18日、土曜日の午後、渋谷でみました。 『ターナー、光に愛を求めて』
英国の画家、J.M.W.ターナー(1775-1851)の評伝映画。
オランダへの遠征から帰国するところから始まって、ターナー(Timothy Spall)は既に英国画壇でその名声を確立しているらしい。
まずとにかく、稀に見るものすごい醜男映画で、どこを切ってもおっさんと醜男しか出てこない。
ターナーの父親が市場で買ってきた豚の頭の毛剃りをして、その場面に続けてターナーの髭を剃るとこがあるのだが、それくらい主人公の扱いとしてはひどい。 豚なみ。
で、そういう醜男が美の、美術の世界に生きているという不思議。
でも、彼の創りだす美の不思議やその秘密や技法が明らかにされるわけではないし、その名声や評価を巡って輝かしいスポットがあたる瞬間が現れるわけでもない。 家族(父親とか前妻)や召使、海辺の町マーゲイトで知り合った船大工の妻といった身の回り- 彼の周囲で彼の面倒を見る人達 - ほとんど女性、偏屈な連中ばっかりの美術アカデミー - ほとんど男性 - との間でぜいぜいふうふうぶつぶつ文句言いながら絵を描いていく彼の姿がほとんどで、それは神秘的な美の世界にひっそりと暮らすというよりは、地味な職人とか職工とかそういう世界であってもおかしくないような、そんなざらっとしたトーン。
画材を担いで屋外に、窓の外に出ていく画家、場合によっては船に自らを縛りつけて荒れ狂う海を観察する。スポンサーの言う通りにアトリエに籠ってこまこま世界を構築するのではない、そういう半野人の知覚嗅覚をもつ画家としてのターナー。
意匠としての美、確立された美の世界を追求するのではなく、例えば繭のように輝く光をまるごと、光が照らしだす、光が網膜に作用するなにかを画布に浮かびあがらせる、叩きつける、美だなんだ以前のところでそういう試みを仕掛けた先駆(でも光に愛は求め.. ないよ)としてターナーを置いていて、そこはおもしろいかも。
特に、ラスキンが出てきてクロード・ロランと彼を並べて、ロランをけなしてターナーをもちあげるとことか。
(ラスキンて、コンスタブルとターナーの比較をやっていたのは知っていたけど、これもあったのね)
ていうような位置関係とか、写真技術が出てきて、印象派が出てくる少し前の時代のアートに興味があるひと、あと醜男に萌えてたまんないひとは、見たほうがよいかも。
個人的には『失われた時を求めて』のエルスチールのモデルはターナーだったのか問題をじっくり掘ってみたいのだが、そんな余裕どこにあるのやら、だねえ。
あと、ターナー(特に後期の)は続けて浸っているとほんとにこのひと、薬でもやっていたんじゃないか、みたいに心配になってくるくらいすごいので、興味をもったひとはTate Britainの常設展示を見てみませう。
そういえばこの映画も昨年のソニーのサイバー攻撃の際に流出してしまった1本だったのだが、流出してもあんま売れなかったのではないか、とか余計な心配をしてみたり。
7.22.2015
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