9日の昼間、イメージフォーラムで見ました。 やっと見れた。
「イーダ」。 NYのバンドのIda(アイダ)、とはちょっとちがう。 たぶん。
60年代初、修道院で修練するイーダは誓願式の前に唯一の親戚であるらしい伯母に会ってくるように勧められて会いにいく。 初めて会う伯母はおっかなくてスモーカーで飲んだくれで、その伯母の車に乗って亡くなった両親の行方、その事情を探す旅に出る。 そのうちにわかってくる両親のこと、自分の出生、かつて「赤いヴァンダ」と呼ばれていた伯母の過去、などなど。
清く正しく箱のなかで育てられてきた少女イーダが世の中や自分の家族やポーランドでかつて起こったこと、ジャズバンドの男の子との出会い、などを通して自分は誰なのか?、世界はどういうものなのか、に目覚めていく話、のようでありながら、そんな単純な成長の物語ではなくて、それは並行してヴァンダが自身の過去を取り戻す物語でもあり、歴史と神を巡る物語でもあって、そういう単純さに還元させない意志、みたいのが漲っている。 最後まで仏頂面を崩さないイーダの、その目に宿るなにか - って一体なんなのか、を考えさせる力があるの。
神様がほんとうに神様としてあるのだとしたら、なんで歴史は、自分の家族は、あんなことになって、あんなふうに埋められてしまったのか、殺戮を実行した奴は既に寝たきりで、自分はたったひとりの身寄りすら救えなかったのか、そして世界とか文化とかは、なんであんなふうにして人々の間にあるのか、それはたんに過去を知った程度で、ジャズやセックスを知った程度でどうなるものでもなくて、じゃあどうするのか - ヴェールを脱いで誓願やめて堕靡泥の星にでもなるか、いやだからこそ真剣に神と世界に向きあうのだ、と言うか。
イーダとヴァンダのふたりの女性 - 終盤、どちらも自分の生を必死で自分の手元に手繰り寄せようとする - その眼差しを自分のものにしろ、これは自分のこと、あなたのことで、ポーランドのことでもホロコーストのことでも60年代のことでもないんだ、と。
モノクロのスタンダード、ずっと固定されていた画面がラスト、イーダの歩みに合わせてゆっくり動きだす、そこだけちょっとあざといかも、と思ったりしたが、そういうことであれば。
エンドロールの謝辞のなかにスコリモフスキの名前があったが、画面から伝わってくる必死さとか切迫感には彼の映画にあるのとおなじようななにかを感じることができる。 連帯。
イーダが今も生きていたら、映画のなかのヴァンダとおなじくらいの歳になっているはずだ。
今きみはどこにいるの? イーダ。
8.18.2014
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