ずっとなんもしないままに気がつけば… という口上をお約束にしているのが毎年のこの日で、それはほうらこんなにもなんもしない一年だったよね、という後ろめたさを抱えこんで、反省するふりして年の変わり目になんもしないで固まっているの - ちょっとでも動くとやられるぞ - が恒例のあれで、それはそれでおもしろいからいいのだが、今年はそうではない。
だれもがまさかこんなことになるとは、こんなはずでは、というぐじゃぐじゃにどう対応すべきか右を向いたり左を向いたり当惑したまま、あるいは大切なひとが病院にいたり会えないままに辛いお別れになってしまったり、この一年はシンプルに幕を降ろすことを許してくれない、簡単に終わってしまってはいけない一年なのではないか、って。 他方で、とにかく散々だった - だからいったんは降ろそう、蛍の光を流して暦の上だけでも2020年にさよならをしよう、っていうのもわかる。 こんなくそったれな年、振り返りたくもねえやとっとと行っちまえ、にするか、このまま過ぎていくなんて許すもんか、とするか。
自分はどちらかというと後者の方で、いまのこの、台風のまんなかにいるような状態 - 今日の英国は964人が亡くなっている - で、落ち着いて振り返ったり新年の抱負なんて言えるかよ、って思う。 のでふつうにぼーっとごろごろしてたまに窓の外みたり映画みたり積んである本をめくったりして、この年の終わりは、終われない年の終わりなんだ、って。こんなふうになってしまった年のことを忘れてはいけないんだ、って。
だからお片付けなんてもってのほかだわ。(←結局ここか)
4 - 6月のロックダウンを生き延びて、だんだんに緩んでいった7-9月の夏がこのままなんとかいけるという空気を作ってしまったのか、経済的に後がなくなって動かざるを得なくなってきているのか、たんにもう我慢できない子供、なのか、おそらくそういうのの複合で、だからといってなんで感染者数と死者数があんなふうに伸びていくのか - 科学でコントロールできない自然のトランスフォーメーションとか、言ってみたところでどうなるもんでもない想像を転がしてみたり。
で、そんなふうに吐き出した毛玉をいくら転がしてみたところで、自分だってスーパーに買い物にいけば感染するかもしれないし、余計ななにかを運んだり撒き散らしたりしているのかもしれないし、だからじっとしていろ、って自分で自分に命令してうずくまる年の瀬。
というのが世界概況みたいなとこで、あとは自分の場合は日本から英国に「駐在」というかたちで働きに来ている、その働き方うんたら以前の、働くということの意味だの目的だのを考える機会の多い一年だった。 リモートでできることがこれだけある、なら駐在も出張もいらなくならないか - そういう仕事のなりたちから派生してきたあのよくわかんない日本人会だのなんだの、馴れ合い寄り合いもいらないじゃろ、とか。そういう集まりが大好きなおっさんたち(ほぼ腐れた政治家におなじ)だけでやっていればいいんだ。やってろ、って。
そういうのと、そういう状態になって見るとオフィスにおける「職場」がいかに特定のジェンダーや年齢層を特権化したり疎外したりする意味不明な場所であるか、が見えてきたり。(そんな余計なこと考えてないで仕事しろ、になるのも大概が「職場」)
今日の外気温はだいたい0℃から1℃で、きんきんに寒いので少しお散歩して戻ってきて、映画はOrson Wellesの”The Trial” (1962)を見て、NetFlixで”Death to 2020” (2020)っていうのを見て、成瀬の『流れる』(1956)を見た。 『流れる』は定期的に見ている大好きな映画で、師走の映画ではないのだがなんとなく(猫のぽんたを見る)。
あまりにつまんないので1月くらい前から見始めたTVは”The Queen's Gambit”みて、”The Crown”みて、“Dash & Lily”みて、”The Mandalorian”みて、”Bridgerton”があと一話でおわるとこ。こんなにTVドラマいっぱい見たのは久しぶり。そのうち書いてみたい。
そして、最後に聴いた一曲はもちろん、Elvis Costello先生の”Farewell, OK 2020”。 それに続けてマンチェスターでやってる”The Hacienda 24 Hour House Party NYE!”をえんえん。
というわけで、年が明けたら2020年のベストに着手しよう。
よい新年をお迎えください。
12.31.2020
[log] 年のおわりに
12.29.2020
[film] Soul (2020)
25日の晩、Disney+で見ました。The Guardian紙では2020年のBest 50のNo.2で、昨年のLFFで公開されたときからとても評判がよい。
でも話題になっている表示文字のローカライズの件とか邦題とか - 英国で関係ないとはいえ - やっぱりなんか嫌で。だってソウルフルなワールドでもミュージックでもフードのお話でもないもん。ソウル - 魂そのもののお話なのにさ。
監督は”Up” (2009)とか”Inside Out” (2015)のひとで、最近のDisney/Pixarの作品で顕著になってきた気がする精神世界とか死者の世界とか思い出とか記憶とか伝説とか、誰も見たことがない、おそらく目に見えないものだけど登場人物たちを支えているにちがいない大切な価値とか生きる意味とかを描く手法としてアニメーションを使っていて、そのフリーフォームのあの手この手を使って家族まるごと泣かせにくるやつ(←ひねくれた見方だけど)。
クイーンズに暮らす中年の音楽教師Joe (Jamie Fox)はJazzミュージシャンになる夢を持っているものの今はただの音楽教師で、でもある日、憧れのサクソフォン奏者Dorothea (Angela Bassett)とジャムしたら認められてライブハウスに来るように言われて、有頂天でスキップしていたらマンホールに落ちて、気がつくと全身が水色半透明のぷよぷよになって浮かんで”The Great Beyond”っていうあの世へのエスカレーターの待ち行列に並んでいて、いやこれはなんかの間違いだから、まだ向こう側に行くつもりないから、って真っ青になる。
この死と生の手前のゾーンには、”The Great Before”っていうまだ生成されていない魂(ぽわぽわの泡状に目鼻がついたようなやつら)が学習してReady-to-Bornのきちんとした魂になって地球にダイブしていくための場所があって、ピカソの線画みたいなJerryっていうメンターとか、Terryっていう監視屋とかが全体を統括してて、そういう幼稚園みたいな場所から落ちこぼれて真っ黒に肥大した“lost” soulsのいるエリアもある。
そういうところで、Joeは(どんな偉大な先生の講義を受けても)つまんないよってふてくされている魂の”22” (Tina Fey)と出会い、こいつのメンターになりすまして自分もこっそり生き延びようとして、ふたりで地球におりてみたら、入院していたJoeの体に22のSoulが、Joeのベッドの上にいたセラピー猫にJoeの魂が入ってしまう。
ふたつの魂が交錯してジャズってしまった一人と一匹は、じたばたしつつもOJTよろしくJoe猫の指導のもと、22は人間として生きるっていうのはこういうことなのか、ってピザとか床屋とかJazzとかを通して実感し始めるのだが、いいかんじになってきたところで、二人を規則違反で追っかけていたTerryに捕まってGreat Beforeに送り返されて… ここから先は書かないほうがいいか。
果たして、22はひとつというのかひとりというのかの立派な「魂」として下界に降りていくことができるのか、っていうのと、もともと死ぬつもりのなかったJoeは同様に元の状態に戻ることができるのか、っていうのと、このふたつというかふたりのすったもんだを通して、どういう条件とか状態が整うとひとは生きるにふさわしい魂の状態に至ることができるのだろうか、を問うている、のかしら。
これを赤ん坊に見せても小学生に見せてもあまり効果はなくて、胎教にいいとかそういうこともなくて、ふだん布団にたどり着く前にソファで落ちちゃったりしてこんな状態で生きているなんてとても言えねえかもって後ろを向いているようなひとが、三途の川を渡って自分の人生を振り返ることになったとき、生きていましたわ!ってどういう状態だったら言えるのか、あっちの世への顔認証の改札を通してもらえるのか、とか。 22が何度もしょんぼりという”I’m not good enough”とか、Spark(きらきら)がない/こない、とかそういう人にー。
この作品がやろうとしているのは魂とか未知の世界の成り立ちや構造を見せる、ということ以上に、いまのこの世界でどうやってそういう光とかSparkを見出すことができるのか、っていう地点に向かおうとしていて、それってハッピーエンディング - 主人公がよいひとになる - を志向するハリウッド・クラシックのそれと重なって見えて、批評家受けがよいのはその辺もあるのかしら。英国のレビューはやはりPowell & Pressburgerの”A Matter of Life and Death” (1946)を参照しているのが多くて、これもすごく素敵な作品。
でもわたしは自己実現だの生きがいだの大人がなんか言いにくるたびに、けっ、って蹴っとばしたりばっくれたりしてきた80年代の人間なので、こういうテーマが来るとつい反射的にふん、それで?とか思ってしまうのよね。いいかげんそういうのやめないと天国行けなくなるよ、っていろんな映画とかに教わってきているのに。
このテーマの背景にジャズという音楽 - “Jazzing”が、NYのいろんな風景(あっちの世界の抽象的な造形との対照で細かなところまで見事に再現されている)がうまくはまることもわかるし、そういうののバランスも含めた全体の構築感はすごいと思うし、宮崎アニメの「生きろ!」みたいな臭みがないのもいいと思うし。 他方で、The Great Beforeでガンジーとかマザー・テレサに教わってきた魂 → 人間界がなんで戦争とか虐待とか差別とか、悪の方に向かってしまったりするのか、とか。
あとね、でもね、これは途中まで大島弓子の『四月怪談』(あと『いちょうの実』も)ではないか、と思いながら見ていて、結末は違ったけど、わたしにはDisney/Pixarがどれだけ束になってかかってきてもひとりの大島弓子にかなうわけがない、という強い確信がある。 猫のボディに人が入ることはあるのに、ひとつのボディにはひとつのソウル、なんだね。「いっしょに生きよう!」にならないのだろうか。
音楽はこれもまたTrent Reznor & Atticus Rossで、しかしなあ、Trentがこんなテーマのアニメ音楽を手がけるんだよ。はじめはなんだよこれ、って思ったけどRS誌の記事とか読むと真剣に考えているので尊敬する。 魂の地上への落下、これこそが”The Downward Spiral”ではないか、と言われたらそれはそうかも。
あと、Tina Feyが22の声をやっているのがなんだかとっても嬉しい。
BOOK/SHOPからジャケットのSecond Editionが届いた。自分へのクリスマス第二弾。本が入るポケットに“New Directions - San Francisco Review”の1963年のが突っ込んであった。なんて粋なことをしてくれるの。
12.28.2020
[film] Saint Frances (2019)
15日、火曜日の晩、BFI Playerで見ました。
最初のロックダウン開けの頃に映画館でやってて、その時に見逃して見なきゃと思いつつ見れていなかったやつ。
2019年のSWSXでAudience Awardなどを獲って、各地のマイナーな映画祭でもちょこちょこいろんな賞を貰っている。
主演のKelly O’Sullivan(女性)がオリジナル脚本も書いていて、監督はこれが長編デビューとなるAlex Thompson(男性)。このテーマと内容で男性が監督してるんだー? と思ったが、このふたりは実生活のパートナーだそうで、そういうところも含めてどこかでなにかがうまくバランスしているような。
34歳のBridget (Kelly O’Sullivan)はこの歳になってもバーでウェイトレスをしていることに自嘲的でうんざりしていて、そこで出会った年下のJace (Max Lipchitz)とも簡単に寝ちゃって、起きたら生理でシーツが血まみれでもまあいいか、とか。
そのうち裕福なレズビアンのカップル - Maya (Charin Alvarez) とAnnie (Lily Mojekwu)のとこの6歳の娘 - Frances (Ramona Edith Williams)のベビーシッターのバイトをすることになり、子供は苦手なのでびくびくしながら - でも半ばやけくそなので適当に - 応対すると気難しそうなFrancesには気に入ってもらえたようで、MayaとAnnieのところには新しい赤子も来るので、夏の間だけベビーシッターをしてくれないか、と頼まれる。いや、だから子供は苦手で.. なのだが自分の生活もあるので引き受けて、そうしているうちに自分がJaceの子を妊娠していることに気づいてー。
Jaceはいい人だけどずっと続くとは思えないし、自分の生活はこれからもずっと安定することはなさそうだし、Francesに接していてもちゃんと子供を育てていけそうな自分ではないし、いろいろ考えて中絶することにして、その結果Jaceとはなんとなく疎遠になるし、ギター教室の中年の講師に惹かれて寝ちゃったり、中絶したらそのせいか頻繁に出血してソファを汚してしまったりするようになるし、それと並行して描かれるMayaとAnnieの関係の揺らぎとか、ちょこちょこ騒動を起こしてくれるFrancesのこととかいろいろ。
どん詰まりのお先真っ暗、というほどではなく、でも日々のほぼ全てが - 身体も含めて - 不安定でバランスを欠いて明日にはどうなるかわからない、というのがこのドラマの中心にいる女性たちの実情で、泣いたり怒ったり怒られたりもするのだが、それらの反対側にいるのがちょっとおしゃまで元気いっぱいのFrancesで、結果的に彼女がこのサークルの天辺にいてすべてをお見通しのように見える - なので「聖フランシス」なの。
女性たちが彼女たち自身で自分たちの問題 - 特に中絶 - に片をつけようとするドラマ - 今年だと”Never Rarely Sometimes Always” (2020)とか”Portrait of a Lady on Fire” (2019) - があった(どれもすばらしかった)が、これもそのひとつに挙げられるかもしれない、けど、ここのはそんなにシリアスなトーンのにはなっていない。 Francesの子育てやMayaやAnnieとの交流を通して家族の大切さに気づいたり目覚めたり中絶を後悔したりとか、そんな陳腐なものにもなっていない。なるようになるかー、でやっていけばいいさ、って。 最後の方、Bridgetが教会の告解室に入ってFrancesに相対するシーンとかすごくよいの。
たんなる名前繋がりでいうと、”Frances Ha” (2012)のFrances27歳が、そのまま34歳になると、ここのBridgetになっているのかも(あの映画から7年経っているし)。
Mayaが着ているRoberto BolañoのTシャツほしいかも。
いまの日本の女性が置かれたあれこれからすると設定からしてありえないようなことばかりのように見えてしまうかもしれないが、これくらいでなんとかなるような世界とかやりようもあるのだって、そういのすらすぐ「応援歌」とかになりがち/されがちな地獄もあるけど、そんな臭みとかもないの。ま、日本公開はないだろうな。
ものすごくつまんない冬休みの只中にいる。昼間に映画みて昼寝して起きて散歩して夕方に映画みて夕寝して夜に映画みて夜寝して、結果的に四六時中ずうっと半端に眠い。このまま行ったらどうなるかみたろ。
12.27.2020
[film] Un conte de Noël (2008)
25日の昼間、Criterion Channelで見ました。クリスマスだから、久々に - 10年ぶりくらい? - 再見。英語題は“A Christmas Tale”、邦題は『クリスマス・ストーリー』。「ストーリー」と「テール」は違うものだし、Arnaud Desplechinはこれは明確に「テール」だって言ってるのにな。Desplechin作品(とかこの辺のフランス映画)の邦題を付けている会社だか人だかには嫌悪と失望しかない。ずーっと。
Criterion Channelのこの作品の隣には“Arnaud’s Tale”っていう30分強のドキュメンタリーが置いてあって、Arnaud DesplechinとCatherine DeneuveとMathieu Amalricがそれぞれこの作品についていろいろ語っている。この作品だけでなく、Desplechin作品の特徴や俳優のありようについて、監督と俳優の双方が語る、とてもよいガイドになっている。 見終わってこれも見て、これは最強のクリスマス映画かも、って改めておもった。
タイトルが出るところにこのドラマの舞台となる”Roubaix!”がサブタイトルのように書かれていて、これはDesplechinの生まれた街で、古のSacha Guitryのドラマでもバカにされていたくらい、しょうもない街、フランス人なら絶対住みたくないようなところで、そこに暮らすVuillard家の物語。
Junon (Catherine Deneuve)とAbel (Jean-Paul Roussillon)のVuillard夫妻の間に長男Josephが生まれて、でも彼は血液の病で6歳で亡くなっている。 冒頭のJosephのお葬式でAbelがエマソンの日記を引用しつつ彼の喪失の上にこの家は成り立っているのだ、と不吉な宣言をする。長女のElizabethはJosephを救えなかったことをずっと内面の傷として抱え、Josephのドナーとなることを期待されて生まれてきた次男のHenri (Mathieu Amalric)は不適合でドナーにならなかったので、そのまま家族の不適合者 - はぐれものとして生きることになり、三男のIvan (Melvil Poupaud)は上ふたりの不備をすべてひっかぶるよいことして育つ。
6年前に負債を抱えて訴訟沙汰になったHenriをElizabethは救済してやる代わりに絶縁するので今後一切家には近寄るな顔も見たくない、といって追い払い、でも自分の息子 - Paul Dédalus (Emile Berling)は精神的に不安定で、Ivanだけ、妻のSylvia (Chiara Mastroianni )と双子の息子がいて幸せそうで。
そして冒頭にJunonがJosephと同様の血液の病気であることが明らかになって、延命のためには骨髄移植が必要なのだが彼女の血液型は特殊で、ドナーとして適合したのがElizabethの息子PaulとHenri - よりによって一家のガンのような問題児ふたりであった、と。
こうして、一家の長である - どうみても頂点に君臨しているのは彼女 - Junonのお見舞いとChristmasの集いで集まってきた壊れた - もう修復不能かもしれない - 家族のどたばたと、治療のためJunonに骨髄を接ぎ木して自身の延命を試みる命がけのシリアスな話が、だからこそ、というのか、よりによって、なのかクリスマスの手前から当日までの数日間に、Roubaixで起こる。彼らを救うのは科学なのかキリスト様なのか。
恋人のFaunia (Emmanuelle Devos)を伴って現れたからっ風野郎(or フーテンの寅)のHenriは相変わらずみんなに疎まれてJunonからも「お前はわたしのJewだ」とまで言われたり散々なのだが、そうやって豪快にやらかす彼の影でElizabethはずっと泣いてて、他にも家族のひとりひとりにいろんなことが起こる - “Fanny and Alexander” (1982) くらいの長時間ドラマにしてもいいくらい、どのエピソードもおもしろい。クリスマスだから起こること/起こっていいこと、がちっちゃいのもでっかいのもツリーの上に下にプレゼントみたいに積み上がっていく。そういうおとぎ話のような”Tale”なの。
最後の方でAbelが嘆き哀しむElizabethにニーチェの『道徳の系譜』の序言にある「我々はいつまでも自分自身のことについて未知である...」 という箇所を読んできかせるところがよくて、自分たちのことをわかっていない自分たちはどうやって自分たちが正しいと知ることができるのか、って。これって拡げていくとキリスト教とユダヤ教とかも含めた広義の「道徳」とか経験の話に至るのだが、そういう道徳や教義もこの家族にはちっとも効かないように見える。そういう場所でぼかすか殴り合っても懲りない集団が家族というものなのだ、と言っているかのような。
それを具体的に示すかのように、Desplechinドラマの馴染みの名前(役名も俳優名も)の男たち女たちが繰り広げてぶちかますとっちらかった各エピソードがとにかくおもしろい。HenriとElizabethの旦那が取っ組み合うところとか。お涙なんてちっとも出てこないし。
あと、“Arnaud’s Tale”でおもしろかったのは、撮影に入る前にみんなに参考として見せる映画があるらしいのだが、この場合は、Howard Hawksの”Only Angels Have Wings” (1939)だったとか。
Comment je me suis disputé... (ma vie sexuelle) (1996)
これもCriterion Channelにあったので、21日、月曜日の昼に見た。これも再見で、何度みてもおもしろい。
英語題は”My Sex Life... or How I Got Into an Argument”。
物語の構造や展開がどう、というより - Paul Dédalus (Mathieu Amalric)が職場の大学で、女性関係で、ひたすらいろんな議論(Argument)に巻きこまれ、その渦の只中でいかに生きたか(死んじゃうんだけど彼)、という実存主義コメディ。次から次へと彼の目の前に現れて彼をかき乱してかき混ぜにくる女性たちがどれもすごい。
“A Christmas Tale”でも見られるのだが、ずっと躁状態で動き回るMathieu Amalricが突然動きを止めて空を見上げたり、ばったり倒れたりするところがすごいの。
Trois souvenirs de ma jeunesse (2015)
これは22日、火曜日の昼に。これも再見。
英語題は”My Golden Days”で、Criterion Channelでは↑の続編のように紹介されていた。(そういう側面もないとは言えないけど)
若い頃にロシアでパスポートを偽造されて別世界にもうひとりの自分をもつPaul Dédalus (Mathieu Amalric)が憧れのEster (Lou Roy-Lecollinet)との出会いと恋愛 - なんで自分はこんなことになっちゃったのか、を文化人類学を専攻する若き日のPaul Dédalus (Quentin Dolmaire)がレヴィ= ストロースの『親族の基本構造』やマーガレット・ミードの『サモアの思春期』を参照しつつ(いや、読んでいるだけだけど)、こっちは構造主義的に - 振り返る形式で描いていく。
こういうでっかいロマンはお休みのときに纏めてみるのがよくて、この際だから”Kings & Queen” (2004)も”Esther Kahn” (2000)も見たいのだが、これらは置いていないのかしら。
12.25.2020
[film] Wonder Woman 1984 (2020)
20日、日曜日の午後、CurzonのOxford(映画館)で見ました。
前にも書いたがロンドンはこの映画の公開予定日だった16日からTier 3に入って映画館も美術館もクローズしてしまった。BFI IMAXの初日の前売りを取って楽しみにしていたのにひどい.. って放心していたのだが、映画の宣伝そのものは頻繁に流れてくる。なんでかというとTier 2のエリアでは映画館をやっているからなのだった。
というわけで、バスに乗ってOxfordに行った(約90分)。ずっとマスクしてたしバスはガラガラだったから許して。
映画館はショッピングモールの中にあって、Tier 2ぽく適度に賑わっていた。スクリーンは十分でっかい。
さてWW84 - 予告の段階でちゃらい恰好したSteveのちっとも笑えないジョークを見ただけでああこれはダメかもって思ったし実際レビューもあんまよくないみたいなのだが、80年代にこんなのいっぱい見てきたからへっちゃらだわ。
冒頭、Dianaが子供の頃に参加した競技会で大人の女性たちと競って一等になれなくて腐って膨れている彼女に、いつかその時がくるわよ、って年長の女性が言うの。
一番新しい時代のDianaは今のところ”Justice League” (2017)で、その次に出てきたやつは第一次大戦の頃の“Wonder Woman” (2017) - これはまじで傑作だと思う - に遡って、そこから70年くらい経った1984年の彼女はこんなふうでした、と。 彼女のような年齢関係ないヒーローについて成長の軌跡のようなものを見せるのってどうなのか、というのと、そうはいっても70年経っても彼女はひとりで(まったく歳をとらずに)、ひとりの男をずっと想い続けていたのです(演歌)、っていうのと。でもその男はどうみても飛行機を操縦できる以外にすごいところがあるとは思えないのだが… などなどを重ねていくと全体がとってもWonderなところにほわんて浮かんでいるお話しのようでー。
ショッピングモールでの捕物活劇を見せた後、スミソニアンでキュレーターをしているDiana Prince (Gal Gadot)のところに研究者のBarbara Minerva (Kristen Wiig)が赴任してきて、独りもの同士のふたりは仲良くなって、研究室に来ていた不思議な石を見つめて、やがてそこにTVで石油富豪として成りあがっている(でもその裏では破綻してぼろぼろの)Maxwell Lord (Pedro Pascal)が現れてBarbaraをたぶらかしてその石を持ってこさせる。
その石こそ、古代から伝わる願いを叶えてくれる魔法の石だったのです、と。こうしてDianaのところには70年間ずっと会いたくてたまらなかったSteve (Chris Pine)がそのままの姿で現れて、Dianaみたいになりたいと願ったBarbaraはMaxwell Lordの悪いヴァイブを受けてCheetahっていう凶悪スーパー猫女に変身して、Maxwell Lordは邪悪な伝道師よろしく人々の願望をなんでも引き受けて、ひとつの石を巡って3人と世界がぐしゃぐしゃに混乱していくの。
願いを叶えてくれるなにか、として魔法のように現れたそれが周囲に大混乱を巻きおこして、そんな簡単に巧くいくことなんてないのよ反省しな、ていうB級教訓コメディはこの頃未熟なガキを主人公として”Weird Science” (1985)とかいっぱい作られていて、それを現代の技術と画素数で151分の長さで作ってしまったという。べつにいいじゃん、ていうか、それはちょっと、っていうか。
なんかChristopher Reeveの“Superman” (1978)の牧歌的なスケール感とか、Tim Burtonの”Batman”に出てきたような悪役の情けない哀しさとかもあるし。でもそういう文脈をとっぱらって見た時に今の我々にはどう見えてしまうのか。Kristen Wiigのオハコである真面目でドジなガリ勉女性が騙されてだんだん壊れていく様って、80年代には割とふつうにありえた様式だったかもだけど、今見ると典型的な「騙された方がわるい」の方に都合よく仕分けされてしまいやしないだろうか?
