あんましないかもだけど、NYでのその他のあれこれを。
行きの飛行機内でみた映画ふたつ。
Keeping Up with the Joneses (2016)
昨年オースティンに行ったとき、見たかったけどぎりぎり見れなかったやつ。
企業の人事課(HR)のマネージャーのZach GalifianakisとIsla Fisherが夫婦で、近所の一軒家にJon HammとGal Gadotの夫婦(?)が越してくる。
こんな郊外のこんな家を現金で買ったというし、外見も行動もぎんぎらとんがってかっこよすぎて親しげに寄ってきてもぜんぜん周囲に溶けこむかんじがしないので、これはぜったい自分たちを狙ってきたなんかのスパイか犯罪者の一味だ、と思いこみやられるならその前に、と近づいたり嗅ぎまわったりぶつかって、やがて明らかになる彼らの正体と目的は?
Zach Galifianakisの穴熊みたいな夫婦もおかしいが、John Hamm & Wonder Womanの夫婦もものすごく怪しくて、両方向の変な火花がスパークして大混乱でおもしろかった。
ひとつ難をいうと、John Hammって彼自身がそもそも微妙になんか臭いのでZach Galifianakisと絡んでもあんまおもしろみが出ないのよね。Robert Downey Jrとか Bradley Cooperとかとのほうがギャップが際立っておもしろくなるんだなーって。
あと、アメリカのHRって従業員個別の相談なんでも持ちこまれるのでほんとに大変よねっていつも思ってて、その大変さがわかんないとあんまおもしろくないお話かも、とか。
“Wonder Woman”、早くみたくなった。
A Street Cat Named Bob (2016)
少し寝て目覚めたらまだ時間があったのでなんとなく見てみた猫映画。
ロンドンであった実話で、それを本にしたのが世界的ベストセラーになって、それが映画になったと。
James (Luke Treadaway)は宿無しでCovent Gardenの駅前とかでバスキングしながら暮らしてて、メタドンの中毒から更生中なのだがうまくいかなくて、更生プログラムで与えられた家で死にかけていたらどこからかジンジャー猫が現れてくっついてくる。 それがBobで、彼を肩にのっけてバスキングしていると人が寄ってきてお金もたまって中毒も克服できて、それでも周囲とはいろいろあるのだが、猫はだまって一緒にいてくれていいなあー、ていうお話。 たまにカメラがいきなり猫目線になって、ネズミやカエルと戦ったりする。
ここのBobはよい猫だし、ふたりは幸せになれてよかったねえ、のお話だし、とは思うものの、実際の路上で犬や猫を抱えて一緒に寝ているひととか見るとちょっと複雑なかんじになる。犬猫をつきあわせないで、彼らには辛い思いをさせないであげてよう、と。
小汚いほうのロンドンの町中がでてくるのであーここは/あそこは、と楽しく勉強にもなった。 そのうちどこかでBobにも会えるのかしら。
あと、VeganのJamesの彼女がトーフを食べさせたときのBobの表情がとってもおもしろかった。
帰りの便では哀れかーんぜんに死んでた。
本は展覧会のカタログ2つ、+前買ってなかったカタログひとつ、買えてなかったNew York Magazineとか、本屋はMast Books, McNally Jackson, Strandだけ。
古雑誌で62/63 winter号のFilm Culture誌を買った。巻末の星取りに参加しているのはPeter Bogdanovich, Jonas Mekas, Amos Vogelとかで、62年の10月で一番点数が高いのはWellesの”Mr. Arkadin”、11月だとAldrichの”What Ever Happened to Baby Jane”だったりする。
レコードは12stのAcademyとWilliamsburgのRough Trade NYCにいった(だけ)。 The Magnetic Fieldsの新譜5枚組とかいろいろ買ったのだが、米国だから特に安いってわけでもないことがわかった。 (日曜日の朝にロンドン戻って、午後にRough TradeのEastに行って少しえっへん、だった)
Williamsburg (Bedford)の駅前にユニクロができてて、あーあ、て思った。
食べ物関係は、まだロンドンの探索と掘りおこしで割とあたまがいっぱいなので、NYでは定番ばっかしを噛みしめてた。
Pruneで、すばらしいぴらぴらパスタ & Poached Egg、かたつむり、ラム、とか。
土曜日の朝はLe CoucouでFrench Pancakeたべた。 ロンドンのパンケーキとドーナツ事情はまだじゅうぶんフォローできていない。
土曜日の夕方は、ロンドンで食べてないアメリカの.. て考えてちゃんとしたFried Chickenがなんだか食べたくなり、LES (Ludrow)のSweet Chickていうとこ行った。
まだほんもんのDinnerが始まる前の時間だったので、メニューはチキンふた切れとワッフルが殆どで、ワッフルは5種類くらいから選べる。
