11.30.2010

[film] The Grapes of Wrath (1940)

ワイマール映画が終わってMOMAを出たとこで4:00ちょうど。
ここから4:30までにFilm Forumに行くには結構、相当しんどいのだが、すこし走ったらなんとかなった。
お手洗い行って、ポップコーンとお茶買って、席ついたら4:30。 Beautiful、だわ。

スタインベックの『怒りの葡萄』を原作にしたJohn Fordの40年作品。
小説と映画、今やどっちが作品として有名なんだろ。

公開70周年を記念して35mmのニュープリントが焼かれて、そいつが、2週間だけ公開されている。
70歳を迎えた映画とは思えない瑞々しさ、そして古老の巨大さと偉大さはそのままに。

大恐慌時代のアメリカの苦悶の民衆史とか、抑圧と怒りとか、社会構造と貧困とか、そういう問題意識からかぶりついてみるのもいいだろうし、単にひー、屑ばっかしだったとしてもいまの時代に生まれといてよかった、とか胸をなでおろすのもありなのだろうが、この映画で見るべきなのは、やはりその深く黒々とした映像の美しさ - それを美しさと呼んでいいのかわからないが、何故か我々を釘付けにする闇の深さ - ではないか。 

ひとはこの闇の前になすすべもなく立ちつくし、凝視するしかなく、しかし遠くからの声とかノイズとか - The Sound and the Fury - ははっきりと、繰り返し反響していくのを聞き、感じることができる。

この映画に関しては、ダイアログとか字幕はそんなに重要ではなくて(いや重要だけど、まずは)、全神経を目と耳にしてその世界に入ってしまえばよくて、これはそれだけのスケールのでっかい作品なんだとおもう。

MOMAのワイマールのを見てもしみじみ思ったことだが、白と黒の、光と影の間、映画の闇のむこうにはどれだけ深くおそろしい業だの霊だのが宿っていることか。
それらは映画製作者たちによって作りだされたというよりも、呼びよせられて、吸いよせられるようにそこに何かが来たのだとおもう。 そうとしか思えないような、磁場のような、霊場のような光と影のありよう。

というわけで、この映画のGregg Tolandのカメラはほんとうにすごい。
しばしばDorothea LangeやWalker Evansの写真に比較されて語られることが多いが、あれよかすごいと思う。

もちろん、他も、アカデミー助演女優賞をとったMa(おっかさん)もよいし、それを俳優さんの演技とは呼びたくないくらいに暗く、小汚くじっとりとしたHenry Fondaも。

この映画でのHenry Fondaは、顔よりもその声、重く沈んで粗く、でも耳に残って消えない声だとおもう。
そしてその声が、”I'll be all around in the dark - I'll be everywhere.” というとき、その声はほんとうにそこに、それこそeverywhereにあって、この声を起点としてSpringsteenは"The Ghost of Tom Joad"を書いたのではないか。

というようなことを、Peter Bogdanovichさんも書いている。(出典はどこだろ)

"There is possibly no more touching utopian speech in pictures than Tom Joad's vision of a better world at the conclusion of Steinbeck and Ford's The Grapes of Wrath, but it is Fonda's extraordinarily beautiful incarnation of this man and those words that makes the moment both transfixing and ultimately transcendent. 'I'll be here,' he concludes; and Springsteen is right that the ghost of Tom Joad will always be there to haunt American for its broken promises?the ghost of Henry Fonda as well, having merged seamlessly into that outlaw mystic."

そして、こういう映画がリバイバルされるたびに言われる「今でこそ見られるべき映画」みたいな賛辞については、思考停止だろと言われることを百も承知の上で、それでもやっぱし今でこそ、と言うほかない。

Tom Joadの声が至るところで、いまだに止まないのと同じように、アメリカの富裕層~支配階級のとんちきな豚頭も性懲りもなく変わっておらず、今やそれは間違いなく世界中に、無反省にひろまってしまっているに違いないからー。

そして、この作品は、昨今撮られているどんなドキュメンタリーよりも雄弁に、語るべきことを語って揺るがないのであった。 

[film] Varieté (Variety) (1925)

日曜日は、翌日から会社だし、なんかゆううつだったので、映画2本だけ。

2:30から、MOMAのワイマール映画特集で、25年、Ewald Andre Dupont による"Varieté (Variety)"。 
別の英題として"Jealousy"。

頑固で口をわらない服役囚28号がぼつぼつと語り始めた殺人の成りゆき。
(この映画もサイレントで、ピアノ伴奏+英語の通訳ヴォイス入り)

彼は空中ブランコの曲芸師で、Berta-Marieていう美人のパートナーができて、ショーで成功したいという野望が出てきたところにハンサムな曲芸師が現れて、一緒に組んで当てよう、ということになり、実際にショーは成功するのだが、彼はこいつがBerta-Marieを誘惑しているとおもいこんで、嫉妬に狂いはじめて、で最後には。

主人公の服役囚を演じるのが”The Last Laugh” (1924)のEmil Janningsで、"The Last Laugh"もほんとにすごくこわくて背筋の凍る映画でしたが、この映画の彼はあれよかリアルにこわい。 こわいったらこわい。
終盤、嫉妬に狂っていって、最後に相手を追いつめていくときの目のこわさときたら半端じゃない。
ほんとに狂ったひとでも、あんな目にはならないとおもう。

で、その目が、いまからおまえを殺す、ていう目をした目が、こっちに向かって歩いてくるわけですよ。 
子供がみたらぜったいびーびー泣く。 夢にでる。

あとは、空中ブランコ目線のカメラ(なかなかすごい)とか、それに興奮してざわざわする群衆とかがこまこまと、しかし見事に活写されている。 興奮のあまり煙草を食べちゃうおばさんとか、おかしい。

そういうもんだから、と言われたら、はあそうなのね、しか言えないのですけど、改めて、陰影のかっこいいとことか、画面構成の絵画みたいに決まっているとことか、すべてが極端で、凄すぎてあきれる。

映像における芸術-光と影とひとの動き、ひとの表情を白黒のフレーム上でどう表現し、実現するか、みたいなテーマは全てこの時点で、考えぬかれて、試されつくしているのではないか、という気すらした。

クライマックスの殺しのシーン以外でも、冒頭、刑務所の廊下を歩いていくその後ろ姿だけでも、既にものすごいなにかを語ってしまっている。

この特集、引続きいっぱい見たい。 
けど、ものすごく体力使って消耗することもたしか。 なんでかしら。

[film] Tiny Furniture (2010)

土曜日、54年のイタリア映画のあとで、ヴィレッジのIFCに移動してとっても現代アメリカした映画を見る。

現在24歳(映画出演時には22歳)のLena Dunham監督、主演、原作、による"Tiny Furniture"。 映画のサイトはこちら

この映画で2010 South By Southwest Narrative Feature Film Award ていうのと the 2010 Chicken & Egg Emergent Narrative Woman Director Award (←なんだろね)  ていうのを受賞している。

本人が主演している他に、実の母親も妹もそのままの役で出演している。でも名前は変えているので、リアル家族-お茶の間ドラマ、ではない。 はず。

実の母親はアーティストのLaurie Simmonsさん。 彼女のサイトを見ればああこのひとか、とわかるひともいることでしょう。

”Tiny Furniture”というのは、母親が自身のアート写真用に作成する小さなオブジェ(その撮影場面もでてくる)のことでもあるし、彼女が母親のスタジオ兼住居のなかで迷って途方に暮れる「大きな家具」-白いキャビネット棚、との対比としてもある、のだとおもう。

(あるいは、この映画自体も母親のプロジェクトの一環、として考えることにそんな違和感はないかも)

22歳のAura(監督本人)はカレッジを卒業して彼とも別れて、NYの母親の住処に戻ってきたのだが、母親は仕事で忙しいし、妹は詩のコンテストで賞貰ったりして優秀で、自分の居場所がない。飼ってた白ねずみはしんじゃうし。 レストランの予約受付のようなバイトをしたり、変な人たちと知りあって家に泊めてあげたり、つきあってみたりするが、長続きしない。 あたしのあしたはどっちだ。

で、この映画のコピーにあるように

"AURA WOULD LIKE YOU TO KNOW THAT SHE'S HAVING A VERY VERY HARD TIME"

と大文字のフォント(大)でわめいてみたりするものの、ふうん、みたいな反応しか返ってこない。

そんな、極めてオフビートな日々がAuraの仏頂面とトドみたいな体型と一緒に綴られているだけなのだが、なんかおかしい。 ものすごくおかしい。

この映画、Mumblecoreの流れに位置付けられるのかもしれないし、Wikiの同映画リストにも入っていたりするのだが、Mumblecoreの映画をちゃんと見たことがないのでなんとも言えない。
でも、例えば、"Greenberg"のかんじには近いことはわかる。

本人はうにゃうにゃあぷあぷしてて大変で全身パニックおこしているのに、周囲はぜんぜん気にしてなくて、がんばってくれたまえ、みたいな冷たさ。 そしてそれがぜんぜんかわいそうにみえない悲劇というか喜劇というか。

こんな内輪受けに終始するような映画を作ってなにが楽しいのか、という意見は当然でるとおもうが、ようく見てみれば内輪のジャーゴンは極力排していることや、カメラの配置やクローズアップの角度に細心の注意を払っていることがわかるはず。 
リアリティTVの小汚い画面作りとはぜんぜんちがう。

むしろ、リアル家族や友達を使って撮るからこそ、そういう要素は周到に排除した。
結果として、家族との会話や動作のほんとにおかしなコア(しかもそれが延々繰り返される)、みたいなとこが浮きぼりになった、と見るのが正しいのではないか。

いや、まあ、なにが正しいとかそんなことよりも、ふつうにおかしいの。
Auraが眉と顔をしかめてごにょごにょ言っているだけで、あんたおもしろいよ、って。 (動物をみてるかんじに近いかも)

たぶん、何がリアルか、とか、何を伝えたいのか、とか、そういう教科書的なアプローチから離れたところで、これってなんか変だよねえ、と撮っていったらこんなかんじになってしまったのではないか。
そしてこれが、これが起こる場所が、ロンドンであるかもだし、東京であるかもなのだが、そんなのはどうでもいいよ、いまここで起こっていることがこれだ! みろ! みたいなそういうお手軽にちゃかちゃかしたとこもいいかも。

Miranda July の映画(が最初に公開されたのもここIFCだったな)が日本で公開されたのであれば、これも公開されたっていいはず。 されてほしい。

あと、IMDbにあったこれ(↓)すごく気になる。

Untitled Judd Apatow/Lena Dunham Project (TV movie)

11.29.2010

[log] Record Store Day - Nov.26 -27

金曜日のRecord Store Dayで買ったブツは以下。
(実際に買ったのは土曜日、Generation Recordsで)

・Pantera "Cowboys from Hell - The Demos"

・The Doors - 1stのOriginal Mono mixes.  Boxで売ってたやつのバラ売り。

・Grinderman "Heathen Child"  - 12inch single.
   B面がGrinderman/Robert Frippによる"Super Heathen Child"
   ジャケットが(悪)夢にでそうなくらいに怖くて、封入されているポスターが更にすごくてあきれた。
あそこの毛が赤くて、盤も赤い。

あとは、7inchで、

・Bob Dylan "The Times They are A-Changin'" / "Like a Rolling Stone"
・Bruce Springsteen "Save My Love" / "Because the Night"
・Gaslight Anthem "Tumbling Dice"   - ジャケットが薄緑ですてき。

まだ手に入るのをどっかで見かけたら、そりゃかうかも。

他に、Record Store Dayとは関係ないが、Jesuの”Heart ache & dethroned”の12inch 2枚組を。限りなくジャケ買いにちかい。


Thanksgiving当日の昼は、ついにあこがれの、何回訪れてもだめだったBrooklynのPrime Meatsの予約が取れたので、いった。

Lancaster County (がどこにあるのかも知らないが) のRoasted Turkey。
きょういてき。七面鳥がこういうもんだとしたら、世の中の七面鳥の殆どはにせもん(ごめんね、きっと焼きかたとかだよね)だとおもった。 それくらい常識がひっくりかえった。
ソーセージのつけあわせで出てきたSauerkrautも、あつあつのプレッツェルもしょうげきだった。

お店は、マンハッタンではやはり作りようがないおちついた雰囲気。(写真)
これはまた来ねばなるまい。












ううやばい。TVで"Ace Ventura: Pet Detective"がはじまってしまった。
ねないとー。

[film] Too Bad She's Bad" (1954)

Leslie Nielsenさん、R.I.P.

土曜日は映画2本。

Lincoln Centerで、今年の7月に亡くなったイタリアの脚本家/WriterのSuso Cecchi D’Amicoの追悼上映がかかっている。

”The Films of Suso Cecchi D’Amico”

ViscontiやAntonioniをはじめとして、ものすごい数の脚本を遺した(IMDbの"Writer"でみると118本ある)ひとなので、とても全部追いきれたものではないが、どうせなら見たことないやつを、ということでAlessandro Blasetti監督による54年作、"Too Bad She’s Bad"を。
"Screwball comedy—Italian style! " てあったし。

Marcello Mastroianniが真面目なタクシー運転手で、Sophia Lorenが泥棒一家(パパがVittorio De Sica)にそだったセクシー悪ねえさんで、マストロヤンニがひっぱりまわされて散々な目に会うのだが、最後はなんとなく落着して、Kissしてめでたしめでたし。

最近は妖怪みたいに溶解してきているソフィア・ローレンが、まだ若くてぶりぶりで、脇毛もあって、"Bing, Bong, ~ ♪"とか変な歌を口ずさみながら男を手玉に取って、ぜんぜん動じない魔女みたいな役なの。

最後のほうの全員一網打尽の警察でのどたばたも、極めてイタリア的に、つまりどうしようもなくいいかげんに、落語みたいに落ちてしまう。これってScrewballじゃないよねえ、とか思わないでもなかったが、イタリアの夏の景色とソフィア・ローレンとあの変な歌がすてきだったので、よかった。

写真は土曜日の朝。 ほんとうにさむかったんだよう。

[film] Love and Other Drugs (2010)

金曜日は、Black Fridayで、みんなが早起きしてお買い物に突撃する日、ということになっている。 

んで、この日は、Record Store Dayでもあって、一応Other Music(祝15周年!)とかにも行ってみたのだが、あんましなくて(このはなしはまた後で)、すんごく寒いのでコートとかほしいかも、と思ってSOHO周辺でできるおかいもん、ということでJ.CrewのLiquor Storeとかにも行ってみたものの、いまいちノれるものもなく、しょうがないので、映画一本だけ見て帰りました。 

お買い物もだいじだけど、やっぱし愛がなくちゃね、ということで、"Love and Other Drugs" を。

"Brokeback Mountain" (2005)でぼこぼこにされて死んだはずの(死んだんだって…)Jake Gyllenhaalくんと、同じ映画で"The Princess Diaries" (2001)の頃からの善良なファンの度肝をぬくような格好で出てきて周囲を当惑させたものの、"Rachel Getting Married" (2008)がぜんぜんはまっていたものだから本性はひょっとしたらこっちなのかも、という気がしてきたAnne Hathawayさんの共演によるラブ・ストーリー、でございます。

設定は96年。 元気いっぱい、やるきいっぱいの富山の薬売り、じゃないPfizerのセールスマンを演じるのがJakeさんで、売りこみに行った先の病院でAnneさんに出会って、Anneさんは初期のパーキンソン病で、ほかにもいろいろ不安定で、でもやりまくるうちに仲良くなって、でもいろいろあってやっぱり離れたりくっついたり、というおはなし。 

