12日、日曜日の午後、新宿でみました。
『コングレス未来学会議』
原作のレムの『泰平ヨンの未来学会議』は今ぱらぱら読んでいるのだが、なんか随分印象がちがう。
女優のRobin Wright(実名でそのまま)は二人の子供を育てつつ空港の傍の元格納庫に暮らしていて、既に女優としてのピークは過ぎている。 スタジオ(Miramount だって)は、女優としてのRobin Wrightをぜんぶバーチャルでパッケージする契約を結ばないかと言ってくる。 スタジオ側は君の我儘や年齢による劣化を気にすることなく制作に没頭できるし、君はそれなりの金を手にしてあとは好きに自由に暮らすことができる、悪いことなにひとつないでしょ、と。
悩んだ末に彼女がバーチャライズを承諾してそのためのスキャンを実行する迄が前半。
そこから20年後、その契約更改と「未来学会議」でスピーチをするために彼女がAbrahama Cityに向かうところからが後半。 Cityの入り口で薬物を飲んだところで全てはアニメ化して、人々はぺらぺらのアバターとして人々と関わるようになっていて、で、なにか問題でも?
はじめに自身をバーチャル化/デジタル化することへのちょっとした抵抗があり、そこからなんでもかんでもバーチャル/デジタルにしちゃえばいいじゃんとなり、更にそのデジタル化された自身(のプログラム)に自在にアクセスできるようになれば、あなたは簡単にわたしにも、誰にでもなれる - コミュニケーションとか簡単だし楽になるし気持ちいいに決まってる。 というふうに世界は一気にそこまで、らりらりの方へ行ってしまっているのだった。
自我とか身体とか倫理とか、そういうのをとりあえず置いておいて欲望とか産業はそこまで突っ走って、仮想化された世界が現実を浸食しはじめる - ていうか現実、別にいらないよね、そこに拘る必要、どっかにある? という問いとともに最後に再び現実と仮想の対比がちょっと切なく描かれる。
前半のバーチャル化までは映画産業の要請ということでわかりやすいのだが、後半の解り難さってなんなのだろう、て思っていた。 自分のアバターが他者とコミュニケーションする、とか今でもSNSとかでやっていそうなのだが、たぶんそれって、今のところは「正常」なコミュニケーションを補完する何かでしかないから、なのかもしれない。とか、肉(身体)はどうするんだ肉は、とか。
そういう問題提起も含めた「未来学会議」ということなら、わかんないこともないかも。
監督のAri Folmanは、前作の”Vals Im Bashir” (2008)では記憶の欠落をテーマにして、今回のは身体性の欠落をテーマにして、アニメーションの可能性を探求している、のかしら。 べつにアニメじゃなくてもよい気もする、アニメというより昔の「ガロ」とかに出ていた漫画に近いかんじ。
音楽は、Bob DylanとLeonard Cohenでそこらへんもまた。
7.19.2015
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