくるものすべてがたまんない密度とタイム感で迫ってくる。

耳を澄ませる、はよく聞く気がするけど「目を澄ませる」はあまり聞かない気がして、でも目を澄ませるというのはどういうことなのか、がこの映画が拾いあげる微細な紙の擦れる音やジムで人とマット、人とグローブがたてる規則的な音たち - 主人公にはそのほとんどが聞こえていないはず - を通して「見えてくる」。映画のなかの主人公が受けとる世界とそれを画面から受けとる我々の感覚の差異やズレを表に出すことでケイコが見つめる鏡の向こう側にいるような感覚がやってくる。

それはサイレント映画を見る時の逆の感覚 - サイレントの場合、映画のなかで起こっている音はこちらに聞こえてこない - のようでもあって、ここにはサイレント映画を見る時の「向こう側」への没入感もはっきりとある。ケイコが手話で会話するシーンには黒画面白抜きの字幕が入るし。(でも字幕が縦、っていうのは意図したのだろうか? タイトルも縦書きだし)

ケイコ(岸井ゆきの)は耳が聞こえなくて、ジムの会長(三浦友和)が言うようにそれはハンディにはならない - ケイコは目がいいんですよ、と。 なぜボクシングなのか? なぜ戦うのか? などには触れずに、聴覚障害をもつひとりの女性ボクサー、という設定に誰もが期待するであろうドラマ - きっかけとか入口の苦労とか続けている理由とか - からすっと身をかわして、目を澄ませて世界にひたすらその身をつっこんでいくケイコとその周囲の世界と今(のありよう)を丁寧に切り取って形にしようとする。

ケイコは弟の聖司(佐藤緋美)とアパートに同居していて母(中島ひろ子)は遠くで暮らしていて、ホテルの清掃婦の仕事をしながらボクサーのプロテストにも受かって、ジムに通って日々練習している。戦績は悪くないし、障害者ボクサーとして世間の注目も集まるのだが、そんなことよりもこれで、このままでよいのか? って彼女はずっと自問している - その理由もはっきりとは示されない。 もうやめようと思う、という会長にあてたメモを渡しそびれているうちにジムの経営が危うくなり、会長も体を壊して入院して、ケイコが目を澄ませて見つめてきた世界はまるごとどこかに消えてしまいそうになる。

映画の中でのケイコの最後の試合も、それが本当に彼女にとって最後のものになるのかはわからないし、会長がどうなってしまうのかもわからないまま、ドラマはボクシングのそれにありがちな栄光を掴むまでとか燃え尽きるまで、のような予期された勇ましさからも遠く離れて、痛いのはいやだしとか、このまま続けていても.. というケイコの声にならない声とか、ダウンして立ちあがった後の声にならない咆哮を拾って、それが目を澄ませたケイコが世界にたてる音として、川辺の朝の空気とか夜にちらちら光る塵のように肌に触れてくる。

どこまでも彼女の内なる声に寄り添うのみ、というのでもなく、一番感動するのは、既によれよれの会長とふたりで横に並んで一緒にシャドウをするところ - ケイコが大きく目を見開いて(おそらく泣きながら)、ふたりのダンスのような動きを追うところで、ここでなんで泣きたくなってしまうのか、自分でもよくわからないままじーんとして目を開いたまま泣いてしまうのだった。

あとはジムと川辺のある、かつてはどこにでもあったようで今は失われつつある東京のローな景色の廃れたかんじ。ジムに入って行くのに少しの段を降りるようになっているところ、昔の成瀬とかの家族映画で見ることができたのと同じような路地があって、あの段を降りたところにあるものがある、っていうあの感覚がたまんないの。

主演の岸井ゆきのさんもすばらしいなー。

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