8日の水曜日の晩、日本橋のシネコンで見ました。
National Theatre Live 2015の3つめ。 とりあえず、程度で行ってみたのだが、すごーくおもしろかった。
英国のDavid Hareの戯曲で初演は1995年のWest End、これが2014年に再演されて、このプロダクションはそのままBroadwayに持ちこまれて、ついこないだ - 6月末まで上演されていた。
96年のLaurence Olivier Awardを受賞している。
演出はStephen Daldry、登場人物はトム(Bill Nighy)、キーラ(Carey Mulligan)、エドワード(Matthew Beard)の3人、場所は一人暮らしのキーラの部屋、時間は夜から翌朝まで。
トム役のBill Nighyは96年以来の再演。 (その前の同役はMichael Gambonだって)
寒そうな夜、しょぼいヒーターひとつ、殺風景なワンルームの部屋にキーラが仕事から帰ってきて荷物を置いたところに、突然エドワードが現れる。
ふたりは久々の再会のようで、その関係は始めよくわからないのだが、かつて同じ家に住んでいたらしいこと、エドワードの母アリスが亡くなってから父トムの挙動がおかしくなって我慢ならないこと、突然出て行ってしまったキーラの事情はわかるものの、できればふたりがよりを戻してもらいたいと思っていることがなんとなくわかり、でもキーラはそのことはもう終ったし考えたくないのだと。 (でも明らかに揺れている)
エドワードが出ていって暫くするとドアベルがけたたましく鳴ってトムが現れる。
キーラはなによこれ、と動揺しつつ、トムも穏やかな訪問と再会を装いつつ、キーラは平静を保つためか夕食(野菜を切って鍋に入れ、ボロネーゼを作ってパスタを - 本当に調理しているぽい)を作りながら応戦する。
トムは上背も態度もでっかくてじたばたやかましくて、社長をやっているので羽振りもよさそうで、あれこれ自慢だの強がりだのを言うもののキーラは別世界のこととしてあんま相手にしない、よかったねがんばってね、程度。
でも話は否が応でもふたりが出会った頃、ひとつの家に暮らしていた頃、キーラが出て行ってからのこと、に流れていく。 キーラがいなくなって、アリスもいなくなって、その不在をきちんとのみこめず適応できない彼は、キーラに対して、君はどうなのか、こんな治安のよくない地域の貧相な部屋で、教師なんかしながらずっとそうやっていくつもりなのか? とか。
こうして諍いのラウンド1のゴングが鳴って、パスタは台無しになって、でもとりあえずの親密なハグに至るまでが1幕、2幕目はもう一回、「愛」を巡る対話がとてつもない溝を掘って拡げて伸ばして止まらなくなる。
過去とか境遇とか格差とか性差とか価値観とか、果たしてそれらは壁なのか闇なのか溝なのか、それらを乗り越えて愛は如何にして可能となるのか、そもそも愛ってそうやって掘ったり越えたりしたところにあるものなのかどうなのか、それから更にくどいようで申し訳ないけど、幸福ってのはどうなのかな、とか。 そういうものすごくいろんなことをボロネーゼみたいに煮込んで煮詰めて考えさせて、でもほんとは、いちばん食べたいのは誰かが持ってきてくれるおいしい朝ごはんなんだよ、とか。
そういうのが、あーあ言っちゃったよ(口を覆う)、形式で互いに積みあがっては崩され、やがて取り返しのつかないなにかというべきか取り返されたなにかというべきか、に至るまでを克明に刻む。 取り返しのつかないかたちで取り返されたなにかに雪と朝の光がやさしく降り注ぐ。
果たしてこれは修羅場、だったのか、ただほんの少しどたばたした寒い夜と暖かい朝に過ぎなかったのではないか、とか。
あと、ここで展開され、両者がぶつけあったことって、90年代中頃の(に出てきた)ものかも、ていうのもあって、でそれはそのまま今、もろど真んなかの愛を巡るテーマであることだねえ。
(別にほっときゃいいじゃんうるせえや、ていうのが80年代 ..)
Carey Mulliganさんのしかめっ面、放心、泣き顔も素晴らしいのだが、とにかくこの舞台はBill Nighyどまんなか、直立類人猿の表情と挙動ですべてを圧倒しなぎ倒す、誰もが期待するBill Nighyの決定版を見ることができたのもよかったの。
7.12.2015
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