Maxwell Lordも、レーガンの時代のアメリカに(そして日本にも)いくらでもいた自分が欲しいものを手に入れて何が悪い? の居直り成金を煮詰めたようなやつで、その果てが腐れた醜態を晒しまくるトランプ(あと26日..)だったとしても、ああいうのがふつうにビジネスやっていた時代があったんだよ、いまもあんなのの成れの果てだらけなんだよ、っていうとこを押さえておかないとさー。
こんなようなところでぶつぶつ言っていても最後のところでああー、って。クリスマス映画だったんだわ、って。クリスマス映画なら許されていいのか、って言うやつには、許されるんだよ、クリスマスなんだから、って返すんだ。 なので、この映画は支持する。彼女が空を飛べるようになるところなんて素敵だし。
でも最後、結局Dianaはふられちゃった、ってことよね…
すごく期待した音楽はそんなでもなかった。予告で流れた”Blue Monday”も来なかったし、Frankie Goes to HollywoodとかGary Numanとかじゃなあ… Hans Zimmerがうるさく仕切ってしまったのかしら。このテーマで1984年だったら、いくらでも流す曲あるんじゃないか。
これから映画館で見たくなったらOxfordに行こう! って思ったのだが、OxfordもTier 3になってしまった模様..
とにかく腐ってないでみんなでこの状態を一刻も早く収束させないとね。
本日で今年の仕事はぜんぶ終わった。 ここから年明けまで、この状態でどうやって過ごすべきか。
読書、映画、お散歩、お片づけ..
12.24.2020
[film] The Prom (2020)
19日、土曜日の晩、NetFlixで見ました。
“Glee”のRyan Murphyによる大スターがいっぱい出てくるミュージカル・コメディで、元は2018年にブロードウェイでミュージカルとして上演されたもの。
インディアナの高校で、Emma (Jo Ellen Pellman)が自分のガールフレンドをプロムに連れていきたい、と言ったら、PTAのMrs. Greene (Kerry Washington)がそれは受け入れられないから今年のプロムはキャンセルすることになる、と表明してざわざわする。
ブロードウェイでは、新作ミュージカル”Eleanor!” - Eleanor Rooseveltの一代記 - のプレミアがあって、主演のふたりDee Dee Allen (Meryl Streep)とBarry Glickman (James Corden)はナルシスティックにきらきらを振りまきつつレビューを待って、そこに同様に過去のきらきらを背負ったAngie Dickinson (Nicole Kidman)が加わるのだが、出てきたレビューはボロカスだったのでがーん、て突き落とされて、この鍋底からなんとか這いあがるには、ってそこにいたジュリアード出のバーテンTrent (Andrew Rannells)がSNSで見つけてきたEmmaの話を持ってくる。我々が彼女をCheer upしてプロムを成功させることができればみんな幸せになれる! と。
こうして救世主気取りで現地に乗りこんだ4人と、そんなのは屁とも思っていない保守地盤のPTA – といってもMrs. Greeneほぼひとり - との戦い、PTA勢力とEmmaに味方するミュージカルおたくの校長のTom (Keegan-Michael Key)のいざこざ、なによりもEmmaが思いを寄せるAlyssa (Ariana DeBose) – よりによってMrs. Greeneの娘 – との恋の行方と周囲の生徒たち、そしてカミングアウトを巡るそれぞれの家族の反応あれこれ、ものすごくいろんな関係の線が錯綜して慌しいのだが、そうしているうちにEmma抜きのプロムがEmmaに知らされないままに開催されてひどいよみんな、って…
プロムってアメリカの学園文化に卒業式と同じように組み込まれた通過儀礼 – 家族を巻きこんだ一世一代のイベントで、ものすごく重要で大切な揺るぎないなにかなのだということ、同様にミュージカルのある場面やそこで流れる曲やそれを歌うスターが、人の一生を左右するくらいの重みをもつものなのだということ、こういうのがアメリカの人達にとってどれくらい切実なものなのかがわからないと高校生の恋愛に落ち目のミュージカルスターが茶々を入れているだけ – なんでこの程度の恋愛模様にみんなでわーわー大騒ぎしてるの? - のように見えてしまうのかもしれない。
親にわかってもらうことの大切さ、わかってもらえないことの悲しみ、それを他人の売名のために利用されることの辛さ、などなどが渦を巻いてアップダウンを繰り返しつつもコメディなので他に落ちようがないところに落ちてはまって、そのこと自体にはなんの問題もないと思うのだが、その経路のところどころに立っているのがすべて母親、というのは少しだけ気になった。かろうじて父親的な動きをするのは校長先生くらいで、他はすべて母親が許して認めれば円満に向かうって、どういうことなのかしら? (ゲイである)登場人物たちの現在の or 過去から引き摺ってきた傷や痛みを癒せるのは母親だけなのだろうか?
なので例えば、このお話しをJohn Hughesが手掛けたらどんな流れになったかしら? とか。 父親が認めざるを得ないところ、手の負えない、収集がつかなくなるパニックになるところまで延々引っ張っていったのではないか、そっちの方がおもしろくなったのではないか、とか。
大人(たち)が高校に乗りこんでいって失われた青春を取り戻す身勝手な話というと、自分にとっては”Never Been Kissed” (1999)が不動のベストとしてずっとあって、あれと比べてしまうとやっぱりこれはよくもわるくもミュージカルなのかなあ。 プロムを中心とした愛と青春の学園ものとしてではなく、自分たちの名声のために高校生を餌食にするバックステージものの方に寄せたほうがよかったのではないかしら。
もういっこ、大人の身勝手なプロム粉砕ものとしては”Blockers” (2018)があって、これもとってもおもしろいやつなのだが、レズの件に関しては既に当然のように配慮されていたりするの。
Meryl StreepもJames Cordenもそこそこうまいので外してはいない(ひとつあげるとしたら、”Eleanor!”っぽい何かがあっても)のだが、やはりNicole Kidmanの輝きがとんでもない - これであなた、なんでスターになれないの? って思うのだが、既にとっくにスターだし…
あと、James CordenのママがTracey Ullmanってちょっとひどくないか、と思ったけど、彼女が19歳のときに産んだ子なのか..
何百回でもいうけど、ちーっともクリスマスのかんじがしない。なにをしたら、なにを見たら、なにがあったらクリスマスだ! って言えるのかを考えるよい機会だと思う。 けどな、年寄りにはそんなことをしている余裕はないんだよ。
12.23.2020
[film] Panto! (2014)
18日、金曜日の晩、映画監督のCarol MorleyさんがTwitterでやっている#FridayFilmClubが復活していて、そこで見ました。
ドキュメンタリー映画作家 - Jeanie Finlayさんによるドキュメンタリーで、この日の上映は彼女のサイトに行ってメールアドレス入れるだけ。iMDBとかにのっているオリジナルタイトルは”Pantomime”。なんだかしみる素敵なクリスマス映画だった。
パントマイムって、マルセル・マルソーとかが無言でやるあれ(こちらは「マイム」と呼ばれる)ではなくて、イギリスではクリスマスシーズンに家族で楽しむ歌あり踊りありのどたばた滑稽劇のことを指す。起源は16世紀くらいまで遡るらしいのだが、演劇としてのスタイルが確立されたのは18世紀頃で、元はバレエやオペラの上演後に演じられて、派手な衣装と演出で客席との掛け合いもあって、家族みんなで劇場で楽しむの - というのもこの作品を通して学んだ。
Sheffieldの少し下、地方都市のNottinghamにあるNottingham Art Theatreでクリスマスに上演される予定のパントマイム - "Puss in Boots" - 『長靴をはいた猫』のオーデイションに若者から老人まで、男女いろんな人たちが集まってオーディションをしていくところから。 演劇好きの素人、元劇団俳優、失業して家出してばかりの人、脳卒中から回復した人、などなど多様な経歴の人たちがいて、共通しているのはみんな芝居 - 特にパントが - 子供の頃の記憶と直結していて大好きだって。割とのんびりした演出家の女性、その下の少しかりかりした助手の女性、とかのスタッフの対比もおかしくて、全体としてはプロのプロダクションというより素人の寄せ集め手作り劇団で、でもシアター自身に予算もないのでスケジュールもきちきちで、でもやっぱり利益を出すことも求められている、と。
パントマイムでは主人公の男の子は女性が演じて、The Dameを男性が演じることになっているのだが、それぞれの俳優たちのグチのような悩みとか、初日に向かってこまこま多方面から噴出してくる問題がおもしろくて、特にそれが爆発して収拾がつかなくなってみんなが頭を抱えだすドレスリハーサルの様子が笑っちゃいけないのだろうが、楽しい。でも誰かの情熱とか知恵とかチームワークがそれらひとつひとつを解決していくわけではなくて、みんながなんとかなるじゃろ、みたいなノリで適当にやっている(ような扱いと撮り方と)。
こうして迎えた初日、裏側ではみんなそれぞれの持ち場でじたばた悶絶しているのだが、なんとか進行していくスリルがたまんない。 ドキュメンタリーとしては撮り方とか編集とかやや雑なかんじもするのだが、その適当な感じもこのテーマと題材にはうまくはまっているかんじがした。
で、とにかく客席の方はQueenの曲とかも一緒に歌ってくれて、子供達も喜んでくれたみたいでよかったねえ、になる。
こっちのTVでやっている大人気の”Strictly Come Dancing”とか、同様のお料理のとか、好きでやっている人たちが競ってがんばって、みんなよかったすごいよ! って最後に全員で感極まって泣いちゃうようなイギリス人の熱い気性、が割と出ているかんじで、自分が若い頃に憧れたイギリスのクールネスってこれの反対側にあったのかも、とか思ったりするのだが、このところ慣れてきたかも - コロナでみんな弱っているし、やさしくならないと。
でも、子供の頃にこういうのを家族で見た子が演劇とかバレエを好きになるのって、ほんとうによいことだよなー、って思った。
とにかく、冬至を過ぎて、ここから日が少しづつ長くなっていくことだけが希望だわ。
あと、Bad Religionの”Christmas Songs” (2013) (白盤)が届いたので、今年はこれを。
12.22.2020
[film] Small Axe: Education (2020)
17日、木曜日の晩、BBCのiPlayerで見ました。
Steve McQueenによるTVシリーズ”Small Axe”の5作めで、今のところこれが最後のエピソード。
この作品の主人公は12歳の少年Kingsley (Kenyah Sandy)で、これはSteve McQueenの子供の頃の経験に根差したものなのだそう。
メガネのKingsleyはふつうに学校の友達と楽しく遊んで騒ぐ年頃で、冒頭はプラネタリウム見学に行って大きくなったら宇宙飛行士になりたいな、って夢を描いている。けど授業の朗読はさっぱりだめで、音楽の合奏もはしゃいでいたら先生にめちゃくちゃ怒られたりしていると、母親のAgnes (Sharlene Whyte)は校長に呼び出されて、KingsleyのIQテストの結果がよくないし周囲についていけていないようなので、彼はこの学校とは別の特別な学校に行って貰う、その方が絶対に彼のためになるから、という。
その学校へはそれまで通っていた学校からさらに遠くにバスで行くことになるので、それまでの級友からはからかわれるし、授業といっても犬の鳴き声しか出さない子とか全く喋らない子とか、そんな子ばかりが周りいて先生はほぼなにもしないで放置したりへたくそなギターの弾き語りをしたり、自分は「バカの学校」 - とKingsleyがいう - に送られてしまったんだ、って絶望的になる。
そんなある日、Kingsleyの学校の前にLydia (Josette Simon)ていう女性が現れて、Kingsleyと話をして野放しにされているクラスの惨状を見ると、もうひとりの女性Hazel (Naomi Ackie)をつれてKingsleyの家にやって来てAgnesに話をする。今の英国の教育には構造的な差別があって西インド諸島からの移民の子は成績優秀なよいこにはなれない仕組みがあるしその機会も失われているし、Kingsleyが受けたIQテストは人種でバイアスがかけられているのだと。 怪しい勧誘のようにも見えたし、話の内容に動転したAgnesはお引き取り願うのだが、彼らが置いていった冊子を読んで、彼らの対話集会に行ってみると同じような境遇の親とか、自分は学ぶ機会がなかったので未だに英語が読めないのだという男性とかが沢山いた … (で、ここから抜け出すためにみんなで国務長官のMargaret Thatcherに直談判しよう、とか)
ここまでの“Small Axe”は全て成人の、大人の世界の話だったのだが、それらの大人を作っていく子供の段階から、その教育の場からして既にこんなふうに仕組まれていたのだ、って。 それってひどくないか、と。
ひとつ前のエピソード - “Alex Wheatle”で、自分のストーリーを語ることが重要であること、その目覚めを描いた後、Steve McQueenはこのエピソードで、その手法を適用して自身の子供時代、彼自身に起こったストーリーを語ってみせる。ある時代と場所に刻まれた具体的な事件や出来事ではない、極めてパーソナルなことなのかもしれないが、でもそのことに対するなぜ? が彼の根となって彼を表現に向かわせたのだし、そうすることで、それを知らない今の子達に伝えられるものもあるはずだし、”Small Axe”は、間違いなく今の時代に対する小さな - でも確実に打ちこまれる - 斧になっていると思う。
そして、もう何度か書いているけど、これがお金を払わなければ見ることができない映画館の映画としてでなく、BBCという公共放送で放映されたということ、その意味の大きさ。 “Small Axe”のいくつかのエピソードについては、その実際の背景や事情について、動画できちんと補足解説してくれる以下のサイトもある。
https://www.bbc.co.uk/teach/class-clips-video/history-ks3-gcse-small-axe/zwsq8hv
きちんとしたアーカイブをもった公共放送の役目ってそもそもこういうもんよね、とカルトに乗っ取られてしまったどっかの国の公共放送のことを思う。日本にもこういう話 - 辛いけど確実に次に継がれなければならない話 - は過去にいくらでもあったしあるし。なんでさあ..(以下略) っていうのと、従順で社会にとって都合のよい子供を量産する仕組みや仕掛けを編み出して組み込み部品として酷使することにかけて、あの国はほんと巧妙でやらしくできているよね、って。
公開でも放映でもいい、日本でも見られるようになってほしい。
いきなりTier 4が宣言されて、英国からウィルスの変種が出たとかで国境も閉鎖されて、ふだん南欧の方に行って過ごすはずの暮れの旅行計画 - 無理なら北欧でもアイスランドでも - は完全にとんでしまった。 それだけならしょうがないよね、なのだが国境が閉じて物流が止まってしまったので、フランスやベルギーから農産物や魚とかが入ってこなくなる可能性がでてきた、と。 具体的にはカリフラワーとかキャベツとか.. クリスマス直前にやめて、なのだがしょうがない。
例年であれば、パリに出て買い出しをしてくる予定だったのに神様ときたらなんでここまで... しかたがないので近所のフランス系のデリに行ってカリフラワーとジロール茸だけ買ってきた。
でもそんなことより、孤立して辛い思いをしている子供たちや家族に暖かいクリスマスを。 Brexitなんてどうでもいいから。
12.21.2020
[film] Small Axe: Alex Wheatle (2020)
13日、日曜日の晩、BBCのiPlayerで見ました。
Steve McQueenによるTVシリーズ”Small Axe”の4作め。 Alex Wheatle (1963-) は実在する英国のライター、小説家で、この”Small Axe”シリーズ全体のコンサルタントのような形でライターズ・ルームにずっといて、そのうち何で彼の話をテーマにしないんだ? すべきだろ? になってこのエピソードができた、と(脚本は別の人が書いている)。
Alex (Sheyi Cole)が刑務所に収監されるところが冒頭で、その部屋には年長のでっかいラスタファリアンのSimeon (Robbie Gee)がいて、ハンガーストライキをしているので胃腸の調子がよくないという彼はいつも便座に座ってでっかい音でおならばかりしていて部屋中すごい臭いで、Alexは空を見あげるのだが、その状態で回想されていく彼の幼少期からここまで。
幼少期の彼は孤児院にいておねしょばかりしていて、その後も里親を転々として、親からも施設からも見放されて散々に虐待されて、泣くことも叫ぶことも感情を爆発させることも許されず、おねしょしたシーツを口に突っこまれ、拘束衣でぐるぐる巻きにされ、ほぼ放心状態のまま死体のように地面に放置されている、そうやって失われた子供時代のこと。
学校を出てBrixton界隈で共同生活を始めて、Dennis (Jonathan Jules)と出会って友達になり、彼に髪型から服装から細かに指導を受けて少しづつ自分のスタイルとかアイデンティティを見つけていく。Dennisに紹介されてヤク(はっぱ)の売人になり、そこで得たお金でBrixtonのレゲエのレコード屋(ああタイムスリップしたい)で音楽を漁るようになり、サウンドシステムを手掛けて、自分でもトラックを作ったりして - この辺は、”Babylon” (1980)や”Small Axe: Lovers Rock”でも描かれていたあの時代の若者たちに起こった出来事が、そこに深く関わったひとりの若者の成長にとってどういう経験だったのかを示す。
やがて彼の音楽やダンスホールに対する熱と頻度を増してくる警察の横暴に対する不満がコミュニティ全体に広がって、81年のBrixton uprisingというプロテスト/暴動になだれこんで、彼は投獄されてまたひとり(& Simeon)になる。
で、その状態に置かれても拗ねてグチのようなことしか呟けないAlexに、Simeonは自分の本棚の本を読むように勧めて、「おまえのストーリーはなんだ?」と頻繁に問いかける。 自分はどこから来た何者なのか、なんでここにいるのか、なにをすべきなのか、どれはどうしてなのか、それを考えて伝えるための道具はなんなのか、などなど。 これらについて書いてみないか、と。
ここにはTVや新聞や雑誌では決して明らかにされてこなかったブラック・ブリテンの、移民のストーリーがあって、それは自分のこと、自分が辿ってきた道のことで、それは自分だけではなく、家族のこと、友人たちのことでもある。それが自分にできることであるのなら、はっきりと語られるべきなのではないかと。このように読んで書くことを通してAlex WheatleはAlex Wheatleになった。
ここまでの”Small Axe” 3作と比べると、エピソード(出来事)としてやや弱く見えるのは、実際のイベントや体験を直接描くというよりも、こんなふうにその最中にいる個人がどうやってそれを書いて伝えるのか、なぜそれをする必要があるのか、という点に的を絞って語ろうとしているから。それがなければ、このシリーズは単なる60-80年代の英国で起こった人種差別に根ざしたいろんな事件をドラマ化したもの、で終わっていただろうし、それはそのままSteve McQueenがこのシリーズを撮った動機にも繋がっている - ということで次に続く。
12.20.2020
[film] How Green Was My Valley (1941)
13日、日曜日の昼、BFI Southbankの一番でっかいスクリーンで見ました。問答無用の『わが谷は緑なりき』。
最後にこの作品をスクリーンで見たのは2011年のお正月、この年の最初の1本で、NYのWalter Reade Theaterだった。ほぼ10年ぶり。この時はUCLAがリストアしたばかりのぱりぱりの35mmフィルムで見て、ああこんなすごいものがあろうか、って打ちのめされた。 今回のはデジタル上映だったが、大画面で見たときの驚異は変わらない。
1942年のオスカーでは『市民ケーン』『マルタの鷹』『ヨーク軍曹』『断崖』なんかがノミネートされている中で作品賞を、Orson Welles、Howard Hawks、William Wylerらがノミネートされている中でJohn Fordは監督賞を、他に3部門でも受賞した。この並びを見てもとにかく、問答無用のやつで、まったく異議なし。これにならノーベル賞あげたっていい。なに部門になるか知らんが。
Richard Llewellynによる1939年の同名小説を原作に、生まれ育った南ウェールズの炭鉱町を去ろうとしている(そしてもう戻ることはないだろう、という)Huw Morganが自分の幼い頃を回想していくお話。
Huw (Roddy McDowall)が子供の頃、炭鉱で働く父のGwilym Morgan (Donald Crisp)と5人の兄達がその日の手当てを貰うと、みんなで歌を歌いながら家に帰ってきて、入り口で母のBeth (Sara Allgood)にお手当を渡して、男達はそれぞれ体を洗ってから食卓について、父は食事を取り分けてみんなに手当てを分け与えて、という昔の大家族の1日が描かれる。やがて長兄は村の娘と結婚して、その式で姉のAngharad (Maureen O'Hara)は若い牧師Gruffydd (Walter Pidgeon)にときめいたり。
そのうち炭鉱が賃金を下げてきたのでみんなでストをやろう、ってなるのだが父はひとり反対して家族に亀裂が走り、父ではあかんって、かあちゃんのBethが嵐の夜中に集会に出ていって男達を捨て身で説得して、その帰りにBethとHuwは冷たい川に落ちて、みんなに助けられるもののHuwは足が動かなくなってしまう。
足が動かなくなってベッドに寝たきりでしょんぼりになったHuwを明るい屋外に連れ出して、歩く訓練も含めていろんなことを教えてくれたのが牧師のGruffyddで、そんな彼を遠くから見つめるAngharadだったが、ある日炭鉱の偉い人が父のところにやってきて、彼女をうちの嫁にどうか、って言ってきて、相思相愛だったAngharadとGruffyddだったのに、いろんな人の幸せを考えると.. ってAngharadは結婚して遠くに行ってしまい、でもしばらくすると戻ってきたので離婚と、それと共にGruffyddとの仲が噂として立ち昇って、Gruffyddは町を出ていくことに…
学校に通い始めたHuwは先生も含めてみんなに虐められてぼろぼろにされて帰ってきて、そんな彼を見た父の取り巻きのボクサーとBarry Fitzgerald(さいこう)がHuwを鍛えて、みんなで学校に乗りこんでいって、ぼこぼこにして復讐したり、学業が優秀で大学までの奨学金を得るのだが、生活が苦しくなってきた父を助けるために進学を諦めて炭鉱で働き始めて、でも炭鉱仕事はきつくて、やがて事故で兄が亡くなって..
こんな具合に、一家の内と周りでこんなふうになってしまった、あんなことになってしまった、というのが続いて、それが家族の歴史を振り返るということなのだろうが、その最後には悲惨な炭鉱事故で父が死亡する、というのが起こる。でも、みんなどんなに世界中に散り散りになってもこの家は父と共にあって、その限りにおいて父は死ぬことができないのだ、って、家族がテーブルを囲む夕食時の絵が..
19世紀の南ウェールズの炭鉱夫の一家の、そこで育った子の回想とその独白が、なんでここまで強烈な普遍性でもって迫ってくるのか、それって、我が谷が緑だったからで、緑はそうやってどこまでも続いて枯れずに残っていくものだし、もちろん我が海が青いことだってあるし、としか言いようがないのと、どこを切ってもそのままスチールになる - カメラが登場した時代の写真のように深い陰影で刻まれた人々がこちらに向かって笑いながら手を振ってくるから、としか言いようがないの。
これがロンドンのTier2時代、最後に映画館で見た映画になってしまった。これが最後でよかったわ、って思った。
今年はこれを見て改めて懸案だった「ウェールズのクリスマス」(Dylan Thomas)を実現すべく準備を進めていたのだが、あそこもロックダウンでそれどころではなくなってしまった。そしてロンドンは明日の日曜日からTier4やるよ、って。 Tier4なんてあるのも聞いてなかったんですけど..?
今日は、週末だしHampton Court Palace(ヘンリー8世が好き放題やったとこ)に行って、帰りにLiberty(デパート)に寄った。どこもそこそこ賑わっていて、そんなふうに賑わっちゃいけなかったのよね、やっぱし。
12.19.2020
[film] Tale of Cinema (2005)
12日、土曜日の晩、MUBIで見ました。ホン・サンス特集が始まったらしい。
“Woman is The Future of Man” (2004)の次の作品で、原題は“극장전” - 翻訳にかけると『劇場前』、邦題は『映画館の恋』。
ぱっとしない学生風のサンウォン (Ki-woo Lee)が町を歩いていると眼鏡店の奥にかつての恋人ヨンシル (Ji-won Uhm)の姿を見つけて声を掛けて、久々なので会わないかって夜に会うことにして、サンウォンは演劇とかを見て時間を潰す。
久しぶりにヨンシルと会っていろいろ話していると溢れて止まらなくて帰り難くなって、そのまま夜の町を歩いてぼろい旅館のようなところに入ってセックスして、サンウォンがおれはもう死にたい、っていうとヨンシルも「あたしも!」って応えて、ふたりでなんの薬だかわからない錠剤(用意していたの?)をがぶ飲みして眠りについて、でも朝になったらヨンシルは目が覚めて、サンウォンは起きないのでそのまま病院に運ばれる。なんとか回復して退院したサンウォンは家族一同から散々になじられて(自殺未遂したのにひどい)、あーあ、ってビルの屋上に出たサンウォンが下界を眺めるので、飛び降りちゃうのかしら.. と見ていると素っ頓狂な音楽(いつものホン・サンスの)がぴらぴら流れてくるの。
場面が切り替わって、映画館で映画を見ているヒマそうでつまんなそうにしているドンス (Kim Sang-kyung)がいて、彼が映画館 - 壁にサンウォンのレトロスペクティブ(?)のポスターが貼ってある - の外に出ると、サンウォン(と同じ女性?)が歩いていて、ドンスは緩めにそうっとついていって、やあって挨拶して話しているのを見るとふたりは映画関係の知り合いらしい。
ふたりの会話からサンウォンは入院していて重体でよくないらしいことがわかるのだが、それって前のエピソードで彼がビルから飛び降りちゃったから? とか思って、でも更に話を聞いていくと前のエピソードはサンウォンが昔に作った映画そのもの – それをドンスが見ていた – という構成になっているらしいことを知る - だからあそこのヨンシルは若く見えたのか。
ドンスとヨンシルは向かい合って呑みながら、サンウォンがあんなふうに映画にした内容はかつてドンスがサンウォンに語った自分(ドンス)のお話しなのだ、それを勝手に映画にしやがって - というのがドンスの主張で、あの映画にあったようにふたりは旅館に入ってあの映画の劣悪なコピーみたいなセックスをして、でもその後でヨンシルはドンスに「あなたは映画のことがちっともわかっていない」といって出ていくの。
“Woman is The Future of Man”で描かれたふたりの男の記憶の中で再生されたひとりの女性との過去の色恋と現在の交錯が、ここではふたりの男とひとりの女とその間に置かれた一本の映画に変奏されていて、でもこんなもんが変奏されたからって、だからどうした? みたいなどこにも転がっていかないどうでもいい寸詰まりの話で、“Woman is The Future of Man”でもそうだったように、映画監督の男ってどこまでもしょうもない(の)?
