5.23.2013

[film] 山の音 (1954)

12日の日曜日、また神保町の川端康成特集でみました。
どうせなら見れるだけみてやれ、とかてきとーに。

原作はうんと昔に読んだ、けどよくわかんなかった。歳とったので今読んだら少しはわかるようになったかしら。
この原作も『千羽鶴』とおなじく、各章が短編としていろんなところに発表されたものを束ねたもの。

鎌倉のほうで、二世帯同居している家があって、尾形信吾(山村聡)の夫婦と修一(上原謙)の長男夫婦の4人が暮らしていて、そこに長女(中北千枝子)が娘と赤ん坊を連れて出戻ってくる。

信吾と修一は同じ東京の会社に勤めていて、行きは一緒でも帰りは別が多い。 修一はどっかに女を作ってて家に帰るのは遅く、嫁の菊子(原節子)を幼稚だ愚鈍だとあまり相手にしないの。 自分の妻のいびきとか自身の老いにうんざりしてきている信吾は、健気にがんばる菊子を不憫に思って、だんだん彼女のほうに寄っていく。

老いと死を意識して、家族は勝手にそれぞれいろんな問題抱えてじたばたするし、いろんなことが自分の思うようにいかないので嫌になってきた老人が、そばにいた長男の嫁を自分と同じように不幸でかわいそうだと思いこんで、ぼうっと妄想し、その妄想にしがみつく。 「山の音」ていうのはそういうときにどっかから聞こえてくる音なの。 山の神が怒っているのか、なにもかも押し流してしまえ、なのか、自分の頭の奥でなにかが呻いているのか。 (映画のなかで明示的には鳴らないけど)

映画は原作ほどねっちりと老人の意識や生態を追っていくわけではなくて、ほんとに(一見)静かで穏やかなホームドラマの役割のなかにある家族のひとりひとりをとらえようとしていて、それゆえに、ちょっとした亀裂とか生々しいなにかが顔をのぞくその瞬間が実に鮮やかに残る。 
どこか遠くで光った稲妻の音が山肌に反響してなにかしら?と思う、そんな山の音。 
原節子の一瞬の顔の歪みとか鼻血とか。

家庭の抱える地獄って、なんなのかしら、と、そういうのを考えさせる。
ピークを過ぎてて会社からも社会からも離れつつある自分、会社と女中心で家には寝に帰るだけの長男、あの家以外に居場所も行く場所もない妻と嫁、家を出たけど戻って来ざるを得なかった娘と孫、それぞれの抱える苦難は、でも決して暴力とか災禍に曝されることはなくて、ある調和を保っている、あるいは保とうとして震えたりする。 
それってなんなのか、なんでなのかしら、と。 裕福なおうちだから、で果たして説明できるのか。

そういうもんもんを見る側の我々に抱えこませた後、ふたりが鎌倉を離れて電車で東京に向かい、公園を歩くラストがすばらしく開けて、よいの。「ヴィスタ」が。

映画の"Revolutionary Road" (2008) をもういっかい見てみたくなった。なんとなく。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。