背後に(当時)バイアグラがあたって大騒ぎ大儲けのPfizerのはなしも絡んでいて、で、それらが"Other Drugs"としてあるわけだが、愛は、愛こそがドラッグ(最強の)、ていうのと、でも愛は治療するだけじゃない、ていう、二律背反、みたいなのもある。
要は、こんがらがって大変である、と。  ちがうか。

最初はふたりが脱ぎまくってやりまくっている、て聞いたし、宣伝でLate Showとかに出てたJakeさんも、ああいうシーンを撮る時は、アメフトでパスをどう通すかを考えるみたいなかんじで狙う、とか冗談とばしていたので、ただのエロコメみたいなのかと思ったら、結構シリアスでまじめだったのでびっくりした。

ラストの告白のとこなんか、Creaとかフィガロの映画特集で取りあげられてもおかしくないくらいちゃんとした(はんぶんけなしてます)、そんなやつでした。
(原作 - 一応ノンフィクションだそう -  がしっかりしているだけかも)

監督は”Last Samurai”のひとで、いちおうそれなりに破綻なくできてはいるものの、あの映画のちゃんばらにぜんぜん血の匂いがしなかったのと同じように、この映画のエロはぜんぜんエロいかんじがしない、そこがちょっとなあ、だったかも。 いちおうR指定です。

ただ、主演のふたりがほんとにしっかりと演技しているので、そこは見てあげるべきでしょう。 ふたりの(画面上での)相性はなかなかよくて、もしこのふたりじゃなかったらどうだろう、少し若くなるけど、Joseph Gordon-LevittくんとZooey Deschanelさんあたりかなあ、てすこしだけ思った。

音楽は、96年なので、笑っちゃうくらいあれで。
出だしがSpin Doctorsの"Two Princes"で、そっからそのままThe Breedersの"Cannonball"につながる、というどまんなか(でもこれらの音は90年代前半だけど…)。ほかにもBilly Bragg & Wilcoとか、Beckさんとか、沢山聞こえてくる。

エンディングだけ、Regina Spektorの"Fidelity"だったけど。

寒くなり始めたいまの季節にちょうどよいやつだったかも。
Harry Potterもいかなきゃなのだが、とっても寒そうなんだもの。

[film] Due Date (2010)

このThanksgivingは、行きたいライブはあんまやってなくて(レヴォン・ヘルムくらいだった)、しょうがないので映画を。宿題みたいに溜まっていたやつとかを片付ける。

まずは"The Hangover"のTodd Phillipsによる新作"Due Date"。

"Hangover"は、結婚式に間にあわなくなる、しかも新郎がいない!って3人がじたばたする話だったが、今度のは、妻の出産に間にあわなくなる、しかも当人はあんまし、ぜんぜん悪くなくてかわいそー、というお話。

悪くないのに散々な目にあうエリートの建築家にRobert Downey Jr.で、悪意はないのに彼をひっかきまわしてひきまわす俳優志望のろくでなしにZach Galifianakis。 
Zachくんは最近ほんとにのっている。

"Hangover"では、なんとなくのノリで酔っぱらい、結果大変なことになってしまったわけだが、今回のも、たまたま空港でぶつかって荷物を取りちがえて、更に飛行機の座席が近かった、で、つい頭きて切れちゃった、それだけで、めちゃくちゃかわいそうな目にあう。

もちろん、Robert Downey Jr.もいかにもいそうな高慢ちきのぼんぼんやろうてかんじ(たぶん殆ど地だよねあれ)で、すぐに癇癪おこして更に事態をひどくするので、あんまかわいそうなかんじはしない。 そういうとこもぜんぶ計算済み。

"Hangover"はヴェガスの町中で大騒ぎになっていったわけだが、今回はアトランタからLAまでのRoad Trip仕様になっていて、途中途中でヤクの売人仲間(Juliette Lewisさん)とか、幼馴染み(Jamie Foxxさん)とかに会ったり、Zachのパパの遺灰をグランドキャニオンにまいたり、それなりにスケールはでっかい。(いや、そんなでもないか…)

今回は音楽がその横に移動するかんじに感動的にはまっていて、ハイウェイをがーっと俯瞰するとこで流れるNeil youngの"Old Man"にはじーん、だし、はっぱやるとこで流れるPink Floydの"Hey You"もよい。 なんで流れるのかよくわからんけど、Cowboy Junkiesの"Sweet Jane"なんかもある。

"The Hangover"とどっちがどっち、というと、どたばたコメディとしては前作のが上かもしれないが、すききらいでいうと、こっちのが好きだ。
Zachが連れているマスかきフレンチブルが終始フレーム内にいるのもいるのもなごめてよいし。

立て続けにがーっとコトが起こって、起こして、それらをさらっと悪い後味なしに流しておわり、というのをやらせたら右にでるものはないデブが、かつていた。
そう、John Candyと、その彼を使ったJohn Hughesですね。
それらを思いだしてしまうくらい、いかったです。

あと、glaucomaの治療にははっぱもありなのかー。  とか。


それが終ってから、別の部屋にずるで入って、”Burlesque”ていうのも見た。

えー、Christina Aguileraの、Aguileraによる、Aguileraの(あ、ファンの)ための、映画、ですね。

アイオワの田舎からLAに出てきた娘が、歌謡ショーをやってるラウンジみたいなとこで働きはじめて、バーテンダーが宿まで提供してくれて、最初は相手にしてもらえなかったのに、いじめにめげずにがんばって歌ったり踊ったりしたらちゃんと認められて、婚約中だったバーテンダーも略奪して、地上げにあっている店も救っちゃって、めでたしめでたし、なの。 運も歌も踊りも最強なの。

ま、たまにはこれくらい景気のよいはなしがあったっていいじゃん、と。

経営能力がないくせに威張ってきーきー言ってばかりで、結果店を破産寸前に追いこむダメおかみにCherさん、その相棒にStanley Tucci(とうぜん、ゲイ)、あとは道化役でAlan Cummingとか、いちおう周囲はちゃんとしているので、鼻たらし涎たらしながらでも安心して見ていられる。

アギレらって、出てきた頃はなんてぶさいくな娘だろう、て思ったものだったが、その印象はいまだに変わらない(田舎から出てくるすっぴんの頃もソフトフォーカスで修正かけてるのわかるし)。けど、たぶん、きっとなんかあるのかもね、くらいはうかがえる内容でしたわ。

Cherさんも何曲か歌ってくれるのだが、もう64なので(64なのかー)、"If I Could Turn Back Time" (1989) みたいのはやってくれなかったよ。 やってほしかったのに。 

11.25.2010

[film] Every Man for Himself (1979)

水曜日、とにかく目のまえに4連休がぶらさがっているので、5時半にとっととぬける。

Thanksgivingの前日はみんな買い出しでわいわいごったがえして楽しいものだから、SOHOのDean&Delucaに行って、プールに飛びこむようにじゃぶん、となかに入ってみたのだが、思っていたほどじゃなかったかも。むかしは歳末の築地みたいにすごかった気がするのだが。

でもチーズ売り場でチーズを見ているうちにとつぜん錯乱 ー 頭が大ばくはつしてしまい、山ほど買いこんでしまった。 だって見たことないやつがいっぱいあるんだもの。
レコード屋とか本屋にいるみたいなかんじだった。(目をさませばか)
やっぱりさあ、デパ地下で売ってるのなんか、チーズじゃないよねえ。(チーズはチーズだあほ)

他にもRoll Mopsとか、つい(つい、ってなんだよばか)買ってしまい、放心状態でそのまま西に向かい、Film Forumで1本だけ見ました。

なんでかよくわからんが、Godardの79年作"Every Man For Himself" ( "Sauve qui peut (la vie)"  - 邦題『勝手に逃げろ/人生』) が35mmニュープリントで、2週間だけ上映されている。

これは見ていない。日本初公開は95年だそうで、だとするとその頃は米国にいた。
とりあえず見るしかない。

すんごーくおもしろかった。いじょう。

自分を含めて80年代の子供達にとって、「はじめてのゴダール」は82年、シネ=ヴィヴァンでの『パッション』であった場合が多かったとおもうのだが、例えばこれが「はじめて」だったらどうだっただろうか。ずいぶんわかりやすく入っていけたのではないか。
いや、わかりやすいというのとは違うか、章立てにしたがって整理して考えやすい、というか。

職業、家族、権力、制度、都会と田舎、エロ、などなどの類型だの概念だのが、ストップ・モーション、スロー・モーション、ヴォイス・オーバー、サウンド・コラージュといった技法の多用によって、その淵とか枠とかを露にする。

以降、わけわかんないけど唐突にかっこよくて気持ちいい(そう、かっこいいのよ、音楽みたいに)、という80年代ゴダールの基本形式がぜんぶ用意されている。

そしてタイトル(特に英語の)"Every Man for Himself"は、はっきりと第二期のはじまりを宣言しているかのように、"MAN"は大文字の、きんたまのついた「男」であり、それは「フィルム」のことでもあり、ここで一応俳優が演じている「ゴダールさん」~"Himself" は後のいろんなフィルムで本人が出てきていろんなものをもぐら叩きしつつひっくり返してまわることになる。

あとさあ、なんで、なんでおかしいのかなあ、って。
男①がかかとで女①の乳をおしたら、女①がうめいてそれを合図に男②が女②のおしりをなめて、女②がうめいて、女②が男①に口紅をぬる、とか。
書いてしまうとどうってことないが、わらっちゃうの。

この映画が米国デビューとなったIsabelle Huppertさんはひたすらクールでかっこよい。Nathalie Bayeもみごと。 そして男だけが、(いつも通り)なんだかどうしようもないのだった。


Thanksgivingの朝は、いつものThanksgivingとおなじく、みごとにさむい。


Peter "Sleazy" Christopherson…  RIP
TGが突然ツアーを止めてしまったのは、そういうことだったのか。

[music] Joanna Newsom -Nov.23

火曜日の晩、Joanna NewsomのCarnegie Hall。 みごとにSold Outしました。

町の公民館(ライブハウス)とかで発表会(ライブ)やっていた彼女が、みんなで大切に見守ってきた彼女が、ついにカーネギーホールにまでいっちゃったよ。 こりゃ家族親戚一同で駆けつけるしかないよね(いそいそ)、というかんじの聴衆でびっちり埋まっていた。

SSW聴くひと、ロック聴くひと、ケルティック聴くひと、クラシック聴くひと、文芸系、老いも若いもいりまじり。全体の括りとしては、とりあえず文系、としかいいようがないかんじ。

前座の最初はバックでパーカッションを叩いているNeal Morganさん。 ひとり棒立ちでアカペラで朗々と歌って、太鼓をどこどこやりながら鼻歌みたいに歌って、そんなにうまいとおも思えないのだが、カーネギーのステージでひとりで歌うことに全然動じていない飄飄としたところがなんだかおかしい。

続いて、これもバックでギターとかバンジョーとかリコーダーとか、あと、新譜でも全体のアレンジをやっていて、今回のライブでも見事な新旧のライブ用アレンジを手掛けたRyan Francesconi さん。
歌なしのアコギインストのみ。 ギターなのにハープみたいな音で緻密な網をぬいぬい。すんごく気持ちいかったので、意識うしなった。

前座のあと、30分くらいながーい調律の時間がはいって、出てきたのは9:15くらい。
せっかくのカーネギーでドレスなのに、いつものように、笑って手をふりながら小走りで出てくる。そこだけみてると お笑いのライブみたいな。

でも、座ってハープを抱えて、歌いはじめると、空気がぞわぞわっと変わる。
この変わり具合もいつものことなのだが、場所が場所だけにより痛快なかんじはした。

バンドは前座の2名に加えて、トロンボーンとか口琴他の管楽器1、バイオリン2、の計5名が彼女の背後を円形に囲む。 あとはハープの後ろにピアノ。 今回はピアノも4曲くらいで弾いていました。

音数が増えた、ということよりも、アレンジがすばらしかったのだと思うが、とにかくハープの縦糸にこまこま丁寧に横糸を通し、ふんわりと空飛ぶ絨毯にしあげ、その絨毯に乗って彼女の声は自在に、ドーム状のてっぺんまで飛んでくる、そういう仕立てになっていた。

これまではどちらかというと1stの頃の室内楽寄りのトイ・ポップぽく捉えられがちだった彼女の音が、”Ys”以降で狙っていたと思われるスケールのでかい音像に、その野望と共にでっかく、でっかいままに再生される。

そしてなんといっても彼女の声。
時に高らかに突きぬけ、時に陰影自在にでっかい曲の光度と色彩をコントロールしていた。
要するに、これまでのキャンディのように甘くぬけるとこはそのままに、全体としてものすごく堂々とした歌い手のオーラがあった。

まだわかんないけど、このままいくと、Joni Mitchellくらいのとこまで到達してしまうのではないだろうか。
フォークでもジャズでもロックでもない、アメリカのシンガーソングライターのどまんなかに。

どの曲も終わるたびに大喝采でしたが、本編ラストの3曲がすさまじかったです。

"Good Intentions Paving Company"は、ピアノとトロンボーンの掛けあいがスリリングでかっこよく、
"Emily"は原曲のアンサンブルの異様さと複雑さが少しも損なわれることなく、しかし怒涛の勢いでねじりこんで突っ走り、"Peach, Plum, Pear "はヴォーカルの突出具合がとんでもなく、na-na-na-na- のところなんか天井を突き破るかとおもいましたよ。

席がてっぺんのバルコニーだったのでまちがいないが、いちばーん上のひとまでみーんなが文句なしのスタンディングオベーションをおくっていました。 彼女の技量に感嘆した、というのもあるが、まずは音楽として、あまりにすばらしかった、ということでないか。

そんなふうに、出てくる音楽はめまいがするような超絶クオリティだったのに、曲間のしゃべりときたら、ここってカーネギーなのよね、うきゃー、みたいなふつうの娘っこのノリになるのがおかしかった。
あと、やや時間のかかる弦の調律中は質問タイムになっていて、みんな好き勝手に聞きたいことをなげるのだが、ホールにわんわん響くもんだからほとんどわからず。

この晩のライブはカーネギー・ホールの伝説になるね。
ま、カーネギーの伝説いうたら、そりゃしぬほどいっぱいあるわけであるが。

アンコールの”Colleen”が終わったとこで丁度11時でした。


















というわけで4連休になりました。

[log] pictures - Nov.23

なんとなく地味なかんじがしてきたのでiPhone写真をのっけてみる。
pre-クリスマスの観光写真ふう。 はじめて撮ってみた。

左から、建立中のロックフェラーのツリー、まんなかがSAKSの壁面照明(ぐるぐる)、右がRadio City Music Hall。


それから、ロックフェラーのAnthropologieのウィンドウディスプレイ。
なんだかたまらなくてつい。(いくつだおまえ)


なんとなくふつうのブログっぽくみえる(気がする)のでうれしい。



11.24.2010

[film] From Morn to Midnight (1921)

今週はThanksGivingの週で、どこでもそうだとおもうがオフィスは開店休業状態になって、誰も働きたがらなくて、とっても静かで、自分も働きたくなくて、だから映画でも見てかえる。

MOMAで"Weimar Cinema, 1919-1933: Daydreams and Nightmares"という特集上映が始まっていて、3月まで続く。

ムルナウ・ファウンデーションとドイツ・シネマテークの全面協力による、ワイマール期のドイツ映画の総ざらい。
なにを見てもとりあえずおもしろくて、ぞっとするほど美しく、かっこよくて、お勉強になるはず。
変態とか狂人とか病人とか犯罪者とか妖怪とか、そんなのばっかりが派手にうようよ大騒ぎする。
なにしろ、"Daydreams and Nightmares"だしね。 