チキンはちょっと小さかったけど(そうかChickだからか)カリカリばりばりでおいしくて、どちらかというとびっくりしたのはワッフルのほうだった。
麩菓子みたいに軽くさくさくしてていくらでも食べられそうで(とってもやばい)。
まだあった気がするが、もう3月は行ってしまうよう。
April Come She Will -
3.31.2017
3.30.2017
[art] Georgia O’Keeffe: Living Modern
NY滞在中のアート関係をまとめて。
今回、時間があいているのは土曜の朝から夕方までで、なんとしても行きたかったのはBrooklyn MuseumとNeue Galerieで、このふたつを日中両方行くとそれだけで終わってしまうので困って呻いていたのだが、Brooklynのほうは木曜日だけ晩の10時までやっているというので、木曜日に行った。
入口のホールでは、"Brooklyn Comedy Marathon: Fierce, Funny, and Feminist"ていう寄席イベントをやってて、女性がいっぱいでわーわー楽しそうだった。
以下、Brooklyn Museum内の見た順番で。
Iggy Pop Life Class by Jeremy Deller
すっぱだかでポーズをとるIggy先生が絵のモデルになって、NYの、18歳から80歳まで22人のアーチストを含む人たちによって描かれた彼の裸体のドローイングが並んでて、それに加えて美術館のコレクションのなかから男の裸に関係した絵とか彫刻とかオブジェとかも一緒に展示している。
そういえば彼の裸って現代のポップカルチャーにおいて、もっともポピュラーなかたちで、犬系ロックミュージックの象徴のように認知されてきた(...そうかも、と少し考えてなっとく)のだから、それをデッサンていうRaw Powerでもって寄ってたかって描きたおす、ていうのはおもしろい試みよね。 デッサンもそれぞれに味があってよいかんじ。
そしてそれらに博物館ぽく古代からの陳列物を並べてみるとなんとも言えずおもしろくて。きんたまの神話性というか。
Marilyn Minter: Pretty/Dirty
ボードにエナメルのべったりねっちょりびろびろ系のエロ画とか、大きめの絵がいっぱい。
でもあんなふうに間隔置いて並んでいるとあんましこないかも。
粘液がだらだらびろーーってだらしなく際限なく繋がっていくみたいなかんじが間隔やフレームによって分断されてしまう、よりガラスの向こう側に行ってしまうからだろうか。
というようなことを考えたり。
Pretty / Dirtyというのは反対語だろうか、くそみそってことだろうか、後者だよね?
というようなことを考えたり。
Georgia O’Keeffe: Living Modern
これが見たくてきたの。
Georgia O’Keeffeのファッションまで含めて、つまりは彼女が生きた時代とそこにあったスタイル、彼女が選びとったスタイルまでひっくるめて彼女のアートを整理して捉えなおしてみましょう、という試み。
「アメリカの近代絵画」みたいなザル展覧会に行くと必ず彼女の絵が女性アーティスト代表みたいに、添え物みたいに置いてあることが多いが、それってなんかおかしいよね、といつも思っていて、ひとつにはなんでいつもそういう「とりあえず」みたいな扱いなのか、というのと、もうひとつは彼女の絵そのものがアメリカの他の近代画家たち - Edward HopperでもJackson Pollock でもなんでもいいけど - となんか、本質的に違う気がしていて、その違和の根っこが、ファッション - 具体的には服とか雑貨とか - という別の光を当ててみることで明らかになっているのではないかと。
展示はテーマ別に彼女の絵以外には彼女が愛用していた洋服とか和服(に下駄まであった - 男モノの)とか靴とか”Living Modern”としかいいようのないいろんなモノたち。
(”Modern Living”ではなく”Living Modern”なの、進行形)
あとはAlfred Stieglitzによる彼女のポートレートもたくさんあって、彼女はそれを自分の鏡のように使ったし、そのクールな肖像が彼女をミューズにしていったし、ということもあったのだろうな、と。
彼女のアートを画家、美術家としてのそれではなくファッションを含めた角度から切り取ることがいけないとはぜんぜん思わない。 (じゃあウォーホルはどうなのよ、とか)
むしろ、ファッションも含めてアートを全方位のものに - PopやChicやCoolな方に - ドライブした、それをウォーホルよかぜんぜん前倒しでやっていたのが彼女だったのはないか。
なので、お花や牛骨の絵ばかりが雑巾とか納屋みたいなアメリカン「モダン」アートのなかに小綺麗なインテリア雑貨みたいにぽつんとあると、微妙なかんじになっちゃったのではないか、と。
で、そうやって全体として眺め渡してみると、とても気持ちよくてかっこいいのだった。 砂漠の風をかんじるというか。
Alexei Jawlensky
