"Leviathan"の後に続けてイメージフォーラム・フェスティバルで見ました。
最初の30分に(フェスティバルの)授賞式というのがあって、これってこういうイベントだったのね、とはじめてしった。
30年代から60年代まで、Edward Hopperの13枚の絵を実写で再現し、絵に登場する女性をShirleyと置いて、彼女の独白を絡ませる。
絵画と現実世界の対照のなかに、米国の30年代~60年代までの時事ニュースとEdward Hopperの世界を切りとる視線とShirleyの個人史を散らしてみるとどうなるか、という試み。
通常のドキュメンタリーだと、現実世界→絵画のアプローチ(画家はどうやって現実を絵画にしていったのか)を取って、このやり方はわかりやすいのだが、これは逆で、Edward Hopperの絵からひとりの女性(Shirley)の個人史をフィクションとして切り出そうとする。 でもこんなのNHKとかテレビ東京の割としょうもない美術番組がいつもやっているやつだし、あんま見る気もしなかったのだが、Edward Hopperというとこに少しだけ惹かれたの。
あの空っぽなEdward Hopperの絵からなにをどうやって引っ張りだそうというのか。
実写で再構成されたHopperの絵画(13枚)は以下(製作年代順。映画に出てきた順番はやや違っていたかも)。
Hotel Room (1931), Room in New York (1932), Night Windows (1938), New York Movie (1939), Office at Night (1940), Hotel Lobby (1943), Morning Sun (1952), Sunlight on Brownstones (1956), Western Motel (1957), Excursion into Philosophy (1959), A Woman in the Sun (1961), Intermission (1963), Chair Car (1965)
このうち、New York Movie (1939)のパートでは、(映画のなかの)シアターのスクリーンに William Wylerの"Dead End" (1937)が、Intermission (1963)のパートでは、Henri Colpiの"Une aussi longue absence" (1961) - 『かくも長き不在』 - が映っている。
Shirleyは女優で、シノプシスには"an attractive, charismatic, committed, emancipated woman"とある。彼女にはStephenていうフォトジャーナリストの彼がいて、ふたりは同棲している。 彼らが経由し、経験する大恐慌 ~ 第二次大戦 ~ 赤狩り ~ 公民権運動の時代の「アメリカ」を通して、Shirleyは再びなにかに目覚めて背中を押され、Living Theatreに参加すべく新たな旅立ちを決意する、と。
実写へのTransform - 再構成そのものはそれなりにちゃんとしていて、実写化によって当然リアリティも増し、そうすることでShirleyの声と生とはその記憶と個人史の重みをもっていろんなことを語り始め、更に選ばれた絵画と時代の推移に従ってそれは立派な物語として機能するようになる。
んで、そもそものEdward Hopperの絵を実写化することの意味、をずっと考えているのだがあんまよくわからないの。
Hopperの絵を語る際によく言われる「都市生活の孤独」みたいのって、ほんとかよ、と昔から思っていて、Hopperの絵は、記憶(個人の記憶、環境の記憶)からも場所の重力からもフリーでぺたんこでからっぽで、なーんも考えない動物みたいに窓のほう、光のほうを向いて突っ立っている、草を食むようにタバコを吸っている、ように見える。 (この動物化のトーンを更に皮膚の裏まで掘っていくとベーコンになる、のかも) それこそがHopperの絵画の魅力なのだと思っていた。 (Hopperの絵を暗いと思ったことはない)
というわけで、Edward Hopperから入るのって、わかりやすいし、やりやすいのかも、だけどそれでよいのかしら? と。
サブタイトルとして、"Visions of Reality"てつけてしまうのも。
このテーマならWarholとかLichtensteinとかでやったほうがおもしろくなったのでは。
そもそもなんで映画である必要があったのかなあ、とか。
5.13.2013
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