サンウォンはドンスの話を映画にしたわけではないし、ヨンシルは映画の世界にいるわけではないし、映画はそうやって過去のなにかに/どこかに残っていくようなものではない。だからこの原題はその手前の『劇場前』なのだと思うし、”Tale of Cinema”は、”(This is Not a) Tale of Cinema”が正しいのだと思うし、邦題はいつものように道脇のドブに落ちていると思う。 ただ映画って、前後にそういうしょうもないなにかを呼び込みがちな - こんなふうにバカな男のファンタジーになってしまうようなもんなのかも。
最後に病院で峠を越えたらしいサンウォンが退院してどんな映画を撮ることになるのか、再会したドンスとぐだぐだ呑んで“Woman is The Future of Man”みたいなろくでもないことになることを期待してしまうわ。
クリスマス直前の週末だというのにこの盛り下がりっぷりときたらなんなのか。
12.18.2020
[film] The Shop Around the Corner (1940)
12日、土曜日の午後、BFI Southbankの一番でっかいスクリーンで見ました。ここ恒例のクリスマス映画特集から。
クリスマス映画はケーキと同じであれば食べるもの – やっていれば見るもので、TVだと”Love Actually” (2003)は流れていれば見るし、今年はなぜか”The Holiday” (2006)を割と頻繁にやっているのでこれも見るし、映画館だと”It's a Wonderful Life” (1946)と”Meet Me in St. Louis” (1944)は一年ごとに交替で見にいくかんじ。で、この『桃色の店』は映画館でやっていれば毎年でも必ず見る(ここでも既にいくつか書いている)。これをTVでリピートで放映してくれないかなー。
今年の初めにブダペストに行ったのも、この映画の舞台になった街(街角)がどんなところなのかを見たかったからなのだった。
街角にある革製品の店を経営するMatuschek (Frank Morgan)の元で働くAlfred (James Stewart)と5人の店員がいて、クリスマスを前にがんばって稼がなきゃ、になっているところにKlara (Margaret Sullavan)がこの店で働かせてくれ、と言ってきて、最初はごめん今はムリ、って断るのだがちゃっかり採用されたりしてまったくもう、で、Alfredはクリスマスに向けて文通相手との出会いがうまくいくかどうかで頭が塞がっていてそれどころじゃなくて、それはKlaraの方もまったく同様なのだった。そしてMatuschekは自分に隠れて妻がなにか怪しいことをやっているのではないか、でいらいらしてて、そのとばっちりがAlfredに飛んでくる。
慌しい仕事場で、慌しい年の瀬に、誰もが救いを求めている。これまでのルビッチもののようになにかミッションが動いていたりどこかで恋が勃発していたり、そういう状況下でコトの推移や転覆を見守るのではなく、誰もが同じ地面の上に立ってそこから浮かびあがったりつま先立ちしたり少しだけ幸せになったりすることを必要としていて、そこで人はどんなふうに人と出会って恋に落ちる(墜ちる)のか、をほんとに地面の上からドキュメントしようとする。決して形而上には向かわず、神も天使も出てこない - ここで起こるのはクリスマスの奇跡や恩寵ではなくて、どこでも(街角の小さな店でも)、誰にでも(経営者から小僧まで)起こりうることだ、っていうのがベースで。 これを最高のクリスマス映画だと思うのはそこなの。
ふたりの手紙のやりとりがあって、Alfredが突然解雇されて(↓)そこからカフェでの決定的な(でもおもしろい)すれ違いがあって(↓↓)Matuschekが自殺未遂をして(↓↓↓)、AlfredとMatuschekが和解して、Alfredが復帰して、クリスマスのセールがなんとかうまくいって、最後にお店に残ったAlfredとKlaraがツリーを挟んで向かいあう。 なーんにもなければ、ふたりの手紙のやりとりからカフェでの出会いから付きあって.. ってとんとんと進んでいったはず。 でもそうはならなかった。間にいろんなのが挟まって膨らんで錯綜して、これってどこから始まったのかというと、手紙の、郵便箱に封筒が入っていた、ふたりがその封筒を拾いあげたところからで、その等圧線の巡り合わせに神様みたいなものを見るのも見ないのもその人次第で、あとは師走ってそういう誤配みたいなのが嵐のように起こる季節なのよね、って。
これより後の時代の”You've Got Mail” (1998)だと、この辺のごちゃごちゃした配信を巡る混乱って電話回線を通ることで回避されて、このやりとりだけ物語として分離しちゃったのは少し残念かも、なのだが、最近のスマホの時代になると、端末にいろんなプロファイルが溢れてAIが勝手にオススメしてきたりするので、こんな物語はかえって作りやすいのかしら? でもそれを作るのはもはやヒトではない、と。
ルビッチの映画に出てくるDietrichともGarboともLombardとも全く異なる、場面によって少女のようにも老婆のようにも見えるMargaret Sullavanと、やはりルビッチの映画に出てくるギラギラ系男の湯気がでていないただの仕事人のようなJames Stewartの、いがみ合いから始まる出会いが、どう転がってあそこまでいくのか。
James Stewartのクリスマス映画って、”It's a Wonderful Life”もこれも、昨日Criterion Channelで見た”Bell, Book and Candle” (1958) - これもクリスマス映画 - も、彼はいっつもろくな目に合わされないふつーの男をやらされていて、でも最後にはなんとかなるからー。
今年のクリスマスはカフェも開いてないしお買い物も好きなようにできないし、数年後、この状態でなにがどうなることやら、の”Love Actually”みたいなクリスマス映画が作られることでしょう。 どうか、思い出したくもねえや、なやつにはなりませんように。
12.17.2020
[film] Sound of Metal (2019)
11日、金曜日の晩、MetrographのVirtualで見ました。
メタルをテーマにした音楽ドキュメンタリー、ではなかった。
監督は”Blue Valentine” (2010)や”The Place Beyond the Pines” (2012)のDerek Cianfranceの下で脚本を書いていたDarius Marderで、Derek Cianfranceは本作の原作としてクレジットされている。
Ruben (Riz Ahmed)は恋人のLou (Olivia Cooke)とふたりでBlackgammonていうパンク/メタルデュオでドラムスを叩いていて、RVで寝泊まりしながらツアーをこなしている。のだが、ある日突然Rubenの耳が聞こえなくなってきて、Louの動きを見ながらなんとか合わせることはできるものの、よくならないので薬局に行って医者を紹介してもらって診てもらうとこれからどんどん悪くなるので予断を許さない、人工内耳を入れればなんとかなるかも知れないが保険も効かない高価なものなので、当面は安静にしていること、と言われる。けどRubenはふん、てライブをやめない。
自分の生活のすべてだった音楽が、音の世界が失われてしまう - 生活もできなくなるしLouもそのうちいなくなってしまうかも知れない、という危機に直面してもお金を貯めて手術を受ければなんとか - そのためにもツアーを続けよう、というRubenにLouはだめだ、って返して、Joe (Paul Raci)という男がやっている聴覚障害者の施設に連れていって、こんなのやってられないと抜けたりの後に、とにかくいまはRubenがよくなるのが先だから、ってLouは彼を説得して、Rubenはひとり施設に入る。
施設に入っても基本の手話ができないわからないし、周りは子供たちばかりなので初めは不良で落ちこぼれの転校生みたいにふてくされて外に出てタバコとか吸ってばかりなのだが、毎朝早起きして紙になんでもいいから思っていることを書く、とか課せられたことをやっているうちに馴染んでいって、子供達に太鼓を教えたり、Joeからはこのまま施設に残ってくれないか、と言われるようになる。
でも、ソロになってパリでひとり機材をいじってライブをしているLouの動画を見て、自分にはやっぱり音楽しかないんだ、って思い直しRVに置いてあった機材とRVそのものを売ってお金を作って人工内耳のインプラント手術を受ける。インプラントがうまく動作するようになるまでの間、施設にいさせてくれないか、というRubenに、Joeはここは「ハンディキャップ」がある人のための施設ではないので悪いけどだめだ、と断る – ここはそういうことか、って考えさせられた。
手術から数週間後、インプラントのスイッチを入れる時がきて、Onにするのだが、ヒスノイズが混じったりバランスがおかしくなったり、チューブの中にいるような混沌とした聴界が現れて、期待していたほどではないのだが、これ以上はどうすることもできない。この状態でベルギーに滞在しているLouの実家を訪ねると、彼女の父のRichard(Mathieu Amalric - 突然でてきたのでびっくり)が迎えてくれて、裕福な彼女の実家でパーティに加わったりしたその晩、バンドの再開についての話をして…
ヤク中から回復したばかりで音楽とツアーが全てだと思っていた – 感覚と神経に依存して生きてきた男 - それを失った時に見せる戸惑い~怒り~怖れ~絶望~疲弊~孤独~手探り~手応え、などなどをRiz Ahmedは、ひょろ長い手足と狂信の何かを負った者、失うものが何もない者の目で、全身をフルに使って演じていてすばらしいったらない。一時期のRyan GoslingやBradley Cooperが、それより昔にはRobert De Niroがやったように危うい状態にある生を画面にそのまま曝けだしている。
全体のサウンドデザインが画期的で、Rubenの状態にはどう聞こえている/聞こえていないのかを発症時のもこもこ狭窄から施設での無音生活 ~ インプラント装着まで、生々しく再現していて、その有音・無音の錯綜した状態とRubenの感情がダイレクトに繋がっているさまがよくわかる。
そしてそんなRubenの軌跡と彼の頭になだれこんでくる音の世界が交わって反転するラストの一瞬がすばらしいったら。その瞬間の彼の表情を見てほしい。
もちろんトレーニングを受けたらしいRiz Ahmedさんの叩きっぷりもなかなか(予告をみて)。GISMやEinstürzende NeubautenのTシャツ着てたりとか(そんなふうな音?)。
話題になって、いま絶賛ストリーミング&上映中の”Mogul Mowgli” (2020)も見なきゃだし、1月にはBFIで彼の特集もあるし、彼の”Hamlet”も楽しみだし。
あんまりにもこの先の展望が暗くてひたすらつまんないので、とうとう”The Mandalorian”なんかを見始めてしまった。もともとまったくだめだったがもう相当だめになった(←自分が)気がしている。
12.16.2020
[film] Witness for the Prosecution (1957)
10日、木曜日の晩、BFI SouthbankのMarlene Dietrich特集で見ました。
上映前に流れるBFIの12月~1月の特集を纏めた予告でもこの映画の”Damn you! Damn you!”とChristineがWilfridの部屋から出ていくシーンがうまく使われていて、見なきゃな、になった。
アガサ・クリスティーの原作 - 『検察側の証人』(1925) は中学の頃に読んだ(内容はすっかりどこかに..)のだが映画は見ていなかった。だって邦題が『情婦』って、おかしくない?
映画は原作の短編をクリスティー自身が1953年に舞台用に脚色したものを監督を含む3人が映画用に書き直している。
1952年のロンドンで、法廷弁護士のSir Wilfrid Robarts (Charles Laughton)が退院して自分のオフィスに戻ってくる。付き添い看護婦のMiss Plimsoll (Elsa Lanchester)がやかましくて、そこに未亡人殺しの容疑をかけられた依頼人Leonard Vole (Tyrone Power)がやってきて、殺された未亡人とのいきさつ等を語り、とにかく自分はやっていない、と。
そのうち唯一の証人であるはずのLeonardの妻Christine (Marlene Dietrich)もWilfridのオフィスに現れるのだが、自分はLeonardとは正式に結婚していない - その前に結婚した夫は東の方に - とかおかしなことを言うので、彼女を証人として使うことは諦めて、やがてオールドベイリー(Mangrove Nineの裁判をやったところ)で審問が始まる。
Miss Plimsollがはらはらしながら見守る中、Wilfridはなんとかやっていくのだが、とにかく証拠も動機も決定的なのがなくて、そんな中、検察側が証人としてChristineを呼ぶと、彼女は被告のアリバイを否定する証言をするので、ああもうこれはだめかもになって..
映画の最後にも音声つきでこれから見る人のために結末は言わないでおくれ、って出るのでここまでしか書きませんけど、でもこれ、そんなに驚愕のどんでん返しかしらん?
被告は始めからなんとなく怪しいのだが、審理そのものはわかりやすくスムーズで、陪審員の判決も結果的にあれしかないようなところに落ちる。並行して、被害者の女性も、彼女の家政婦も、検察側の証人Christineも、すべての女性はとっても隙だらけで得体がしれない人々のように描かれ、傍聴席で見守るMiss Plimsollもやかましいばかりの女性としてコミカルに扱われて、要するに社会の隅っこに置かれたやや困った女性たちに囲まれている、これまたよれよれのWilfridが明らかにする真実 – それを法廷の場でみんなが見世物のように眺める、という構図がなんかあれで、あんま乗れない。本当に悪い奴が – ああいうどんでん返しでもなければ - きちんとした形で裁かれない、という社会に対する居心地の悪さ。Billy Wilderはそこまで狙っていたのだ、というのかも知れないけど、どうかしらー。
ここの登場人物たちと彼らを巡るストーリーのかんじって、この時代であればフィルム・ノワールで描かれてもおかしくないような暗く地を這うような内容のそれで(Wilfridは場末の探偵の役)、それをみんなが見ている明るい法廷でよってたかって裁いて騒いで叩いて、という場違い感、というのもある。
時代も設定もぜんぜん違うけど、これと少し似たかんじかも、と思ったのがこないだHBO (こっちではSKY)で見た”The Undoing”で、これはNYのアッパークラスの男性女性が、自分はやっていない、と言い張るHugh Grantの周り(含.法廷)に寄り集まって、そこでいろんな人々の目線と背景が交錯したり塗りつぶしたりされたりしていくドラマだった。ノワールとは真逆の、すべて漂白されたようなゴージャスなかんじが、これはこれでなかなか薄気味悪くて..
あと、Charles Laughtonて、自分にとっては“The Night of the Hunter” (1955)の監督だったので、このひとすごいなー、って。
終わったら拍手が起こった。やっぱし、よいお芝居を見せて貰いました、というかんじなのかしら。
Tier 3のロックダウンが始まったのだが、定義を見るとお店とかヘアドレッシングは”Stay Open”て書いてある。 つまり本屋レコ屋は開いてるってこと? でも映画館と美術館がさあー。
12.15.2020
[film] Falling (2020)
7日、月曜日の晩、BFI Playerで見ました。
既に劇場でもやっているViggo Mortensenが原作を書いて、プロデュースして、監督もして、出演して、スコアも書いている、そういう作品。
年老いたWillis (Lance Henriksen)と息子のJohn (Viggo Mortensen)が飛行機で移動しているところが冒頭。 Willisは夜の機内で、亡妻の名前を大声で叫んで暴れて、Johnがなんとか宥めて、このシーンでWillisには痴呆の症状が出ていて、その世話をするためにJohnは付き添っているのだな、ということがわかるのと、Willisの動きに連動しているのかいないのか、若い頃のWillis (Sverrir Gudnason)と妻のGwen (Hannah Gross)、幼い頃のJohnや妹のSarahの映像が流れてくる。これがWillisの頭にあるものなのかJohnのそれなのかは明示されないのだが、こういう形でどこかに失われつつある家族の記憶が並行して現れる。
冒頭の機内での挙動でわかるようにWillisはすぐに沸騰して激昂して抑えがきかなくなる性分で過去の映像では重なるDVでGwenは家を出て行ってその後に別の女性がきて、JohnもSarahも怯えて暮らしているきつい様子が描かれる。それはそのまま現在に繋がっていて、WillisはJohnの家に着くなり同性婚をしているJohnのパートナーでアジア系のEric (Terry Chen)に噛みついて、ナガサキには行ったのかと嫌味を言ったり、冷蔵庫に貼ってあるオバマに文句を言ったり、典型的な中西部のごりごり保守頑固じじいで、彼らの養子のMönicaが間に入ったときに少しおとなしくなるのと、何度も繰り返されているので周囲はもう慣れているふうで。
映画は病とやがて来る死を覚悟した父と息子が過去を旅しつつ少しづつ歩み寄るとか、あるいは最期になにかを受けとめて柔くなるとか、そういう定番のものではなくて、Willisは終わりまで自分がぜったい正しいと頑なに信じこんだクソ親父であることを止めない。彼の傍に付き添うJohnが、いつ黒手袋をはめて反撃に転じるのかはらはらするのだが、たまに言い返したりする程度でどこまでも従順に見守ったり看病したりしている。Willisに会いにきた妹のSarah (Laura Linney)も泣かされて、その息子も怒って向こうに行ってしまうのに彼だけは傍についていようとする。
父親が過去母親に対してしたこと、自分たちに対してしたことを赦すとか認めるとか、そういうことではなくて、思い出として出てくる場面も悔しかったり辛かったりすることばかりなのだが、今の自分を作ってきて、今の自分がここにいるのはそうやって溜まっていった何かが作用したからで、それは否定したところでどうなるものでもない。 という諦め、というほどネガティブでもなく全てを赦す、というほど能天気でもない、そういう状態で明らかに弱くなり支離滅裂になっていく父を見つめる、それ以外になにもすることができない息子、という図。
映画の最後にViggo Mortensenの兄弟に捧げられていることがわかるのだが、おそらく自分の、家族のために作られたとても個人的な映画のようで、編集とかもう少しがんばっても、とか思わないでもないのだが、どうしても彼はこれを作りたかったのだと思う。そういう熱がある。
まったく想像していなかったゲイカップルの片方 - 大きめのアクションといったらキスくらい、暴力一切なし - を演じたViggo Mortensenの深く、でも強い演技には痺れるのだが、それ以上にLance Henriksenの突然ブチ切れるくそじじいの不機嫌ときたらすごくて怖いったらない。
静かなエンディングの後に流れてくるSkating Pollyの“A Little Late”がよくて、なんか泣きそうになった。タイトルバックの壁紙模様と共に、とても優しい映画だと思った。 これ以外の劇中の音楽は監督自身の手によるシンプルなピアノ曲で、ギターを弾いているのはBucketheadさん。ふたりのレコーディング風景を見たい。
あと、医者の役でDavid Cronenbergが出てくる。じいさんを改造人間にでもしちゃうのかと思ったがそれはなかった。
ロンドンは水曜日からTier3の全面ロックダウンに入ることになってしまった。週末の街中の混みっぷりみたらそりゃそうよね、しかない(反省)。 水曜日はBFI IMAXで”Wonder Woman 1984”を見るはずだったのになー。 ちぇ。
12.14.2020
[film] With Drawn Arms (2020)
6日、日曜日の晩、MetrographのVirtualで見ました。 Tribeca映画祭でプレミアされたドキュメンタリー。
エグゼクティブ・プロデューサーにJohn LegendやNelson Georgeの名前がある。
1968年のメキシコ五輪の短距離走のメダル授与式の表彰台で、金と銅のふたりのアメリカ人選手 Tommie SmithとJohn Carlos - が国家斉唱の際に拳を突きあげて抗議のポーズをとった。誰もが写真は見たことがあるであろうあのポーズ - 近年のスポーツイベントでも同様の抗議を見ることが多くなったあれ - について監督のGlenn Kainoが当事者Tommie Smithにあれこれ聞いていく。 あれから50年が過ぎて、あの時なぜあんなことをしたのか? あの行動は彼と彼の世界になにをもたらしたのか? などなど。
65年にSelmaでのプロテストのマーチがあり、68年の4月にはMartin Luther King Jr.の暗殺があり、アフリカン・アメリカンの公民権運動が高まりを見せて、世界的にも学生を中心に同様の抗議活動が盛りあがり、そういう最中に開催された五輪は、初めて世界で同時TV中継されるイベントとなった。なにかを発信するのにこんな格好の絶好の機会があろうか、とそう考えてそれを実現してしまった彼ら、まずすごくないか?
とにかく彼らは、そういう状況を踏まえた上で競技に勝って、黒の手袋に黒の靴下とか、服装も含めて全てきちんと計画して表彰式に向かった、と。 今でこそ象徴的に取りあげられるそのポーズはポジティブなイメージで語られることが多いが、当時の映像音声を見ると相当なブーイングを聞くことができて、実際に彼らはあの後、陸上競技の世界からは追放され、Tommieはアメリカンフットボールをやったり、車のセールスマンをしたり、補助教員をしたり、あまりぱっとしない日々を送ることになった、と。
Tommieの証言だけではなく、当時現場から(ややネガティブなトーンの)中継をしたキャスターのBrent Musburgerのコメントがあり、まだ存命だったJohn Lewis氏が公民権運動の現場から当時の情勢を語り、現在のスポーツの世界で選手達はどう見ているのかをサッカーのMegan Rapinoeさん - かっこいい - らが語る。 50年、という年月のスパンで見た時、ここまで来たのか、と思うひともいるだろうし、BLMを見てもわかるように本質は何も変わっていないのではないか、と言う人もいるだろう。 そして、ここまで変わってきたのだから言い続けることは必要だ、になることもあるし、ここまでやっても変わらないのであればもう無理なのかも、となるのもわからないでもない。でもこれは差別と人権の問題なので異論反論で議論する話ではなく、辛い思いをする人がいなくなるまでやり続けるしかないことなのだと思う。
スポーツの世界に政治を持ち込むな、はこの当時からあって、いま大阪なおみさんを攻撃したがる人は50年遅れていると思うし、スポーツもアートもなんぼのもんじゃボケ、とこの角度から「問題」が立ちあがるたびにいっつも思う。そもそもオリンピックなんて中立公正からは程遠い金と政治と利権のしょうもない吹き溜まり以外のなにものでもないし、それを開催する連中の腐った欺瞞を突っついただけで、あの人たちってなんであんなに怒るんだろ? しかもやたら偉そうに。
映画の後半はTommieの思いを伝えるべく、彼の振り上げた腕をモチーフにしたアートを広めていく話で、ちょっとつまんなくなってしまうのだが(それをなんでつまんないと思ったのかについてはもう少し考えてみよう ← 自分)、前半だけでも十分。 スポーツと体育会が嫌いなすべての人に見てほしい。
一番最後に、IOCがオリンピックでのすべての政治活動を禁じることを決定しました、って字幕ででるので、画面に向かって中指を突き立てる。 オリンピックに公金を投じることを禁じる法案を誰か通して。
12.13.2020
[film] Ma Rainey’s Black Bottom (2020)
6日、日曜日の昼間、BFI Southbankで見ました。これは新作映画で、もうじきNetflixでもかかる。
原作はAugust Wilsonの1982年の同名戯曲で、Denzel Washingtonがプロデュースしていて - DenzelとViola Davisの”Fences” (2013)からのシリーズ - Chadwick Bosemanはこれが遺作となった。
創作戯曲だが、主人公のMa Rainey = Gertrude "Ma" Rainey (1886–1939)はジョージアに実在したブルースシンガーで、タイトルになっている曲は1927年に録音されたものが残っている。
1920年代のシカゴ、レコーディングスタジオにバンドマン5人が集まってくる。スタジオのオーナーもエンジニアも白人で、到着したバンドは穴倉のような地下の控え室に入れられて、荷を解いてリハーサルしながらご主人様であるMa Rainey (Viola Davis) の到着を待つ。 映画はそうやって始まったレコーディングの1日を追っていく。
バンドメンバーは年齢的には枯れて落ち着いた人が多く、Ma Raineyのバッキングも慣れているようなのだが、トランペットのLevee (Chadwick Boseman)だけは若くて新品の靴を自慢しながら俺は才能たっぷりなんだって彼女のレパートリー - 特にリードトラックの“Ma Rainey’s Black Bottom” - をもっと踊れるふうに自分がアレンジしたバージョンについて語り、スタジオ側の了解も取りつけるのだが、他のメンバーはそんなこと言ったって決めるのはMaだからな、って言ってる。
でっぷりしたボディで重そうにホテルから出てきたMaは、甥のSylvester (Dusan Brown)とお付きの女性Dussie Mae (Taylour Paige)を従えてようやくスタジオにやってくるのだが、その手前で車をぶつけて揉め事になったり、始まる前にはコーラが欲しい、ってゴネたり、安定不動の傲慢な女王さまで、スタジオ側の白人が何を言おうが屁とも思っていない - いやなら録るのやめて帰るよ、ってそれだけ。 その調子で曲のイントロのところで吃音症のSylvesterになんとしても喋らせるんだ、って聞かなくて、そのリテイクを数十回繰り返して - 当時はマシンからマスターレコード盤に直接刻むやり方なので何枚も無駄になって - スタジオ側は頭を抱えたり、それと同様にLeveeのバージョンも彼女は即座に却下して、それを受けたLeveeは…
Maがそういう態度のまま、何を言われても請われても動じないのは、彼女がそうやって生き残って来た、どれだけ汚く顰蹙をかったとしてもそれが唯一の生き残る方法であることを学んできたからで、それがわかってくると痛快だったりもするのだが、それは若いLeveeについても(古参のバンドメンバーについても)同様で、彼も彼なりに人種差別で苦しんできて、アレンジを学んでいつか自分のバンドでデビューすることを夢みて、ぴかぴかの新しい靴を買って、リハの合間にDussieにちょっかいを出して周囲をかき乱す - これもまた彼なりの戦い方で、それが自分のバージョンが退けられたことをきっかけに..