25日の朝11:00、開館と同時にNeue Galerieに入って見ました。
抽象手前のカンディンスキーなんかと交流のあったロシア人画家、くらいのことしか知らず、纏めて俯瞰するのはこれが初めて。
初期のロシアで勉強していた頃の絵はとても上手できれいで、それが西のほうに向かうについて抽象化されただんだら模様に変貌していって、それはゴッホだったりマティスだったり表現主義だったり印象派(セザンヌ)だったりいろいろなのだが、全体としてみればJawlenskyとしか言いようのない力強さに溢れていて - この時代のひとはみなそんなふうだけど - 絵の一枚一枚から漂ってくる臭気みたいのが濃い。
後半、有名な”Savior’s Face” (1919) から30年代の”Meditation”まで、延々並ぶ瞑想顔の連なりは圧巻で、それはひたすらの祈りというよりはなんでもかんでも取りこみすぎて考えすぎてどんどん顔色が青黒く赤黒く身動きとれなくなっていく、そんなふうで痛々しく、それが展示の最後の小部屋で、体の自由が利かなくなった状態のところまでいくと更にすごくて、消えてしまうことを承知のうえで、でもそこにあろうとする燃えかすが最後の光を放っていたのだった。
Raymond Pettibon: A Pen of All Work
25日の朝寝床で、もっとなんかないかなー、とあさっていたらこんなのをやっていたので行った。
午前にNeue Galerie、午後にNew Museum。
個人的には2014年のMike Kelly, 2015年のJim Shawに続く(便所の)落書き系(ほめてるの)。
若めの子にはSonic Youthの”Goo” (1990) のジャケットで、年寄りにはBlack Flagのロゴで有名よね。
先のふたりの展覧会も、今回のにも共通してびっくりするのはその物量で、New Museumの3フロアびっちり。割とちゃんとした絵みたいの(失礼な)からノートの端の落書きみたいのまで、とにかくいっぱい。 書きたいことがいっぱい、というよりは、隙間をごちゃごちゃ埋めていくうちに溜まってしまいました、のようなかんじ。 筆というよりはペンのひとで、ペンでカリカリ引っ掻いている忙しない音が聞こえてくる。
Black Flagの初期の7inchのジャケットとかも並んでいて、たまに中古盤屋で2nd editionとか3rd Editionとかいって売っているその全貌が明らかになったのだった。
あと、Mike KellyもJim Shawもそうだったが、げろげろの絵の合間にすんごくかわいいのが挟んであったりして悶絶するの。
まったく油断ならないの。
今回のGeorgia O’Keeffe → Alexei Jawlensky → Raymond Pettibon ていうのはてんでばらばらでとってもおもしろかったが、目とあたまはとっても疲れたらしく、帰りの飛行機では水のボトル貰ったらすぐに落ちてんの。
今回、時間があいているのは土曜の朝から夕方までで、なんとしても行きたかったのはBrooklyn MuseumとNeue Galerieで、このふたつを日中両方行くとそれだけで終わってしまうので困って呻いていたのだが、Brooklynのほうは木曜日だけ晩の10時までやっているというので、木曜日に行った。
入口のホールでは、"Brooklyn Comedy Marathon: Fierce, Funny, and Feminist"ていう寄席イベントをやってて、女性がいっぱいでわーわー楽しそうだった。
以下、Brooklyn Museum内の見た順番で。
Iggy Pop Life Class by Jeremy Deller
すっぱだかでポーズをとるIggy先生が絵のモデルになって、NYの、18歳から80歳まで22人のアーチストを含む人たちによって描かれた彼の裸体のドローイングが並んでて、それに加えて美術館のコレクションのなかから男の裸に関係した絵とか彫刻とかオブジェとかも一緒に展示している。
そういえば彼の裸って現代のポップカルチャーにおいて、もっともポピュラーなかたちで、犬系ロックミュージックの象徴のように認知されてきた(...そうかも、と少し考えてなっとく)のだから、それをデッサンていうRaw Powerでもって寄ってたかって描きたおす、ていうのはおもしろい試みよね。 デッサンもそれぞれに味があってよいかんじ。
そしてそれらに博物館ぽく古代からの陳列物を並べてみるとなんとも言えずおもしろくて。きんたまの神話性というか。
Marilyn Minter: Pretty/Dirty
ボードにエナメルのべったりねっちょりびろびろ系のエロ画とか、大きめの絵がいっぱい。
でもあんなふうに間隔置いて並んでいるとあんましこないかも。
粘液がだらだらびろーーってだらしなく際限なく繋がっていくみたいなかんじが間隔やフレームによって分断されてしまう、よりガラスの向こう側に行ってしまうからだろうか。
というようなことを考えたり。
Pretty / Dirtyというのは反対語だろうか、くそみそってことだろうか、後者だよね?