シアターのある地下のフロアもこの関連の展示になってて、大判のポスターがえらくかっこよい。

まずは、1921年の"From Morn to Midnight"("Von Morgens bis Mitternachts", 邦題:『朝から夜中まで』)。

『カリガリ博士』と並ぶ表現主義映画の古典、と言われていて、製作時には本国で公開されず、60年代に何故か日本で発見されてリストアされた。 こないだの夏、京橋のNFCの40周年特集上映でも上映されている。

銀行の出納係がお金に目がくらんで、大金を着服して遊びまくって、死神に抱きしめられて、はいさようなら。

サイレントなので、いちおう間あいだにドイツ語字幕が入って状況を説明してくれる。
MOMAの案内には翻訳不要、とあったのに、どっかから文句がでたのか、英語のボイスオーバーが同時通訳のように入っていた。

撮影(by カール・ホフマン)はすべてセット内で、建物はぺらぺらでぐんにゃり歪んでて、どんよりと暗くて、人々はみんなメイクしてて、動きは大仰か緩慢かのどっちかで、要はすべてのヴィジュアルは登場人物の主観とか心理状態とか、その深みとかを反映したかたちで装飾され、誇張され、戯画化されている。 

表現主義とはもともとそういうものなので、これについてどうこう言うつもりはないのだが、実写の映画でこれをやるのはきつかったかも。 形式としてふさわしいのはやはりアニメーション(→ティム・バートン!)とかなのかも。

これで終わりかと思ったらもう一本追加上映があった。 上のが約60分と短かったからか。

おなじく1921年の"Backstairs" ("Hintertreppe")

表現主義映画とはあんま関係なくて、あとで調べたらMOMAの所蔵作品だった。

でもこれはなかなかいかった。
お金持ちのおうちでお手伝いさんとして働く女の子を身障者の郵便配達夫が片思いして、でも彼女にはハンサムな彼がいて、彼女はずうっと彼からの手紙を待ってじりじりしてて、郵便配達夫はそんな彼女がかわいそうになって手紙を自分が書いたのにすりかえたりしてて、そんなことやっちゃったもんだから大悲劇が。

働き者のお手伝いさんの女の子が、がっしりと頼もしくて、フェルメールの「牛乳」のおねえさんみたいで殆ど同じような構図のショットがいっぱい出てくるものだから、なんとなくうっとりしてた。

あと、頭に焼きついて離れなくなる暗い目をした郵便配達夫を演じているのが、William Dieterle (as Wilhelm Dieterle) 。 後に"The Last Flight"(1931)とか、『ジェニイの肖像』 (1948)とか、すんばらしい映画を沢山撮ることになるこのひとが、キャリアの最初期にこんなことをやっていたとは。 

この特集、できる限り通いたいのだが、むずかしいかなあ。

11.23.2010

[film] The Cry of Jazz + Pull My Daisy (1959)

日曜日、BAMの劇場を出たらもう暗くて、どうしようかなあ、だったのだが、Anthology Film Archivesでもうひとつだけ見て帰ることにした。

その前にOther Musicに寄って、7inchいちまいだけ買った。
Sharon Van Ettenの新しいの。

”The Cry of Jazz” (1959)は、Anthology Film Archivesがリストアして、3日間だけ上映してて、この日曜が最終日。

34分と短いフィルムなので、間に監督とのQ&Aと、併映でもういっぽん。

パーティの場で、白人と黒人が議論してて、ぼんくらぽい白人のおんなのこの「Jazzってロックンロールのことでしょ?」とかいう発言をきっかけに、いやいやそうじゃないんだよ、Jazzっていうのはね、と始まる議論。

Jazzはどこからきて、どこに行くのか、JazzはなんでAfrican-Americanのものといえるのか、などなどを語り、だって白人だってJazzをプレイするじゃん、逆差別じゃん、とかいうつっこみを潰しながら、Jazz原理主義、みたいなマニフェストにまで行ってしまう。

実際のシカゴのAfrican-Americanの生活のドキュメンタリーを絡めつつ、この音楽とその形式が、如何に彼らの自由と抑圧を巡る歴史(奴隷として連れてこられたあたりからの)と密に結びついているのか、きたのかを明確に語ろうとする。 

はっきりと語りたいことがあるが故にこの映像を作りました、という態度は明白で、短い時間でそれは簡潔に纏められていると思った。 それが59年という時点で、African-Americanの当事者の発言として出てきたところはすごいし、この監督はそれ以降映画を一本も撮っていないところも潔いし。

でも難しいよねえ、と上映後の監督(Edward Blandさん)とのQ&Aを聞いてておもった。

それは音楽と社会との関係を語ることの難しさであり、更には音楽を言葉で語ることの限界にまで行ってしまうような気がした。 作者の依っているところの前提(1959 or ?)と我々が依っているところのそれ、の差異もはっきりとでる。

例えば、黒人の大統領が登場した今、この映画で語られているようなメッセージはいまだに有効なのでしょうか? というような質問に対して、監督は「そんなのしらない」という。
監督がこの映画で描いたのはJazzという音楽のことであり、質問者が訊いたのは社会のことだから。
そんなような両者の(思い)違いがえんえんとつづくQ&A。

音楽を作る側、受け入れる側、プロデューサー、それをプロモートして売る側、「作者」とは誰か、楽器の編成、アレンジ、サンプリング、Funkやヒップホップ、歌詞、地域やコミュニティのちがい、時代とか時間軸、アーティスト個人、マーケティング、コマーシャリズム、これら膨大な量の可変値から、ラジオをチューニングしていくみたいにひとつのクリアな音像に、交換可能なイメージに辿りつくまでに、たぶん、ものすごい時間がかかる。 それだけで1冊の本がいる。

それにしてもなあ、と。
Jazzは、59年の時点で、ここまで明確なヴィジョンやテーゼを立てられるだけの思想としての強さがあったのだなあ。
アーティストやリスナーの9割はそんなの気にしていないにせよ、これはこれですごいなあ、って。

でもねえー。
そうやって感嘆する反面、ものすごく排他的な、わかんないやつはくんな!的ななにかを感じてしまったことも確かなの。 JazzとかJazz喫茶のそういうとこって、苦手だなあ、とあらためて。
もちろん、あらゆる思想なんてそんなもんであろうし、Rockだっておんなじようにひどいとこはひどいわけであるが。

で、Q&Aのあと、併映の”Pull My Daisy”
先の映画と同じ年に、Robert Frankその他によって撮られたビート・コミュニティのドキュメンタリー、というか寸劇。 

ナレーション(台詞なしでナレーションのみ)はJack Kerouac。 Allen Ginsbergその他友人一同が出演。

このふたつ、並べて見るとすばらしくおもしろい。
同じ年のシカゴとNYで、ここまでてんでばらばらな動きが観測されていたのだなあ、て。
一方は固い怒りをもって自身の足元を見つめ、一方はごきぶり~♪とか、ほぅり~♪とか歌いながらどんちゃんさわぎしている。 そしてこの、内輪のどんちゃん騒ぎもまた、はっきりとしたひとつの態度表明ではあるの。

どちらがよいとか、正しいとか、そういうことでは勿論なくて、ここでそれぞれに、全く別なかたちで記録されたバスドラのキックは、60年代以降のアメリカのうねりをあらゆる方向から準備し、あらゆるメディウムを用いて伝播していくことになるはずだ。

その最初の一音を、一声を、約50年後に聞いて、見る。

その不思議なかんじ。

とっても勉強になった。 しかしえらくつかれた。

[theater] The Marriage of Maria Braun

日曜の3:00から、BAMのHarvey Theaterで、ベルリンのSchaubuhne am Lehniner Platz(シャウビューネ劇場)による"The Marriage of Maria Braun"を見ました。 

Next Wave Festivalの出し物のひとつで、原作はRainer Werner Fassbinderの映画、『マリア・ブラウンの結婚』。

同劇場監督のThomas OstermeierはこれまでもNext Waveでイプセンの『人形の家』と”Hedda Gabler”を上演していて、こんどが"...Maria Braun"、とくるとなんとなくわかるかも。 女性をめぐる寛容、不寛容、自立、あれこれ、あれこれ。 

で、この企画に関連して、BAMのシネマテークで、土曜日いちにちだけFassbinderの映画版も上映された。
随分昔に見ただけだったし、彼の映画は何回見てもおもしろいので、見にいったの。

戦時下のドイツ、出兵の前日に式あげて、夫はそのまま戦争行っちゃって行方知らずで、生計たてるためアメリカ兵相手の娼婦になって、そしたら夫が戻ってきたので相手の男をつい殴り殺したら、夫がかわりに刑務所入ってくれて、それを待っている間に会社のえらいひとの愛人になってお金いっぱい稼いで、そのじじいが死んじゃったころに夫が戻ってきて、それで・・・

おっそろしくミクロな、しょうもない個人と個人のじりじりどろどろしたやりとりを重ねつつ、そのむこう側に社会や世相のありようをあぶりだす、その地を這うようなアプローチがファスビンダーのファスビンダーたる由縁であり、この"Maria Braun"がしばしば彼の代表作とされるのも、ドイツの戦中から戦後の激動の時代を走りぬけたひとりの女のドラマとして、それなりの汎化普遍化に成功しているからだとおもうが、へたするとNHKのくそみたいな戦時がんばりましたドラマになりがちなところを、彼の徹底した底意地のわるい(女性嫌い)目線がところどころに刺さってくるので、ああすばらしいと思って見てた。

いま、なんでファスビンダーみたいな映画が出てこないのかしら。 
というのはほんと、ことあるごとに思うの。
映画を見て「元気をもらいました」とか言っているおめでたい善人共にたたきつけてやりたい。

で、そんな彼の映画を舞台化したらいったいどうなるのか。
閉じた場所、閉じた系内での人間同士の相克を描く、という点で演劇的、と言われることも多いけど、そうありながらも、彼の目線、彼のカメラはものすごく執拗に、恣意的に動くし、あと登場人物がはんぱでなく変な、一度見たら脳に貼りついてしまうような特殊なひとが多いので、この辺がどうなるのかなあ、とか。

そうそう、なんといっても映画版にはHanna Schygullaというミューズがいたし、ね。


ここからが舞台版のおはなし。

セットは50年代ふう、モダンなホテルのラウンジのような場所で、ほぼずっと固定。 
ソファにチェアにコーヒーテーブル。
いろんな人たち、いろんな目線、いろんな会話が行き交うこの場所で、スライド投影やハンドカメラによるリアルタイム映像を使いつつ、Maria Braunの周りをいろんな人たちが通り過ぎていく。
音と音楽はすべて遠くから、遠くて鳴っているラジオの音みたいに聞こえてくる。

Maria Braun以外の役柄はすべて、男優4名がかわりばんこに、女装だのなんだのも含めて全て兼務する。
ひとりあたり4~5役はやっていたのではないか。

なるほどね。 ひとりの俳優に複数人格を集約してしまうことで癖のある人たちはそのまま、「変なひと」という衣を纏うことができるわけか。 
俳優さん達は大変そうだったが、実際にはみんなすごく巧くて、この試みはうまくいっていたとおもう。

あとは時間や場所、出来事の移り変わりについても、このセットはきちんと機能していた。
なぜなら、この物語は、彼女と、彼女が交わした「結婚」という契約、その縛り、その一本の鉄線を巡って、その線のつくりだす磁場を中心に進行していくからであり、ホテルという場所もまた、そんなような保証-自由をひとつ屋根の下に統合したような場所、であるからー。

そして最後の場面になると、ホテルから彼女のおうちにセットがぐるーんと変わり、それは夫が帰ってきて、彼と彼女の関係がようやく「夫婦」として「正常化」する、それを指し示しているのでまあそうだろうな、と。

筋と、いくつかの台詞はほぼそのままFassbinderの映画のまま。
髪をセットした彼女が「これってプードルみたいだわ」っていうとこが好きなのだが、それもそのまま。
Karl Oswaldの死の場面が舞台でははっきりと描かれる、くらいか。
映画では彼女の目の届かないところで起こっていたいくつかのイベントが、舞台ではすべてのひとに、すべてが目に見えるかたちで曝される。 そういうちがい。

映画にはなくて舞台で実現できたもの、というとなんだろな、ドイツ近代史、みたいなところからは距離を置いて、割と現代の女性のありよう、ジェンダー論にも通じるようなところにテーマをシフトしてきているところ、かな。(ここは賛否ありそうだが)

ラストの背後に流れるワールドカップの実況中継も、それが今年のやつだったとしても違和感ないような。
(ドイツは負けちゃったけど)

Maria Braunを演じたBrigitte Hobmeierさんはすばらしかったです。
映画版のHanna Schygullaがもっていた魔性の女みたいなとこは(あえて)抑えめに、蒼白く、クールに周囲を蹴散らしていく軽いかんじがまたかっこよくて。

1時間45分、休憩なし。 


BAMのHarvey Theater(すごく古くてぼろいの)も久々でうれしかった。

11.22.2010

[film] The Apple (1980)

土曜の晩11時から、今回のCannonまつりの目玉。 "The Apple"。

こんな映画があったなんてしらなかった。 
しょうげきだった。 「しょうげき」以外に言葉をしらぬ。

"Runaway Train"が終って出てみると、いつもはしょぼくれた客達が人生に疲れて並んでいる待合室がディスコになっていた。みんな楽しそうに食べたり飲んだりしている。 
例えばですね、京橋のNFCの待合室がそうなったとこを想像してみ。

Bronski Beatなんて20年ぶりくらいに聞いたわ。

みんなほっぺやおでこにBIMのシールを貼ってて、つまりはそれが、この映画の信者である証なのだった。 

11時に開場してからもお祭りで、監督とプロデューサー(さっきのふたりね)の挨拶と、主演女優であるCatherine Mary Stewartさんが登場する。(下の写真)

Catherineさん、59年(西暦だよ)生まれとは思えないくらい若い。

そうか、あなた"The Last Starfighter" (1984)に出てたひとなのね。
(アーケードゲームで最高点だしたらそいつが宇宙に繋がってて、そのまま宇宙に拉致されて戦争にまきこまれるの。宇宙人の師はしんじゃうんだけど、死ははじまりである、とかわけわかんないこというの…   しってるひとー?)