地上階にあるスタジオと地下のリハーサル階をいったりきたりする場面構成も - いかにも舞台劇のようでおもしろいのだが、ここの見ものはなんと言ってもViola DavisとChadwick Bosemanのいろんな次元での対立と激突で、マイクの前で仁王立ちのViola Davisのまわりをトランペットを抱えて落ち着きなく動きまわって喋りまくるChadwick Bosemanを見ていると、ほんとになんて惜しい人を.. しか出てこないわ。
“Ma Rainy’s Black Bottom”という歌は、Black Bottom Stompっていうみんな夢中になっている最新の踊りを見てきなよって言われて、気持ちよさそうだからやってみたいな、ってやってみたら上手にできたのであたしのもかっこいいから見てみてよ - でも粗っぽくなりすぎたらやばいな 〜 歌詞だけだとこんなかんじなのだが、”Bottom”は「お尻」なので2重3重の猥雑な意味もある。 こういう歌詞をもつこの歌を録音する現場で、なぜMaはSylvesterに喋らせることを譲らなかったのか、なぜLeveeは突然あんなこと(見ていた周囲の数名があっ、て声をだした)をしてしまったのか、とか。
音楽はBranford Marsalisで、バンドの音については分厚さもキレもうねりも申し分なくかっこいいのだが、これが当時鳴っていた音なのかというと.. どうなのかしら。隅々まできちんと再現する必要はないと思うけど、20年代のブルースって、ライブで聞くとあんなふうだったのかなあ?
ああ、John le Carré が…
[film] Dance, Girl, Dance (1940)
5日、土曜日の昼、BFI Southbank(映画館)で見ました。これは定期的にやっているClassicの枠から。
女性監督Dorothy Arznerによるバックステージもの。邦題は『恋に踊る』で劇場公開はされていないみたい?
編集にはこの作品の後に”Citizen Kane” (1941)を編集することになるまだ20代のRobert Wiseの名前がある。
オハイオのキャバレーのようなところで踊っていたBubbles (Lucille Ball)とJudy (Maureen O'Hara)は警察の摘発を受けたりしてて、やがて目立ちたがりでキラキラ系のBubblesと踊るのが大好きで真剣にバレエをやりたいと思っているJudyは一緒にNYに出てきて、Bubblesはバーレスクで成功して、バレエの先生について真面目に精進するJudyは推薦されてバレエ団のSteve Adams (Ralph Bellamy)のところに行く(その手前で先生は事故で..)ものの、そこのレベルの高さにびびって面接前に出てきてしまう。
Bailey Brothersのバーレスクショーで"Tiger Lily”の名で女王のようになっていた Bubblesは自分のステージにJudyを呼んで、それはお色気たっぷりのBubblesの踊りの後にクラシックバレーの恰好のJudyが出てきて古典的なのを舞って客席からブーを浴びる(客席は中年男ばかり)、っていうわかりやい演出のやつで、これが評判を呼んでオハイオで知り合った金持ちで妻もちのJimmy (Louis Hayward)とかJudyとはオフィスですれ違っていたSteveを巻きこんだぐるぐるの追っかけっこになる。そういうの重なっていいかげんぶちきれたJudyがステージ上から客達に向かってあんた達そんなふうに女性の体を見てよろこんで家に帰れば奥さんも娘とかもいるだろうに、ほんとにずっとそんなんでいいわけ? 恥ずかしくないの? って説教(まったくその通りでぜんぜん古くない)して、あたしのショーでなに勝手なことやってるんだ、って怒り狂ったBubbleと取っ組み合いの喧嘩になって夜間裁判所に引ったてられて..
ダンス一直線で自分の道を歩みたいJudyと、男に媚びて儲かるのならそれはそれで儲けもんて考えているBubblesと、妻との愛を見失って経済的に優位に立てそうな踊り子の方に寄っていくJimmyと、ダンスを職業として真剣に考えているSteveと、これら典型的な男女像をうまく四隅に配置して殴り合ったりの引っ張りあったりのがあって、それでも最後には娘たちよ、踊りなさい! あなたたちは美しいのだから!って言うの。
10月にCriterion ChannelのJoan Crawford特集で見た“Our Dancing Daughters” (1928)にしても”Dancing Lady” (1933)にしても、5月にここのFrances Marion特集で見た”Blondie of the Follies” (1932)なんかも、踊りを通してバックステージで張り合いつつのし上がる女性ふたりとか、彼女(たち)の踊りを見たお金持ちが囲いに寄ってきて、そこに愛欲の嵐が巻き起こって、というドラマは結構あったりするようなのだが、この映画はバレエそのものや踊り子を見世物とかはけ口のように扱いがちな社会や男たちに対するNo! としてはっきりと何かを言わんとしていて、素敵ったらない。 この時代の映画における黒人の描かれ方と同じように(当時の世界的な傾向なのだろうけど)女性の描き方についても、あるよね。
フェミニズムぽいことを直球で語るJudyと、その足を引っ張ろうとする女性のBubbles、ていう構図って今もある気がするのだが、Maureen O'HaraとLucille Ballのふたりの対照が見事で、どっちもそこに立っていた女性たち。 でもMaureen O'Haraさんにあんなこと言われたらもう黙るしかない。
12.12.2020
[film] Angel (1937)
3日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
2回めのロックダウンが明けて – いや、明けたわけではなくて、ロンドンはTier2っていう依然として要警戒区域にあるので緩んではだめよ - 最初に見た1本。 新作で見たいやつはストリーミングで見てしまっているので、やっぱりクラシックとか、恒例のクリスマス映画とかが中心になる。ここ半年以上、ずーっと在宅で、でも今の在宅って夏頃にやっていたそれとはぜんぜん違って、窓の向こうは朝からずっと霧か雨で暗くて日の入りは15:50くらいの冬至まっしぐらの冬篭り前だから暗くて怖いのはあんまし見たくないわ、にどうしてもなりがち。
こういうなか、BFIが12月の特集としてやっているひとつが”Marlene Dietrich: Falling in love again”で、これまであまりきちんと見てこなかったのもあるのでこの機会に見てみよう、と。
監督はErnst Lubitschで、ああこんなときはLubitschに浸かるくらいに見たいなーって。
第二次大戦の前、きな臭くなってきたパリにMaria (Marlene Dietrich)が降りたって、別の名前でホテルにチェックインして、なにをしているんだろうなー のロシアのGrand Duchess (Laura Hope Crews)がやっているサロンに行くと、そこを訪れていたAnthony - Tony Halton (Melvyn Douglas)とぶつかって、食事して音楽を聴いて互いにうっとりして、でも深入りしたらやばい、とMariaは自分の名前を明かさず”Angel”とだけ告げて、夜の公園でふわっと消えてしまう。
Mariaの夫のSir Frederick Barker (Herbert Marshall)はジュネーブでの国際会議を成功させて英国に戻ってきて妻のMariaと久しぶりに会うのだが、Mariaはなんとなくぼんやりどんよりしていて、そのうちFrederickが競馬場で再会した旧友のTonyを家に連れてくる。
パリで一晩だけど穴の開くほど情熱的に見つめ合ったふたりなので、MariaとTonyは互いにすぐこいつだ! ってわかるのだが、夫に内緒でパリに行っていたMariaも彼女が親友の妻であることを知ってしまったTonyも、顔見知りであることは勿論、恋におちてしまったことを知られてはまずいし、MariaとFrederickの夫婦間の溝みたいなのもTonyに対してはやはり同様に隠されなければならないし(これでTonyとFrederickとの関係にも看過できないなにかがあったらおもしろいのに)。
「わたしが知っていることを知らないのはあなただけよ」という笑顔の裏側でエロとか策謀にまみれたあれこれが勝手に転がったり転がされたりしていって気がつけば「あなたが知らないと思っていることはみんなとっくに知っているのよ」になっていたりする、そんな無知の連鎖状態が起動しようとする悲劇を紙一重のところで喜劇とハッピーエンディングの方にぱたんとひっくりかえす、その鮮やかな魔法とその魔法を魔法たらしめる倫理的なタガみたいの、が自分にとっての「ルビッチ・タッチ」で、この映画でのそれは頻繁に現れるドア – FrederickのうちのとGrand Duchessのところにいっぱい出てくる - なの。その開閉とその向こうにいる誰かが世界をひっくり返す。
もういっこ、どこまでも表情を崩さない”Dietrichの顔そのものもドアになっていて、あのエンディングの後、またドアがバタバタするのではないか - 今度は観音開きで - などと想像することも楽しい。そうなるのは、有能そうだけど何かが決定的に欠けていそうなHerbert Marshallと、情熱たっぷりだけど実はナルシストなだけっぽいMelvyn Douglasとのトライアングルがすばらしいから。
Mariaの役を”Ninotchka” (1939)のGreta Garboや“To Be or Not to Be” (1942)のCarole Lombardがやったらどうなったか.. 少し考えたけど、やっぱりここはMarleneなの、かなあ。
今日からTVで”Little Woman” (2019)のリピートが始まって、先週からの”Emma.”と合わせて当面はたまんない状態が続きそう。
12.11.2020
[film] Woman is The Future of Man (2004)
2日、水曜日の晩、MetrographのVirtualで見ました。
原題は”여자는 남자의 미래다”、邦題は『女は男の未来だ』。この『未来だ』という言い切りが誰によるものなのか – 元はアラゴンの詩らしいけど - 少し気になるホン・サンスの初期作品。
雪が散る寒そうな日、大学の美術講師をしているムノ(Yoo Ji-Tae)の一軒家に旧友で今は映画監督をしているホンジュン(Kim Tae-Woo)が訪ねてきて、久しぶり、とか立派な家に住んでいるねえ、とか再会を(ちっとも熱烈ではないものの)歓んで、そのまま向かい合っての呑みに入る。ホン・サンス映画ではもはやおなじみの光景。
テーブルでひとりになると窓の向こうの通りに立っている女性が気になったり、給仕の女性がかわいいので映画に出てみないか(全く同様にムノの場合は絵のモデルにならないか)と誘ってみたり、要はどちらも再会した旧友のことよりも女性のことしか頭にないらしく、そういえば、とそれぞれにかつて付き合っていたソナ(Hyun-Ah Sung)のことを思いだす。まだ若いころ、学校の先輩に強引に誘われてレイプされたというソナの体を洗ってあげてから穢れを落としてやる(?)ってそのままセックスする(?)ホンジュンとか、米国に旅立つホンジュンを空港でべたべた見送るソナとムノとか、ホンジュンがいなくなったので美術室でソナにアプローチして怒られるムノとか、それから暫く経って、知り合いの結婚式で再会したソナとムノがその翌日にセックスしたり、ふたりの中年男が向き合って、それぞれの頭に去来するひとりの女性 - ソナ - のことを思い浮かべた後、彼女はいまどこそこのホテルでバーを経営しているらしいので会いにいかないか、というので行ってみようか、となる。(全体として、なんだこいつら... )
こうして再会した3人は待ち合せ場所からソナの部屋に移動してぐだぐだと朝まで..
映画のなかのお話しだし魅力もオーラもちっともなさそうな中年男たちがなにを考えようが思い出そうがどう行動しようがほんとどうでもいいのだが、リアリティみたいなところは置いておいて、ここまで後ろ向きでしょうもない話をよく画面にのっけたなあ、というのと、なんでこんなのをおもしろく見てしまうのだろうか、というのと。では、これが殺人鬼とか悪徳政治家の内面とか挙動だとして、そっちの方がおもしろく見えてしまうことがあるのだとしたらそれはどういう理由によるものなのだろうか、とか。
あるいは、思いつきにしても絵葉書にあった「女は男の未来」なんて交通標語みたいのをタイトルにしてしまうのだとしたら、それはこれこれこういうことがあったりするからなのだよ、ということを説明するためにこの映画は組み立てられたのか、とか? ...
そんなに日々切羽詰まっているわけでもない、ものすごい大志に燃えているわけでもない、雪の日にわざわざ学生時代の友人に会いにいってしまう程度にヒマな中年男の行動原理を科学する - 小説でもなければたぶん誰もやりたがらないような領域に手を出してみるとこんなふうになる、とか。
あるいは、新しい出会いには気後れする年頃になった中年男がかつて付き合ったことがある(セックスしたことがある)女性と再会して付き合いを再開することは難しいけどセックスすることくらいできはしないだろうかと勝手に妄想して実行しようとするお話とか。ここにでてくるセックスシーンの、テーブルで向かい合って食事しているのと同じような、まるで動物の交尾のような素っ気なさを見てほしい。見るほどのもんでもないよ、という撮り方をしていないか。
なんにしても彼ら中年男性はこんなようなことを思ってそのまま行動してしまうのだ恥も外聞もなく、ということを即物的に、そこらの犬猫でも撮るように撮ってしまう。エピソードの前後や人物の置き方は近年の作品と比べると結構粗くて適当に並べてみた、な投げやりなかんじもある。 で、ホン・サンスが女性を撮る場合はこれとははっきりと異なる不透明さが前に出てきて、その非対称性もまたメッセージになっていて - 例えば「女は男の未来だ」とか - それはよいことなのではないかしら。
12.10.2020
[film] Museum Hours (2012)
11月29日、日曜日の昼、Criterion Channelで見ました。11月末で見れなくなるリストからの1本。
監督のJem Cohenの名前は、Fugaziのドキュメンタリー”Instrument” (1999)やR.E.M.のPVなど、音楽を聴いてきた人にとっては馴染みだし、NYのIFC Center(映画館)では、本編が始まる前に彼の短編ドキュメンタリーをよく流したりしていたので、見なきゃ、ってなったのだが、こんな作品だとは思ってもみなかった(よい意味で)。 エグゼクティブプロデューサーにはGuy PicciottoとPatti Smithの名前がある。
ウィーンの美術史美術館の展示室の警備員(展示時間中に部屋の隅に座っているひと)をしているJohann (Robert Sommer)がいて、彼の仕事をしている様子と語り口があまりに自然なかんじなので最初はドキュメンタリーかな、とか思うのだが、そうではないことがだんだんわかってくる(この焦点がずれたり寄ったりしつつ合わさっていくかんじがよいの)。
登場人物のもうひとり、Anne (Mary Margaret O'Hara)は従姉妹が昏睡状態になったという連絡を受けてオーストリアにやってきたのだが、土地勘もないしずっと病院で看病していても容態は変わらないしすることもないので美術館でぼーっとしているところを気にしたJohannが声をかける。
彼女の事情を聞いたJohannはいつでも入れるパスを用意してあげて(いいなー)、Anneには自分の空き時間を使って館内を案内したり一緒に展示してある絵について説明したり美術館にやってくる人達を見たり彼らについて話したりする – これが”Museum Hours”。
この他にJohannが病院とドイツ語で直接話してくれたり、ふたりでご飯を一緒に食べたり病院にお見舞いに行ったりウィーンを散策したり、それぞれの身の上や過去について話したりもするのだが、そこから恋愛関係になっていったりすることはなくて、あくまで美術館での出会いの延長でしかない、その互いから見た静かな距離感がとてもよいの。
例えばこれが病院の待合室だったら、図書館だったら、映画館だったら同じことは起こっただろうか? 起こらない気がする。美術館て、絵を見ることを目的とした場所、ではあるのだが絵を見る態度もルートも厳格に決められているわけではない(日本の行列は、明らかに歪んでいると思うけど)。専門の研究者もふつうに絵が好きなひとも授業で連れてこられた興味ない子も、いろんな人が、それぞれの立場から絵を – ある人は真剣にある人はてきとーに - 見る。そしてそこには描かれた時間も場所も文脈もぜんぶ異なるいろんな絵が(いちおう並べられているけど)ひと部屋に偶然のように吹き溜まっている。はっきりと特定の絵に向き合うために来た人を除けば、それは歴史のいろんな断面がさらされた遺跡を雑多な人々が散策している、そんな場所ではなかろうか – それってウィーンという街、そこにある美術史美術館では特に。
絵を見つめるひとりひとりの頭にいろんなことが浮かんでは消える。これなんだろ? これなら自分でも描けるかも、これ、へたくそかも、なんでこんな顔? なんで裸? なんでこの動物? などなど。そしてガイドの人がブリューゲルの前で語るオーデンの詩のこと - "Musée des Beaux Arts" - 思いがけない角度から割り込んでくる新しい知識の悦び、あるいは当惑、そんな偶然も渦を巻く。
そんな場所だから決定的な(作品との)出会いをすることもあるし、そこまで行かなくても大好きな場所になることもあるし、たぶんもう来ないけど記念にスタンプ押しておくか、だけになることもある。
美術館というのはそういう特性をもった場所である、というのと、でもそれでも、このふたりが出会ってぎこちなく近寄っていったのにはなにかしらの必然があるような気がしてならなくて、そういうのがふたりでお見舞いにいったとき、Anneが伴奏もなしで静かに歌を歌うシーンに滲んでくる。ハードコアの人なのでわざとらしい演出は一切なく、ただそれが起こっただけのようにぼそぼそと描かれるだけなの。
Mary Margaret O'Haraさんの静かな歌は最後にも流れるのだが、やっぱり時間なのだな、って。ふたりが一緒にいた時間、絵がそこにあって、並んでなにかを見つめていた時間。 オンラインだとこうはいかないかも。
ウィーン、また行きたいなー。
1月のBFIの特集 - “Bowie”の内容が発表になった。 狙うのはTVプログラムかな。
https://whatson.bfi.org.uk/Online/default.asp?BOparam::WScontent::loadArticle::permalink=davidbowie&BOparam::WScontent::loadArticle::context_id=&utm_medium=email&utm_campaign=20201130-members-Jan-programme-announcement&utm_content=20201130-members-Jan-programme-announcement+CID_831040360167a4c046726c71d00d00d1&utm_source=cm%20membership&utm_term=here&utm_medium=email&utm_campaign=20201209-champions-members-jan-programme-announcement&utm_content=20201209-champions-members-jan-programme-announcement+CID_831040360167a4c046726c71d00d00d1&utm_source=cm%20membership&utm_term=here
12.09.2020
[film] Small Axe: Red, White and Blue (2020)
12月1日、木曜日の晩、BBC iPlayerで見ました。
Steve McQueenによるSmall Axeシリーズの3つめ。これも実在の人物をモデルにした本当のお話し。タイトルは英国国旗の3色を示す、日本ならRed and White ?
