1.25.2023

[film] Night Tide (1961) +

1月14日、土曜日の午後、国立映画アーカイブのAFA特集で見ました。

作・監督はCurtis Harringtonで、数年前、Nicolas Winding Refnが自費でネガを買い取ってリストアした数本のうちのひとつ、MUBIで公開されていた時には見れていなかったのでうれしい。

サンタモニカに寄港した船員のJohnny Drake (Dennis Hopper)がすることもなくうろついて海辺のジャズクラブに立ち寄るとMora (Linda Lawson)という女性を見初めて近づいていく。彼女はCaptain Murdock (Gavin Muir)がやっている波止場の見世物小屋に半人半魚 - 人魚の恰好をして横たわって(陳列されて)いて、彼女の後見人であるというMurdockが幼い頃、ギリシャで彼女を拾って育てたのだ、と。

Johnnyは遊園地の上にあるMoraの部屋 – よい眺め - を訪ねたりして仲良くなっていくのだが、メリーゴーランドのとこにいる女性から彼女と過去付きあっていた男性が2人殺されているとか聞いて、自分も潜っているときにホースを切られたりして、なんだろう? と思っているとある日の見世物小屋にはMoraの亡骸が置かれていて…

最初の方でMoraにギリシャ語(字幕にでない)で話しかける魔女のような女性(Marjorie Cameron)がいたりするので、呪いの化け物ホラーになるかも、と期待していたら案外ふつうの種明かしがMurdockの説明でなされてしまうとこが – これ自体は結構グロテスクで悲惨だったりするのだが - 映像としてはちょっとつまんないかも、って。

タイトルは最後に引用されるE.A.Poeの最後の詩 – “Annabel Lee”の最後の節から来ていて、詩は船乗りと村娘の悲恋伝説をうたっているのだが、映画は結構あっさりクールに運んでいく。セイラ―服を着こんだDennis Hopperの演技もあるのかしら、そんなに暗くも怖くも哀しくもなさそうに見えてしまうところがなー。

この映画の周辺 - 最初にスクリプトを売ったRoger Cormanとか、Kenneth Anger - 彼の”Inauguration of the Pleasure Dome” (1954) にCurtis HarringtonとMarjorie Cameronが出ている - とかJean Cocteauの『詩人の血』(1930)に出ていたBarbetteがいたり、この時代の辺境アート人脈との関わりなどが興味深い。流れているJazzのうねりもそうだし。 


Night and the City (1950)

1月15日、日曜日の夕方、国立映画アーカイブの同じ特集で見ました。

邦題は『街の野獣』で、米国リリース版が96分、英国リリース版が101分、今回上映された[pre-release version]が111分、だそう。バージョン間の異同についてはプリントで配られていたけど、そんなでも。

“The Naked City” (1947)で徹底した現場でのロケ撮影/犯罪ノワールの金字塔を打ちたてたJules Dassinが、Gerald Kershの同名小説を原作に、舞台をLondonに持ってきて同様のドラマを撮った - 実情としては彼の名がハリウッドの赤狩りのリストに載りそうだったので、彼を英国に送って英国でのドラマを撮らせた、と。この後、彼はヨーロッパで活動していくことになる。

ロンドンのごろつき詐欺師で威勢のよいHarry Fabian (Richard Widmark)は堅気の恋人Mary (Gene Tierney)をはらはらさせながらも金儲けのネタを探しているとき、レスリングの会場で、伝説のレスラーGregorius The Great (Stanislaus Zbyszko)が興行を仕切っている息子のKristo (Herbert Lom)に、おまえがやっているレスリングなんてうそっぱちだ、伝統的なグレコローマンが正しいし強いのだ、って親子喧嘩しているのを見て、Gregoriusににじり寄って焚き付け、一緒にKristoの連中をやっつけないか? って持ち掛けて、その反対側で闇社会のボスのPhil (Francis L. Sullivan)とその妻Helen (Googie Withers)にかけあって興行に必要な資金をひねり出そうとするのだが、興行する側もされる側(レスラー)もいろんな意地とか犬猿とかがあって、試合前にGregoriusとKristo側のThe Strangler (Mike Mazurki)がデスマッチしてGregoriusが死んじゃったり、PhilとHelenを仲違いさせたらPhilが絶望して自殺しちゃったり、なにを仕掛けてもFabianの想定通りにはいかずに結果的にこんがらがって恨みを買って、最後は£1000でFabian自身の首が狙われるようになってしまう。

こんなにひどく拗れて面倒なことになるなら最初からまじめに働けばいいのに.. って思うのだが、それができるのなら詐欺師なんかになるかよ、ていうFabianの怒りと絶望とやけくそが全面に炸裂して – でも暗く沈みこまずに吠える - 個々の犯罪とかその手口手法とかいろんな人間関係をなぎ倒してロンドンの路地裏とか川べりを突っ走っていく。よい人はMary以外ほぼいなくて - 彼女がなんでそこにいるのか不明なくらい - 悪漢が最後にすり抜ける爽快さも締めに正義がもたらされる安堵もなくて、霧のもやもやしか残らなくて、でもそれこそが、たぶん。

“The Naked City”がNew Yorkのダイナミックな空撮とそこで起こってしまった殺人を高いところから俯瞰しつつ高所から絞りこんでいくのに対して、こちらは薄暗い橋のたもとの高さでほぼ固定されたまま、運送屋同士が挨拶して今日も変わらねえなー、って言いあって、同じ挨拶で終わる。そんな都市の対照のおもしろさ。

これ、英国で撮られたアメリカ映画、ではあるが、50年代末〜60年代初のKitchen sink realismのドラマ - “Look Back in Anger” (1959)とか”Saturday Night and Sunday Morning” (1960)とか - に繋がっていきそうな閉塞感があるような気もした。


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