あとはお楽しみくじびきもあって、番号ひとつ違いで逃した。
でも賞品はBIMのTシャツと映画のDVDと映画のサントラをCDに落としたやつ(手焼きです…)とか、それならあんまうれしくないかも。

この映画の思い出について監督自身が語ったところによると、モントリオールの映画祭で上映したら客のほとんどがばらばら帰っちゃって、監督はショックを受けて途中でホテルの部屋に戻って、部屋から飛び下りようと考えたのだという。

そんなの上映する前にわかれよ、誰かとめろよ、って話なのだが、まあ、モントリオールの客の気持ちもよくわかるわ。 

80年にオーウェルの1984寄りのネタは、完全にうるせえ、でアウトだったし、60年代ヒッピー難民も出てけ、だったのである。

しかし今見てみると、Austin PowersやZoolanderよか20年早かった、というのがわかるし、"Glee"みたいなのがはやるパワーバラード全盛の時代(やれやれいいかげんにしとくれよ)にぴったりだ、というのがわかる。 あんまわかりたくもないけど、とりあえずはわかる。 長生きはしてみるもんじゃのー。

こうしてヴィレッジで上映会がはじまってだんだんに信者の数が増えていって、いまでは立派なカルト作品に認定されましたとさ。

世にあるカルトなんて大抵そんなもんさ、なんて言わないで。
すでに日曜の夜遅いのだが、がんばって筋を書いてみよう。

舞台は1994年(ものすごく微妙かつ絶妙)。BIMっていう組織だか団体だかなんだかが社会の表も裏も支配してて、音楽とかもBIM認定のBIM Musicっていうのがメジャーなの。
大衆もみんなBIMを求めてて、なんでも「BIM! BIM!」なの。

そんななか、ソングコンテストにでてきたアルフィー&ビビのコンビの歌がみんなを泣かせて、それが気に障ったBIMの親玉が彼らを利用しようとビビを拉致してBIMのシンガーにするの。

でもアルフィーは負けずにビビの愛を勝ちとろうとひとりでがんばるの。

ばからしくなってきたからもういいや…

でもね。音楽(曲も歌いっぷりも)とかダンス(振りもコンビネーションも)のクオリティはなかなかなのよ。 カメラも的確に動いていくし。
ファッションとか未来社会のセットはとんねるずに出てくるやつみたいにひどいけど、「ロックオペラ」(=監督談)としてはちゃんとしている。
これで一曲でも、アバ並みのキャッチーな曲があったらなあ。

まあね、グランジがなかったら94年の社会と音楽はほんとにあんなだったかもしれないからね。きっと。

アルフィーの顔がねえ、リチャード・マークスとウィル・ファレルを足して2で割ったみたいな、しかも胸毛やろうでさあ。 ついぷぷ、ってふいちゃうのよね。

客席はぶいぶいに盛り上がっていた。ゲイの皆さんが多いような気がしたが、みんな爽やかに楽しんでいた。 後楽園の「ロッキーホラーショー」よか軽くてたのしかったよ。

日本でこいつを上映できるのはシネマヴェーラしかない!
"The Gang's All Here" (1943) - バナナ!とこれの2本立てで一週間やってほしい。

上映後、主演女優のひとがまだ残っていた。ほんとに歌ってるの? って聞かれて、やーねえ、歌ってなんかないわよ、てさばさば答えてた。 いいひとだ。

出口でBIMシール配ってたのを貰う。 どこに貼ろうか考えちゅう。

こんど暇になったら、80年にPILの2ndやJDの"Unknown Pleasure"ではなく、先にこの映画に出会っていたらその後のじんせいどうなっていたか想像してみよう、とちょっとだけ思ったけど、やっぱしやめた。

[film] Runaway Train (1985)

土曜日は映画3本。 それでもぜんぜん追いつかない。 どうしよう。

髪を切ってからBAMに出て、ファスビンダーの"The Marriage of Maria Braun" (1979)を見ました。 これはまたのちほど。

終ったら夕方で、BAMからWilliamsbergに地下鉄で抜けて、雑誌にでてた一軒のレコード屋を探してみたのだが、なかった。
しょうがないので、いつものAcademyに行って2枚だけ。

Cop Shoot Copの12inch, "Headkick Facsimile"とNick Caveの「よいこ」のアナログを。

晩の7時から、Lincoln CenterのCannon特集で、Andrei Konchalovskyによる"Runaway Train"を。
『暴走機関車』ですね。

他にもどっちにしようかの選択肢はあれこれあったのだが、こないだの"Unstoppable"の電車つながりでなんとなく。 あと、上映後のトークでいろいろお話も聞けるということだったので。

黒澤の原作原案がどうの、という昔話はいろいろあるようですが(ぜんぜん知らなかったわ)、とりあえず映画は力強くて、寒そうで凍えそうで、よかったです。

冒頭のアラスカの刑務所の臭ってきそうな汚れたかんじといい、喧嘩の時のはらわたといい、なんか全体に荒っぽくごりごりした導入から、そのままふたりの脱獄犯のぎくしゃくと噛みあわない道行きに繋がり、更にそれがぶっこわれた電車の轟音に連結され、特大の糞玉みたいな雪玉になって転がっていく。

Jon VoightもEric Robertsも、近頃の俳優さんには見られない野獣っぷりがすごい。 
止まらなくなった電車を止めようとするふたり、で言うと"Unstoppable"のコンビの、すっかりなにかを諦めてしまったようなごみっぷりとはまた対照的だよね。 

そういえば、終った後のQ&Aで客席から"Unstoppable"がこの映画となんか似てるんですけど、見ました? と質問がとんでた。(ふたりとも「見てない」)
で、この"Runaway Train"のほうがおもしろいよ! そうそう! てあちこちから声が挙ったのだった。 
でも、両者はそんな似てないし、どっちもそれぞれにおもしろいよね。


上映後のトークは、Cannonをつくったふたり、Menahem Golan(豪快おやじ風 - 写真の左)とYoram Globus(ばりばりビジネスマン風 - 写真の右)を招いて、Cannonの歴史その他与太話ほら話(あ、ほらじゃないね)あれこれ。しかも壮大な。

おもしろかったのは、なにかというとすぐお金のはなしになるところね。
なんでもかんでも節操なく手を出していったのはお金になると思ったからだって。
中味はあまり考えてなくて、まず安くできて、儲かるかどうか、が判断基準である、と。


スタローンと作った2本の話でいうと、当時はあまりお金がなくて、スタローンのギャラは最低6mil.で、だから、我々は10mil.で出てもらった、と。

え? と客側も混乱して「それってどういういみですか?」と問うと、Yoramのほうが即座に「我々はそれで十分儲かるとふんだからだ」。 
かっこいいー。よくわかんないけど。

あと、ヴァン・ダムを最初に見つけたときのはなしとか、シャロン・ストーンも彼らが見つけたっていうし、チャック・ノリスは言うまでもないし、この人たちがいなかったら、我々が見てきた映画の地図は、相当違ったものになっていたに違いない。

Cannonは潰れてしまったものの(カタログはMGMが持っているそう)、彼らはまだまだ映画を作ろうとしてて、できればホロコーストものを撮りたいんだって。

Cannonのカタログにはまだまだ埋もれた名作がしぬほどありそうで、客席からはそれらについて相当マニアックな質問があれこれとんでいた。
でもちゃんと答えられないのよ。「そんなのしらんぞ。ほんとか?」とかいうの。
客がIMDbにはそう出てるんですけど、とか言い張ると、「インターネットなんか信じちゃいかん」て。

素敵なふたりぐみでした。このふたりのお話はいつかそのまま映画になるぞ。


さっきまで、TVで"Elf" (2003)やってた。 やっぱりいいよねー。
Zooey Deschanelさんが歌うんだよ!

11.21.2010

[film] Love Streams (1984)

金曜日夕方、CharlotteからLa Gardiaの空港に着いたのが6:20頃、もし早く着くことができて渋滞がなければ、BAMでエドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』4時間版に突撃したかったのだが、ありえない渋滞に巻きこまれ、橋を渡るのに約1時間、げろげろに車酔いして部屋にたどり着いたのが7:50くらいだった。

しかたがないので、9:00から、Lincoln CenterでJohn Cassavetesの"Love Streams"を観る。

19日から"The Cannon Films Canon"という特集がはじまったのである。
そう、80年代、チャック・ノリスからゴダールまで、当時日本にいた我々にはなにがどうなっているのかさっぱりわからないかたちであの時代の映画業界を駆け抜けた謎のイスラエル資本の映画製作会社の全貌(というのは無理なのでその一部)を紹介する、という試み。 ぜんぶみたい。

Village Voiceの紹介記事はこちら
"For Cannon Films, Chuck Norris + Godard = Success"  と。

そして、このCassavetesの遺作もCannonの製作なのだった。

この映画は本当に本当に本当にだいすきで、もう4〜5回は見ている。
最後に見たのは、たしか2007年くらい、日仏のフランス語字幕付きのだった。

こんなにめちゃくちゃででたらめで危うくて、でも切なく真剣に、愛と教育とアートと文学と音楽とステージとダンスの本質どまんなかを捉えた映画があるだろうか。(いや、ない)

欠点だらけの映画だとおもう。
筋はあってないようなもので、男(Cassavetes本人)は何度か離婚しているお金持ちの作家らしいが、何をやっているのか、何をやりたいのかよくわからない。途中から出てくる彼の姉(そもそも本当に姉なのかどうだか)も、離婚して娘からも疎まれ、現実と妄想がごっちゃになり、やはりなにをやっているのかわからない。
要は狂ったひとのNarrativeが全体をドライブしている。 これが141分続く。

そして、その欠点ゆえに我々はこの映画を愛する。

この世界には愛と別れしかない。そして愛はとどまることなく流れていく。
これしか言っていない。
愛と別れが我々をぼろぼろにし、同時に我々の生を照らす、そのありようのみが綴られている。


だから、Cassavetesが殴られたり階段から落ちたりして血まみれになり、正装のシャツを口紅だか血だかで汚しているのを見るたびに、Gena Rowlandsがパニックを起こして床に臥せってしまったり、その横に犬のJimがいるのを見るたびに、なんだか胸が張り裂けそうになる。

そして、こんなとんでもないもんを遺してこの世からいなくなってしまったJohn Cassavetesに、まったくもうあんたってひとは、と言うほかない。

あと、この映画で鳴る音楽とか、その鳴り方も含めてすばらしいの。

土曜日にCannonの親玉であり、この映画のプロデューサーであるYoram GlobusとMenahem Golanのトークがあって、そのなかでこの映画のことについても触れられたのでちょっと書いておく。

- Cassavetesのこの企画はメジャースタジオから全て断られて、最後の最後にCannonに持ちこまれた。

- 最初のラッシュは2時間15分あって、彼らプロデューサー側は、あと15分短くできないか、そしたらとってもコマーシャルなものになるから、と言って、Johnもやってみよう、と言った。
でもその後で、できたよ、と言われて行ってみると2時間40分になっていた...
最終版ができたあとで入院していたJohnから呼ばれ、カットできなくてごめん、て言われたのが最後で、その後彼は病院から戻ることはなかった...

Cannonがなかったら、この映画がこの世にでることはなかったのだな、と思うと更に切なくなるのだが、これもなんらかの愛が溢れて流れでた結果ということで。

11.20.2010

[log] Charlotte - Nov.18th

ひとつCharlotteの思い出でも書いておきたいのだが、なんかあるかな。

朝と晩はきんきんに寒かった。日が出ている間はわりとぽかぽかと暖かい。秋冬はずっとこんなかんじだそうな。

到着した日の昼に、"Beer, Bikes, BBQ" (Bikeも喰うのか…)とある地元のバーベキュー屋でHand Pulled Pork BBQというのをいただく。サイドにマカロニチーズとコールスロー。 どれもしぬほどおいしいが、こんなのばかり食べてたらじぶんがPulled Porkになってしぬ。

店に入ったときにZepの"Kashmir"が流れてて、それがNeil Youngの"Cortez the Killer"に変わる。  木造みたいなだだっぴろい飯場の風景に、"Cortez…"の後半のギターパートがおっそろしくはまって、これだけで来た甲斐あった、とおもった。

3時過ぎに全員吐きそうなくらい眠くなったので、オフィスの近所のモールにあるスタバまで歩いていった。Macy'sがあって、Gapがあって、Banana Republicがあって、J.Crewがあって、Victoria's Secretもあった。クリスマスカード撮影用のサンタのおじいさんがしょぼしょぼと座っていた。

たぶん、NYで調達できるものの殆どは、ここでも手に入るのだろう。
でも、古本屋と中古レコード屋は、探さないとないよね… (まだいう)

その晩はオフィスの近所のバーで会食した。どれもふつうにおいしくて、Squashのスパゲティとあったやつを頼んだら、Squashの実がスパゲティ状になったやつ(もともとそういう野菜なのよ)がでてきて、やられたーとおもったくらい。

なのでいま、もうれつにパスタが食べたい。しかもおいしいのじゃないと嫌だ。

町はとても静かで、ひとびとは誰もがGentleで、オフィスの雰囲気もよくて、こういうところで暮らすのもいいんだろうなー、とふつうにおもった。 けど、あまりうまく想像できなかった。 かわいそうに。

でも、とても平穏なかんじがしたのに、町のはずれにはギャングがいるのだという(野生動物みたいな言いかただった)。 銃の所持もありなので、みんな結構持ち歩いているのだという。
そういうもんだよねー。

オフィスに従業員のひとが連れてきたわんわん(♀)がいて、   
ボール遊びがおじょうずなので、夕方からはずっと彼女とあそんでいた。
出張報告には、アニータとボール遊びした、と書くしかない。   

わんわんは毎日来ているらしい。 いいよなー。  でも仕事になんないね。

ホテルは地方によくある2階建てで、フロントから部屋まで歩いて5分くらいかかった。1ベッドルームにキッチンつきで、ありえない広さ。
Conan O'BrienのショーではThe Decemberistsがでてた。いいねえ、と思ったら1月のBeaconでのライブ、2nd showの告知がでた。

金曜のランチは、近所のモールのなかにあるレストランでロブスター・ロールをたべた。
悪くはないのだが、なんかちがった。ハンバーガーだとこの程度は許容範囲だとおもうのに、なんでロブスターロールだと視野も好みも狭くなってしまうのか。
牛よりエビのが小さいからだろうか。

こんなふうに、おっそろしくなんにもしないかんじで戻ってきました。
もう2度と行くことはないんだろうなー、と思うとすでになつかしい。

いま、Jimmy Fallonのショーで、Sufjanが"Too Much"をやってる。 へんだ。

11.19.2010

[film] Limite (1931)

風が強くて冷たい水曜の晩、Brooklynでみました。

世界のいろんな地域の古今の名画を発掘して保存して広めよう、というthe World Cinema Foundationという団体があって(設立代表は、この日68歳の誕生日を迎えたMartin Scorseseさん)、いま、BAMのCinematekでここのSelectionによるいろんなの(いろんなの、としかいいようがない)、をやっている。

アジアのだと、キム・ギヨンの『下女』("The Housemaid")とか、エドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』(”A Brighter Summer Day”)- 4時間版とか、
あとは、Fred Zinnemannが監督して写真家のPaul Strandが撮影した”The Wave (Redes)”(1936)とか。 
そりゃ見たいけどね、体がいくつあってもたら….