主人公が子供の頃、父親のKenneth Logan (Steve Toussaint)が明らかに差別的な職務質問を受けた後に故意に暴行されて大怪我をする現場を見たりしている。時代は70年代後半~80年代初、大きくなった彼 - Leroy Logan (John Boyega)は大学で科学捜査の博士号を取得しているのに突然警官になる試験を受ける、というので家族も父親は激怒してありえん、と背中を見せる。妊娠している妻も不安げだし、親しかった友人も離れていく。
ポリスアカデミーの試験では学力も体力も申し分なく、面接では君のような優秀な学生がなぜ? と聞かれたりする。彼は何度かネガティブな勢力と闘うこと、ブリッジとなって警察を内側から変えたいのだ、ということを言うのだが、実際に警官として配属されてみるとそこは差別と偏見まみれの地獄で、無視されるロッカーに落書きされる同じカラードの同僚は折れているし、現場に出てみれば黒人からは裏切り者のように見られるし言われるし、囚われた黒人容疑者への容赦ない暴行に対してもどうすることもできない – その容疑者がカメラを通してLeroyを見つめる目の強さ。がんばればがんばるほど同僚からは距離を置かれて孤立する。そのくせダイバーシティの象徴のように警官募集のポスターに起用されたりする(どっかの国みたいね)。
映画は家族からもコミュニティからも弾きだされてほぼひとりで奮闘し葛藤する彼の孤独と対話するかのように向き合い続ける。この点は”Mangrove”とは対照的で、”Mangrove”がコミュニティが団結して警察の暴力と闘う話だったのに対し、これはたったひとりで警察内の暴力や差別や偏見と闘う。裁判のようなリングも具体的なケースも味方になる弁護人も相談できる身内もいない。こんな状態でどっちを向いてなにができるのか - - “Red, White and Blue” ?。
そういう最中、Leroyがパトロール中に不審な影を目撃したのでバックアップを呼んで、そいつを工場の奥の方にひとりで追って暴行されてでも反撃してなんとか捕まえて、というシーンの迫力ときたらすさまじいのだが、それ以上にバックアップを呼んだのに何もしないまま談話室で笑っていた同僚たちに対して爆発する怒りがまたすごい。訴えられた彼らの顔から笑みは消えるのだが、でもおまえの話を聞くつもりはない、そういう顔になる。
この後、追いうちをかけるように、自分だけに昇進がないことを知らされたら.. ? 自分がLeroyだったらこの後どうするだろうか? 映画はここで終わって、答えは示されず、我々の足下に投げられる。これがほんの40年前の警察の内部で起こっていたことなのだ、と。 (事実としてはこの後、Leroyは辞めずに留まって、99年にNational Black Police Association (NBPA)を設立する)
Leroyの立場に置かれたとき、Leroyのようにひとり立ち尽くしている人を見たとき、あなたはどちら側に立ってどう動くのか、ということを問われているの。ここまで来てもなお、うちの国に差別はないから、とか能天気に言うのか - 言うんだろうな、あの警官たちのように。
とにかく主演のJohn Boyegaの抑制と爆発を小刻みに繰り返す演技がすばらしく、ここに貫かれてある怒りについては、誰もがそのまま彼がほんの数か月前に行ったBLMのデモでのスピーチを思いだすに違いない。あそこで彼は涙でぐしゃぐしゃになりながら心の底から怒っていた。放映前のBBCでのインタビューでもそこを指摘されると、照れ臭そうにしていたので、本当だったのだろうし、この映画で描かれた内容とBLMが訴えていることの根っこにギャップを見いだすことは難しい(残念なことに)。
音楽は、ルーツレゲエが流れる”Mangrove”とは異なって、Al Greenの“How Can You Mend a Broken Heart?”や“For The Good Times”が絶妙のタイミングで降り注ぐ。このテーマでAl Greenだよ、すごい! あと、Marvin Gayeが流れてきた白人の同僚の部屋でこれいいよねー、と言ったら無視される、というちょっと辛いエピソードも。
“The Undoing”を見終えたので、”Dash & Lily”っていうのを見始めた。Two Boots(ピザ屋)が出てくるのがうれしい。NYのピザ食べたい。
12.08.2020
[film] Small Axe: Mangrove (2020)
11月30日、水曜日の晩、BBC iPlayerで見ました。
Steve McQueenによるTVシリーズ – “Small Axe”、BBC Oneでの放映は11月15日の日曜日の晩から始まって、1週間に1本のペースで、次の”Lovers Rock” → 3本めの“Red, White and Blue” → 4本目の“Alex Wheatle” ← これがこないだの日曜日 – まで来ている。最初の3本はNew York Film Festivalでプレミアされて、自分もLondon Film Festivalで”Lovers Rock”を見た。このままシアターで上映されてもちっともおかしくない圧倒的なクオリティの作品群なのだが、Steve McQueenが語っているように、これはなんとしてもTVで放映されなければならない内容である。イギリスに移民として渡ってきた黒人たちが60年代~80年代に経験した出来事、これが現在のイギリスのベースとなっている – ここからどこに向かうにせよ。 そしてこれはドキュメンタリーを通して学ぶというより、物語としてひとりひとりの記憶に刻まれる必要があったなにかなのだと思う。
“Mangrove”で描かれている事件については、最初のロックダウン明けの9月にBFIの特集 – “Redefining Rebellion”で37分のドキュメンタリー – “Mangrove Nine” (1973)を見ていて、概要は理解していたつもりだった。でもこうしてドラマになったものを見るとその熱は全く異なっている。それは捏造とかいう類のものではなくて、事件の当事者だった年長者の語ることを次に伝えていく - 社会を維持するために必要なことで、我々が広島や長崎や水俣について継いでいかなければいけないのと同じ使命なのだと思う。なかったことにしていいとか見たくないから見ないとか妙な圧が蠢いている今だからこそ、起こったことについて、彼らがあげた声の強さについて、リスペクトをもって受けとめること。同じ悲劇を繰り返さないために。
68年、Notting HillにFrank Crichlow (Shaun Parkes)が食堂 & フリースペースとしてThe Mangroveをオープンするところから始まって、それは地元のブラックコミュニティにとってはよいことだし、みんなでわいわい寛いでいると、警察が突然強制捜査 – という名の荒らし - でなだれこんできて客や従業員に乱暴をしたり脅したりする。でも捜査結果はいつもなにも出ないし問題ないし。急襲の他にも警察による周辺住民への嫌がらせや虐めは日常茶飯事になっていて、それらを間近で見ていたBlack Pantherの活動家Altheia Jones-LeCointe (Letitia Wright)らは、みんなでデモをしよう! って、デモで絶対にやってはいけないこととかを予習して戦略たてて、デモの日がやってくる。
のだが、実際のデモが始まるとやはり警察の干渉と当たりは想定を越えてすごくてひどくて、もう耐えられなくなって少し反撃したらそうらきたって決壊してなだれこんできて一網打尽にされる。こないだの”Lovers Rock”でも見られた至近距離をすり抜けるように動いていくカメラがすばらしい動きを見せて、鼓膜すれすれを耳障りに不機嫌に鳴り続けるMica Leviの音がものすごい。怖い。
こうして警察に対する傷害・共謀の容疑で逮捕された9人 – Mangrove Nineが法廷でどう戦ったのか、を描くのが後半。彼らが送られた裁判所は傷害等の刑事事件を主に扱うところで、人種差別をネタに闘うのは難しいし、裁判長は高齢の引退前のじじいで難物で、そういう事情を踏まえて弁護人のIan Macdonald (Jack Lowden)は攻め筋の戦略をたてて、いくつかは失敗したり退けられたりするものの、腰を据えて警察側の証言や証拠の矛盾や嘘を突いて、それが過度な偏見や差別意識によるものであることを暴いて、だんだんに距離を縮めていくところは手に汗をにぎる。
最後のDarcus Howe (Malachi Kirby)の(ほぼ)演説なんて力こぶ鳥肌もんで、こうしてこの判例は人種的憎悪に動機づけられた行動を司法的に認めた最初のケースとなった、と。
法廷ドラマとしては、やはりこないだの”The Trial of the Chicago 7” (2020)と比べてしまうのだが、オーケストレーションはあっちのが豪華で見事に見える。けど、こっちはキックとスネアの一撃であれこれすべてをぱーん、って一掃してしまう、そういう痛快さと爽快感があるの。
メガネで悶え苦しむJack Lowdenがよくて、メガネのBen Whishaw並みに劇物(ひとによっては)かも。
Letitia Wrightさんはちょっと残念なことになってしまったが、この映画の演技を見ると彼女は本当に真剣にこれらの歴史のことを考えている、ということがわかる。再起してほしい。
[film] Mank (2020)
4日、金曜日の晩、CurzonのSOHO(映画館)の大きいスクリーンで見ました。客は10人くらい(みんなロックダウン明けで飲み屋の方に行っているらしい)。
Herman J. Mankiewicz (1897 - 1953)がOrson Wellesの”Citizen Kane” (1941)の脚本を書いていた時のことを監督David Fincherが亡父Jack Fincherの遺した脚本をベースに作ったフィクション。
登場する人物たちは30-40年代のハリウッドに実在した人々なのだが、Mank (Gary Oldman)が口述筆記させている紙束には”Citizen Kane”ではなく” American”とあるし、事実に基づいたものではない。というところでPauline Kaelの”Rising Kane” - ”Citizen Kane”を書いたのは誰なのか論争もあるし、このドラマのモデルとされているWilliam Randolph Hearstとの異同もあるだろうし、事実に近いような近くないようなフィクション(or フェイク)の幾重にも束ねられた織物として見る楽しさがある。でもそれは失われてしまったオールド・ハリウッドを慈しんで懐かしがるようなものではなくて、昔からあそこはこんなにも糞プレイスだったんだよ、あー気色わる、っていうやつで、父子Fincherは、なぜMankはあの時代にああいうドラマを叩きつけなければならなかったのか、をこまこまと積んで追っているように見える。
自動車事故にあって寝たきりでベッドに縛り付けられたMankがOrson Welles (Tom Burke)から依頼を受けて、スタジオの差し金(お酒差し入れ付き)として監視役のJohn Houseman (Sam Troughton)や筆記担当のRita (Lily Collins)と看護担当の女性が傍にくっついて書き始めるのだが、うなされながら彼の回想は新聞社主William Randolph Hearst (Charles Dance)とか彼の若い愛人Marion Davies (Amanda Seyfried)とかMGMのボスLouis B. Mayer (Arliss Howard)とか若きプロデューサーIrving Thalberg (Ferdinand Kingsley)とかの、(彼からすれば)どいつもこいつも怪物とか妖怪みたいにかんじ悪い連中のあいだを行ったり来たりする。その極みとして描かれるのがカリフォルニア州知事選で社会主義のUpton Sinclairが共和党候補に敗れた事件で、Mankはその裏で共和党側への世論誘導のために映像が操作されていることを知ってしまう – 更にその結果を受けて人が死ぬ。
映画は実際の映画制作に入る手前で - 脚本家にMankの名前を入れることを向こうが合意するところで終わって、実際に彼の”American”がどう現場で捏ねられて”Citizen Kane”になったのかは触れられない。あと、Mankのフラッシュバックの順番と出来事が完成された映画のどこにどうはめられているのか、もう誰かやっていそうだけど追ってみたらおもしろいのかもしれない。
20世紀に入って映画が産業として立ちあがると、それは前世紀からあった作家とかアーティストの孤独な営為とは異なる何かで、受け手の側も従来の読者や鑑賞者とは別の所謂「大衆」として括られる人々を相手にすることになる - 新聞と同じように - ということが見えてくる。それがそれなりの規模をもつ産業として成立した所以でもあるのだが、こうした「産業」が必然的に担うことになる自身の維持と保身が力を持った政治的な動勢と繋がっていくこともこれまた必然で… そういう事象と、その力を当然のように行使してしまう権力者=金持ち共を見てしまう、と…
ていう映画産業の成立とひとりの映画作家の確執を描くのにDavid Fincherは当時の意匠を細部に至るまでデジタル(RED Monstrochrome 8Kだって)で再現・再構築して複数の時間軸を行き来する旅(含.悪夢)として展開してみせる。ここのクリアに曇ったデジタルの画面上に広がる悪夢のように気持ちわるいあれこれって、本当にあの当時のものなのか、語られないもやもやした部分も含めると今の時代のそれとしか思えない – という錯視を狙ったとか。
こんなふうなおおよその建てつけを理解した上で、それでもこのお話をおもしろいと思うか/思えるか、ということ。昔の映画っておもしろいかも、ってコメディばかり見始めた頃に『市民ケーン』を見て、この気色悪いかんじってなんなのか、これがなんで映画史上のベストに選ばれ続けているのか、ちっともわからなかったことを思い出した。映画にはこういう暗さも必要なのだ、とわかるにはもう少し時間が必要だったのだが、この映画もそんなふうに作用してくれたりすればー。
実在の人物をモデルにしている、という点だとDavid Fincher には“The Social Network” (2010)があって、あれは得体の知れない状態からSocialな何かを築いて大金持ちになったMark Zuckerbergという人物の像をいくつかの事実をベースにくみあげていったもので、あそこで描かれたMark Zuckerbergのどす黒い部分って最近ますますあのゲス野郎そのままだったな(くそったれ)、と思わざるを得ないのだが、ここではMankの遺したスクリプトからMankの像と当時のSocialのありようを – なんで彼はそれを書こうと思ったのかも含めて – を再構成しているような。
そしてFincher父子がいまなぜそれを映画にしようと思ったのか? おそらくメガ(ギガ?)産業となってしまった映画がネットとTVの爆発的な拡大に伴う転換期 – 30~40年代と同程度のインパクトをもった - にあることを認識していたから。スタジオはストリーミングを中心としたデジタル・コンテンツ産業に組み入れられて、映画は手元の端末で好きな時間にいくらでも再生できるようになって、コロナがこの傾向を後押ししてしまった。 この作品だってNetflixの下で、監督自身がここと長期契約を結んでいるという事実。そして「コンテンツ」としての性格故にでてくるフェイクやバイアスの問題の気持ちわるさ。 Mankのようなおっさんひとりが酔っ払って呪詛の言葉を吐いてどうなるもんではなくなっている。
酔っ払いといえば、Gary Oldmanって”Darkest Hour” (2017)でもLily Jamesに筆記させていたのでなんかかんじわるいかも – これは勿論Gary Oldmanのせいではないのだが。文章くらい自分でタイプしなよ。 経団連のじじいかよ。
あと、昔の映画が好きなものとしては、少しだけ出てくるBen Hechtと一緒にMankが”The Front Page” (1931)や”It's a Wonderful World” (1939)を、Frances Marionと一緒に”Dinner at Eight” (1933)を、どんなふうに書いていったのか、とかを見たい知りたい。Gary Oldmanとは別のひとで。
Trent Reznor & Atticus Rossの音楽は当時のJazzをベースにしたビッグバンド編成のをふつうにしらっとやってて – それをチャレンジングだった、とかぬかしているのでかわいくない。たまに音の切り方とか隙間に彼らっぽいところを窺えないこともないけど。 エンドロールのふたつ目のシンプルなピアノ曲が“Still” (2002)みたいでよかった。 でも、できれば最後にめちゃくちゃダークでぐしゃぐしゃに壊れたインダストリアルで締めてほしかったかも。David Lynchとやった”Came Back Haunted”みたいなやつで。
“Mank2”は、あの後ハリウッドを干されたMankが探偵事務所を立ち上げて業界周辺の怪事件を解決していくお話。事務所のスタッフはRitaとかそのままで、きな臭い力仕事は戦地から戻ったRitaの旦那が担当して、John Housemanが依頼人を連れてくるの。Netflixでシリーズ化を希望。
12.07.2020
[film] Love & Anarchy (1973)
11月28日、土曜日の昼にアメリカのMUBIで見ました。
作・監督はイタリアの女性監督 - Lina Wertmüllerで、原題は”Film d'amore e d'anarchia, ovvero: stamattina alle 10, in via dei Fiori, nella nota casa di tolleranza…”と長くて、これを訳すと『愛とアナーキーについての映画:今朝10時、花街にある悪名高き寛容の家で…』みたいなかんじ? 日本では公開されていないのかしら。 73年のカンヌでGiancarlo Gianniniはベストアクターを受賞している。
第二次大戦前夜、イタリアの田舎で何かに追われているのか焦って逃げているおじさんがいて、しばらくすると彼は木の枝に引っ掛かって殺されていて、その姿を目撃したTunin (Giancarlo Giannini)は何かを決意して荷物を纏めて旅にでる。ローマに着いた彼はそのまま裏通りの家に入ると、そこは娼館で、昼過ぎまで開かないよ、と言われるのだが、そこにいたSalomè (Mariangela Melato)が彼のことを察して、彼は従兄弟だからいいの、と別室に連れこんで話しを始める。
彼はムッソリーニ暗殺を企むアナーキストの組織の一員で、田舎で彼の前任が殺されたので次は自分の番だ、ってミッションを遂行するためにローマにやってきた。決行は数日後で、彼を世話して協力するSalomèは、暗殺に失敗した恋人を目の前でなぶり殺しにされた過去を持つ。せっかくそういう場所にいるのだし、とふたりは関係を持ち、さらにそこにいたTripolina (Lina Polito)も入れてムッソリーニの秘密警察にいる男と4人で郊外にピクニックに行ったりして様子を探る。
いよいよ決行が目の前に見えてきたところで、コトに失敗したら確実に殺られてしまうだろうしリラックスしなければいけないし、とにかくもうこれで最後だからさ、とTuninとTripolinaはとても親密になるのだが、時間が近づけば近づくほど互いに離れ難くなって、決行は朝10:00だから翌朝は早く起きないと、とTuninは自分で目覚まし時計をかけて起こしてね、とTripolinaに頼んで眠りにつくのだが、彼女はえい、って目覚ましを切っちゃって、朝に念のため起こしに来たSalomèはなにやってんだよ!ってTripolina に突っかかるのだが、しょうがねえか.. になって、でもやがて目を覚ましたTuninもやっぱり激怒してパニック起こして…
アナーキストと娼館というのは昔からなんだか親和性の高い組織(or ヒト)と場所、というイメージがあって、なかでも特にコトを実行する大義を背負った男とそこに寄り添う薄幸の/宿命の女、とかいうの(ほぼ悲劇でおわる)って、日本でも明治大正昭和の頃から映画でも漫画でも割と好んで描かれてきたテーマだった気がする。 なんでだろうね? あんたみたいにすごいことはできないけど、せめて傍にいさせて - げろげろ - みたいな(オトコの側に都合よい)演歌的心象になじむとか?
でもこの映画は、Tuninが割とその辺にいそうな臆病で間の抜けたふつーの男っぽいのと、娼館にいる女性たちひとりひとりの立ち姿や勢いがすばらしくて、彼女たちの溢れかえる生のエネルギーがTuninを押し倒してムッソリーニがなんぼのもんじゃい、のやけくそになっていくところがおもしろい。最後が悲劇で終わるところは同じだったとしても..
ここで一番アナーキーなのは娼婦のみなさんで、結果的に彼女たちにやられてしまった感のある哀れTuninの使命とか愛とかなのだが、そんな豪快な彼女たちをもってしてもファシズムの台頭は止めることができなかった。 結局彼女たちを明日のない片隅に追いやっておいた社会の構造と経済の勝ち、なのかなあ.. とか。 でもそもそも、社会の歪みというか社会システムそのもののような娼館に身を寄せる「アナーキスト」というだけで既にだめなかんじがする。それはこの映画の欠点というものではなくて、原題で「愛とアナーキーについての映画」という形で宙吊りにしていることからもわざとなのよね。
はじめはフェリーニの『女の都』(1980) に対するカウンターかしら、とか思ったのだが、あっちの方がずっと後なのだった。 でもフェリーニ的な男女のありように抵抗しているかんじはあるような..
週末はほぼBFIにいて、たまにRough Tradeに行ったりピカデリーに行ったりハロッズに行ったりしたが、どこも人混みがすごくてこわかった。 来週はすこしじっとしていよう。映画次第だけど。
12.06.2020
[film] La fille inconnue (2016)
11月28日、土曜日の晩にMUBIで見ました。
作・監督共Jean-Pierre Dardenne & Luc Dardenneで、英語題は”The Unknown Girl”。 邦題は『午後8時の訪問者』。
Dr. Jenny Davin (Adèle Haenel) は労働者階級が多く暮らすエリアの診療所でがんばる優秀な医者で、より規模の大きい医院への異動が決まったばかりで、インターンのJulien (Olivier Bonnaud)と遅くまで残っていると午後8時過ぎにドアのブザーが鳴る。やる気を失っているかに見えるJulienへの教育もあるので、勤務時間を過ぎた場合は出てはいけない - どこかで止めないとなし崩しになっていくから - と教えてそれきりになるのだが、翌日警察が来て、ドアのカメラの映像を確認させてほしいという。昨晩この近辺で女性が殺されたので、カメラに被害者が映っている可能性があるから、と。 確認してみるとそれは間違いなく被害者で、なにかに追われて怯えている様子の若い女性がいて、Jennyはあの時自分がドアを開けて彼女を中に入れていたら彼女は殺されずに済んだのではないか、という思いに取り憑かれていく。
被害者の女性が身元も、名前すらも不明のまま葬られていることを知った彼女は、彼女への償いなのか救えなかったことへの罪の意識なのか - そこに医師としての職業意識もあったのか、自分の患者周辺を中心にたったひとりで聞き込み調査を始めていく。といっても女医としての知見を活かした特殊な推理をするわけではなく、手当たり次第に被害者の写真を見せてこの娘を知っているか、と聞き回っていくだけ。 やがて具合の悪い青年の往診をした際、写真を見せたら脈が早まったのであなた何か知っているでしょ? と問い詰めたり、それを通して改めて見えてくる近辺地域の貧困問題があり、少し近づいたと思ったら警察側からいまは麻薬捜査の重大な局面にあるから邪魔しないでほしい、と言われたり、先の青年の両親からはもう治療の担当から外れてほしい、と言われたり。
あともういっこ、最初の方で描かれるJennyとインターンのJulienとの話しもある。医者になるのを諦めようとしているのJulienとJennyは衝突するのだが、その件もJennyはなんとかしないと、ってとにかく彼と話をして説得しようとする。
事件の謎を追う犯罪推理ドラマに力点を置くのか、正義感の強い女医の不屈の行動を描きたかったのか、その辺がややぼやけてしまったのは残念かも。 おそらく『サンドラの週末』(2014)のMarion Cotillardのような、ひとりで切り開いていく女性の姿を描きたかったのだろうし、ここでのAdèle Haenelは十分にそれに応える強い演技をしていると思うのだが、やっぱりこれは警察の仕事だ、とどこかで彼女は気づくべきだったと思うし、その境界を越えて壊してしまうほどの狂った/狂っていく熱を感じること - 見る側が望んでいるのはそういうの - はできないままで。
ただ他方で、Dardenne兄弟がここ数作でずっと描こうとしてきた地域とかコミュニティ - 職場でも家族でも - の没落、というか、なるようにならずに機能不全を起こして端っこの人々が遺棄されてどうしようもなくなっている状態は、彼女の捜査を通してとてもよく見えてくる。そういう状態に対する優しく暖かい目線 - この状態を乗り越えるにはどうすべきなのか、問題提起のようなところも含めて - は一貫している。
日本でもようやく公開されてよかったね、の”Portrait of a Lady on Fire” (2019) - 『燃ゆる女の肖像』のAdèle Haenelさんが、あの映画と同じ青系の服を着たりしているのではっとするのだが、どちらも芯が強くて屈しない負けないキャラクターで、その熱のありようは果たしてこの作品の周囲を忘れて捜査に没入する女性の像にきちんとはまっているかどうか - 両方の作品を見て考えてみるのもよいかも。 もちろん、彼女がいま世界いちかっこいい女優であることは言うまでもないのだが。
今日からTVで”Emma.” (2020)のリピートが始まったよ。”The Queen's Gambit”の彼女と”The Crown”の彼が共演していて、いま一番視聴率を取れること間違いなし、本屋さんだって潤うに決まっているのに、なーんでにっぽんではやんないの? なんか圧力でもあるの?
12.05.2020
[film] Raising Victor Vargas (2002)
11月27日、金曜日の晩、MetrographのVirtualで見ました。
邦題は『ヴィクター・ヴァルガス』で、日本ではTV放映されただけ? すごくおもしろかった。
NYのローワーイーストに暮らす16歳のVictor (Victor Rasuk)は いっつも上半身裸でふらふらしてて女の子とつきあうことしか頭にない年頃で、冒頭でも上の階の娘を引っかけようとして、ほぼずっとソファでTVを見ている妹(ころころ)のVicki (Krystal Rodriguez)にからかわれたりしている。もうひとり弟のNino (Silvestre Rasuk)もいて、彼らを束ねて面倒を見ているのがドミニカからの移民のおばあちゃん - Grandma (Altagracia Guzman)で、敬虔なクリスチャンでがみがみやかましくて、Victorが家に持ち込んでくる不道徳な匂いには敏感になって弟妹への悪い影響を懸念している。
ある日Victorはプールで運命の女性としか思えないJudy (Judy Marte)を見かけて、彼女の横にいたメガネ女子のMelonie (Melonie Diaz)も含めて友達のHarold (Kevin Rivera)と一緒にアプローチをかけてみるが、あっという間に犬みたいに追い払われて、でも負けずに妹のVickiとつき合いたいと寄ってきたJudyの弟を操って彼女に呆れられながらも犬みたいに付きまとうようになる。
どこにでもありそうなティーンのラブコメなのだが、Victorって、ほんとにいつでもどこでも女の子といちゃつくことしか頭にないっていうのと、どれだけ怒られても引っ掻かれても嫌われても懲りずに何度でも明るく立ち向かうラテン系 – ていうと偏見入っちゃうかな – の胆力というか腰の強さにはしみじみ感心する。生まれ変わったらああなりたい。まじで。
そしてそんな彼の眼前に立ちはだかる小さなGrandmaの激渋のおっかなさ(イメージは”The Blues Brothers” (1980)に出てきた教会のおばあちゃんね)。彼女のでっかい愛と辛抱強さを以てしても盛った犬になっているVictorは止められないのかー、という日々の攻防がおもしろくておかしくていくらでも見ていられる。
VictorとJudyの関係はめげないVictorの攻めとにじり寄りがじわじわと効いてきたのか、いがみ合いつつもしぶしぶ近寄っていくJudy – そのふたりの並ぶ絵がよくて、その裏でMelonieとHaroldの方は割とうまくいってて、MelonieはHaroldに言われてメガネを外して髪をおろしらた素敵によいかんじになって、でもMelonieはJudyにそのことを言わない。季節は夏で、みんな近所をふらふらして出会ったりぶつかったりのやりとりが眩しい。海がなくてプールだけど夏ってあんなふうだったはず。
そんな眩しさも玄関のドア(開閉する時の冴えない音とかもよい)の向こう側にいるGrandmaや弟妹のいるアパートに入ると少し空気がどんよりに変わり、特にVictorが入っていくとGrandmaのテンションも途端にあがって(Victorのは下がって)、そのうちGrandmaがNinoのことで激昂してVictorを児童相談所みたいなところに連れていく騒ぎが起こったり、VictorがJudyを家に連れてきて一緒にGrandmaのバーガーを食べることになったり、いろんなことが起こる。
この世界にロメールの喜劇と格言をはめようとしたら100個くらい出てきそうなのだが、ロメールやホン・サンス映画のような突っこみどころは余りない(のはなんでだろ? みんなあまり恋に一途で迷ったり悩だりしないから?)。そこはほんとに瑞々しい夏の若者たちの、あるいはおばあちゃんを中心とした家族のドラマになっていて、いいなーがんばれー、って見てしまうの。
とにかく真ん中のVictor RasukとJudy Marteのふたりがたまんなくよいの。
BBC Fourで”Kate Bush at the BBC 1979”ていうのをやっていたのでぼーっと見ていたら、Peter Gabrielが出てきてピアノに向かって”Here Comes the Flood”を歌い出したのでびっくりした金曜の晩。
12.04.2020
[film] Nénette et Boni (1996)
11月23日、月曜日の晩、Criterion ChannelでやっていたClaire Denis選集から見ました。
邦題は『ネネットとボニ』。Tindersticksのサントラ盤 - ウサギさんジャケット – は持っているのだが映画の方は見ていなかった。
冒頭、いくらでも使えるという魔法のテレホンカードを口上つきで路上で売っている – けど誰も相手にしない。労働者がいっぱいいる地域でBoni (Grégoire Colin)はピザの屋台をしながら仲間とだらだら暮らしていて、パン屋の女房(Valeria Bruni Tedeschi)とのやらしいあれこれを妄想しながら、屋根の上のノラ猫には敵意むきだしで、でも白いウサギを飼ってかわいがっている。
そんな彼のところに寄宿学校を放り出された妹のNénette (Alice Houri)が転がり込んできて、聞けば妊娠しているというし、いちいち彼のユートピアをかき乱しにくるのでえらく険悪になるのだが、放り出すわけにもいかないし、中絶したいという彼女を見ていると - 自分でも戸惑いつつ - そりゃ違うだろ、になってきて、どうなっちゃうのか。
家族から切り離されて、社会からも端っこの方 – “Les Misérables” (2019)や"La Haine" (1995)の舞台になっていそうな – でその日を過ごし、Boniは夢と理想で肉体を磨きあげてサバイブしようとして、Nénetteは逆に自分に絡みついてくるすべてを振り払って削ぎ落として向こう側に突き抜けようとしている。それぞれで目指すところがまったく噛みあわないのでどうしようもない。ここは自分の住処なんだから従え言うこと聞け、というBoniと来たくて居たくてここにいるわけじゃねーわ、とノラの毛を逆立てて荒れるNénetteと。
で、中絶クリニックに行ったNénetteは3ヶ月だと思っていたのが実は5ヶ月になっているからもう手遅れ、と言われてそんなはずは、ってBoniに一緒に来て貰ってもやはりだめで、それなら産まれてすぐに里子に出すしかない("Juno" (2007)方式)とか、更には自殺未遂するところまで行ってしまう。
他方で憧れのパン屋の女房にお茶に誘われて一瞬ときめいたBoniはここでも自分の理想をがらがらと崩されてー。
家族ドラマというよりは、ふつうにイメージされる家族のありようを端から悉く壊していって、ついでに「父親」もどこかで殺してしまって、その先のさら地でなんとか生まれて目の前に現れたNénetteの子供をBoniは..
