7.31.2015

[film] Ich will nicht nur, daß ihr mich liebt (1992)

25日、ファスビンダーイベントの続き。まずは92年に作られたHans Günther Pflaumによるドキュメンタリー鑑賞から。

『少しの愛だけでなく』 - 英語題は、“I Don't Just Want You to Love Me”。

これ、ファスビンダー(以下、RWF)の76年作品 -
“Ich will doch nur, daß ihr mich liebt” 
『少しの愛だけでも』 - “I Only Want You to Love Me” - とひっかけているのね。

『少しの愛だけでなく』に続くのは「もっといっぱいくれ」だろうし、『少しの愛だけでも』に続くのは「ないよりはまし」.. なのかしら。

RWF自身の若い頃から全盛期までのアーカイブ映像やインタビュー映像を中心に、Harry Baer、Karlheinz Böhm、Ingrid Caven、Hanna Schygullaといった俳優陣からMichael Ballhaus、Dietrich Lohmannといったカメラマンとかプロデューサーとか、RFWの映画製作に関わった関係者インタビュー映像を挟んだり繋いだりしながら、映画への愛、映画製作への愛、映画に描かれた世界への愛(+憎悪)、登場人物への愛(+憎悪)、いろんな愛(+憎悪)に溢れた彼の映画をいろんな方向から明らかにしていく。

区切られた章立てごとに、沢山の人たちが登場するのだが、あまり突飛な印象もびっくりな証言もなく、各証言内容の通りにきちんと映画は作られていて、そこにものすごい驚きとか感動はなくて、極めてまっとうなかんじ。ただ、そのまっとうさも、37歳で亡くなるまで、キャリア16年の間に25本の映画(除く短編)、16本のTV用作品を作った - それもあれだけのテーマとジャンルに、正調メロドラマから変態モノまで - をぶちこんで、ということをやった、その事実だけでもすごいねえ、と改めて思って、そしてなによりもRWFの映画を端から端まで見たくなる。そういう意味ではものすごくよくできた予告編、のようなかんじかもしれない。

このドキュメンタリー映画上映のあと、シンポジウムということで3人の方の発表(各20分)+ 3人によるトーク(60分)。 用事があったので2人分の発表までしか聞けなかったのが残念。

最初のが斉藤綾子さんによる発表 - 「ジェンダー・トラブルメーカーとしてのファスビンダー」。

フェミニズム批評、ジェンダー批評の立場からみたRWFの映画を。
「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」(1972)のことをあんなミソジニー映画はない、と言うのはごもっともと思うし、ごく普通に典型的な男根主義野郎(RWFの映画に出てくる男って、ほぼだいたいXX野郎、で通じる)、とか思ってしまいがちだが、他方であらゆるタイプの女性、あらゆるタイプの愛、階級人種を跨いだ愛、異性愛、同性愛、Queerまで扱っていることも確かだなあ、とか。

男に甘く、女に厳しい、というのは、女性性が模範的なジェンダー型を強化してしまうだけではないか、というところはあーそうかもー、て思った。

そして「マリア・ブラウンの結婚」 (1979)のめちゃくちゃおもしろいシーン。
夫ヘルマンは戦死したと思ってマリアはアメリカ兵ビルと寝室でいちゃいちゃしてたらヘルマンがそれをじっと見ていて修羅場がくるぅ、と思ったらビール瓶でごん、のとこ。

確かに、この場面の愛憎模様には戦争も歴史も性差も人種もぜんぶがダンゴになって記号として渦を巻いているし、いちゃいちゃするときに扉は閉めとけ、とか大切なことも教えてくれるねえ。


それから映画監督、筒井武文さんによる「現在からみたファスビンダーの映画技法」。
これがまた、このために1ヶ月でRWFを37本見たという監督の爆走がすさまじくおもしろく、20分なんかではぜんぜん終らず止まらず、6時過ぎで出ねばならないときもまだ走り続けていた。

以下、語られたことをランダムに。

■2作目から11作目までを1年3ヶ月で撮っていて、そのどれもがおもしろい。
 60年代ゴダールを2年でやってしまっているかんじ。

■いろんな映画のジャンルを借りつつも、なぜその映画を撮るのかを明示的に示しているすごさ。

■「出稼ぎ野郎」(1969) のカメラ。 「少しの愛だけでなく」のなかで、でっかいカメラを借りたのでああいう動きをせざるをえなかった、という証言があったが、それにしても。

■撮り方が決まっているので人物配置や向き方が異様に際立つ。

■日常に近いのだがそうではないおもしろさがある。

■正統的、でも特別な瞬間を作らない - シャブロルのように、ここを見なさいという瞬間がRWFにはない。

■「エフィ・ブリースト」 (1974) の前半と後半でカメラが変わる(Dietrich Lohmann → Jürgen Jürges)のに統一感が保たれている件。

■「悪魔のやから」(1976) のMichael Ballhaus → Jürgen Jürgesはカメラの違いが割とわかる。 何故Michael Ballhausと別れたのかは、よくわからない。

■「ベルリン・アレクサンダー広場」(1980) 以降の光の効果のすばらしさ。

■カメラはFixが基本で、人物が動いていくことで物語が浮かびあがる。

■ベッドルームが他の部屋から簡単に覗かれてしまう。覗かれることを前提にしたような空間設計になっている。

■鏡がいっぱい出てくる、加えてガラス越しのショットで、その手前にモノがごちゃごちゃいっぱいある件。 対象をどこからどういう距離で撮るか、についての考察が常にある。

■「デスペア」(1978)のガラス張りだらけの異様さ。 遠ざかっていくカメラ、何から遠ざかるのか - 客から、自分の分身から。

■ナチスが政権を取る直前を舞台にした「デスペア」 - 「マリア・ブラウン」- 「ベルリン」-  全て戦争、というテーマで繋がっている。

などなどなど。
難しい言葉はなしで、簡潔で、なんてわかっちゃうことだろう、てふるえるくらいおもしろかった。
RWFの空間配置のことを聞いていて、これ、溝口の「格子」に近いのかどうなのか、とか思った。

お金払ってもいいからもう一回聞きたいなー。
このあとの討論は、どんな修羅場が繰り広げられたのだらうー。


今晩も国会前に行ったのだったが、NSAのばかやろのせいで出るのが遅れた。 でもNSAよりもっとバカなのは盗聴されてる政権共だわ。 あれだけへーこらすりすりして、それでも盗聴されてやんの。
あーみっともな。

もう7月もおわりだなんて。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。