そんななか、特集の目玉と言われていたのが、ブラジルのMário Peixotoによるサイレントの実験映画、”Limite” (1931)の完全修復版 - 120分。

Mário Peixotoが遺した唯一の監督作で、これまでSergei Eisenstein, Orson Welles, David Bowie, Caetano Veloso などなどを魅了してきた伝説のカルト作がWalter Sallesの監修のもと、修復を終えたのがついこないだの9月。

NY Timesが事前にわあわあ騒いでくれたおかげで、7時からの上映回はSold outで、9:30に追加上映がセットされた。 見たのは7時の回。

英文の解説はこちらを。

えー、こういう実験映画について筋などを云々するのはバカなので、見ませう、としか言うほかないのだが、映像は、なんだかいろいろすごかった。

これを21歳のときに撮った、というのがまず、しんじられない。

一応、小舟に乗って海を漂流している男1名、女2名が過去を振り返る、ような形式をとっている。 全員がなにかしらに絶望して自棄になっている。 

ブラジルの、地の果てから切り取ってきたとしか思えない海や大地、その光と影。
極端なローアングルで膝下ばっかりとか、頭のてっぺんとか、ミシンとかボタンとかの接写、そんなのばっかり映して、集めてくるカメラ。

そして、俳優さんたちの顔と目つきが半端でなくすごい。どっから見つけてきたのか。 
ミシンをかけるだけの映像がなんであんなに変にみえるのか。

タイトルの"Limite"は、この映画のばあい、「限界」というよりは「境界」の意味のほうがたぶん合っていて、海と陸の境目、舟と水の境目、髪と地肌の境目(髪のわけ目の直線)、なによりも男と女、ひととひと、生と死の境目を、ブラジル的な執拗さ過剰さでもって、しかしこういってよければスタイリッシュに追いかけていく。

監督はヨーロッパから戻って来てこの映画の製作にはいったというが、それにしても、というかそれだからこそ、というか、陰影の使い方の洗練されていること。
例えば、ほぼ同時代のブニュエルの「アンダルシアの犬」なんかよか思わせぶりな臭みみたいなのがなくて、堂々としていてかっこいい。 

ブラジルの風景をみたり、音楽を聴いたりしたときにかんじる、ひゃーこりゃかなわん、みたいなかんじがここにもはっきりと。
音楽だと、Egberto Gismonti あたりかなあ。 すごい変なかんじだけど、ブラジルローカルでもなくて、軽々と境界を超えててユニバーサルで、でもやっぱし変か、みたいな。

ああ、この監督に犯罪映画撮らせたら、どんなすごいものができただろうか、とつい夢想してしまう。

日本でも上映されることをお祈り。


今朝、Charlotteに着いた。
飛行機に乗る前に、ねんのため(なにがねんのためだ)、"Charlotte Sometimes"を聴いてみたが、かえってあれこれ思いだしてどんよりしてしまった。

紅葉がとってもきれいで、なかなか静かなところです。
あしたの夕方にもどります。

11.18.2010

[film] Unstoppable (2010)

火曜の晩、じとじとの雨のなか、(いつものように)やってらんないや、とTimes Squareでひっかけて帰る。

Regal(ていう映画館チェーン)が展開している"RPX"ていう、普通の料金よか少し高い($17とか$18)けど音響がばりばりにすごい設備と同じようなやつをAMC(これも別の映画館チェーン)でも"ETX: Enhanced Theatre Experience"ていう名前で展開していて、そっちで観ました。

Tony ScottがDenzel Washingtonと組んだ(5回目?) ”The Taking of Pelham 1 2 3"に続く電車もの。
ただ前作が地下鉄+犯罪+ホームドラマであったのに対して、今作は貨物列車+暴走パニック+ホームドラマであって、印象はぜんぜん異なる。
(トニスコの場合、ホームドラマが挟まってしまうのは、これはしょうがないことなの)

作業員のミスオペで運転士不在状態で走りだしてしまった貨物列車、こいつが街いっこ壊滅させてしまうだけの劇物タンクを積んでいることがわかった。 「クライスラービルとおなじ長さのミサイル」が線路上で暴走をはじめてしまったもんだからさあ大変。

いろんな手(ほんとにいろんな手、そりゃ失敗するわ)を使ってなんとかこいつを止めようとするのだが、ぜんぜんとまんない。とまってくれない。
んで、たまたま近所を走っていたふたり組、レイオフを言い渡されている運転士デンゼルと家族にもんだいを抱えている新任の管理官Chris Pine - 新Star Trekでカークをやっていた彼-  がやけくそになりつつあれこれやってみる、と。

98分。 とにかくものすごいテンションでぶっとんでいく。 それだけ。

で、そのテンションというのは、ヒトがわーわー作りだすテンション、というよりも、ヒトの意思が及ばないところで動いているマシーンが勝手にがりがりがんがん作っていってしまうもので、まきこまれたら一巻の終わりだどうしよう、ていうテンションなのね。

家族のあれこれとか会社の上との衝突とか、少しはあるけど、ほとんどどうでもいい。
Inspired by 2001年に実際に起こった話、だそうだが、だからといってふーん、だし。

映画の冒頭、朝の電車の群れをざーっと横になめていくとこだけで、すでにかっこよくて。

日本の電車はぜんぜんわかんないが、米国の電車は、とにかく長くて、やかましくて、速いかのろいかのどっちかしかなくて、ほんとに最高だなあ、というのはJames Benningの実験映画 "RR" - いろんな電車が走っているだけの映画 - でもしみじみ思ったことだが、この映画もとにかく凶器としての、うるさい轟音マシーンとしての電車をえんえん追っかけていて、しかもトニスコのいつもの、ありえないような編集とかつなぎの技(運転席でカメラがぐるーって回転するのとかすごい)で、ぼーっと眺めているだけでもアドレナリンがわんわん湧いてくる仕掛けになっている。 

暴走電車の風をうけて子供が踏切でわあってびっくりするシーン、遠足の子供たちがうわあーっとなるシーンがあるが、まさにそんなかんじ。  わぉ! ばっかしよ。

他の乗り物として、馬もでるし、車もあるし、ヘリコプターもあるよ。 (乗り物映画か)
でもみんな電車にはかなわないんだよね。

そいで、この映画にヒーローみたいのがいるとしたら、あのふたりの人間ではなくて、ちっちゃい体(一両)でミサイルに立ち向かっていったあいつ(1206)だよね。

それにしてもなあ、このすさまじい音響(電車が目の前を走っているみたいに重低音がずっとばりばり呻っている)を実現できるシアターが日本にはないよね、いま。

バウスの爆音でもよいけど、これを体験してしまうと全然ちがうの。 ないものねだりになってしまうのだろうけど。

あと、クライマックスに出てくるStanton Curveって、"RR"にも映っていたよね。 ね? (しーん)

邦題はやっぱし、「どうにもとまらない」ということで。


雨のなか部屋に戻ってTVつけたら、Jimmy Fallonの"Late Night"で、Neil Youngの格好をしたJimmy Fallonと70年代のSpringsteenの格好をしたSpringsteenがデュエットしていた。
ぼーっと見ていたらいつのまにか落ちてて、気づいたときには肝心の生演奏がおわってた・・・

こんどの新譜(?)、あちこちですごい宣伝していますけど、これはみんな買うよねえ。
"Born to Run"よか、やっぱこっちだもんねえ。


あしたの朝4時過ぎにここを出て、North CarolinaのCharlotte、ていうとこに行きます。
金曜の夕方まで、一泊だけですけど。

Charlotteといえば。

・"Charlotte Sometimes" by The Cure  ← ぜんぜんちがうとおもう。
・バンドのGood Charlotte  ← 土地のなまえとはかんけいないらしい。
・なまいきシャルロット ← ちがうねえ。

なにしにいくのかって? しらねえよそんなの。 (そうとういやになっているらしい)

レコード屋も古本屋もライブハウスもないだろうからね。 ゆったりと過ごしますわ。

11.16.2010

[music] Sufjan Stevens - Nov.14th

日曜の晩と月曜の晩、ついにBeacon Theaterを2日間Sold OutしてしまったSufjan。

日曜は別の場所でGrindermanもあったのだが、こっちを先に買ってしまっていたの。

オープニングはDM Stith。 このひとは、この後のSufjanのバンドでピアノとヴォーカルとダンスもやる。
暗闇のなかビーチボールを足元に転がし、ギター1本とヴォーカルのループを駆使して、ひとりBrian Wilson(をダークにしたような)状態に。
闇の深さにしっくりとはまる、低くも高くもない不思議な艶のある帯域の声でした。

みんな黙って静かに聴くしかなかった。

後でSufjanはこれを、Unicornの声、と形容していた。 たしかにそんなかんじ。 

ライブは8:45にはじまる。
ステージ前スクリーンが降りたその奥で、トレードマークの羽根がSufjanの背中できらりと光るのがわかり、更にバンジョーの音色が聴こえてきたのでちょっとほっとする。

オープニングの"Seven Swans"。 
前景と後景に大量の星屑が舞い、その光の屑がゆっくりとおうちやベッドや、人のシルエットを描いていく。 
彼の内側で、その最初期から鳴っていた声/呪い、彼を捕え、追いたててきた野火の渦、それらがゆっくりと夜のむこうから立ちあがる。 彼はそこから、彼が歌いはじめたその場所から改めて語りはじめる必要があったのだろう。 

そして前景のスクリーンが開き、羽根はどっかに行って、バンドの全容がはっきりする。
ものすごくいっぱいいた。11人くらい。 ダンサーズ(3名)が復活してて、自分の席からは見えなかったがドラムキットは右と左両方にあった。

「御来場頂きありがとうございます。このショーはCoca Colaの提供でお送りいたします」 「あと、Nikeもね」
どこまでいってもシニカルで。

「このショーは、世界の始まりと、その終わりを描いていきます」 「あと、その中間もね」
要するに、なんでもかんでもぶちこんでしまいました、と。

で、結局どういうふうであるかというと、"Avatar meets Cats on Ice" である、と。 
要するに、That's Entertainmentである、と。 確かにそんなかんじだったよ。

次の"Too Much"から新譜の世界に一挙になだれこむ。
新譜でのテンポよか数段速く、音は分厚くやかましくなり、ダンスとコーラスが炸裂し、背後のスクリーンはSufjan自身も含むジャンクなカルチャーの絵巻物になる。 これがぼくたちのいまいるところ、さ。

"Too Much"、とは、例えばこういうもんなのだと、この緩急激しく、ぜんぜん一箇所に落ちつかないかんじが最後まで続いていく。 曲毎に衣装が変わり、体や頭に装着するギアや楽器が変わり、たまにマイクスタンドが前に置かれて昔のFolkのスタイルになったりする。

"Chicago"の頃の、チアガールズを率いてバカなことをやっていた時期のライブも、それ以降のより内奥に潜っていった時期のライブも、その両方をスケールアップして、一挙にやろうとしている。 
そんなバカな。  と誰もが思うにちがいない。

でも、今、そうする必要があったのだ、それをやるのは今しかないのだ、というのもはっきりと伝わってくる。
というか、この晩のじたばたで、彼はほとんどそれだけを言おうとしてはいなかったか。




バンドはそのアレンジも含めて素晴らしい。 オープニングでDM Stithさんが、これのリハーサルは1日12時間とか14時間とか平気でやっていた、とこぼしていたが、それだけのクオリティのものであり、新譜でSufjanが描きだそうとしていた大風呂敷観をじゅうぶんに出せていたとおもう。

ステージセットは、別に豚が飛んだり壁が崩れたりといった仕掛けで攻めるわけではなく、手作りアニメと前景と後景とライティング、これをBeaconの奥行きたっぷりの舞台をうまく使ってまわしていた。
マルチメディアうんたら、と呼ぶにはあまりに手工芸すぎるのだが、少なくとも音楽には見事にあっていて素敵。

新譜のコアでありクライマックスでもある"Impossible Soul"の前に、このアルバムのインスピレーション元であり、今回のライブでもグラフィックのキーとなったRoyal Robertson (1936 - 1997) - Sufjanの蛍光服の背中には"ROYAL"とあった - の説明があった。

看板画家からはじまり、妻に逃げられた後、女性を呪い、スキゾフレニアを患いつつ世界・宇宙の根源を描いた大量のアートだの落描きだので自分の家とその周りを埋めつづけていったRobertsonをreference pointとすることで、何故自分はバンジョーを弾いて歌い続けているのか、その探究に解をみつけられそうな気がしたのだ、と。

そして、このアルバムを作ること、ライブをすることはサイコセラピーのようなもので、自分は患者であり、ここにいいるみんなは医者であり救済者なのだ、と。

たとえばここに、"Wish You Were Here"期のPink Floyd/Roger Watersの影を見ることはたやすい。
でも、はっきりと、これは彼のライブで、彼の音で、彼の症例 - こういってよければ -  なのだ、ということは十分注意しておくべきだろう。

とくかくこうして始まった"Impossible Soul"は当然のように30分を超えるドラマとなった。

part1での"Do you want to be afraid?"という問いに続き、part2のヴォコーダーパートで、かつてのBootsy Collinsのような金きらの鎧(しってる?)で登場し、"Now I know it wasn't safe"という恐れと惑いをごにょごにょと歌い、その後のpart3では、闇を祓うかのようにダンサーが前に走り出て床に貼り付けてあったビーチボールを客席に向けて蹴りあげ、すべての扉が開かれ、"Boy, We can do much more together"という確信と共にクライマックスになだれこむ。     


その爆発感は、それこそ"Hair"か天井桟敷か、みたいなもんで、Sufjanも含めてみんなで踊って(ちゃんと振りつけあり)、歌って、笑って、はじけた。 
どちらかというと凍りついていた客席もようやく総立ちになった。
対話形式で進むそのドラマが、結局のところ"Impossible Soul"で終ってしまうにせよ。ね。

でもね、とにかくおもしろいのは、ここまできても、ここまでやっても、まったく圧倒的なかんじがしないことだ。(欠点ではなくてね、もちろん)
確かに歌も音も人数分の厚さでぐいぐい迫ってくるものの、Funkのライブにあるような全体をグルーヴの波に巻きこむような、踊ればええじゃないか的な包容力はない。

ここに至ってもなお、Sufjanはたったひとりで客席のひとりひとりと向き合って、なんで自分はこんなふうな奇天烈な格好でこんなダンスを踊っているのかを全力で、かつ真剣に説明しようとしていた。 

果たしてそれは伝わったのか?
それは誰にもわからない、べつにわからなくてもよい類のもので、世界のはじまりとおわりすべてをひっくるめた途方もない規模の、宇宙の果てへの旅であること、は、なんとなくわかった。 とおもうよ。

あと、少なくとも新譜で用いられていた独特の話法 -シンセと弾き語りを共存させひたすら自己の内面に降りていくアプローチ - がライブでのダイナミクスとある面でははっきりと共振し、ある面でそれらを裏切り、振っきるようなエネルギーでもって彼を動かしていることもうかがえた。
やっぱりライブの、弾いて語るひとなんだよね。 たぶん。

こうして観客全員が放心状態になり、それに続いて本編ラストの、"Chicago"の最初の一音がかつてない力強さでもって響き渡るのを聴いたとき、背後 のスクリーンでぐるぐる周り続ける車のアニメーションと天井から泡のように降り注いだ風船と共に、彼のたどたどしく終わらない過去の彷徨いははっきりと肯 定され、これからもえんえん続いていくものであることを我々は知るのである。   

それが祝福されたものとなるのか、呪われたものとなるのか、知る由もないけど、旅は続くんだね。 

さよなら。 またね。


これでも終わらなくて、アンコールは4曲。 すべてむかしの。

- "Concerning the UFO Sighting Near Highland, Illinois"
- "Casimir Pulaski Day"
- "To Be Alone With You"
- "John Wayne Gacy, Jr."