社会からはじかれたふたりの兄妹が辿る路を闇とか藪のなかを突っついた後にがんじがらめに絡め取られてしまう悲劇として描くのではなく、出来合いの希望とか奇跡の物語に落着させることもせず、滑らかに水面を漂ったり流されたりしていく2匹の模様ちがいの金魚の冒険のように描いている。
それにしても、Claire Denisの男性の肉に対するフェティシズムが割とはみ出すように出ている、というあたりも。 筋肉ぶりぶりというのではなく、つるっとしたその表面から窺えるぴっちりした肌色の皮を纏っているような感触、その皮の外側を弾いたり伝ったりする水滴とかたまに血潮とか、その内側で沸きあがったり溢れようとする何かとか。この傾向は次の長編 - “Beau travail” (1999) 〜 更に ”Trouble Every Day” (2001)でもぶち上げられていく。
その皮膚にしっとりと触れたり撫でたりしてくるTindersticksの音。こういうの、ぜんぶ美意識みたいな話なのかも知れないが、その感覚を通して目の前に広がってくるClaire Denisの世界は、そこにどんな人物のどんなお話が展開されているものであっても、気持ち悪かったりどす黒かったり近かったり遠かったり、とにかく問答無用でそこにあるので、いつもその世界をまるごと経験したかんじになる。
今日から再びBFI Southbankが開いたので、早速行った。まずはErnst Lubitschの”Angel” (1937)を一番でっかいスクリーンで。何回も見ているけど、いいの。1月の特集は”BOWIE” だって。
Southbankの川べりでは寒いのにみんながんがん立ち飲みしてて通れなくてどいてどいてってやっていたら向こうからマラソン軍団がどかどかきたのでいい加減にしてよ! って。ちっとも収束してないんだよ!
12.03.2020
[film] Asia (2020)
11月25日、金曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
これが長編デビューとなるRuthy Pribar監督によるイスラエル映画で、今年のトライベッカ映画祭では、監督賞であるNora Ephron Prizeの他にShira Haasさんがインターナショナル部門で最優秀女優を、更には撮影賞も受賞している。
タイトルはアジア(地域)のことではなく、主人公の女性の名前「アーシア」のことなの。
イスラエルに暮らす30代半ばのAsia (Alena Yiv)はロシアからの移民で、病院でナースをしながら自分が若い頃に生んだ10代の娘Vika (Shira Haas)とふたりでアパートに暮らしている。
Asiaは仕事の後にバーのカウンターで隣になった男と話したり踊ったり、勤務先の医師と彼の車の中でやったり、少しぎすぎすして疲れていて、アパートの冷蔵庫も不機嫌なノイズを出してばかりなので都度溜息をついてひっぱたいて黙らせる。 Vikaも楽しい日々を送っているようには見えなくて、仲間がスケボーをやっている公園に行ってタバコを吸ったりぼーっとしたり、誘ってきた男子をアパートに連れこんで酒呑んだりしているのだが、たまに気を失ったりぐったりしたり、母の勤める病院のERに運ばれてなにやってるのあんたは、になったり。
そんな二人だからそんなに仲がよい母娘とは言えなくて見えなくて、母はあたしにはまだやりたいことがあるし恋だってしたいんだから手間かけさせないで、だし、娘は構いたくないんなら寄ってこないでひとりで好きにするから、だし、この辺は割とふつうかも、と思っていると、頻繁に倒れるようになって病院の精密検査を受けたVikaは筋肉が動かなくなっていく病気にかかっていて、しかも急速に悪化しているようだ、と。
はじめはこの状態がふたりを更に険悪にする。ずっと自由を求めてきたVikaは思うように動いてくれない自分の身体に苛立って荒れるばかりだし、Asiaはこの状態をどう受け止めてよいのかわからない – なんで世話をしているのに怒られてばかりなのか、とか。映画の後半はふたりがつんけん喧嘩したり衝突しながら歩み寄っていく様子がゆっくり描かれて悪くないの。 難病モノにありがちな絆や関係性を自明の、当然のものとしていないところとか。 そのうちAsiaは同じ職場にいる若いナースのGabi (Tamir Mula)に空き時間にVikaの相手をしてやってくれないかと頼んで、よい若者のGabiはいいよ、って車椅子のVikaを外に連れていったりするようになって、それまで男子と親密になったことがなかったVikaは緩み始めて、ふたりはだんだん仲良くなっていく。
こんなふうにふたりが寄っていくかんじ - 母娘というよりふたりの女性が(病気という悲しいきっかけはあるにせよ)手探りで自分たち(Asiaの内にあるVika、Vikaの内にあるAsia)を発見していく過程がいろんな場面を通して細やかに描かれていて、とてもよい女性映画だと思った。 ただ一点、AsiaがGabiにあるお願いをして、そこからのVikaとGabiのエピソードについては賛否あるかもしれない。ああいうことってあるのだろうか、これがなくてもストーリーは運んでいけたのではないか、とか。
というのと、そうはいっても生活のために続けなければいけない日々の仕事も横にはあって、その辺のどんよりとした現実感も描かれていて、ラストがどうなるかは書きませんけど、ああー、って。
ここでのふたりの決定が、ふたりのどちらの or あいだの何を元に為されたのか - 正解なんてないのだが - 考えてみること。
あと、これが母娘ではなく、恋愛関係にある男女 or 女女だったらどうなっただろうか? とか。
朝から政府がワクチンを承認しました、世界で最初です、もうじき来ます、というのと、ロックダウンが明けてお店が開きました、というのをお祭りのようにずーっとニュースで流している。 ほんとうに必要としている人が大勢いることは確かなのでよいことなのだが、これで大丈夫だーってみんな走っていかないようにしないと。 注射うけた人はなにしてもいいとか勘違いしないでね。
12.01.2020
[film] Zappa (2020)
11月18日、金曜日の晩、DOC NYCで見ました。このフェスで見た最後の1本。
タイトルの通り、Frank Zappaのドキュメンタリーで、監督は“Bill & Ted”のBill役 - Alex Winterさん。クラウドファンディングで最初の30日間に8000人の支援者と$1,200,000の制作資金を集めた、と。
冒頭にローレルキャニオンにあるZappaの旧邸 – 未亡人Gailの死後Lady Gagaが買ったって – にある、資料庫の様子が映し出される。この場所にカメラが入ったのは初めてだそうで、ずらっと並べられたその背表紙を眺めただけでもとんでもないのがぞろぞろ出てきそうな予感。
それから91年のプラハ - Velvet Revolutionでロシアからの支配を振りきったチェコの人々に熱狂的に迎えられてパフォーマンスに向かうZappaの姿を。これが記録に残る彼の最後のライブの姿だという。
膨大なアーカイブを掘って書誌学的にZappaの業績を振り返っていく、というのは当然あるのだが、でもバンドリーダーであり変態ギタリストであり現代音楽の作曲家でありジャケットアートではダダに近いところで暴れまくったアーティストであり、とにかくいろんな側面がある中で、ここでは体制や既存概念に抵抗する – 徹底的にこき下ろして笑い倒す - 革命家、として描こうとしているのではないか、というのが冒頭のプラハのシーン。
Edgar Vareseで音楽の面白さに目覚めて高校でDon Van Vliet - 後のCaptain Beefheart - と出会ってブルースを知り、音楽の世界に足を踏み入れて、The Mothers of Inventionのギタリストからリーダーにのし上がって、各地で当時の常識をぶちこわすライブの伝説をいっぱい作って.. この辺はファンであればふつうに知っていることだろうが、うううってなるのは、アーカイブから出てきたであろう当時のライブ映像がほんの少しづつしか紹介されないことか。そのうち干し草のようにどかどか投下されることを望む。
後半は毒舌お下劣破天荒な破壊者 ~ 活動家 - レーガン時代、Tipper Goreが進めた歌詞検閲スキームに対する抵抗とか - としての側面と、独自に複雑な進化を遂げていった音楽 - 破産してインディになってから最大のヒットとなった“Valley Girl”とかも - の両面を掘っていく。音楽の方のコメンテイターとしてSteve Vai, Ruth Underwood, Ian Underwood, Scott Thunesなど、映像では大量のバンドメンバーの中からTerry Bozzio, Patrick O'Hearn, Jean-Luc Ponty, Adrian Belewなどの姿がちらちら、他流試合ではZubin Mehtaとの共演やSNLでのJohn Belushiとの絡みまで。
暴れん坊外伝よりもどうしても音楽の方に耳が向いてしまうのはこっちの問題だと思うのだが、超複雑曲と言われる"The Black Page"をRuth Underwoodさんのピアノともう一人のドラムスだけで再現して、Ruthさんが、ほら、ほんとはこんなにも美しいのよ – っていう辺りがものすごくおもしろかった。Zappaの音楽家としての作家性って、どんなふうに語ったりできるものなのかしら? 時代で切るのか器楽構成なのか演奏様式なのか歌詞なのか、とか。
そこから広がって、Zappaの広範な活動を60年代以降のアメリカ文化のどこにどう位置付けるのか、ってこれからのテーマ(or もうある?)になると思うのだが、個人的には周囲(含. 自分)をぶっ壊して笑いを取りながら地平線の彼方に消えていく広義のコミック/コメディの域にあって、その極めてアメリカ的で大雑把(.. 使いたくなかった)なノリと突き放して叩きのめすユーモアは英国のMonty Pythonの対にあたるのかしら、とか。
そうやって彼がぶちかましたネタの中にはセクシズムや差別ネタも当然あり、すげーおもしれー、だけはすまされない、この辺の批判も含めた振り返りが求められる季節なのでは。(Monty Pythonもまったく同様) それって、Zappaの音楽を難しい顔して囲い込みたがるマニアのおじさん達から解き放つよいきっかけにもなると思うの。
NYに渡ったばかりの頃 – 93年の春くらいだったか、Beacon TheaterでZappa Bandのライブがあって、その時まだZappaは存命だったのでみんなで西海岸の方にエールを送ろう!ってわーわーやったのを思いだした。Zappaなしでも彼の音楽は十分こんがらがってわけわかんなくて、でも美しかったこと。
Zappaの迷宮 – というよりブリューゲルの絵みたいに楽しい雑多で多様な世界への入門編としてとてもよい映画だと思った。
そして、当面のあいだ見なかったことにしようとしていた”Zappa in New York”の40th Anniversary Deluxe Editionをどうすべきか問題が再浮上している。クリスマスの月だし..
“The Crown”のシーズン4を見終えてしまったので、”The Undoing”っていうのを見始めた。 Paddingtonの悪役ふたりが組んで本格的なクマ退治に乗り出すやつ、って聞いていたのになんかちがって暗い...
11.30.2020
[film] Born to Be (2019)
22日、日曜日の晩、Film ForumのVirtualで見ました。ドキュメンタリー。
NY、マンハッタンの北の方にある病院Mount Sinai Hospitalで2016年に設営されたMount Sinai Center for Transgender Medicine and Surgeryにやってくる患者たちと医師Dr. Jess Tingの奮闘を描く。
NYはトランスジェンダーの手術やケアに保険適用をできるようにした9番目の州で、それに伴いMount Sinaiは専用のセンターを立ちあげて、それまで形成外科の医師だったDr. Jess Tingは新たな領域に挑戦すべくここの最初の専任としてやってきた。
性同一性障害のことは、10月に見た仏のドキュメンタリー”Petite Fille” (2020) – 英語題”Little Girl” で7歳の少女(と家族)の生々しく痛ましい苦悶の記録を見たし、自身の生まれてきた性をもう一方のに替えるというのが本人はもちろん周囲の家族も含めてどれくらい大変なことか、それなりに理解しているつもりだった。でも、このドキュメンタリーで実際に5人のケースを見てみると、まだ自分はぜんぜんわかっていなかったかも、と改めて思った。
年齢も性別も境遇もそれぞれ異なる患者の人達に共通しているのは、とにかくこの手術をずっと切望していた、自分が生まれてからここに来るまでにどれだけ理不尽に悩み苦しめられ自殺を考え(実行し)、闇と絶望の生きていない状態の中にあったか、それをいよいよ終わらせることができる、どんなにこの日を待ったことか(ああ神さま)、と誰もが強く語り、施術前に家族やパートナーとお祈りの涙を流し、終わるとそれが歓喜の涙に変わる。その様子 – 人が医学の力で生き返る、再生する(Born to Be)その様を目の前で見るって - 難病とか重大事故のは別として – そんなにあることではないかも。
それを可能にするDr. Jess Tingがなんかよい人で、超絶技巧をもつカリスマ医師、みたいな雰囲気はぜんぜんない、朴訥なおじさんふうで、本当はジュリアード音楽院からコントラバス奏者になるつもりだったところから転向したというキャリアも含めて、患者や医療チームとのやりとりがとても素敵で。
でもそんな彼の治療と施術を求めて今は2年超えの待ち行列ができていて、スタッフの数も倍に増やしているのだが追いつかないって。ここだけの現象かも知れないけど、これだけの人々が待っている = 苦しんでいる、という事実は知っておいた方がよい。見た目の外見では決して判断されないが故の苦しみ、を想い測るのは難しい。本人や家族や社会の努力でどうにかできる部分もあるが、やはりそれだけではぜんぜん足らないのだと。
ここに登場する5人の患者は境遇もいろいろで、50歳を超えるアフリカン・アメリカンの男性→女性になるCashmereさんは街角に立つSex Workerだった過去を振り返りつつみんな死んでしまった.. と言うし、同様に男性のトップモデルだったMahoganyさんは女性になることを決意した途端にすべてのキャリアと収入を失ってしまった、と言うし、暖かい家族に支援されて転換後に白人女性のモデルとして活躍を始めたGarnetさんは、女性になった途端に思いもしなかった方角から覆い被さってきた社会のいろんな壁や圧に耐えられなくなって自殺未遂を図ってしまうし、トランスジェンダーに関しては過去の陰惨な歴史も含めて継続的な議論と確認と救済が必要で、それは彼らというより我々 – 健常者と呼ばれる – の側のことなのだ、って。少なくともトランスもゲイも見えないもの(or お笑い見世物)としてごまかして存在しないものにしてしまうような社会にするのは止めないと。(→J. K. Rowling、ほんとがっかりだわ)
あと、Dr. Jess Tingがずっと取り組んでいるvaginoplastiesやphalloplastiesについて(まずは辞書をひいてね)も紹介されて、言葉では説明されるのだがここの映像には出てこないので想像するしかない。でも患者みんながわーお! とか言ってびっくりして笑ったりしているのでどんななのかなあ、って。
で、そういうのも含めて勇敢に戦っている彼らを見るのって悪くないの。
あと、こんなふうに性別の属性を変える重さ大変さと比べたら結婚後の姓を変えずにそのままにしておくことなんて、屁でもないだろうに。ここに拘る連中の不気味さ(拠って立つところの不明瞭な気持ち悪さ)ってほんとなんなのかしら?
11月があー。 もうなにもかもどうしようもないけど、一応いっておく。
[film] 山中傳奇 (1979)
21日、土曜日の昼、米国のMUBIで見ました。192分。英語題は”Legend of the Mountain”。
“A Touch of Zen” (1971) - 『俠女』のKing Hu(胡金銓)が台湾で撮った作品。
11世紀、宋の時代。学僧のHo (Shih Chun)は科挙に落ちてお金もなくなったので、不思議な力を持つとされる経典の写経の依頼を受けることにして、それを仕上げる場所として山奥にある軍人のMr. Tsui (Tung Lam)のお城を訪ねる。着くなり宴席でもてなされてMr. Tsuiはお付きの家政婦としてMadam Chuang (Shu Tien)とその娘だというCloud (Sylvia Chang)を紹介されて、酔っ払って落ちて翌朝目が覚めるとCloudが側にいて、昨晩あなたはわたしにあんなことをした上に結婚すると誓ったではないか、とかいうのであんま覚えがないけど結婚することにする。
そのうちどこから怪しげなラマ僧 (Ming-Tsai Wu)が現れると突然Cloudとどんどこ太鼓合戦を仕掛けてきてラマ僧は退散して、なんだろうなと思っていると今度はMelody (Hsu Feng)という別の娘が現れてHoを守りますとか言って、Cloudと戦いを繰り広げて、そこに再びラマ僧も加わって天地が裂けんばかりのやかましいバトルが。彼らはHoが持ってきて写経をしているお経を巡って戦っているらしい。
かつての戦国時代の抗争で殺されて悪霊になった者たちが不思議の経典のパワーを求めて争奪戦をする、というお話で、進んでいくうちに善玉悪玉が変幻自在にころころひっくり返るのでおもしろいのだが、Hoが居眠りしたり酔っ払ったりしないで真面目にとっとと写経していればあそこまでの大騒ぎにはならなかったのに、って鈍い主人公にちょっといらいらした。彼を最初に殺しちゃえばそれで済んでしまったのではないか、とか。 その反対側で悪霊になってしまった人たちの因果というのは、ちょっとかわいそうで、彼らはあの後どこに行ったのだろうね。
派手なカンフーの組み手はあまりなくて、メインの戦いがどんどこ太鼓合戦なのは面白くて、その勝ち負けを決めるのはアタックなのかピッチなのか手数なのか音量なのか、風神雷神の対決みたいなやつなのかしら、とか。
なんだか『聊斎志異』に出てくる話のようだった。
空山靈雨 (1979)
22日、日曜日の昼、Film ForumのVirtualで見ました。英語題は”Raining in the Mountain”。120分。
これもKing Huの、↑と同様1979年に撮っているMountainもので、演じる俳優さんも結構重なっている。撮ったのはこちらの方が先みたい。タイトルに”Raining”ってあるけど、雨が降るシーンはないの。
明の時代の中国、お金持ちのWen (Sun Yueh)とその妻White Fox (Hsu Feng) とGold Lock (Ming-Tsai Wu) の変なトリオが山奥にあるでっかい僧院を訪ねて、院に着くなりWhite FoxとGold Lockのふたりは服を着替えて寺の宝物殿にあるお経を盗もうとしていて、寺の僧のなかにはそれを手引きする奴がいて、今度は別の男二人組が現れて、あれは盗賊として名高いWhite Foxだ、と騒ぐのだが、どうやら彼らも同じお経を盗もうとしているらしい。
それと並行して、高齢のため引退する僧院の大僧正の後継を誰にするのかを3人の候補の中から選んでいく話しに、盗人(でも無実の罪)としてそこに連れてこられた実直で誠実なChiu Ming (Lin Tung)の目覚めと成長の話しが進んでいく。 つまりは絶対権力の座とその鍵となる法典を狙うものたちの腹黒だったり高潔だったりする駆け引きと、継承後の僧院の運営みたいなところまで、それらを通して、人の、法の道とは、というのを仏教的に説いているみたいなかんじ。「雨」はこれらが等しく降り注ぐイメージかしら?
話しとしては人物がいろいろ絡み合って乱高下するし、説話ぽいところもあって↑の『山中傳奇』よりはおもしろいく現代に通じるところもあると思うのだが、アクションは最後の追っかけっこで少し出てくるくらい。 この世の者ではない連中がひたすら人の世に干渉してくる『山中傳奇』に対して、この『空山靈雨』はどこまでもリアルに下界の話しで、その対照を狙った、ということはあるのだろうか。
あと、ただのコピー(写経)を巡ってあれだけの人々が大騒ぎしたその中味についてはどちらもまったく触れられていない。どんなありがたいことが書かれていたのか誰かまとめサイトで公開(→ 大喜利 → 天罰)してほしい。
11.29.2020
[film] Le rayon vert (1986)
19日、木曜日の晩、MUBIで見ました。
インターナショナルの英語題は”The Green Ray”、USAのタイトルは”Summer” - 「四季の物語」のラインではない - 邦題は『緑の光線』。86年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子を受賞している。
なんとなく見始めて続いていたÉric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの5つめで、ここに感想を書くのはこれがラスト。
日本の女性誌とかでは『海辺のポーリーヌ』とこれが対で紹介されることが多かった気がして、これって夏でヴァケーションの海辺で恋を探す - そうしながら自分はこれでいいのかとか自問する映画、という枠なのだろうか。でもそれなら男子にだって起こることだし、なんでいっつも女性の特性みたいに - 特に「OLの〜」 とか - 描かれてしまうのか、というのは割と思った。
今回の箴言はランボーの"Ah! que le temps vienne où les cœurs s'éprennent" - 「ああ心が恋に落ちるときがきた」。恋に落ちるのは身体ではなく心である、と。御意。
7月の終わりから8月の初めの数日間。夏休みに入る手前のパリで働くDelphine (Marie Rivière)は一緒に休暇を過ごす予定だったBFと別れたばかりで、ひとりでどこかに行くのもひとりでパリに残るのも嫌なのでどうしようって、友人のグループに入って会話してみたり、ひとりでアルプスに旅してはすぐ戻ったり、子連れの姉家族からは一緒にアイルランドに行こう、と誘われるのだがどれも違う気がする。行った先で調達すればいいじゃん、とも思うが自分はそういうタイプではないの、って街角で『ブヴァールとペキュシェ』を読んだりしながら泣いたり泣きそうになったり。
でも思い切って出かけた浜辺でスウェーデンから来たという女性と少し仲良くなり、カフェで奔放な彼女が声をかけた男ふたりと同席しても、ごく普通の会話についていけない - ついていきたくない - ついていけないのではなくついていきたくないのだ、とか思っていることが嫌になって、嫌になった自分を彼らの目前に晒しているのに我慢できなくなってそこを抜けだして道端に座り込んで泣いていると、そこにいた老人たちがジュール・ヴェルヌの小説『緑の光線』の話をしているのを聞いて、これだわ! って少しときめいたりする。Delphineって、道端に落ちているカードを見入ってしまったり、きっと雑誌の星占いにも一喜一憂するタイプなのではないか。
で、恋なんてぜんぶ諦めて帰りの駅の待合室で知り合った男とぽつぽつ話していると、こいつはあまり嫌なかんじがしないな、とか思い、もうじき日が沈むことに気づいたので、緑の光線だ! って海が見えるところにふたりで走っていくと..
友人のアドバイスとかには一切耳を貸さず、自分ひとりで決めて実行して、人が触ってくる度に妄想を爆走させてその少し先で勝手に自爆して泣いて、人から聞いた言い伝えみたいなのを目撃したらご機嫌が治って.. 見る人が見たらご苦労様の図かもしれないが、見る人が見たら他人事とは思えない。 こういう感覚を引き起こすのは他の喜劇と箴言シリーズの5つと比べるとこの作品だけで、複数の登場人物間の出来事を描くというよりも主人公Delphineの一人語りが前につんのめっていく、それによる彼女の状態の遷移を追う。 (他の5作の脚本はÉric Rohmer単独だが、この作品だけはMarie Rivièreとの共同で、即興が多いと)
この作品のDelphine - 沈む夕日を指差して隣の人の手を取って感激して泣いてる - を見て「恋をする勇気を貰えた」とか言っているひとは相当あれだと思うけど、こういう印象を与えてしまうのはそういう強い語りの構成になっているからで、16mmでの撮影も、素人っぽく被さる暗いJean-Louis Valéroの弦楽も、ひたすらプライベートな映画のように機能して、その機能の仕方が全体として喜劇っぽい、ということなのかしら。
最後に緑の光線が見えるところ、初めて劇場で見たときはあれ? いまのがそれ? くらいのかんじだったのだが、今回のはやたらくっきり「緑」していた気がする。これは自分が歳をとったことに関係あったりするのか? (しねーよ。ただのデジタル化だよ)
昨日からTVで”Last Christmas” (2019)のリピートが始まって、今回は結末がわかっているとは言え、会いたい人に会えなくなっている今の状態で見るとなかなかくるものがあった。
それから、クリスマスチャンネルを中心に”Love Actually” (2003)の垂れ流しは始まっていて、今シーズンすでに5回くらい見てて、画面を見て3秒でそれがどこの場面か言えるくらいになっている。 コロナ禍でもっとも推奨されるであろう愛の告白の仕方、もでてくるの。
11.28.2020
[film] Colectiv (2019)
21日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。
Dogwoofが配給するルーマニアを舞台にしたドキュメンタリー。欧米ほぼ同時公開のようで、そのままポリティカルスリラーになりそうな戦慄の事実がずらずら。いま必見のやつ。 英語題は”Collective”。
2015年10月、ブカレストのライブハウス”Collective”でメタルコアバンド - Goodbye to Gravity(洒落にならん)の演奏が終わったところで天井から火が出ていることが確認されて、バンドがこれは演出ではないぞ、と言った途端、あっという間に燃え広がって逃げまわる観客で大パニックに – このぐしゃぐしゃ地獄の映像も流れて、ものすごく怖いのだが、この後に続く恐怖に比べればー。
27名がその晩に亡くなり、37人が病院に運ばれた後の1ヶ月間で亡くなった。なぜ病院に入って1ヶ月後に? 病院側は受け入れ態勢も医療システムも万全で近隣のドイツ等に支援を求める必要はなし、と表明していたのになんで? ここに疑念をもったスポーツ紙の記者Catalin Tolontanとそのチームが探っていくと、製薬会社から病院に提供されている消毒薬が10%くらい希釈されていることがわかって、これが感染症を引き起こしたのではないか? と報道を連打するのだが、当然バックラッシュ - 病院を脅かして国民を不安に陥れたいのか – とか来るし、閣僚からはラボでの検査結果は問題なかったよ、とか言われてしまう。
ここまでで開始30分くらいなのでこの先どうするんだろ、と思っていると製薬会社から検査ラボや病院側にも金が流れていることが明らかにされて大騒ぎになって、保険庁のトップは辞任して暫定の人に変えられて、この暫定の若いトップが被害者側に立つ結構よい人で調査と改革に乗り出してくれるかな、という辺りで、焦点だった製薬会社のオーナーが突然自動車事故(自殺か他殺か)で亡くなり、取材陣にも脅迫が来たり、いろいろきな臭くなってくる。
この状況に追い打ちをかけるように病院側関係者の方から衝撃映像 - ベッドに横たわる患者の傷口に蛆虫 (?!) – が出てきて、これは相当深刻なのではないか、と更に大きな騒ぎになって..