というようなことを考えたり。
Georgia O’Keeffe: Living Modern
これが見たくてきたの。
Georgia O’Keeffeのファッションまで含めて、つまりは彼女が生きた時代とそこにあったスタイル、彼女が選びとったスタイルまでひっくるめて彼女のアートを整理して捉えなおしてみましょう、という試み。
「アメリカの近代絵画」みたいなザル展覧会に行くと必ず彼女の絵が女性アーティスト代表みたいに、添え物みたいに置いてあることが多いが、それってなんかおかしいよね、といつも思っていて、ひとつにはなんでいつもそういう「とりあえず」みたいな扱いなのか、というのと、もうひとつは彼女の絵そのものがアメリカの他の近代画家たち - Edward HopperでもJackson Pollock でもなんでもいいけど - となんか、本質的に違う気がしていて、その違和の根っこが、ファッション - 具体的には服とか雑貨とか - という別の光を当ててみることで明らかになっているのではないかと。
展示はテーマ別に彼女の絵以外には彼女が愛用していた洋服とか和服(に下駄まであった - 男モノの)とか靴とか”Living Modern”としかいいようのないいろんなモノたち。
(”Modern Living”ではなく”Living Modern”なの、進行形)
あとはAlfred Stieglitzによる彼女のポートレートもたくさんあって、彼女はそれを自分の鏡のように使ったし、そのクールな肖像が彼女をミューズにしていったし、ということもあったのだろうな、と。
彼女のアートを画家、美術家としてのそれではなくファッションを含めた角度から切り取ることがいけないとはぜんぜん思わない。 (じゃあウォーホルはどうなのよ、とか)
むしろ、ファッションも含めてアートを全方位のものに - PopやChicやCoolな方に - ドライブした、それをウォーホルよかぜんぜん前倒しでやっていたのが彼女だったのはないか。
なので、お花や牛骨の絵ばかりが雑巾とか納屋みたいなアメリカン「モダン」アートのなかに小綺麗なインテリア雑貨みたいにぽつんとあると、微妙なかんじになっちゃったのではないか、と。
で、そうやって全体として眺め渡してみると、とても気持ちよくてかっこいいのだった。 砂漠の風をかんじるというか。
Alexei Jawlensky
25日の朝11:00、開館と同時にNeue Galerieに入って見ました。
抽象手前のカンディンスキーなんかと交流のあったロシア人画家、くらいのことしか知らず、纏めて俯瞰するのはこれが初めて。
初期のロシアで勉強していた頃の絵はとても上手できれいで、それが西のほうに向かうについて抽象化されただんだら模様に変貌していって、それはゴッホだったりマティスだったり表現主義だったり印象派(セザンヌ)だったりいろいろなのだが、全体としてみればJawlenskyとしか言いようのない力強さに溢れていて - この時代のひとはみなそんなふうだけど - 絵の一枚一枚から漂ってくる臭気みたいのが濃い。
後半、有名な”Savior’s Face” (1919) から30年代の”Meditation”まで、延々並ぶ瞑想顔の連なりは圧巻で、それはひたすらの祈りというよりはなんでもかんでも取りこみすぎて考えすぎてどんどん顔色が青黒く赤黒く身動きとれなくなっていく、そんなふうで痛々しく、それが展示の最後の小部屋で、体の自由が利かなくなった状態のところまでいくと更にすごくて、消えてしまうことを承知のうえで、でもそこにあろうとする燃えかすが最後の光を放っていたのだった。
Raymond Pettibon: A Pen of All Work
25日の朝寝床で、もっとなんかないかなー、とあさっていたらこんなのをやっていたので行った。
午前にNeue Galerie、午後にNew Museum。
個人的には2014年のMike Kelly, 2015年のJim Shawに続く(便所の)落書き系(ほめてるの)。
若めの子にはSonic Youthの”Goo” (1990) のジャケットで、年寄りにはBlack Flagのロゴで有名よね。
先のふたりの展覧会も、今回のにも共通してびっくりするのはその物量で、New Museumの3フロアびっちり。割とちゃんとした絵みたいの(失礼な)からノートの端の落書きみたいのまで、とにかくいっぱい。 書きたいことがいっぱい、というよりは、隙間をごちゃごちゃ埋めていくうちに溜まってしまいました、のようなかんじ。 筆というよりはペンのひとで、ペンでカリカリ引っ掻いている忙しない音が聞こえてくる。