最後の2曲は彼のギターと声だけになる。
ここにきてようやく、我々は彼の声の肌理がいかに孤独で、しかし美しくふるふると瞬いているかを知るのだった。ほんとうに美しい、宝石のような歌声。 全盛期のElliott Smithの、生のすべてがそこにあったような、あの声が。

結局、最後まで耳に残ったのはライブ全編に渡ってぱーぱか鳴り続けたProphet-5とか大所帯バンドのパワーではなく、この声でした、と。  

"Sufjan Stevens vs. the World"

アンコールの終わりまでで2時間15分。
今回のツアーlegは月曜日でファイナルで、彼は「新たな時代のはじまりの終わり」というような言い方をしていたが、そういったことも含めいろんな意味で今年のベストに入れざるを得ないライブ、でしたわ。

11.15.2010

[log] Seattle - Nov.13th

日曜日の昼にもどりました。 NYに。

水曜日の晩にシアトルに着いて、そこからずうっと集団行動だったので逃げようがなくて、また逃げだす気力も特にはわかず、ずうっとホテル内に缶詰でした。
人が多いとしょうがないんだろうけどね、でもそれにしたって。

ゆいいつ、今回参加してくれた会社のオフィスにいって、その凍えるような屋上から、ほらほらあれが"Sleepless in Seattle"でトム・ハンクスが住んでたボート小屋だよ、とか言われてふうん、だったこととか。
でもそれいうなら、あの映画のクライマックスに出てくるビル、いま毎日眺めてるんですけど。

最後の望みだった土曜日の日中も、金曜の夕刻に突如仕掛けられた罠にはまって朝から打合せすることになってしまい、泥よりも苦くねっとりダークになり、金曜の晩、ホテルから2ブロック先のライブハウスでAverage White Bandがあるけどいかない?とアメリカ人に誘われ、AWBだったらぜんぜんOKなので行きます行かしてと返事をしたのだったが、夕食にごろんとでてきた血の味しかしない肉塊を食べて苦しい状態でちょっとだけ横になって気がついたら23時になっていたという。

というわけで土曜日の打合せは、とにかく早く終われ、終んなくてもいいから頼むから終わって、とやるきもくそもなくそればっかし念じ続け、けっか13時にはなんとか終ってくれて、ぐちまみれのランチがすんだところが15時だった。

晩ご飯は18時くらいにバーでボクシング観るから、とアメリカ人に言われていたので正味3時間。 絞りこむしかない。
また単独行動なんですね、と嫌味言われたけど、うるせえよ死ぬときはどうせひとりなんだからほっとけ。 とは言わない。

ホテルの前を走っているモノレールになんとしても乗りたかったので、それに乗って($2)ニードルのとこまで行って、その根っこ近辺にあるEMP(Experience Music Project)に。

MSをやめたおっさんが道楽でつくった音楽施設で、建物はFrank Gehry。
ま、クリーブランドにあるR&R Hall of Fame Museumみたいなもんかと思っていたのだが、あれよかぜんぜんましだった。

特集展示は、シアトル生まれのJimi Hendrixさんで、こういうとこでいつも思うのだがミュージシャンが着てた服とか壊れた(壊した)楽器とか展示してなにがおもしろいのか、と。 でも音と映像ががんがん流れているのでつい見てしまう。

これもよくあるロックの歴史コーナーも、ふんふんふん、程度だったのだが、最後のほうで80年代後半以降のシアトル~ポートランド周辺のシーンをちゃんとカバーしているのでえらいと思った。
Soundgardenの初期(Chris Cornell自筆の歌詞とか、よろこぶひといるのかな)からNirvanaはもちろん、Kill Rock StarsとかKとかRiot GRRRLまで丁寧に展示してある。


もちろん、安易に歴史に回収されない何かをめざしていたに違いないこれらの活動が、こんなような博物館的陳列棚のなか、大文字の歴史にするすると撚りあわされてしまうことについて、ちょっと複雑なかんじがしないでもなかったのだが、これもシアトルのバンドやレーベルのもつ、あの特有の暖かさのあらわれとして汲んであげるべき、なのだろうね。

あと、もういっこの特別展示の「宇宙空母ギャラクティカ」。最初の映画版(77年のStar Warsの直後に、同特撮担当だったジョン・ダイクストラが製作ということでものすごく期待したのだったが日本ではそんなでもなかった)しか知らないのだが、TVでずうっと続いてるよねこれ。

3階のSound Labのコーナーは、いろんな楽器、だけじゃなくてミキサーやエフェクターまで含めてあれこれ実演して遊べるの。スタジオブースみたいになってるとこもあって、これならいちんち遊んでいられる。結構混んでて時間もないのでちょっとだけパーカッションをぱかぽこやって離れる。

シアトルの子供たちはいいよな。

あとは友人とか家族一同でスタジオでジャムみたいなことやると、それをその場でCDとかDVDとかポスターに焼いてくれるやつ、に行列ができてた。
そりゃやるよね。プリクラの100倍豪華だもんね。

あと、すんごくでっかいスクリーンに時間毎にいろんな映像を流してて、ちょうどそのときはジミヘンのライブやってた。もうすこし粘るとメタリカのライブになるはずだったのだが、時間がないのであきらめた。

来年の4月からはこの展示がはじまります。既に異様に力が入っていそうなかんじ。

展示もののあとはお買いもの、ということでQueen Anne近辺のレコード屋を。

最初にSilver Platters、それからEasy Street Records。
どっちも平屋で、だだっぴろく、正直ゆうと、こわかった。
CDは眼中になくて、アナログしか狙っていなかったのだが、それにしたって、でっかくて深すぎて、途中で新譜系もあきらめ、それでもなお。

NYのレコード屋をお庭の池とするなら、こっちは湖みたいな。ネッシーとかでてくるの。 小雨が降っててとっても寒いし。

なに買ったのかはあまり書きませんけど、せっかく西に来たのでBeat Happeningとか、クリスマスなのでディラン・トーマスが子供向けにクリスマスの詩を朗読してるやつ”Child's Christmas in Wales, a story Fern Hill" とか。いちばん高かったのは、FugaziがSub Popで出した7inch ”Song #1” (1989)、かな。

値段のかんじは、うーん、よくわからじ。
日本よりは安いとおもうけど、東海岸とは品揃えの基本がぜんぜんちがう気がした。 
あんまし追求する気も起こらないのだが。

西海岸にはこんなようなレコード屋がいったいあと何軒あるのだろうか。
べつに知りたかないけど。

あとはEasy Street Recordの反対側にある古本屋(よいお店)をのぞいて、ぎりぎりで買わなかったり。 あと、そのならびに"Obasan"ていう日本食屋があった。

スポーツバー(入り口で$10とられる)で見たボクシングは、ウェルター級の世界タイトルマッチで、フィリピンのひとvs.メキシコのひとで、店内はフィリピン応援組と思われるアジア系("Gran Torino"に出てきたわるい連中みたいに、ごっつくて強そうな)大勢と単に土曜の晩に殴り合いを見て血が騒ぎたいだけの、これもめちゃくちゃ怖そうなアフリカン・アメリカン(+ そのお連れの、これまた強烈なお姐さん)たち、のどっちかしかいなくて、ああこれ、きっとぜったい裏でばくちとかやってて、終ってからもめて銃撃戦になって全員しんじゃうんだ、この床が血で染まっちゃうんだもうおわりだせっかくレコード買ったのに、とおもった。
(ごめんなさいぜんぶ偏見です)

で、殴りあい自体は、これはこれで異様にやかましく盛りあがったのだった。
べつに本人達が殴りあいしたくてやっているのでなんも言いませんけど、子供のころ、あしたのジョーとか見せられてもどこが面白いのかぜんぜんわからなかったあの頃を少しだけ思いだし、でもふつうにスポーツ観戦くらいできる大人にはなっているのでパンチがあたるたびに「わあ」とか「あうち」とか、義理で言ってあげる。

でも疲れるばかりなので、やはりボクシングがあまり好きではないらしいもうひとりのアメリカ人とThe Go-BetweensとかLloyd ColeとかSqueezeとかのはなしをしてじみに盛りあがったりしてた。

殴りあいはフィリピンのひとが最初からずっと優勢で、でもメキシコのひとも顔ぐさぐさにされながらがんばって12Rまで続き、12Rが終ったのが21時40分くらい、銃撃戦を避けるため結果は聞かず振り返らずにさーっと店を出てホテルに向かい、荷物をひろって空港に向かいましたとさ。

飛行機は23:59発。ダラスに5:30について、そこで1.5時間待ち別便でNY着いたのは11時。

飛行機乗りこんだら機内誌の表紙がさっきのフィリピンのボクサーのひとだった・・・

戻ってきてからは、洗濯して昼寝して、晩にSfujan Stevensのライブにでる。
これがまた、想像をぜっするとんでもないものでしたの。

11.11.2010

[log] pre-seattle - Nov.9th

ねむかったり、だるかったり、目がまわっていたりであんましおちつかない。
とりあえず、さっきシアトルに着きました。

火曜日の晩、翌日はシアトルだし、行ったらどうせずうっと缶詰軟禁なので、今のうちに遊んじゃえ、と外にでる。
遊びっていっても、レコード屋いって本屋行くだけだから、かわいいもんよ。

Other Musicはこないだ行ったばかりなので、あんましない。

唯一、この日発売になったSufjan Stevensの新譜"The Age of Adz"のアナログを。ずっしりと重い。

お部屋に戻ってmp3を落として聴いてみる。2回くらい。

NY timesの記事もざーっと読んでみる。

"BQE"から”All Delighted People EP”までの流れは、音楽に世界をまるごと放りこむ、というこれまでの野望と試みの延長にあり、プログレやクラシックなロックのテクスチャーを取り込んでいることになんの違和感もなかった。

彼は世界のどまんなかにいて、しかしその位置と視野をコントロールできる風通しのよい場所に立ってバンジョーを鳴らしていた。

しかし、今作での彼は、ものすごく真摯に、悲痛と思われるくらいまっすぐに自身の内省と救済について歌っているように見える。

それが患っていたという神経系の病によるものなのか、従来の作品世界のB面のようなかたちで常に存在していたものなのか(制作に何年もかけていたことを考えるにおそらく後者と思われる)、なんにせよ今作の音世界はみっしりと重い。

では、キャンプファイヤーをやっているかのように明るく楽しかった時代はもう終ってしまったのか、というとそんなでもないのでは、という気もしている。
彼自身の絞りだすような声の他に、はっきりと複数の声が響いてくるし("impossible Soul")、とにかくあっち行ったりこっち行ったりの落ち着きと節操のなさはあんまし変わっていないような気がする。気がした。

まずは、ライブを見てみないことにはねえ。

それから本屋さん(McNally Jackson)で少しだけ。

Sara Marcus’s "Girls to the Front  : The True Story of The Riot GRRRL Revolution"

サイン本が置いてあったので買った。
10月のはじめくらいに、これの出版を記念したイベントがBrooklynのバーみたいなとこであって、関係者がいろいろ集まっていたりして、いまだにこの人たちの結束は固いみたいなのだが、実はどこから出てきたどういう組織体(?)なのかあまりよくわかっていないので、お勉強しないと、なのだった。

本のサイトもあります。

あとは、変な雑誌を買ってやろうシリーズ、で、これは肉食文化をテーマにしている雑誌。
レイアウトとかイラストがかわいかったし、おまけの小冊子のサンドイッチ特集もおもしろそうだったので。

http://www.meatpaper.com/

他にはAmanda Hesserさん編による"The Essential New York Times Cookbook"がほしくてたまらなくなったのだが、分厚すぎてぜんぜんだめ。


今週からTBSでConan O'Brienのショーがはじまってて、初日のJack Whiteもよかったのだが、2日目はSoundgardenだったの。

90年代のはじめ、最初に聴いたときはうげー、と思ったものだったが、ちゃんと聴けるようになるまでに時間がかかって、それからはとっても好きになった。

ここで、"Hunted Down"をやっているのが聴けます。番組でこっちのほう流せばよかったのによう。

Conanて、同じ学年なのな。さっきしった。

11.10.2010

[film] The Tin Drum (1979/2010)

朝いちでMOMAにチケット取りにいったのがこれ。 

『ブリキの太鼓』をデジタル・リストアして未公開カットを25分追加したDirector's Cut版。

なんで今頃?については上映前に監督のVolker Schlondorff が昨年、どっかの倉庫から79年の公開時にカットした部分がでてきて、いるか?と言われたので、いる!と答えて、それらは本来のスクリプトにあったやつだったので、それに従って復元したのだ、といってた。

だから"Director's Cut"というよりは、これが本来あるべきだった映画の姿なので、そういうふうに観てね、と。

『ブリキの太鼓』は公開時、高校1年か2年かの頃に、2~3回は見たとおもう。

当時、『地獄の黙示録』で戦争の狂気と熱風を、『ブリキの太鼓』で戦争の不条理と冷気を学んだ子供は多かったのではないか。 ポーランド郵便局の攻防とかも、この映画で知ったのだった。

あれからもう30年。 なのかあ・・・

自ら成長を止めたOskarの時間と、彼の周囲の人々の、ぐだぐだに巻きこまれて流されていった時間、ここで対比されたふたつの時間が、30年の時を経てぐんにゃりと目の前で展開される。

時間も成長(身体のだよ)も止められなかった。 当時は最終兵器ノストラダムスさんに期待していたのだが、結局なんも起こらなかった。 911がおこった。イラク戦争もおこった。

それは、映画の最後で成長を - 老いて死ぬことを受け入れることを決めたOskarのその後とおなじような軌跡をたどっているのか - 違ったものになっているのか、だれも知りようがない。

そういう、知りようがないかたちで流れていくそれぞれの時間、その多様なありよう -みたいなものを教えてくれたのは、例えば映画の最後にぼこぼこと広がっているじゃがいも畑、だったりしたのである。

そして、あの乾いた、耳ざわりな太鼓の音はじゃがいも畑の上空でかんかん鳴っているのだった。
当時聴いていた音楽を改めて聴くときのあのかんじと同じように、呼び覚まされるものはたしかにあった。

この映画が今の時代の若者にどんなふうに受け止められるのか、よくわからん。
とにかく子供を大切にしようの時節柄、オクラホマかどっかであったみたいに児童ポルノ扱いされてしまうのかもしれない。 でもそういう時と場所でこそ、Oskarのあの青く冷たいまなざしはまっすぐにこちらを向いて刺さってくるはずではないか。

あと、監督が言っていたことで、誰もが聞いてくる質問: Oskarくんはその後どうなっちゃったの? については、彼は立派に(物理的にも)大きくなって、劇団でシェイクスピアとかをやっているそうです。
ちゃんと成長しちゃったんだね。

今回の新バージョンで追加された箇所については、"Apocalypse Now Redux"みたいに明確に判るかんじではなくて、たぶんここかなー、くらいでした。 

なんにしても、164分はあっというま。

11.09.2010

[film] Jackass 3D (2010)

日曜の朝、MOMAにチケット取りにいった帰りにTimes Squareでみました。
みんながマラソンで感動のドラマを繰りひろげている最中、或いはみんなが教会とかに向かう時間帯にこんなばちあたりなの見ることもなかろうに。

でもこれの予告を見た時から、なんか見たくて。
『Time Magazineは3Dは映像の未来だと言った。われわれはそうは思わない・・・』
と言ったそのむこうに、3Dなんて屁とも思っていないいつものJackass Worldが拡がっている、ように思えた。

最初にMTVのロゴ。おーなつかし。 続いて、Beavis and Butt-Head 登場。 あーなつかし。

なにも変わってねえじゃん・・・  でした。

なにも変わっていない、とか、前に使ったネタだ、とか、既に誰かがやってる、というのは批判にもなんにもならないの。 それいったらポルノだって、どうぶつだって。

3Dになってどうなったかというと、爆破系とか飛沫系とか、あとはおならでぴーひゃら、のあれとかが目の前にやってくるとんでくる、というその程度で、しかも飛びちってくるものときたら、げろとか糞尿とか、そんなのばっかしなのであんまし嬉しくない。 でも実物がとんでくるわけではないから(飛んできたらすごいな!)、その点はちょっと得かも。(ちがうだろ)

こんな映像のために特殊な3Dメガネかけて椅子に座っている自分がつくづく情けなくなってくる、そんな1時間半。 
でもあっという間でした。

それでもね、「全員集合」で育った世代にとって、ここで繰り広げられるネタって夢のようにすごいわけですよ。これぞリアル・ファンタジーなのよ。 やりたくて、でも怒られるに決まっているからできなくて、でもいーじゃんべつに、と思いながらも、一旦頭の奥にしまいこんで封印していたあれこれが、とてつもないスケール(でもないか・・所詮糞尿だし) で実現されている。

