12.28.2010

[film] Once Upon a Time in the West (1968)

というわけで、「八甲田山!」とかひとりでつぶやいてみてもぜんぜんしゃれにならない吹雪のなか、もと来た道をLincoln Centerのほうに戻る。 
信号が青に変わって反対側に渡るだけでも戦争してるみたいに難儀で、とつぜん背後から撃たれてしぬんじゃないかとか。 ...つくづくバカだ、とおもった。

で、雪吹雪がびゅうびゅうの日曜の晩8:15から、165分の映画をみる。 
頭のはんぶんは凍えてしんでて、あとのはんぶんは疲れてしんでる。 翌日はもちろん会社だ。

邦題は『ウェスタン』。

でも見てよかった。 しみじみ。
全身の力ぬいて、だれだれになって見てた。 これを極楽と呼ばずしてなんと。

この作品は、もともとTechniscopeていう技術で撮られていて、これのリストレーションは大変だった、といろんなところに書いてあるのだが、ほんとに見事な色、そして肌の質感。 とにかくでっかい音。

人やモノの動きは全て、極端に緩慢か、一瞬でカタをつけるか、そのどっちかしかない。
カメラの視野も全体を見渡せるか、極度なクローズアップかの、どっちかしかない。

それは夢のなかで起こること、夢のなかの動きとおなじようで、だからこれはアメリカの西にいっこの町をつくる、家をつくる、そこには美女がいて、食べ物がおいしくて、というイタリア人の(永遠の)夢とか快楽と連動した物語のひとつ、なのだとおもった。

ストーリーはDario Argento & Bernardo Bertolucci & Sergio Leoneによるもの。
この3人を並べてみるとようくわかるかも。 夢とコネクトしたかたちの現実を語る、夢や妄想が現実を侵食し、Overrideしていくさまを語る名手だから。

こうして、夢と共にゆっくりと形作られていく駅と酒場と町をまんなかにでかでかと置いて、そこに善玉と悪玉と美女と金持ちを呼びこんで、惨劇と復讐のものがたりを再生・反復していくこと。 
音楽はしぬほどドラマチックに、ダイナミックにけたたましく。 
汽車の音、馬の音、鳥の羽音はずっと流しっぱなしでおねがい。

全てが、かんぜんに作りもので人工であることがわかっているのに、なんでここまで魅せられ、そこに留まって凝視せざるを得ないのか。 夢とはそもそもそういうものだからだよ、よい夢も、悪夢もね、て言われている気がした。

そして、強烈な夢がそうであるように、夢のなかで切り取られた一瞬一瞬がいつまでも残る。
それは素晴らしいお食事とか素晴らしいKissとおなじように、たぶん絶対の、究極の快楽への入り口としてあるなにかで、そこに向かってレミングのように突っ込んでいくのがイタリア、なのだとおもう。

なんでこの作品の舞台をアメリカ西部に置いたのか。
それは彼らがイタリア人で、アメリカ人ではないから。 
どんなにがんばってもアメリカ人にはなれないから、なんだとおもった。


映画の帰りはなかなか緊張感があって、いかった。
雪の吹きだまりみたいのがあちこちにあって、はまったら抜けない気がした。
で、はまったら誰も助けにきてくれなくて、シャイニングのJackみたいに凍って発見されちゃうんだわ、って。



写真は、今朝の地下鉄のホーム。 「地下鉄」のホームになんで雪がつもるかね。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。