寒さがあんまり寒くなくなってしまった。 なんかかなしい。
15日から、MOMAでなぜか突然(でもないのか)はじまってしまったBernardo Bertolucciのレトロスペクティブ。 できるかぎりいくしかない。
オープニングの15日は『暗殺の森』で、監督本人が挨拶にきてて(『暗殺の森』はFilm Forumでも一週間上映されている)、この『暗殺のオペラ』も監督の挨拶つき、とあって、やな予感とともに1時間前に走りこんだら、やはり売り切れてて、スタンバイのながーい列ができていた。
金曜日なのにこれかよ、とぶつぶつ言いながらも並ぶしかなくて、よいこにして並んだら、ぎりぎりでチケットもらえた。(メンバーなのでタダ)
チケットをもらった背後で"Last One"ていう声が聞こえたので、にーって笑ってなかにはいる。
『暗殺のオペラ』(英題だと「蜘蛛の策略」)は、Bertolucciが撮影のVittorio Storaroと組んだ最初の作品であり、また彼の精神科の「症例」がはじまった作品(MOMAのひとの紹介)、でもある。
監督は車いすに乗ってて、ステージにはあがらずに「同じ目の高さで」挨拶した。
カウボーイみたいな帽子をかぶってさっそうとしているイメージがずっとあったので、ちょっとショックだった。
監督のお話はとてもおもしろかった。
自分の映画は最初の『殺し』(1962)から最新作の"The Dreamers"(2003)まで全てが繋がった1本の映画なんだって。それは、ひとつにはカメラで撮る、という点で、またひとつには自分のものの見方、考え方を反映している、という点で、ひとつの物語として一貫しているのだ、と。
(でも自分の映画を見るのは嫌い、だって)
この『暗殺のオペラ』については、これを撮ったすぐ後に『暗殺の森』を撮って、その後でふたつの編集室をいったりきたりしながら両方を仕上げていったので、自分の中ではこの2作品は同じひとつの夢とか妄想を共有しているかんじだという。 なるほどー
で、この作品は父と子の物語で、言いたいことは、父は息子ではない…(笑)と。
ボルヘスの短編("Tema del traidor y del héroe" - 『裏切り者と英雄のテーマ』)をベースにしているが、ボルヘスのと違うところは舞台をイタリアにしているところと、Incest - 近親相姦 -の要素を入れているところだ、と。
あと、年明けから新作の準備にかかって、夏頃には撮り始めたいって。
映画も、すんごくおもしろかった。『暗殺の森』(も再見しなきゃ)よりか好きかも。
Athos Magnaniがかつて父が暮らし、父が殺された町にやってくる。
彼は父とおなじ名前で、顔もおなじで(映画では2役)、父は反ファシズムの闘士で、ファシストに暗殺されて、町には父の彫像もある。
「みんなが友達」だというその町には老人と子供しかいないようで、そこに滞在して父の知り合いとか愛人とかを訪ね、生きていた頃の父の話を聞き、父の足跡を追っていくうちに父の死の真相にだんだんと近づいていく。
そんなことするつもりはなかったのにな。
その暴かれていくなにか、とは一体何なのか。 が、イタリアの田舎の乾いた、のんびりした夏の光景のなか、ボルヘス的な円環構造(すいか、蚊取線香、ハム、劇場、などなど)としてぐるーん、と描かれる。
それはぐるーん、でもあるし原題にもある絡めとられてしまう蜘蛛の巣でもある。
出来事は玉突きのように連鎖し伝播して転がっていくものの、巣の外に逃げることはできないの。
ファシズムと反ファシズム、英雄と裏切り者、過去と現在、昼と夜、そして父と子。
反転するわけでも、同化するわけでもない、なんでか入れ子になってて外れないんだよう。
でも難しい要素はぜんぜんなくて、光はどこまでもひたすら瑞々しく美しく、音楽は町の楽隊からVerdiのオペラまで痛快としか言いようのない大きさで堂々と鳴る。 カメラのゆっくりした動きもよくてさあ。
動物がいっぱいでてくるのもたのしい。オープニングの素朴な絵から、馬にうさぎにロバにライオン。
食べものもおいしそうで。すいかに吊るしハムにトリッパに。
こんな平和そうなところに、なんでファシズムなんて来たんだろうね。
というのは、じつはね...
いまの作家でいうとWes Andersonあたりに通じる若いかんじがありました。
そういえば、Wes Andersonも「父」にこだわる人だったね。
12.18.2010
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