これこそパフォーミングアートの原点だし。 ブリューゲルがみたら大喜びするよ。ぜったい。

やりたいなあ、でもなあ、という人のためにしつこいくらい「ここで繰り広げられる技のあれこれはきちんと訓練を受けたひとがやっているやつなので真似しないでね」とか繰り返されるが、ぜったいそんなことなくて、いくつかのはやっちまえノリで、ついやっちゃったやつとかあると思う。

日本で公開されるのかしら。ちゃんとした3Dで。
ちんぽこ野球とかむりなのでは。

偽ゴリラの調教師役で、SSWのWill Oldhamさんが出てきます。ふつーに。

あと、常連Spike Jonzeさんもいつものように。
こいつの本性は「かいじゅう」じゃなくてこっちだからね。まちがえないようにね。

おしりに挟んだリンゴに豚さんが突撃、はちょっとだけやってみたかったです。  ...いえ、うそです。

終わったしゅんかん、"Disgusting!" て吐き捨てるようにいった娘さんがいた。
それゆったら思うツボなのに・・

[music] The Dandy Warhols

土曜日のStanley Donenさんの後、なんとなくもにゃもにゃしていたのでそのままライブに流れることにする。

BoweryのLand of Talkかこっちかで少し悩んだが、気分としてなんとなくがしゃがしゃしたのが聴きたかったのでこっちにしたの。  当日券で$32。

7:30開始で前座がひとつ、8:30でもだいじょうぶだろと思って8:35くらいに入ったらもうはじまっていた。

このバンドについては、これまできちんと聴いてきたわけではなくて、聴き流し中心で、あとは例のドキュメンタリー映画"DiG!"とか、そんな程度なのだが、それでもぜんぜんいいのよ、という感じの開放感たっぷりの、がしゃがしゃだった。

音量と音圧でぐいぐい押してくるわけでもなく、あおってあおって天井まで持っていくわけでもなく、一曲一曲、池の金魚に餌まくみたいに楽しそうに演奏していました。
客のほうも餌がくればぱくぱく喜ぶし、そうでなくてもゆらーって泳いでるし、全体の雰囲気はとてもよくて、年寄りがいっぱいいたのもなんとなく納得する。

音のかんじも、軽いぱりぱりしたドラムスにしゃりしゃりしたギターの絡みがほとんどすべて、ノイジーでもグルーヴィーでもなく、かっちりとしたフォーマットの上でところどころ弾ける程度なのだが、スタイルとしての完成度は高くて、いつどっから聴いてもそれなりに盛りあがってステップをふめる。

"Honey's Dead"の頃のジザメリがこんなかんじだったかも。 よい意味でよ。

一時期、こういう(てどういう?)ギターの音っていっぱいいた気がしたのだが、最近あんまないかも、と少し思った。 デジタル化の流れでギターの音幅が中域に詰まってきたのと関連しているのかも。

最後の5曲くらいの流れはほんとに気持ちよかったです。
これならちゃんと予習していけばいかった。

本編が1時間半強びっちり。 アンコールはなし、かと思ったら片付け始めたころに出てきて1曲だけ。

11.07.2010

[film] The One, the Only Stanley Donen

土曜日は、映画にかんしてはめちゃくちゃで、いいかげんにしてほしい、なのだった。

MOMAではじまった毎年恒例の”To Save and Project: The Eighth MoMA International Festival of Film Preservation”で、"Bad Girl" (1931) Directed by Frank Borzage があり、これに続いて、"They Made Me a Fugitive" (1947) Directed by Alberto Cavalcantiがあった。とくに後者はWes AndersonとKent Jonesによる口上付き。

Anthology Film Archivesでは、『何も変えてはならない』の上映にあわせてPedro Costaさんが来てて、彼の講演つきで彼のセレクトによる音楽映画 - "MINGUS: Charlie Mingus1968"と"Sound of Jazz / Get Out of The Car"とかが上映される。

さんざん悩んで、初心者としてはやっぱしStanley Donenを見ておこう、ということにした。 とくに『掠奪された七人の花嫁』をちゃんとしたシネスコで見たい、というのと、監督本人が来る、ということだったので。

それに、Film ForumでMagnetic Fieldsの世界に触れてしまったあとだし、やっぱりミュージカルだよね、というのもあった。


4:00から見たのが、”The Pajama Game” (1957)
パジャマの縫製工場で管理側のJohn Raittと組合側のDoris Dayの恋のかけひき。

ぜったい楽しいし、歌と踊りはもちろん、いろんな色はほんとにきれいだし。
カメラはHarry Stradling、振り付けはBob Fosse - Jerome Robbinsだし。

ブロードウェイの舞台の映画化、でもあるのでこてこてのところも少しはあるけど、工場の奥行や野外ピクニックの解放感をダイナミックなカメラが見事に収めている。

それよりもなによりも、やっぱしDoris Dayてすごいねえ、と。

どの曲もすてきだし、他の共演者もみんな歌って踊れてるし、すごいや。
すごいすごいばっかしで、終ったらみんな大拍手でしたわ。


6:00からが、"Seven Brides for Seven Brothers" (1954)

これもまた、問答無用、なのだった。
町に降りてきた山男が、おら嫁がほしいだ、とたまたま出会った酒場の娘を落として山小屋に連れて帰ると、そこにはゴミのようにうす汚れた6人の弟達がいて、ものすごい状態で、連れてこられた娘はあったまに来つつも6人をそれなりに教育して町に連れていく。町娘にふれてしまった6人はかえってむらむら我慢できなくなって古代ローマ人もやってたし、と町におりて町娘を拉致して連れ帰る。町の衆は当然怒り狂って追っかけてくるが雪崩が起こって山への道は閉鎖。春になって町衆が再突撃してみたらあらあら。

セクハラどうのこうの以前の、ヒトはいかにヒトとなるか、みたいな話でもあるのだが、そんなのを云々するのは野暮なだけ、と言ってしまってよいのかどうか。

とにかく町でのダンスと喧嘩(とにかく圧巻)で7人がずらっと横に並んだ状態をみただけで、ああシネスコすごい、と感嘆してしまう、そんな映画です。

上映後のトークで、とにかくこの映画は振り付けのMichael Kiddと素晴らしいダンサー達(NY City Balletのひととかいるのね)に尽きる、と監督自身も言っていたが、ほんとうにその通りなの。

おなじく上映後のトークで、監督自身が最初に映画に関わったエピソードとして、Gene Kellyの"Cover Girl" (1944)でGene Kellyが自身の影とふたりで踊るシーンがあるのだが、当時の技術でそんなことできるわけない、と監督がさじを投げたのに、横で見ていた(当時)小僧っこのStanley Donenさんがまったく同じシーンとシークエンスを2回撮って重ねればできるじゃん、と言い張って、で実際できてしまった、というのがそのシーンの証拠映像と共に披露されていた。 あんぐり。 

自分で自分のことをコンピュータなのじゃ、と言っていたが、要は監督というのはそれくらい自身が撮るショットをコマ数まで含めて正確に把握しておかないといけないものなのじゃよ、と。

で、そういう技術は学校で教わるものではないし、自分もひとを教えることに興味はない、マティスだってピカソだって、自分で研鑽してあそこまで行ったんだしな、と。

この映画はとにかく短期間で低予算でつくって(とてもそうは見えないが)、その割にはお金を稼いだのでMGM側はほんとにハッピーだった、と。

あと、シネスコ版とは別にスタンダードで撮られたまったく別のバージョンがあるのだが、この版は結局誰も見ていないんだって。

Q&Aは当然いっぱい手があがったのだが、2つくらい質問に答えただけで、美しいお嬢さんとのディナーがあるので失礼、といってさーっと消えてしまった。 やるなじじい。


[film] Strange Powers - Stephin Merritt and the Magnetic Fields (2010)

というわけで、土曜日のいちばんで見にいきました。

http://www.strangepowersfilm.com/

たしか6月くらいにBrooklynのBellhouseで一回だけ上映があって、ぜんぜん行けなくてあーあ、だったのだが、USの映画館上映を最初にやってくれたのがなんとFilm Forumだった。 どんだけすばらしいのここは。

The Magnetic Fieldsのドキュメンタリー。 バンド名の時点で半分以上のひとが興味を失い、ドキュメンタリー、というとこでその二分の一がどっかに行ってしまう、そんな作品かもしれないが、それでも残りの1000人くらいは死ぬほど見たいとざわざわしっぱなしだったのである。

映画はほんとうに地味に普通に、しかし愛を込めて謎に包まれていた(そうでもないか)Stephin Merrittの日々の生活と生態を追っていく。

別に驚愕の事実とか家族の秘密とかが浮かび上がるわけでまったくなく、唯一のびっくりは映画の終わりのほうでNYからLAに移住してしまったことくらいなのだが、それ以外は、チワワと暮らし、レコーディングは全部自身のアパートのスタジオで行い、自転車でヴィレッジ界隈を走りまわって(自転車だよねえやっぱし)、Film Forumに通ったりする、ごくごく普通のアーチストの肖像がここにはあった。

そしてだからこその、あのMagnetic Fieldsの歌詞であり歌であり、それを、その驚異を"Strange Powers"と呼ぶことになんの異議も異論もない。

そう、リリースされてから既に10年を過ぎた"69 Love Songs"の言いようのない深さと美しさ、その謎は未だに我々を困惑のなかに落としいれる。音楽自体が愛の網目となって我々を金縛りにする。
(ちょっとおおげさか)

そんな世界のはじっこを果敢に捉えようとしてみた映画なの。 
日本で上映しても初日に100人きておわり、だろうな。

最初に出てくるコメンテーターがPeter Gabrielさん、続いて、へ?みたいなかんじだが妙に納得できるSarah Silvermanさん、どちらもベタ褒め。

他に登場するのはSuperchunkのLaura Ballanceさん、Sleater-KinneyのCarrie Brownsteinさん、とか。

彼女たちがStephinの音楽を好きだ、というのはなんだかとてもよくわかる。

LAへの移住については、映画音楽の世界にシフトする、ということだとおもうが、うまくいってほしい、と切に願う。
このひとは、冗談ではなく、George Gershwin - Cole Porter - Burt Bacharach - Randy Newman の系譜に連なる、偉大なアメリカのソングライターのひとりなのだから。

そしてたとえ彼がLAに行ってしまっても、音楽もバンドも変わることはなく、"All Our Friends Are in New York" - Other Musicでやっている展示 - なのである。うんうん。

[film] Bedazzled (1967)

しんどい。

朝4時から電話会議にはいって、朝7時に一旦ぬけて会社にむかい、そのままずうっと深夜まで、がLondonから戻って以降、ずうっと続いた。

さすがに金曜日になるとゴミ同然、使いものにならなくなっているので、みんな早く帰ってやすんだほうがいい、とかゆってくれる。

それではお言葉に甘えて、とすたこら会社を抜けて、Other Musicにむかう。
ずっと本屋とレコード屋に行ってないので体中がかゆくて。
(先週行っただろーが。Londonで)

Other Musicでは、店内でちっちゃい展示をやっていた。
The Magnetic Fieldsのドキュメンタリー映画の公開にあわせての企画で、先週のオープニングにはStephinさんが来て店内DJとかやってた。

"All Our Friends are in New York: Exhibition of Stephin Merritt/The Magnetic Fields -Related History, Images and Ephemera"

バンドの写真とか、展示しつつ一部を売ってたり。(一枚$200はなあ...)
吸いこまれてしまったのが、Wendy Smithさんによる"The Wayward Bus"のジャケットの原画。(さすがに非売品だった)

手の届きそうなところで、この展示のポスターだけ、買う。$15、50枚限定。
まだぴちぴちだった頃のStephinとClaudia、色のかんじがよくて。

他に、つい買ってしまったアナログは、裸のラリーズとか、Dirty Projectorsの店内ライブとか、よくしらないBrooklynの地場モノとか、Broken Social SceneとSea and Cakeの7inchスプリット(完全ジャケ買い。あざらしとぺんぎん!)とか、The Fallの7inchとか。 

アナログはすぐ聴けないからなあー

一旦アパートに戻って荷物を置いてからLincoln Centerへ。

3日から10日まで、”The One, the Only Stanley Donen”という特集をやっている。

スタンリー・ドーネンてどーねん? というのはぼろぼろの脳があうあうしつつ精一杯はきだしたやつなので、かるく流してあげてくれるとうれしい。

当然、見たいのは沢山あるのだが、時間もないので観れるやつだけを。

で、晩の9:00から"Bedazzled" (1967)。 『悪いことしましョ!』ですね。

Maurice Binderによるタイトルデザインとそれに被さるDudley Mooreの音楽だけ、なんの映画だこれ、というくらい異様にかっこよいが、それ以外はお茶の間ぼんくらのださださで、そのギャップがたまんない、と言うひとは言うのかもしれない。

なにやってもさえない若者がDudley Mooreで、彼をたぶらかす悪魔がPeter Cookで、要はFaustを60年代イギリスでやってみたらこうなるかも、で、歌とかアニメとかいろんなアイデアとかセットはいっぱいあってあれこれがんばっているなあ、と思うものの、最後に残るのは我慢できなくなってぶちきれたDudley Mooreがべろだして「ぶぅ~」ってやる、あれくらいなのだが、でもなんか、憎めないやつ。

説教くさいとこにも、教訓話にもいかないところがよいのかも。
歌もダンスもできない大多数の若者達のためのミュージカル、のような、不思議にふっきれたかんじ、というか。  まだNerdなんていない、ありえなかった時代の。

Lustの化身としてRaquel Welchさんとかも出てくるが、そんなあんましエロくない。
あ、昔はお色気、とか言ったのだね。

もう夜になるとすっかり冬、でございます。

11.03.2010

[music] The Dresden Dolls

というわけで、Halloweenの晩には絶対に戻らねばならなかったのだし、後でどんな悲惨なことになろうとも、米国側に着火する必要があったのだった。 ほんとにほんとに、こんな燃え広がっちゃうとは思わなかったけどな(泣)。

JFKから7時半にアパートに戻って、お片付けして8時過ぎには出て、Irving Plazaに向かう。
この小屋はほんとに久しぶりで、00年代に入ってBowery一派がのしてくる前、90年代は、ライブハウスといったらここか、Roselandだったのに、LiveNationに喰われてからはすっかり元気がなくなってしまった。

それはともかく。
小屋のまわりをぐるうっと、ものすごい行列が囲んでいた。
ここでこんなに人が出ているのを見たのはほんとに久しぶり。

7時迄だったら小屋の前にBig Gay Icecreamの屋台がでていたはずなのだが、この寒さじゃねえ。

当然、はんぱじゃない格好のひとがうじゃうじゃいる。
これじゃID確認なんてできるわけないし、持ち物検査もあったもんじゃない。
たまにまともそうな人がいた、と思ったらNINのTシャツを着ていたりする。 (...一種の仮装か)

中に入っても、着ぐるみだのなんだのでひとりひとりの嵩が広がっているもんだからぎっしり。
まあしょうがない。Halloweenというのはそういう居心地の悪さと共に下層民が雄叫びをあげるものなのであるし。 
まあね、疲弊具合は墓から出てきた連中に負けない気がしたよ。 ぼろぼろ。

9時ちょうどに前座がはじまる。 30分きっちり。
なーんと、The Legendary Pink Dotsだった。 こんなところで「伝説」が観れてしまうとは。
ライブのなかでAmandaさんが語ったところによると、2003年、デビューしたばっかりの彼らに前座の機会を与えてくれたのが彼らだったのだという。 おん返し。よい話。
この分だと、何年か後、NINもDDの前座になったりするのかもしれぬ。

