7.18.2015

[art] Helene Schjerfbeck: Reflections

10日の金曜日、急に晴れやがったせいだかなんだか、目眩と頭痛で昼過ぎになっても立ち上がれず、3時過ぎによろよろと這いだして上野に出ました。 なんで上野にしたのか、もうよくおぼえてないわ。

そういえば鳥獣戯画、終っちゃってたねえ(ぷん、べつにいいけど)、と東博の本館で小特集『書画の展開―安土桃山~江戸』ていうのだけ見る。

夏の一枚、ということで円山応挙「朝顔狗子図杉戸」(1784)。
板戸の上に青紫の朝顔と丸っこい子犬ころ共(白2茶1)がのったりべっちゃりしている。
杉の板戸っていうのがその木目も含めて素敵で、朝顔も犬ころもその上で気持ちよさそうにしゅるしゅるごろごろしている夏の極楽図なの。

その隣にあった酒井抱一「洋犬図絵馬 」(1814)は、その和犬ころに苦虫つぶして喧嘩を売ろうとしている不良の洋犬で、悪くはないのだが、ころ犬の垂れ目には勝てないかんじ。

他には長沢芦雪の「雀図扇面 」もよくて、あの扇でぱたぱたしたい。雀の羽音がするんだよ。

そこを出たとこで16:20くらい、すこし早歩きで東京藝術大学大学美術館に向かって、これ見ました。

『ヘレン・シャルフベック――魂のまなざし』

展示は3階のみだったので、30分で十分だった。はじめ順路を逆でまわってしまい、戻って2回転くらいした。

フィンランドの女性画家(1862 - 1946)。
3歳のときの怪我で足が不自由となり、21歳で婚約を破棄されて、50を過ぎて19歳年下の彼に恋をしてさらりとふられて、あんま幸せそうな生涯を送ったようには見えないのだが、絵にはそういうあれこれとは関係ない静謐さ - エモをみっしり塗りつぶす強さから遠く離れた絵画への素朴な愛と信頼 - コンポジションと色彩、筆やナイフへの迷いのなさ - があって、それは裏返せばあたしには絵しかないんだっていう悲愴さに見えないこともないのだが、それをうっすらとした希望に繋ぐような儚い、でもくっきりした生がそこにあるの。 長い間に描き続けられた沢山の自画像が示すのは決して「だいじょうぶだいじょうぶ」な呟きではなくて「それがなにか? ふん」なかんじがする。

北欧のあのへん、というのはあるのだろうか。
例えば、デンマークのハンマースホイ (1864-1916)、ノルウェーのムンク (1863- 1944)と並べてみることの意味とか(... あんまないか)。 1862, 63, 64年生まれの彼ら。

塗りこめられた芒洋とした不安とか孤独の向こうに、色と線のエッジに、うっすらと立ちのぼる生。 出会いへの希望とか憧れとか - がそこにないとは思えないの。

ここの次の展示「うらめしや~、冥途のみやげ」展も必見だね。

で、ここから国会前に行ったの。

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