2日の日曜日、脳みそはとっくに溶けて流れ出しているような昼間、もう終っちゃうらしいと聞いて慌てて上井草、ていうとこまで行った。
ちひろ美術館での、没後10年「長新太の脳内地図」展
だいすき。 というか全体としてなんかたまんないかんじ。
具体的にどんなかんじかというと、展覧会のチラシにあった文言のような。
『片方の耳をネジのように巻くと、
脳ミソのゼンマイが回転を始め、
シュルレアリスムふうな発想が、
鼻の穴から出てくる。』
ピカソとかミロとかクレーとか、あのへんの抽象ぐあいとはちょっと違うの。
欧米だとエドワード・リアあたり、だねえ。
鼻の穴からにゅるにゅる出てきたのが瞼の裏側にひっついて、ひくひく動いてこそばゆくてたまんなくなる。
1階の展示室に「イマジネーション」、2階の展示室に「センスとナンセンス」。
1階が脳ミソのゼンマイが回転を始めたところで生まれた色とか形、変てこな生物とか動物とか。
2階が鼻の穴から出てきた線と言葉、それらが織りなす鼻歌とか詩とか。
1階は陽気で元気いっぱいに画面いっぱいに広がって、絵が生きているかんじ。
「ぼくのくれよん」「はるですよふくろうおばさん」「キャベツくん」「イカタコつるつる」「ブタとタコのダンス」「ゆうちゃんとへんてこライオン」「まねっこねこちゃん」「ゴムあたまポンたろう」「みみずのおっさん」「びっくり水族館」のびっくりな連中 - オジサンジュゴン、ダメタコ、ブタハナウオ、パンツイカ、などなど。
谷川俊太郎さんが言うように「言語の被膜を取り去った本当の現実の手触り」がそこにはあるの。
2階は、ではその現実の手触りにもういちど言語のヒモとか被膜を結んだり被せたりしてみる、そういう試みが拡げてみせる世界の切れ端。 ダリやキリコのそれとはやっぱりちがう。
「ちへいせんのみえるところ」「わたしのうみべ」「つきよのかいじゅう」「だっこだっこねえだっこ」「ぶうぶうぶうぶうねえだっこ」「ちらかしくん」「つみつみニャー」、などなど。
そこには意味を取り払われたただただシンプルで自由な線があって、そこに詩の言葉が絡んで、ふたりでダンスをするの。
「プラテーロとわたし」の泣きたくなるかんじ。 ロバってなんであんな哀しくて泣きたくなるのか、わかんないよねえ、とか。
あーとにかくうつくしー、てふつうに素直に言える展覧会だった。 そういうのひさびさ。
8.13.2015
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