さて、Dresden Dolls。
今回のツアーはみんながみんな喜んだとおもう。 かつて彼らのライブに接して彼らのことが大好きになった人達は特に、ほんとうにふたりがまた一緒にやってくれることに安堵したはずだ。

だって、Amandaのソロは、余技と呼ぶのも憚れるくらい堂々としたものだったし、そのあとで出された"No,Virginia"は、とりあえず聴いといて、みたいな気の抜けたかんじがしたし、要はふたりがこれからもずっと一緒でやっていく必然なんてそんなにはないように思えたものだから。

でも彼らは帰ってきた。
仲良く体を寄せあって、キスしてハグして、客席に花びらをばら撒き、Amandaは真赤なガウンをばーんと脱いで黒のブラ一丁になって、Brianはドラムキットのとこに仁王立ちになって、がーん、ぎーん、ばしゃーん、どかどかどかー、と双方向から戦いの狼煙があがり、会場全体が沸点寸前までいったところで、"Sex Changes"のあの一瞬清々しく跳ねるイントロが鳴りはじめ、後ろからたたみかけるようなドラムスが追っかけ、雷鳴が轟き、独特のしなりと共に世界がバウンドをはじめる。

この音!   と誰もが思ったはずだ。 
Amandaのとてつもない強度をもった打鍵とそれにぴったり寄り添い、ボトムからおもいっきり突きあげて音を散らしてそこらじゅうにばらまくBrianのドラムス。

誰もが、行け!もっとひっぱたけ! と心の底から思い、願ったはずだ。

この音は、このふたりの、あの声と二の腕(ひとりのはふっくらと力強く、ひとりのはやたら長い)と、あの帽子がなければぜったいに出すことはできないことを我々は知っている。

そしてその音が、彼らふたりの世界観 -バンド名、ファッション、デカダンス、キャバレー、狂騒、エロ、などなどからなる、宝箱とかびっくり箱とか、そんなようなものだ、ということもようくわかっている。

その箱を開けるのは我々で、それは正に今宵、墓場がその口を開け、死者ですら着飾って街に繰り出すその晩に全てはおこって、実際、彼らは死者をも叩き起こしてキャバレーだのサーカスだのに引きまわした挙句、即座に痙攣 → 昇天させるようなものすごい勢いで歌って、叩いて、走っていった。

そして、あんまりのことに死人をも含めて、いまぱっちりと目覚め、おもいしるのだ。 
ああ、こんなにすごいバンドだったんだわ、と。

この日が特別だ、というのはHalloweenのおかげ、ではなくて、この日が、丁度ふたりが出会って10年目のAnniversaryだから、とAmandaが言う。 2000年の10月31日にふたりは出会ったのだと。
そりゃ力もはいるわよね。 お祝いだもの。

歌のでだし間違いとか歌詞忘れもいっぱいあったが、ぜんぜんいいよそんなの。
天井風船とか即席合唱隊とか、いろいろ楽しい見せ場もあったけど、なくてもぜんぜんへいきよ。

アンコール2回入れて2時間半びっちり。
ほとんどの曲は聴けた。 
いや、"delilah"以外は、だね。この曲は今晩のかんじからすると、ちょっとだけちがったかも。

ラスト(だったかな)の"War Pigs"も、まったくだれず揺るがず、Amandaは客席の真正面から仁王立ちでぶちかましていた。

全体になんだかものすごくて、恐れるものなんてなにもねえ、やっちまえモードのやけくそで突っ走っているようにも見えた。 それでもちろん、よいのだけど。

ねえ、そもそもなんであんたたち休んでたの?

11.02.2010

[log] Heathrow Terminal 5 - oct.31st

そういえば、Terminal5って、どっかのライブハウスがあったね。

ロンドンから脱出する日曜日は朝から雨だし、そうなるとあんますることもないので早めに空港に出て遊ぶことにした。 ここ2回くらいはぜんぜんお買い物する余裕もなかったし。

フライトは13時半くらいで空港についたのが10時過ぎ。

米国に入ってからいちどもお洗濯できていなくて、空港で下着とか買わなければいけなかったのでとりあえず、Paul Smithのブチックにはいる。

そしたら例によって古雑誌にはまってしまい(だからなんでこんなとこで古本売ってるんだよ)、"The Face"のむかしのを2冊。

ひとつは81年4月号。
表紙はまだぴっかぴかのAdam Ant。 他の記事として、The Beat, Polecasts, Gang of Four, Selecter, Delta 5, Bush Tetras, The dB's, Lounge Lizards, Aswad, そして"The New PiL Album" とある。 まだ袋破っていないが、なか見たらほんとうに泣いちゃうかもしれない。  それくらいぜんぶどまんなか。

もうひとつは、83年1月号で、82年のReview特集。
これも泣きそうな予感が。 こわくて袋あけられない。

あと、Punch誌の57年7月号と62年7月号を表紙イラスト買い。 ついかわいくて。

それからJoe Maloneでじぶん用の小瓶を2本。

Smythsonではさんざん悩んで結局買わず。

お腹がへったので、Gordon RamsayのPlane Foodでお食事。
ここまできて、Gordon Ramsayなのになんでまた、のEnglish Breakfastを。
トーストの香ばしさも、ベーコンもソーセージも、トマトのふんわりした焼け具合も絶妙だった。 さすが。 お豆がほしかったけど。

それからゲートの前の売店でSunday Timesを買って、FashionとCultureと特集ページ(Britain's Top 100 Restaurants)以外をばりばり捨てる。 (お掃除のおばさんに気持ちわるそうに見られる)

機内では、機内TVの調子があんまよくなかったので映画はあきらめて、殆ど老人のようにうとうとしていた。 

JFKには5時半に着いた。

Halloween! である、と。

[art] london - oct.30th -

体内時計は既にじゅうぶんこっぱみじんに破壊されていて、10分20分の睡眠をこまこま積み重ねながら、1時間でも深く眠れたら神様に感謝しているの。

というわけで土曜日も朝8時くらいに目覚めたらそのままなんとなく眠れなくなって、お天気もよいし、横になっていてもどんよりするばかりなので外に出ることにした。

いちおう映画もざーっとチェックしたのだが、あんまりやってなくて(BFIはFrank Capra特集)、その晩のお仕事を考えると映画の前後も含めて余裕がなくなってしまうのはなんか惜しい気がしたので美術関係だけにした。

最初にV&Aで展示をふたつ。

"Diaghilev and the Golden Age of the Ballets Russes, 1909 - 1929"

ディアギレフのBallet Russesの、相当に気合いの入った回顧。£10。
ディアギレフ本人、バレエの衣装、振りつけ、音楽、セットはもちろん、ビジネスとしての興行のありようも含めて、彼らの総合的なアートがその後の世界(そう、しかも全世界)にもたらした幅広い影響をいろんな角度から検証する。

とりあえず、その後のクラシックもモダンも丸めこんでしまうかのような風呂敷のでかさ、懐の深さ、「ロシア」としか言いようのない力強さにあきれる。

場内で、『春の祭典』のJoffrey Ballet 版とPina Bausch版の比較映像を流していたが、同じ音楽であってもここまで違うものを生みだすことができる、その最初の切り出しを、正に破壊と創造をもたらしたのがこの集団だったのではないか、とか。

圧巻だったのが『火の鳥』の公演でつかわれたばかでかい背景幕(V&Aでも最大の所蔵品だそうな)と、"Le train bleu"-『青列車』の緞帳に描かれたこれもまた圧倒的なピカソの『海辺を駆ける二人の女』。 この絵、昔ピカソ美術館で観たけど、こっちが正しい姿だったのだな、と改めて。
こんなのを背負ってツアーしてたら、そりゃ話題にはなるわな。

あとは同時代の作家の書き込み原稿、ジョイスの『ユリシーズ』、プルーストの『失われた時を求めて』とT.S.エリオットの『荒地』。 ううううう。(直撃)

"Shadow Catchers: Camera-less Photography" £5。

カメラを使わず、光と印画紙だけで写真を撮っている/作っているアーティスト5人をピックアップして紹介する。
その手法は作家によっていろいろで、ひとり3分くらいづつでビデオ紹介しているのを見たが、みなさん見事に枯れた、なにかに到達して悟ってしまったような顔をしていた。

差し込んだ光と影がどこかに像をつくる、その一番のはじまりは目を閉じた直後に残る像だと思うのだが、たぶんそのイメージをずうっと追っかけていくとこんなような写真になっていくのだとおもった。機械(カメラ)は補助道具のようなもので。

それから地下鉄でTate Britainへ。 特集いくつか。

"Rachel Whiteread Drawings"

でっかい箱系の彫刻で知られる彼女のドローイング集。
風呂桶とか本棚とか、いろんな箱がいっぱい。うちにも箱はいっぱいあるよ。

"Turner Prize 2010"

今年のターナー賞受賞者の展示。おもしろくてかっこよかったのは、やっぱし映像集団 The Otolith Groupの展示、というかインスタレーションで、帰りに小冊子買った。

あとは、Fiona Bannerさんの”Harrier and Jaguar”で、フロアにでっかい戦闘機ががーんと置いてあるの。土曜日のガキむけイベントでわらわらうるさかったけど。

あと、”Romantics”。英国におけるロマン派、というとターナーとブレイクとコンスタブル、この3名くらいになってしまうようなのだが、ロマン派、という切り口で探ってみるとこんなかんじ、とか。
でも、ターナーまでもロマン派にしちゃったら、なんでもありだよねえ。
むかしむかし、ニューロマ、っていうのもあったんだけど。

それから前とおなじく、Tate to Tateのお舟にのって対岸のTate Modernまで。

Modernのほうのメイン展示はゴーギャンで、これはまあいいか、と。
でもそれを飛ばすと観るものがほとんどなくなってしまうのだった。

唯一、入り口付近でやってたのがこれ。

The Unilever Series: Ai Weiwei - Sunflower Seeds 2010

床一面にひまわりの種がぞわーっと敷きつめてあって、その物量にまずきもちわるくなって、更にそれら粒粒ぜんぶが本物ではなくて、セラミックでこまこま作っている、というのを知り(横でメイキングのドキュメンターもやってる)、さらにぞぞぞぞ、となる。

おれだったらここに追加でロボットのシマリスかクローンのシマリスを大量に放つね。


ここまでくるといいかげん眠くてだるくなってくるので、バスでShoreditchのほうに出て、Rough Trade Shopで今回の旅で唯一、お買い物らしいお買い物を。
どうせもう来ることもないだろうし。(て約2ヶ月前にもたしか)

もちろんアナログで、買ったのは;

-- Morrissey "Bona Drug 20th Anniversary Edition"
こんなのまでもう20年かよやってらんねえよ、とぶつぶつ言う。

-- Belle & Sebastianの新しいやつ
ベルセバのは、いつもジャケットで買うけど、最後まで聴けたことない。

-- Elektra Recordsのアニバーサリーボックスがいっぱい置いてあった(£50くらい)が、買うわけにはいかないので、記念で復刻された7inchのほうを少しだけ。
NicoとTim Buckleyの2枚。 記念復刻盤はあとふたつ、LoveとJudy Collinsのやつ。これらも買っちゃえばよかった。 なにを躊躇したんだか。

-- Adrian John Moffat "Ten Short Songs For Modern Lovers"
45回転の7inchなのに10曲もはいっててお得だから。

軽くごはんを食べてホテルに戻ろうとしたのだが、5時くらいで、まだ食い足りない気がしたので、駅の周辺でなにかやってないか見てみて(iPhoneばんざい)、これに行ってみる。


Damien Hirst "The Souls"
http://www.paulstolper.com/index.html

いろんな色のパターンの蝶々が100枚くらいあったか。
それはそれはきれいでゴージャスなのだが、値段を聞いたら1枚£3000、と。

ふうん。 きっとこの値段もこみでの、"The Souls"なんだろうねえ。

それからその近所の本屋(結構いろいろあった。またくる)で時間をつぶしてホテルに戻りました。

[log] Oct.27 -

もうLondonから戻ってきているわけだが、かんたんに先週数日間のことをおさらいしてみよう。

水曜日の朝3時の電話会議(暗闇の中、半分脳死状態)でなんかあれこれひどくなっているらしい、ということがわかって、朝7時くらいになんとなく行く/行け(今日中に)、ということになって、でもこの時点ではまだ布団のなかでまるまっていて、会社に行くことができたのは10時すぎ、そっからフライト取って、ホテル手配してもらって、あれこれ段取りつけて、3時過ぎにアパート戻って荷物つっこんで、4時に車がきて、でもぐじゃぐじゃの渋滞でJFKまで1時間以上、吐く一歩手前でなんとか空港着いて、着いたら着いたでお腹へったのでお菓子とか食べて、がたがたの状態で7時すぎの飛行機にのった。

水曜日27日の晩は、しぬほど重要なイベントが3つもあったのに。

①Film ForumでThe Magnetic Fieldsのドキュメンタリーフィルム
"Strange Powers: Stephin Merritt and The Magnetic Fields"  の初日、8:10の回にバンドが出てきて挨拶みたいなことをする。

②Bad Religionの30th Anniversary Liveの3日目、00年代に入ってからのアルバムを中心に展開するセット(のはず)で、00年代はBushという明確な敵を前に、バンドがそのすさまじい握力と風圧を取り戻した時期でもあるのでこれは必見なの。

③MOMAでBarbara Lodenの"Wanda"(1970)の未公開部分を足してUCLAでリストアされたバージョンが公開される。 IntroductionでSofia Coppola他が登場して、上映後にQ&A。

最初①のチケットを取っていて、その後で②に気付いたので①はあきらめ、②のチケットを取って、7:00からの③を観てから②のIrving Plazaに突撃、というシナリオを描いて、時間割をふくめ何度も脳内シミュレーションしていたのに。

ぜんぶおじゃんになってしまった。 どうしてくれよう。

他にもLincoln Centerでの恒例の恐怖映画特集"Scary Movies 4"とか、お楽しみ企画が盛りだくさんだったのに。
この特集でホラー映画はだいじょうぶな脳と身体になる予定だったのに。
http://www.filmlinc.com/wrt/onsale/scarymovies.html

もちろん飛行機はそんなの関係なく飛びたって、向こう岸まで飛んでいく。

機内で"Get Him to The Greek"を見ながら御飯を食べていたら途中で気を失ってて、ラッキーなことにエコノミーの3連空き席だったのでそのまま横になり、目覚めたらもう着陸するあたりだった。
そしてはっきりとねくじいた。

空港から電車のってTaxiのって、ホテル(こないだ1ヶ月滞在してたとこ)に一旦荷物置いて着替えて、木曜日の10時くらいに会社行ってそのままずうっと拘束されて逃げようがなく。
こうして木曜日はあっというまになくなり、金曜日もあっというまになくなった。
昼になに食べて、晩になに食べたのかそれすら、もう憶えていねえ。

土曜日は昼間の作業はなくなったものの、晩の8時から対策会議その他なんだかんだで翌朝3時までずうっと。

要するにぜんぜん治らなくて、ほんとうであれば、この状態でNYに戻るなんてありえないはずだったのだが、更にありえないことにアメリカ側にも山火事が広がってしまい、これじゃ戻んないわけにはいかないねえ、ごめんねえ、とスキップしながら予定通り日曜のフライトに乗りましたとさ。

なんでよろこんでスキップしてたのかは、あと何日か後に。