1.23.2023

[film] Les dames du Bois de Boulogne (1945)

1月9日、休日の午後、恵比寿ガーデンシネマの「没後60 年 ジャン・コクトー映画祭」で見ました。
コクトーって実はちゃんと見ていなかったりする。邦題は『ブローニュの森の貴婦人たち』。

監督はRobert Bresson – 監督二作目、原作はディドロの小説-”Jacques le fataliste et son maître” (1796) -『運命論者ジャックとその主人』の一部、Jean Cocteauはダイアローグパートを担当している。

ドイツ占領下の暗いパリで、Hélène (Maria Casarès)とJean (Paul Bernard)はそれぞれ別で恋人をもっても可、という自由な恋人同士としてつき合っていたがJeanの方が冷めてきたように感じられたので、試しに別れを切り出してみると、少しは粘着してくるかと思ったのにあっさりOK、じゃあこれからは友人だね、って返されたのでショックを受けて、復讐してやれ、とめらめらする。

そこで場末のキャバレーで踊っていた若いAgnès (Élina Labourdette) - オペラ座で踊りたいという夢をもちながら抜けだせない – と彼女の母親に声をかけて、母親の借金を返済してブローニュの森の近くの綺麗なアパートに越させて、その上でJeanにAgnèsを非の打ち所のない御身分の貴婦人、として紹介する。

JeanはあっさりHélène の罠に嵌ってAgnèsの虜になり、Agnèsは自分が餌であることを知りながら面と向かって言い出すことはできず、もがけばもがくほどそれがJeanにはプラスに積みあがっていって彼はついに結婚まで言い出す。戸惑うAgnès にHélèneは式が終わるまで絶対自分の過去や境遇について話すなと、Jeanに対しては目一杯豪勢な結婚式を開くように扇いで持ちあげる。

式の当日、何かがおかしいと気づいた花嫁は事情を知ると昏倒して、Jeanにもすべてを明かしたHélèneは高笑いして去っていく…(あーあー)

愛の上っ面とそれを重ねて浮かびあがる本質を突きまくる台詞はどれもスムーズで洗練されているのだが、それでもこれはやはりRobert Bressonの映画、としか言いようのない冷徹さのなかで統御されていて、主人公たちは逃れられない運命(ストーリー)の列車に乗ってどうすることもできないまま彼岸に流されて途方に暮れて固まるしかないし、我々はそれを同様に凍りついて見ていることしかできないし。あのラストはちょっとだけ希望があるように見えるけど、それすら我々の身勝手な憶測と願望に過ぎないのかも、って。

お話だけを見れば『高慢と偏見』のフレンチ/ダーク版で、結婚式であんな取り返しのつかないことになる前にもう少しお話したりしなかったのかとか、Jeanがそんなことは初めからわかっていたのさ、って高笑いして去っていくとか、いろんなバリエーションの想像ができて楽しいかも。


Orphée (1950)

1月10日、火曜日の晩、同じジャン・コクトー映画祭で見ました。 『オルフェ』、というか、これってある世代にとっては”This Charming Man”の映画で、Jean Marais = This Charming Manになってしまっているやつ(← 思考停止)。

作・監督はJean Cocteauで、オルフェウス神話をベースとして“Le Sang d'un poète” (1932) - 『詩人の血』と今作と『オルフェの遺言』(1960)で3部作をなす、と言われるが、彼には戯曲の『オルフェ』(1925)もあったりするので、詩人/映画作家/表現者としてのCocteauがどうやって現実/非現実/夢などと渡りあって超越的な美や詩を導きだしてきたのか、神話はその補助線のようなもの、ととりあえず置いて、この周辺はそこまでとしたい。ここをちゃんとやろうとしたら論文になっちゃうから。

舞台は現代のパリで、売れっ子の詩人Orphée (Jean Marais)が詩人カフェでふんぞり返っているとThe Princess (María Casares)と売り出し中の新人Cégeste (Edouard Dermithe)が現れて、イキって暴れたこいつがバイクに轢かれて死んじゃうと、The Princessは病院に運ぶから、ってOrphéeを強引に車に乗せて廃墟のようなところに連れていって、おまじないをかけたらCégesteは生き返って鏡の向こうに消えてしまい、残されたOrphéeは運転手のHeurtebise (François Périer)に連れられて身重の妻Eurydice (Marie Déa)のいる自宅に戻って...

展開されるストーリーはこんなふうに極めて適当っぽい散文調で予測がつかなくて、車のラジオから流れてくる電波とか、Orphéeがゴム手袋をして鏡の向こうの冥界に渡ってThe Princess – Deathと恋におちるとか、現代と廃墟 - 冥界を行ったり来たりする旅を通して、最後に彼は「死」と結ばれようとするの。

ここでの「詩人」はアイドル歌手であっても構わない - こんな騒がしく野蛮な現代で、いったいどうやったら美とか詩とかは可能になるのか、を車とか鏡とかゴム手袋とか電波とかを散りばめて一見軽そうに、でも実は古典的に大真面目にどうだろうか? って問いて考えながら作った、ように思える。

CocteauにとってのOrphéeについては、例えばここにー:

https://www.criterion.com/current/posts/13-orpheus

これは夢そのものというより、どうやって夢を見出していくのか、その仕組みについての映画で、そこには自分の生き方や人生観が集約されているのだ、と。

Jean Maraisはブリリアントに愚かでかっこよいのだが、『ブローニュの森の貴婦人たち』から続けて見たMaría Casaresが更にすばらしくて、あの映画のHélèneがそのままあの後にここに現れたのかな、とか思った。

『オルフェの遺言』も見たいなー。

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