ライブハウスの火災事故が政権を揺るがしつつ(そう簡単には揺るがないのだが)次々に燃え広がっていく様を生々しく描いて、そのどれも腐りきった事実(+どう見ても悪人顔の病院関係者)がすごいというかひどい。のだが、映画はこの事実そのものをわんわん暴きたてるのではなく、それを闇の向こうから引っ張りだしてくるために頭を抱えたりしながら地道に踏んばるジャーナリスト達、暫定で据えられた保険庁のトップの人、事故後の治療で指の殆どを失い肌を損傷した女性、などにフォーカスしてそれぞれの終わらない事後を追っていく。彼らが直接カメラに向かって語りかける場面はなく(F. Wiseman方式)、車の中や記者会見の場やPCの前で唸ったり沈黙したりする箇所がいっぱい出てくる。結果、あまり喋らない記者のCatalin Tolontanさんを中心とした刑事ドラマを見ているようなかんじになる。
恐らくチャウシェスク政権の頃から引き摺ってきた腐敗とか膿が芋づるで出てきた、というのは簡単だけど、そうやって長いこと固められてきた嘘の連鎖の中に食いこむのは容易ではないだろうな、っていうのと、そうやって暴いたとしても長年その仕組みの中でやってきた人々の意識も含めて変えていくのはもっと難しいよね、っていうのと。前者はジャーナリズムの、後者は政治(選挙)のやることとしてそれなりの普遍性と説得力をもって迫ってくる。というのと、最後に映し出される犠牲者たち - 遺族も含めた – の姿と、彼らを含めたCollectiveが必要なのだと。はっきりと言わないけどそういうことを言おうとしているのだと思った。
あと、その反対側に悪のCollectiveっていうのも当然あって、病院、製薬、保険界隈で絡みあうのが一番厄介で恐ろしい。 こんなふうに見えない病院の奥で人が殺されて消えてしまうから。にっぽんでよくある利権、てやつね。
ジャーナリズムにも政治家にも期待できないししないし、ていうのは簡単だしほぼそうなのかも知れないけど、犠牲者たちに寄り添うことはできるし、我々はもう既に十分犠牲者にされてしまっているのかもしれない、という地点からジャーナリズムはどうあるべきものなのか、って改めて考えてみるよい題材かも。
11.27.2020
[film] Wojnarowicz (2020)
16日、月曜日の晩、DOC NYCで見ました。
オリジナルタイトルは”Wojnarowicz: F--k You F-ggot F—ker” (2020)で、4月のTribeca Film Festivalで上映される予定だったが延期されて、ここでの上映がワールドプレミアとなった。
1992年に37歳で亡くなったアーティスト、アクティビスト、思索家 - David Wojnarowiczの評伝ドキュメンタリー。活動が多岐に渡って、同時代のKeith HaringやJean-Michel BasquiatやRobert Mapplethorpeのような解り易い軸がなかったせいか余り知られてこなかったが、この映画の最後にも出てくる2018年のWhitneyでの回顧展 – “David Wojnarowicz: History Keeps Me Awake at Night”で彼がやってきたことが現代とのリンクも含めて再発見された。彼が遺した絵画、日記、メモ、フィルム、オブジェ、留守電のメッセージまで収集できる限りの「作品」を彼の作品さながらにMixしてコラージュして、彼の痛みと怒り、彼はそれらを抱えてどう戦っていったのかを描く。
NJのDVまみれの壊れた家庭で育ち、母は子供達を連れてNYのヘルズキッチンに移って、でも家には寄り付かずにストリートで(おそらく)男娼のようなことをしながら落書きや絵を描き始めて、ストリートアートやアンダーグラウンドの盛りあがりと共に立ちあがりつつあったNYダウンタウンのギャラリー界隈で注目されるようになって、それをうまく使ったり使われたりしながら、注目されるようになっていく。
他方で当時の画壇の投機的な先物買いのやらしい動きも察知していて、打ち棄てられていた西の埠頭で大規模な展示を組織したり、ホモフォビアな落書き(この映画の副題)をそのまま作品にしたり、どこまでもマイナーでアングラで卑猥で猥雑であろうと – それを理知的かつ詩的に展開して周囲を驚かせたり、留まることを知らない変幻自在・神出鬼没のクィアであろうとした。
当時のアーティスト - Kiki SmithやNan GoldinやRichard Kernとの交流の他、特に写真家のPeter Hujarとの出会いは大きかった。 彼については2018年にThe Morgan Library & Museumで“Peter Hujar: Speed of Life“という回顧展があって、自分はその翌年、パリのJeu de Paumeに来た同展示を見た。Susan SontagやFran Lebowitzのポートレート写真は彼のがベストだと思う。 尚、Fran Lebowitzさんはこの映画でもコメンテイターとして出てきてPeterとDavidの関係について語っている。Morganのサイトには展示の際に行われたイベント“An Evening with Fran Lebowitz: On Peter Hujar“のトークの動画があるので見てほしい。Peterの運転手をしていたというFran Lebowitzさんが語る70年代のNY、Peterと一緒にTennessee WilliamsやDolly Partonと会った話、NYの名画座のこと、この映画にも出てくるPeterのお葬式のこと、等々おもしろいの。
やがて87年、父のように慕っていたPeterがAIDSで闘病の末亡くなると、彼は矛先を明確にAIDS治療や対策に乗りださなかった当時のレーガン政権やFDAの方に向け、自身のアートやメッセージ、行動をそちらの方に振り向けていく。のだが、そのうち彼自身がAIDSであることが判明して..
“History keeps me awake at night” – という夜の彷徨いが彼の活動の発火点であり、”Awake“という状態がもたらす災厄との戦いの記録だった気がするのと、彼が今ここで注目されているのはレーガンの直系であるトランプに対するLGBTQからの、マイノリティからの改めて(何百回でも続く)のカウンターでありナイフ投げなのだと思う。そうすると当時のAIDSに対する無策といまのCovid-19に対する無策が、(時代は少し後ろだけど)ロサンゼルス暴動とBLMが対照して見えてならない。
夜くらいは安心して眠りたい。でも”Silence = Death”なのだ、と。
ていうののB面としては、改めて当時 - 70年代末~80年代初のNYのダウンタウンシーンの層の厚さを。この映画の音楽は彼が初期にメンバーだった3 Teens Kill 4のが使われているのだが、つんのめって痙攣していんちきくさくて、「正統」ぽい何かからどこまでも遠ざかろうとする、遠ざかった果てに崖から落ちたってしるもんか、の無謀さと適当さで突っ走って飄々としている。そういうかっこよさ。
こないだ出たOlivia Laingさんの本 - ”Funny Weather - Art in an Emergency”の表紙には彼の”Untitled (Face in Dirt)” (1992-93)が使われていて、2016年に書かれたDavid Wojnarowicz論が収録されている。簡潔にまとめられた論考なので読んでみて。
政府から来週の、ロックダウン明け以降の計画が提示されて、地域別でやかましい校則みたいな匂いがして、あんま守られないかんじたっぷりなのだが、そこまでしてクリスマスをやりたいのか、ってその熱にちょっと感動した。でも自治体が出す計画ってふつうこういうもんよね。
わたしの半分くらいはアメリカの方を向いて考えたり動いたりしているので、サンクスギビングに入るとお休みモードになる。のでほぼ仕事しなかった。かまうもんか。
11.26.2020
[film] Swallow (2019)
20日、金曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。日本でももうじき公開される?
エグゼクティブ・プロデューサーにJoe Wrightの名前がある。
監督/原作のCarlo Mirabella-Davisにとってはこれが最初の長編となる。ジャンルとしてはホラーになるのかも知れないが、ものすごく面白くて痛快で、ところどころ笑えたりもする。
どこかの都市の郊外の川に面した見晴らしのよいでっかいモダンな邸宅にHunter (Haley Bennett)とRichie (Austin Stowell)の新婚夫婦が暮らしていて、Richieは父から会社の経営を引き継いで、やがては財産も貰えるはずで、さらにHunterは妊娠していることもわかったところで、総合的に俯瞰的に見たところでは誰もが羨むとっても幸せな夫婦であり家庭であるはず。
はずなのだが、夫が会社に出かけてからのHunterはなんかもやもやと不満を抱えてつまんなそうで、自分でもどこがどうしてそうなっているのかを表に出すことはできなくて、携帯のゲームなんかを退屈そうにしていて、でもある日リビングに飾ってある置物をじーっと見つめると、そのうちのビー玉みたいのをえいって飲みこんでしまう。飲みこんで1日くらい経つとそれは体外に出てくるので、それを拾って洗って元のところに戻して落ち着く。そうすると今度は尖ったピンがついた画鋲のでっかいのを少し苦労して飲みこんでみようとして、吐きそうになりながらも飲み込むことができたので嬉しそうで、ただこれが出てきたときは当然流血して、でもやはり満たされる何かはあるらしい。
それと並行して申し分のないご家庭 – 少なくともRichieは幸せそう – に見えたふたりの間には、Hunterからすれば目に見えないいろんな圧や縛りにまみれているらしいことがわかってくる。この辺の描き方が絶妙で、DVがあるわけではないのだが、妻としてこれくらいはやっていて当然、こういうことは喜んで受けとめて当然、この状態で不満申すなんてもってのほか、って周囲から透明な壁を築かれて壊すことも越えることもできない。それらを全て集約した出来事としてやってきたのが妊娠で、自分の身体に起こっていることなのに自分ではどうすることもできない。自由がほしい、とまでは言わないが、自分の身体くらい自分でコントロールできるようになりたい。
自分の外にある何かとの間でそれを可能にするのがSwallow(のみこみ)という行為で、過食や拒食、自傷なんかは周囲に心配かけてしまうし他人になんか突っかかるのはやばいけど、これなら気付かれることもないし、消化されずに自分の体を通過してきたオブジェはちゃんと手元に戻ってきてくれる(愛おしい)。ここまでだったら、John Waters先生あたりが作りそうなホームコメディになりそうな。
だがそのうち妊婦の定期健診でスキャンをしたら赤ん坊の横になんかあるけど.. ってなって慌てて開腹したらとんでもないのがでるわでるわで、家族(除. Hunter)は驚愕して頭を抱えて、とにかく彼女には使用人(♂)をつけて飲みこめそうなものを全て片付けて24時間行動を監視させて、セラピストもつける。家族(除. Hunter)にとっては、生まれてくる赤子を人質に取られているようなものなのでとにかく必死で、そんななかHunterはセラピストに自分の出生について打ち明けて..
彼女の挙動は医学的にはPica – 異食症 – と呼ばれる症状なのだが、その角度からの言及はしない。閉塞された状況に置かれた主婦が徐々に飲みこみモンスターに変貌していく、というホラー、というよりは彼女をそこに追いこんでいったRichieとその父母、それを朗らかに取り囲むソサエティのありようの方がよっぽど怖いわ、っていうのを前面にもってきて、最後に描かれるエピソードでは更にその先に踏みこんで男性が支配する社会にダイレクトに切りこもうとする。
昨年のTribeca Film FestivalでBest Actressを受賞したHunter役Haley Bennettさんのつーんとしたつまんなそうな顔(日本だとモトーラ世理奈さんかしら)が素敵で、その顔が彼女の暮らす邸宅のインテリアのプラスティックなかんじによくはまる。 あんなところにいたら小物とか土とか飲み込みたくなるのもなんとなく。
少しづつ見ているSeason 4の”The Crown”はEpisode 8まできた。おもしろいので毎日Recapを書きたいくらいなのだが、EP8で、当時の自分がいかにサッチャーを嫌っていたのか、その理由も含めてありありと思い出した。 とにかく「国を強くする」っていう考え方が嫌だったんだわ。いまも。
11.25.2020
[film] In My Own Time: A Portrait of Karen Dalton (2020)
15日、土曜日の午後にDOC NYCで見ました。ここでワールドプレミアされたもの。
エクゼクティブ・プロデューサーはWim Wenders。
1993年に55歳で亡くなったアメリカのSSW, Karen Daltonの評伝ドキュメンタリー。Nick Cave氏がコメントで出てきて、彼女の歌詞やメモを朗読するのはAngel Olsenさん。
テキサスに生まれてオクラホマに育ち、15歳で最初の子供ができて離婚して17歳で次の子供ができて離婚して、21歳くらいでNYに出てきてGreenwich Villageのフォークシーンでミューズとなり、Bob DylanやTim Hardinと交流して、Dylanからは"My favorite singer...was Karen Dalton. Karen had a voice like Billie Holiday and played guitar like Jimmy Reed”と讃えられて、69年と71年にアルバムをリリースするが、大きくブレークするところまでは行かず、いろいろ抱えたまま田舎に引っ込んでしまう。
当時のいろんな問題 – 成功や家族や健康やドラッグのこと - があってなにをやってもうまく運ばなかったNYから去って以降は暗いことの連続なのだが、いろんなアーカイブに残された映像やライブも含めたレコーディング - 深くて強いその声、12弦のギターが音を散らせば散らすほど、石のように籠って古いラジオの奥から鳴っているような、痛みで固化した吐息の痼りとかカサブタが鳴っているようなその声。 最初の一声から囚われて抜けられない夢 – 抜けたくない夢のように残る、その歌声と歌う姿を確認できるだけでも十分見る価値はある。100年くらい前の人 - でもぜったいそこにいた人 - を見ているかんじ。
わたしが彼女を知ったのは2006年に再リリースされた2ndの”In My Own Time”から – 当時Other Musicが大プッシュしていた - で、おそらく当時の – 第二次ブッシュ政権の澱んだ出口なしの空気にうまくはまっていたのではないかと思うのだが、そんなことはどうでもいいくらいに彼女のフォークというよりブルーズのように地面を這いながら留まって強引に”My Own Time”を積みあげてしまうその声の肌理は、いまも、いつでも必要とされている。
映画では彼女の残した手書きのメモや歌詞もいっぱい出てくるのだが、2018年(?だったか)の火事でそれらの資料はほぼ焼失してしまったと..
Billie (2019)
これも15日、土曜日の晩、CurzonのHome Cinemaで見ました。
1959年に44歳で亡くなったBillie Holidayの評伝ドキュメンタリー。Karen Daltonのを見た後には丁度よいかも、と思って。
2005年に出た彼女の評伝本” With Billie” (by Julia Blackburn)でも参照されていたジャーナリスト - Linda Lipnack Kuehlが79年に亡くなる(自殺とされている)直前迄録りためていたBillieの周りにいた関係者 - Count BasieとかCharles Mingusとか - への膨大な量のインタビューの録音テープを元に彼女の人生を再構成していく。録音された音楽や映画以外だと、関係者の語りくらいしか彼女の生が現れる場所はないのだろうな、というくらいに虐待、搾取、嫌がらせ、ドラッグ、セックス、金、ギャング、などなどが入り乱れる暗黒の芸能界のオンパレードで、でもだからといって彼女の声や歌がああなっていったのはそのせい、とするのも彼女が聖人だったから、とするのも短絡で、映画もその辺は配慮している。いろんな人の声が聞こえてきても、彼女の歌が始まると全てが沈黙して静止してしまう不思議。
プロデューサーJohn Hammondとの出会いが彼女をスターにしたことは確かだが、”Strange Fruit”のあの特異な世界 – 歌声がひとつの恐ろしい世界を、そこに潜む痛みや哀しみをむき出しにしてしまう – なんであんなことが彼女にできてしまったのかは謎で、でもあの声が伝えようとした世界は今も残っていて、そこに謎はない(なんで止まないで続いているのか、というのはあるね)。どれだけの死者の声を彼女は抱きしめてかの地に運んだのだろうか。
映画では元となったインタビューを録ったKuehlの死にも不審なところがあるとして問題を投げかけている(インタビューで語られた内容に知られたらやばい何かがあったのか、とか)。けど、こちらは軽く触れる程度で、Billie Holidayの生涯と音楽を紹介することに徹していて、よいの。
Karen Daltonの声は彼岸で鳴っているように聞こえるのだが、Bille Holidayの声はいつも耳元で鳴っているように聞こえる。それって痛みを近くに感じるか遠くに感じるかの違いだけで、どこかを怪我したり流血したりしていることは確かで、とにかくそれで自分はまだ死んでいないことがわかる。
夕方ピカデリーの方に行ってみたら、裏道みたいなとこでみんなわいわい立って飲んで楽しんでた。そんなもんよね。
11.24.2020
[film] Coded Bias (2020)
17日、火曜日の晩、MetrographのVirtualで見たドキュメンタリー。
身も凍るような真実を明らかにしてどうだ! っていうより薄っすらわかっていたことを事実の積み上げと聞き取りから表に出して(政府まで行って)、この明らかにやばい事実がどんなふうに我々の生活に影響するのかをクリアに提示する。 AIやDXが暮らしや経済をより良くするって本当なのか、なにがやばくてどこに注意しなければいけないのか、等々。
MITにいて、後程Algorithmic Justice Leagueを立ち上げるJoy Buolamwiniさんが主人公で、アフリカン・アメリカンの彼女はPCの顔認証で自分の顔がたまに認識されないことがある一方、白いマスクを被るとすんなり認識されることに気付く。なんでだろ? と顔認識をやっている各社に人種(カラー)別男女別の顔認証の認識率のデータを請求してみたら、どの会社のも認識率にバラつきがあり、一番高いのが白人男性のそれで、一番低いのがカラードの女性のそれだった、と。どうしてかというと、顔認証のアルゴリズム(コード)が白人男性のそれを中心として組まれている – そういうバイアスが掛けられているからである、と。
映画はJoyさんだけでなく“Artificial Unintelligence: How Computers Misunderstand the World”を書いたMeredith Broussardさんや“Weapons of Math Destruction”を書いたCathy O'Neilさんの協力を得ながら- こうして次々に登場する女性たちの活躍がすばらしい – この事実を暴いて、これがどういう社会をもたらすのか、その危険性とここまでの経緯を示す。そもそもAIの父とか言われるダートマスの10人って全員男性だし、AIリサーチに従事する女性の割合は14%以下って、女性の目が全く入らない男性中心のやり方考え方で組みあげられてきた仕掛けである、ということは頭に入れておいた方がいい。(いや、今の社会の成り立ちからしてそうじゃん、ていうのはそうだけど、そんなこと言っても始まらない)
この仕組みがもたらす悪い例として突然顔認証のロックシステムが導入されて棟に入れなくなる住民が続出したブルックリンのアパートとか、これまで何度もいろんな賞を受賞してきたヒューストンの小学校の教師のレーティングのスコアが突然悪くなったりとか、ロンドンでは街角の監視カメラで全く身に覚えのない人がシステムに引っ掛かって職務質問されたりとか。
いまのAIにはいろんなタイプがあるし、機械学習のアルゴリズムにもいろんなのがあるのだが、ここでは各論に入らずにアルゴリズムを積み重ねられたデータをベースに予測したりスコアリングしたり判断したりするためのロジック、として紹介していて、重ねられたデータが偏っていると精度は落ちるしその結果もぶれる。問題は入り口の仕組みがブラックボックス化された状態でPCカメラの顔認証から検索エンジンからクレジット・スコアリングから既にいろんなところに組み込まれて社会で活用されて(使うことを強いられて)しまっていること。いきなり問題が出てなんだこれ? って掘っていくとすみませんそれは仕様です、とか言われてその仕様ってなに? と更に掘ると開示できないアルゴリズムです、になっていたり。
この特性を使って国民を統制しているのがアメリカと並ぶAI大国である中国で、この国はAIによるモニタリング・スコアリングをする/していることを国民に明確に宣言して、この国でちゃんとした社会生活を送りたければ規範に従順なよいこになることだ – AIはぜんぶ見ているぞ、ってやってる。
アメリカや他の国は、当然そちらには行かずに市場原理に任せて推し進めようとした訳だが、上に書いたような問題が確認されて、これはシステミック・レイシズムを助長する可能性もあることだから巻き戻さないと、とJoyさんたちのような人達が動き始めたり、英国ではBig Brother Watch – 勿論オーウェルから来た名前 – といった人達が活動をしている。
でも監視カメラはテロの防止や犯人の特定に役立っているし、AIは仕事の改善や効率化に役立っているんじゃないの? 必要なんじゃないの? という側面は当然ある。問題は、アルゴリズムがどういう仮説やシナリオに基づいてデザインされたのか、それがどんな結果をもたらすものなのか何の測定も検証もされないまま気が付いたら社会のインフラやプラットフォームに組み入れられて稼働している、ということなの。あと、これらの仕組みはデジタル上にぜんぶあるので、悪いことをしようと思ったらデータも含めてコピー悪用とか改竄ができて、しらっと人を殺す基盤にもなりかねない。そのガードはどこまでできているのか、とか。
AIにおける倫理の問題 – 特にAIがしてはいけないことは何なのか? って大昔からSFではテーマになってきたことが目の前に現れてきている。映画の話題から少し離れるけど、アメリカと中国の間に挟まれたEUがなんで個人情報保護にあんなに過敏なのかというと、この点 - 自分のデータがどこでどう使われるべきか - を初めからクリアにしておかないと、こういうシステムを起点とした差別や分断が起こりうることを予見していたから。自分のデータは自分のもので、他者やシステムに勝手に使われるべきものではない。これだけアメリカのプラットフォームが席巻している状態では結局やられてしまうのかも知れないが、言うべきことは言うし守れるものは社会として、社会が守るよ、と。
にっぽんは... お上が施しを与えるみたいに振りまくこの手のサービスを有難く頂戴する民、っていう土壌があって、その隣に印鑑とか戸籍とか恐竜みたいなのもいて、そこでのAIはアメリカ市場型でぶちあげて勝手に好き放題されて、問題がでると中国型に開き直る – それは排外主義と連動して隣組に並ぶ新たな恐怖ムラを形成するに決まっているし、もうできているのだと思うし。だから見通しはすごく暗い。デジタルの上で人権はどうあるべきか、守られるべきはなんなのか、の議論なしで - リアル社会ですら有形無形の圧やらバイアスまみれなのに、マイナとかデジタル庁とか、ちゃんちゃらおかしいわ(←おかしくない。まさに地獄)。
こういったことを視点も含めてとてもわかりやすく整理してくれる女性による女性のための映画だと思った。 いや、女性でなくたって勿論必見だよ。
アメリカの大統領選は、ようやく笑ってよい段階まできたのかしら? まだ油断できないのかしら?
この4年間、あれの顔を見て声を聞くことすら耐えられなかったので、CNNから遠ざかっていた。ブッシュの8年間以上にしんどいものがあった。 それがようやく終わってくれるのかー。(まだ冷凍庫から出てきたばかりで心の底から笑えてない..)
