10日の昼間、岩波ホールで見ました。 個人的には前日の「イーダ」で修道院・お祈りモードに入ってしまったので、その流れで。
台風? じゃんじゃんこい。
「大いなる沈黙へ -グランド・シャルトルーズ修道院」。 英語題は”Into Great Silence”。
アルプスの山奥、冬は雪で閉ざされてしまうような場所にある修道院の冬から夏の終わりくらいまでを追ったドキュメンタリー。 169分。
取材許可を貰うまでに16年かかって、取材の際の条件は、音楽なし、人工照明なし、ナレーションなし、中に入るのは監督ひとり、インタビュー的な対話もなし。 横にいてカメラをまわすのはよいが、一切干渉してはならぬ、と。
もともとが静かな修道院だから、大騒ぎが捲きおこるわけもなく、画面はとにかく静かでぴーんと。 客席の寝息のほうがうるさい。 でもまったく眠くはならなかったねえ。
たまに祈祷書だかなんだかの一節が文章で挟まったりするが、言葉で入ってくるはその程度。
お祈り、鐘つき、お食事、独居房へのお食事配布、猫へのお食事配布、新入居者、食後の歓談、事務処理、雪遊び、気候天候の変化、などなど。
例えばワイズマンの「エッセネ派」(1972) がそこに暮らす個々人の語りを通して宗教者の、宗教組織の苦悶・葛藤のあれこれをくっきり浮きあがらせたのに対して、こっちでは宗教的に、宗教のなかで、神と共に生きる、神になるべく生きる、というのはこの光、この時間、この外気、この無音のなかで生きることなのだ、というその環境と佇まいまるごと、総体が映しだされる。
彼らの宗教的な苦悶や葛藤や悟りを追跡追体験することなんてできるわけないが、彼らの精神が向かおうとしている境地、浄土のありよう、はこんなふうなんだろうな、というのは柔らかくわかる。 射しこんでくる朧げな光とか彼らの顔だちとかそういうので。
ふだんノイズのなかにどっぷり浸かって生きないわけにはいかない我々は、ああ、て思うしかない。 あそこにはぜったい行けない、ああはなれない、と。 同時に、あまりのギャップの激しさに、この隔たりをもたらしているのはなんなのか、これもまた神の思し召しなのかね、とか。 まあいろんなことを考えるわけさ。 ノイズまみれの汚れたあたまは。
デジタル撮影されたであろう画面はところどころ粗かったりするものの、結果としておもしろい効果を生んでいて実際に我々の目には見えそうにないようななにか、まで映っているような気がした。 聖なるもの、なんかではもちろんないのだが。
世界がこんなにひどくなっているなか、こんなふうな場所に籠って祈ることになんの、どんな意味があるのか、は当然出てくるであろう野次で、でもそんなやわなもんでないことはこの映画を見れば、ひとりひとりの顔を見ればわかる。 彼らはなんの代償も求めず命を懸けてお祈りしていて、神の顕現を信じていて、それはまだ道半ばなのだから、われわれが口を出すような性質の話ではないの。
猫に餌をあげるおじさんのとこがおもしろかった。 がんばってぬいぐるみで猫をあやそうとするけど、猫しらんぷり。
「リヴァイアサン」の真逆バージョン、として見ることもできるかも。
このあと、「トランスフォーマー」でも見ようかと思っていたのだが、やっぱし罰当たりな気がしたのでやめて、本屋もレコード屋も行かずにまっすぐ帰った。 よいこ。
8.18.2014
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。