11.23.2020
[film] Pauline à la plage (1983)
11日、水曜日の晩、MUBIで見ました。
Éric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの3つめ。英語題は”Pauline at the Beach”、邦題は『海辺のポーリーヌ』。 ロメールの名前が日本に大々的に入って来た最初の作品で、当時おしゃれな男女はみんな行くべし、みたいに紹介されていたので、ひねくれて自分が見たのはもう少し後になった。ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞している。
今回の箴言はクレティアン・ド・トロワの"Qui trop parole, il se mesfait" - “A wagging tongue bites itself" - 「言葉多き者は災いの元」 - そりゃそうだな、しかない。
ノルマンディの方の海辺の別荘にティーンのPauline (Amanda Langlet)といとこで年長のMarion (Arielle Dombasle)が車でやってきて滞在する。ふたりでこれからのバカンスの恋の展望や見通し、野望などについて語り、海辺にいくとMarionはウィンドサーフィンの先生をしているEx.のPierre (Pascal Greggory - わかーい)と再会し、Pierreの近くにいた中年ハゲのHenri (Féodor Atkine)と出会って、そのまま4人でディナーをしてまた恋愛について語りあって、更にカジノに踊りにいって、PierreはMarionとよりを戻そうとするのだが、結婚も含めて過去の失敗に慎重になっているMarionにはそう簡単には巻かれない。
翌日以降も未練たらたらMarionを追っかけるPierreと、大人のHenriに興味があるっぽいMarionと、女ならなんでもいいらしいHenriに、浜辺でPaulineを見初めた青年Sylvain (Simon de la Brosse)が加わって、浜辺とHenriの家とMarionの別荘を中心にくっついたり離れたり逃げたり隠れたり追っかけたり嘘ついたり、バケーションで夏だし海にいるんだから恋するしかないだろ、っていうぎらぎらした連中が輪になってダンスしていく中、Paulineはなんか違うんじゃないか、って思い始めて…
Éric Rohmerの監督作でタイトルに女性の名前が入っているのはそんなに多くなくて、これと、“Four Adventures of Reinette and Mirabelle” (1987)と“Claire's Knee” (1970)くらいではないかしら。(“Chloe in the Afternoon” (1972) は原題がちがうから外す)
で、これらはみんな恋を知る前の女の子(たち)に訳知り顔のやらしい大人のおっさん(たち)が近寄っていくような、見る人が見たらはらはらどきどきのトーンのやつで、やーねー、って。
あと、喜劇と箴言シリーズの中では、この作品だけ唯一、仕事 vs. バカンス vs. 家庭 x 恋愛 というロメール四大元素のうち、仕事が一切入ってこない。生きるため、生活するために誰もが奴隷としてやらなければいけない仕事からフリーになったところで恋と、その可能性とか歓びなどが語られる。(『緑の光線』はこれに近いけど、仕事の影というか呪いは常につきまとう) そしてそこに - 夏の恋に登場人物全員がフォーカスしたときに起こる悲劇というか喜劇というか、だからと言ってどうにもならないんだわこれが、という…
登場人物が全員海辺のゆるい邸宅にいて、割とすることがなくて恋の手前でだらだら回したり回されたりする話し(そして最後に車で去る)というと、“La collectionneuse” (1967) - 『コレクションする女』が思い浮かんで、あそこにあったやーらしく高慢ちきな男性目線を女性(少女)の側に転回させるとこんなふうになるのかもしれない。どっちにしても極めていい加減で適当なこと言ってらあ、ってみんなが突っ込みたくなるかんじは満載なのだが。
突っ込みどころがいっぱいで、海にいって泳いでごろごろするか、テーブル囲んで食事したり飲んだりするか、ベッドでいちゃつくか、ひとりで本読んでぼーっとするか、全員この4地点をぐるぐる回ってくっついたり離れたり、という点ではホン・サンスのに近いところもあって、目的のためには手段を選ばず.. みたいなやらしい男共がいっぱい出てくるところなんて特にそう。
でも最後は店じまい〜 のようにすたこら逃げるかのようにして終わるのはよいの。 恋なんていらない。 彼女は来年も海辺にやってきた/くるだろうか、については関係者を召集して集中討議してほしい。
このまま何もなければ、BFI Southbankは3日から再オープンする予定。 12月はいろんなクラシックと、恒例のクリスマス映画特集とMarlene Dietrichだって。 楽しい映画が見たいな。
11.22.2020
[film] Make Way for Tomorrow (1937)
15日、日曜日の昼にCriterion Channelで見ました。邦題は『明日は来らず』。
監督は、同年に傑作コメディ - ”The Awful Truth”をリリースしているLeo McCarey。彼はこの作品でオスカーの監督賞を受賞しているのだが、彼自身が受賞すべきはこっちじゃなかった(got it for the wrong film)、と言っている。”The Awful Truth”も問答無用の傑作だとは思うけど、比べられるものではないけど、確かに”Make Way for Tomorrow”のがすごいと思う。
あまり映画を見ても泣かないほう(誰と比べて?)なのだが、どうしても何度見てもぼろぼろ泣いてしまうのが数本はあって、筆頭はNicholas Rayの”They Live by Night” (1948) -『夜の人々』で、そしてもこれもたぶん - まだ2回目だけど。初めて見たのは2010年に暮れにMoMAの映画部門で、絶対ハンカチ持参するように、って書いてあったのに無視していったらぼろかすにやられて、ううどうしようこれじゃ帰れない、って横とか後ろ向いたらアメリカ人もみんな同様にぼろぼろに泣いてた。
Bark (Victor Moore)とLucy (Beulah Bondi)の老夫婦が暮らしている家に既に独立してそれぞれ家庭を持っている5人の子供たちのうち4人 - ひとりはカリフォルニアで遠い - が集まって楽しく話し始めたところで、Barkがもう働いていないので、この家を手放さなければならなくなった、という。なんで突然そんなこと言うのよ、って子供たちは非難動揺するのだが、彼ら二人を一緒に引き取れる広さと余裕のある家のある子はいなくて、Barkは娘のCora (Elisabeth Risdon)のところに、Lucyは長男のGeorge (Thomas Mitchell)のところに別々に引き取られていく。
Lucyが滞在するGeorgeの家には17歳の娘がいて、Lucyが来てしまったので彼女はこれまでのように友達を家に呼べなくなったり、Georgeの妻が自宅の居間でやっているブリッジ教室の時間に現れて場をかき乱してしまったり、本人はまったくそんなつもりはないのだが、ゆっくりと息子の家族との間に溝が出来ていく。Barkも近所のユダヤ人の友人と楽しく過ごしたりしているものの、娘の家族からはやはり疎まれていて、風邪をひいて辛そうなBarkの様子を見たCoraは暖かい土地での療養が必要だからとカリフォルニアにいる娘の方に移ってもらう算段を進めて、Georgeの方も「Lucyのために」NYのアッパーステイトにあるケアホームを探し初めて、親は子供たちがどう思っているのかをそれぞれに察して、特に文句も言わずに出ていくことに同意する。 この辺は見ていてとっても辛くて奥のほうがひくひくしてくるのだが、泣くのはまだ早いの。
Barkがカリフォルニアに旅立つ日に子供たちは一同に会してお別れディナーをすることにして、でもその午後はふたりだけで過ごしたいから、と新婚の頃の思い出の場所を巡っていく。プロモーションをしていた車の後ろに乗せてもらって街中のドライブを楽しんで、思い出のホテルに着いてバーでホテルの人に当時のことを語ったら歓待してくれて、楽しくなったから子供たちの方はいいや(いいよ、って見ている方も頷く)、ってそのままホテルで食事をしてダンスをして… ここで出会う人たちがみんな天使のように素敵な人たち - ダンスホールのバンドリーダーの人とか - でふたりの思い出を暖かく祝福してくれる。
この辺からじわじわくる - 見つめ合うふたりが本当に嬉しそうで楽しそうで、心の底からその時間を慈しんでいるのがわかるから。
で、ふたりは駅のホームに向かってBarkは列車に乗りこみ、Lucyはホームでお別れのキスを... 大決壊。
さらに、ふたりがさっきダンスで踊った”A Let Me Call You Sweetheart”がふわりと被さってくると、大津波が ...
ふたりはまた会えるって互いに信じて疑わないの、でもひょっとしたらこれが最後になるかもしれないこともわかっているの。そういうとき愛し合うふたりはどんなふうに見つめ合って微笑んで手を振り、その手を離すのか。(こういうのって書けば書くほど野暮になる) いまコロナで、こんなふうに離れ離れになってしまった人たちもいっぱいいるんだろうな、って思ったら更に悲しくなって。
小津の『東京物語』(1953) にも影響を与えた作品と言われていて、あれも泣けるけど、泣けるからいいってもんじゃないし比較できるものではないのだけど、こっちのがなんかいっぱい溢れてくる。
泣いちゃうから見ろ、っていうのはいじめているみたいで嫌なのだが、この映画を見て泣くのは悪いことではないと思うの。
11.21.2020
[film] Smooth Talk (1985)
14日、土曜日の午後、BAMのVirtual Cinemaで見ました。今年のNYFFでリストア版がリバイバル公開されていた作品。
邦題はそのまま『スムース・トーク』で、日本ではビデオスルー?。
Laura Dernさんが強烈な印象を残した“Blue Velvet” (1986)のひとつ前に主演した作品で、86年のSundanceのドラマ部門ではGrand Jury Prizeを受賞している。
原作はアリゾナで実際に起こった連続殺人事件に想を得たJoyce Carol Oatesの1966年の短編 - "Where Are You Going, Where Have You Been?"で、アメリカではアンソロジーの常連で、翻訳も『あなたはどこへ行くの どこから来たの』、『どこへ行くの、どこ行ってたの?』といったタイトルでいくつかのアンソロジーに収録されている(どちらも未読)。この短編は、Bob Dylanの"It's All Over Now, Baby Blue"を聴いた後に書かれて、Dylanに捧げられている。
尚、この間のNYFFでのリバイバルの際に行われたLaura Dern(主演)、Joyce Chopra(監督)、Joyce Carol Oates(原作)という女性3名(+モデレーター)によるZoomのトークがYouTubeにはあって誰でも見れるから見てみて。
15歳のConnie (Laura Dern)は父母姉と原野の一軒家に暮らしていて、父(Levon Helm!)は寛容で、母(Mary Kay Place)はややうるさくて、姉(Elizabeth Berridge)は定番よいこで母のお気に入り。季節は夏で、Connieは友人2人とつるんで着飾ってビーチとかモールとかに出かけては男を値踏みして引っかけようとしたり引っかけられようとしたり、実際に声を掛けられると逃げたり隠れたり、夜に車でふたりきりになっても怖くなって逃げたり、そんなことばかり繰り返している。
家を出て遊びにいく際の言い訳は家族には嘘とバレてて、母からは姉と比べてこの娘は.. っていつも言われるのでたまにペンキ塗りを手伝って少し歩みよったかに見えてもその翌日には双方が同じことを繰り返して元の険悪な状態に戻る - 遊びに出たくてたまらない(けど自分内でぐるぐる回る)& ティーンの事情もわかってあげたいところだけどやっぱりムリ(これもぐるぐる)の親娘の緊張と攻防は誰にも思い当たるところがあるし、大人の世界の憧れ - 音楽がかかって男女で賑わう夜のバーガーショップとか – はとても生々しく蘇るものがある。
ここまででも十分なドラマになるところなのだが、後半、近くの親戚の家に家族みんながバーベキューに出かけてしまい、家にひとり残されたConnieのところに車に乗った男ふたりが訪ねてくる。ひとりは夜のバーガーショップで声を掛けてきた気がするArnold Friend (Treat Williams)で、もうひとりは助手席でラジオをずっと耳にあてて音楽を聴いててほぼ喋らない。
若いのか中年くらいなのか外見ではよくわからないArnold FriendはConnieのフルネームも今家族がどこにいて何をしているのかも全部知っているようで、なによりも怖いのは彼女の不安や動揺を見透かしているかのようにとにかく車に乗ってどこかに行こうぜ、と執拗に誘ってくること。なんで彼はそんなに自分のことを知っているのか、車でどこに向かって何をしようというのか、疑いがとぐろを巻いてそれらに巻かれて窒息しそうになって... 彼はそこを先回りして覆い被さってきて、いいから行こうよなんで行かないの? と。そのConnieの内の葛藤とArnoldとの息詰まる攻防ときたら閉じ込められた家での殺人鬼との闘いのようにも見える。
その舞台となるConnieの家のかさかさに白っぽく乾いた雰囲気もよくて、これってJoel Meyerowitzがケープコッドの家を撮った写真集 - “Cape Light” (1979) - 名作 - を参考にしているそうで、なるほどー。
あとは彼女のような思春期の危うい揺れが最悪の男によって連れていかれてしまったその先を描いたのがLaura Dern主演で”The Tale” (2018) - 『ジェニーの記憶』- として変奏されている、ということは強調されてよいことかも。
というわけでLaura Dernさんがすばらしいことは言うまでもなくて、もういっこ、Levon Helmの、自分内ではハッピーだしなんも干渉しないけど何が起こっているかはわかってるから、という父親役も素敵だった。
音楽はRuss Kunkel & Bill Payneの乾いたかんじがたまんないのと、Musical directorとして入っているJames Taylorの”Handy Man”が最後にこびりついてくる。
UKのトレンドにJimmy Somervilleの名前が出ていたので、え、死んじゃったの!? って見に行ったらバスキングで歌っている人の傍に寄っていって一緒に歌った、というだけだった。 お元気そうでよかった..
11.20.2020
[film] Crock of Gold: A Few Rounds with Shane MacGowan (2020)
14日、土曜日の昼、DOC NYCで見ました。間もなく英国でも見れる(当然)のだがどうしても待ちきれずー。
The Poguesの創設メンバーでフロントマンだったShane MacGowanの評伝ドキュメンタリー。監督はJulien Templeで、彼は76年にSex Pistolsのドキュメンタリーを撮っている時にそこらにいたShaneと出会い、彼に最初にインタビューをしたのは自分なのでこのドキュメンタリーは自分のものなのだ、という。その他のShaneとの対話(にあまりなっていないけど)の相手としてJohnny Depp、 シン・フェイン党のGerry Adams、Bobby Gillespie(見るからにびびっている)、コメントを言うのがNick Cave、など。ひとめ見てとっても男臭そうで、実際相当くさい。
冒頭、88年のTown & Country ClubでのThe Pogues & Kirsty McCollの”Fairytale Of New York”のライブ映像がでて、もう何百回も見ているのにKirstyの横顔が大写しになっただけで泣きそうになって(スクリーンで見てたらぜったい大泣き)、Jem Finerの姿が見えてPhilip Chevronの姿が見えて、でもこの映画の主役はThe Poguesではなくて、Shane MacGowanなの。
57年のクリスマスの日に生まれ(生まれたのは英国)、アイルランドのTipperaryで親戚もいる大家族のなかで育って、3歳頃からパブのテーブルにあげられて酔っ払いと歌をうたって6歳から酒とタバコを覚えて、最初の方はそんな家族とアイルランドの風土や文化や人がShane少年をどう育てていったのか、アニメーション等を交えて追っていく。
そこから父母とロンドンに越して(バービカンに住んでいたんだって)、Tipperaryでは詩を書いて文学のスカラシップを貰っていたのでウェストミンスターの学校に入るのだが、アイリッシュだからといじめにあって行き場を失い、酒とドラッグに溺れて放校になり、どん底にあった彼を救ったのがパンクで、Clashのギグで後にMo-dettesのメンバーとなるJane Crockfordに耳を食いちぎられて血まみれになっている写真が彼を有名にして、そこから暫くして自分のバンドThe Nips - 正式名称はThe Nipple Erectors – を始めて、短命に終わったこのパンクバンドと並行して自身のアイリッシュルーツと向き合うようにSpyderとJemと一緒に"Pogue Mahone" – The Poguesを結成する。そこから先はいいよね。
上映後のトークでJulien Templeは、バンドのディスコグラフィやライブを時系列で追って、関係者が総出でコメントを述べていくような形式 - 最近多い”rockumentary”にはしたくなかった、と強く語っていて、確かにそういう構成にはなっていない。あくまでShaneの個人史を追いながら、あの時代の英国にアイリッシュとして生き、周囲から弾かれて壊れかけた青年がパンクと出会って、パンクはそんな彼をどんなふうに受け容れたのか、が(実際には地獄だったかんじもあるけど)軽妙に、でも十分な説得力をもって描かれている。いっこ印象的だったのは、学校で除け者にされていたShaneが聴いていたのが周囲で流れていた移民の音楽 - スカだったとか。あとは文学の話 - James Joyceは勿論、Flann O’Brien にW. B. Yeats(には割と批判的)に、ふらふらしていた頃に公園で出会った浮浪者たちの話とか。
The Poguesの初期のライブの様子を見るとやはり最初の2枚までがピークだったのかなあ、88年MZA有明で我々が見てびっくりしたときは既に終わりの始まり、だったのだろうなー、というのは改めて思った。こうしてこの辺りからバンドは転がり落ちていって、横浜のWOMADでShaneはバンドをクビになる – ここがJames Fearnleyによるバンドのメモワールの出だしなのね。
エピソードで面白かったのは彼らがブレークしたElvis Costelloとのツアーの話。Cait O'Riordanを巡る攻防とか。
初期の勇ましいジャンキーっぷりと比べると車椅子に乗って身を傾けたまま終始ふがふがしている今のShaneはおじいさんとしか言いようがないのだが、よく生きてここまで来てくれたありがとう、と思った。88年のライブでやられてから来日公演はずっと通って、NYではShane MacGowan and The Popesのにも行って、どんどんだめな方に墜ちていく彼を見てきて、でもいいじゃんか、って。
映画でも触れられているけど、そして今日もまたあの箇所がBBC界隈で話題になっていたけど(どうでもいいわあんなの)、”Fairytale of New York”の歌詞ってほんとうにすばらしい。特に終盤の”I could have been someone.. “ 以降のところなんて、この映画を見てから聴くとじーん、って。 今年もこれからNYのことを想って何度も何度も聴くことになるんだわ。
11.19.2020
[film] Gunda (2020)
13日、金曜日の晩、DOC NYCフェスティバルで見ました。5回分の回数券を買って。
DOC NYCは2010年からNYのIFC Center(映画館)を中心に始まったドキュメンタリー映画のお祭りで、最初はNYの周辺を題材にした新旧のドキュメンタリーを集めて上映していて、2012年頃に現地で見ていたことがあってすごく面白かった。毎年案内だけは来るので見たいようーだったのが、今年はバーチャルでやってくれる。
いまのこのご時世、しょうもない陰謀論(陰謀じゃなくて陰謀論)ばっかりで、まとめサイトどころかメディアそのものも腐ってきていて、どうしてかというと誰もが手近のすぐに読めてわかりやすくて心地よい「現実」を求めているからだと思うのだが、そういうのの「理解」って人についても出来事についてもそれなりの時間をかけて向き合わないと無理なんだよ - ほら、ということを良質なドキュメンタリーは教えてくれる。最近自分がドキュメンタリーばかり見ているのはそういうことなのかも。
ノルウェー=アメリカ映画で、Joaquin Phoenixがエグゼクティブ・プロデューサーに入っていて、Paul Thomas Andersonが絶賛して、NYFFでも上映されていた。NYFFもバーチャルでやっていたのだが、VPNで繋ぎにいったら”Proxy経由はだめよ”って言われてしまったので諦めたの。
モノクロ(ややセピアがかっている?)の、でも解像度は高い映像で、小屋の入り口に頭だけ見せて転がっているでっかい豚さんがいる。しばらくするとその顔に被さるようにちっちゃい3匹の子豚がぴょこぴょこ現れて暴れだして、ブーフーウーかよ、とか思うのだが、この時点 - 開始約3分 - でやられる。
字幕もナレーションも音楽もなくて、彼らが”Babe” (1995) みたいに喋りだすこともなくて、小屋のなかにカメラとマイクを置いて映りこむもの聞こえてくる音を全開にして豚さんと同じように寝転がって、気分はほぼ豚か小屋に住む虫になるかんじ。寝転がっていた大豚は子豚たちのママで、暫くは授乳できーきーおしくらまんじゅうをする大小の肉の塊ばかりなのだが、いくらでも見ていられる。ママが子豚一匹を踏んづけて(早くどいてあげてよ)、その子豚は片脚を引き摺るようになるのだがそんな子豚の様子も追っていけるくらいの映像の近さと細かさ。
それから画面は木の繁みに捨てられた(?)籠から姿を現すニワトリたちの方に行って、うち一羽は片脚しかなくて、たぶんこの子たちは不要な奴として捨てられた鶏たちであることがわかるのだが、その一羽の表情とか動き – そのフィギュアの強さときたらすごい。絶対彼は自分がどういうことになっているかわかっていて、これからどうすべきかを考えて、次の一歩を(一本しかない脚で)踏みだそうとしている。まるで西部劇のオープニングみたいに。
続いては牛がいっぱいの牧場で、牛たちの顔や体にはハエがわんわんたかってすごいのだが、そのうち2頭が頭と尻尾を互い違いに縦に並んで、それぞれの尻尾でそれぞれの顔に寄ってくるハエを掃うようになって、それを他の牛たちも組をつくってなんとなく真似していくの。エコシステムの組成。 なんかすごい。
そこからまた元の豚親子に戻って、子豚たちは結構大きくなって母豚と外を歩き回るようになっているのだが、ある日車がやってきて..
すべて同じ牧場で撮られたものかと思ったら、ロケーションはノルウェー、スペイン、UKとぜんぶ分かれているのだった。 人間の姿は影もなく、声も言葉も一切聞こえてこない、字幕はエンドタイトルのみ、それでもドキュメンタリーと呼べるのか、監視カメラの映像と同じようなものではないか、と言うかもしれない。けど彼らのキュートさに粉々にされながら見ていると、「家畜」という人が作りだした「種」とは異なる生命のありようについて、食肉という古来から続いている食のありようについて、気がつけば振り返っていたりする。Joaquin Phoenixの狙いもその辺にあったのではないか。
我々はなにをやってきたのか、なんということをしてきたのだろうか、と。このシステムを変えようとかそういう話ではないし、簡単に変えられるとも思えないし、自分がヴィーガンになるとも思えないのだが、この後に彼らに起こるであろうこと(についてのドキュメンタリーは結構見ている)を想像したり、反省したり感謝することくらいはいくらでもしてよいはず。
あと、おいしい食事は本当に人を幸せにしてくれる、その横にここの豚さんたちの映像を重ねてみること、かな。
とにかく、豚マニア、鶏マニア、牛マニアの人、動物映画好きの人もそれぞれ必見。
UKやヨーロッパ諸国がこのタイミングでロックダウンに入っているのはこのクリスマスをみんなで迎えられるように/迎えたい – なんとしても。という思惑があるわけだが、仮にフルとは言わないまでもそこそこ楽しむことができるかも、となった時、食べ物をどこからどうするか、をそろそろみんな考え始めている。これまでパリに日帰りで買い出しに行っていたのだが、今年は無理そうだし(まだ希望は捨てていない)、そうなると春から夏にかけて発見した近所の八百屋や肉屋で賄うしかない。これらのお店の実力はまったく申し分ないのだが、来月のあの頃にどんなものが入ってきているか予測がつかない(基本旬のものしか置いていないから)..
11.18.2020
[film] Les nuits de la pleine lune (1984)
7日、土曜日の晩、MUBIで見ました。英語題は“Full Moon in Paris”、邦題は『満月の夜』。
Éric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの4つめ。冒頭に出てくる箴言は - “He one who has two wives loses his soul, he who has two houses loses his mind” – これ、ル・カレの『パーフェクト・スパイ』にも同じようなの出てこなかったっけ?(←確認したいのだが、本が..)
パリの郊外のアパートに恋人のRémi (Tchéky Karyo)と暮らすLouise (Pascale Ogier)がいて、パリのデザイン事務所でインターンをしているLouiseはそこにもアパートを借りていて、そこを起点にパーティに出かけたり友達を呼んだりしている。Rémiは筋トレ野郎でテニスとかもやっているので彼女が朝帰りする頃には寝ているし、互いに干渉しなくていいでしょ、と。
そうやって夜遊びするLouiseに近づいているのが作家のOctave (Fabrice Luchini)で、妻子持ちでずっとべらべら喋っていて高慢ちきで見るからにやなやつなのだが、パーティで彼が傍にいてくれることとか、彼の助言や(時としてうざい)おせっかいは、パリに遊んで生きる彼女のなにかを満たしてくれているらしい。
でもそのうち、パリと郊外の家を行ったり来たりが続いてRémiからもOctaveからもあれこれ言われて互いにぎすぎすしたり疲弊したりが嫌になったLouiseは、その辺にいたバンドのサックス奏者Bastien (Christian Vadim)を引っかけて夜の街に..
Louiseはパリにいるといろんな人が声をかけてくる、と言い、他方でわたしにはひとりになれる場所が必要、とも言い、ふたつの部屋についてもどっちも必要だ、と言いつつ、どちらにも長く居られないので往復を繰り返す。そんな居場所を失った亡命者のようにパリに滞在して満月に向かって走っていくの。
これはいろんな点で喜劇と箴言の他の5作品とは異なっている気がしてー。
まず84年という時代とパリという地域の特性が前面に出ている、ということ。Louiseの住んでいるところはパリとの対照でなにもない荒地のように描かれて、駅に近いのだけがよいところ、とか言われる。『飛行士の妻』(1981)もパリだけど、あれはパリじゃなくても成立しそうなお話しで、『満月の夜』の主役はLouiseとパリの街で、あの当時のあのファッションとチープな音楽(担当のふたりはStinky Toysの人達だったのね)と田舎モノには逆立ちしても真似できないデコールや小物のセンスがある。
そしてもちろん、主演のPascale Ogierの突出っぷり。他の作品でも女優さんはみなすばらしくて、それぞれ周りの人達とのやりとりの中で押したり押されたり泣いて泣かされ突っ走ってをしていくのだが、ここでのOgierは自分の、世界の女王としてすべてを決めて闇も光も堂々とひっかぶる、その舞台の上にいる強さ。Production DesignもCostume Designも彼女で、Renato Bertaのソリッドなカメラが捉えたパリの夜も含めてこの映画の主なところを決めてしまっている。
こうしてフロントに出てきたPascale Ogierに対する反動というか痛めつけというのか、この作品は6作のなかでもっとも暴力(SM?)的な要素と予感に満ちていると思う。後半に向かうにつれて執拗になっていくOctaveの言い寄り(ほぼハラスメント)とかLouiseとわかりあうことができないよう、って突然自分をぶん殴ってしまうRémiとか。
この辺で、ホン・サンスのことも少し思った。中心にいるPascale Ogierがこの映画のリリース直後に夭折しなければ、ホン・サンス映画のMin-hee Kimのようなミューズになっただろうか?(いや、それはまずない)
喜劇も箴言も場所や時代を超えた普遍性をもって伝えられて広がってきたもので、今回追ってみた6作(『緑の光線』だけこれから)のちっとも古びていないかんじは見事としか言いようがないのだが、この作品だけは別の意味でクラシックになっていると思った。 公園とか海辺にはない、それって満月の力なのかもしれない。