Black Flagの初期の7inchのジャケットとかも並んでいて、たまに中古盤屋で2nd editionとか3rd Editionとかいって売っているその全貌が明らかになったのだった。
あと、Mike KellyもJim Shawもそうだったが、げろげろの絵の合間にすんごくかわいいのが挟んであったりして悶絶するの。
まったく油断ならないの。
今回のGeorgia O’Keeffe → Alexei Jawlensky → Raymond Pettibon ていうのはてんでばらばらでとってもおもしろかったが、目とあたまはとっても疲れたらしく、帰りの飛行機では水のボトル貰ったらすぐに落ちてんの。
3.28.2017
[film] Kedi (2016)
今回のNY滞在は3泊だけで、うち2夜分くらいはソーシャルななんかで埋められていたので、可能なかぎり早めに終わらせてすたこら仕事の場から逃げたいのだが、それでも映画1本見られればいいか、くらいで、ではその1本とは、となると今回は問答無用でこれしかなかった。 トルコ・イスタンブールを舞台に"Logan"並に爪とRoarが炸裂する猫ドキュメンタリー映画。
昨年に行くことができたMetrographで予告を見て一目惚れして、なんでこんなのが単館なんだよう、と憤慨しつつもお願いだから終わっちゃいませんように、とお祈りしていたやつ。 米国の配給はOscilloscope。
"Kedi"はトルコ語で「猫」ね。 もちろん。
筋はあってないようなもんで、イスタンブールの町中で暮らすいろんな(ノラ)猫を個々に紹介していって、そこにそれを見守ったりして暮らしている(ノラみたいな)ヒトの声が被さる。個々の猫に危機が迫ったり悲しいこととか奇跡とかが起こったりすることも、猫がしゃべったり助けあったり、感動を運んでくれたりすることもなく、ただ猫は猫として市場で魚を拾ったりのしのし歩いていったり好き勝手に群れているだけで、ヒトの声もものすごく適当にこのこはーあのこはー、と適当なこと呟いているだけ。 かわいらしい音楽や効果音をわざとらしく被せることも、音がぴーん、とかマイナーになって悲劇が訪れたりすることもない - あのやりかた、すごくバカみたいでやなんだけど。
といわけで、ノラ.. というほどノラではない、魚市場があったりする町のなかで適度な距離を置いて猫っぽく暮らす猫と人同士の繋がりよりは猫の方に少し寄っている人との関係がやや猫よりの目線で描かれていて、猫の動画をみるとあたまのなかで、にゃー、とか言ってしまう人が見ると、ずうっとにゃーにゃーうるさくて困るのだが、全体はものすごくあっさりめ、でも地に足のついた素敵な猫映画だとおもった。
あたりまえだけどノラといっても一括りではなくて、いろんな毛並みのいろんな性格のやつがいて、それぞれに固有の行動パターンのなかで周りに少しづつ認知されたり怒られたりつつサバイブしている、それってヒトと同じで肝心なのはやっぱり支えあい助けあい - みたいなとこにはいかない。 わかるだろ、くらいのかんじ、そんなのべつに猫は知ったこっちゃないけど、くらいの緩い距離のとりかた。 その距離感にだけは細心の注意を払っているような。 ここは「かわいい〜」なんてまったく通用しない世界なんだと。
世界から猫が消えたなら? 勝手に夢みて泣いてろヒマ人。
我々はもちろん、今のトルコの情勢がよくないことも、あれだけ猫がいれば日々悲しいことが起こるであろうこともわかっている。 わかっていてあそこまで淡々と猫と人を切りとれるのってよいなー、って。 そして、これはこれでひとつの抵抗のかたちにはなりうるのかもと思った。甘いのかもしれないけど。
そしてこういうのを見たあと、最大の溜息と共にでてくる感想はひとつだけ、猫になりてえ、しかないの。
終わって、上の階の本屋で、”Suite for ”Barbara Loden” (by Nathalie Léger)ていう小さな本を買った。
本屋の横にあるダイニングは11時過ぎてもわいわい賑やか(でも大人ふう)で、ああ近所にこんな映画館があったら、はこの前も思ったことだわ。
ロンドンでは町中であんまり猫みないなー。 と思って歩いていたらこないだ大英博物館の横でキツネ(ナマの、きつね色の)にぶつかって、少しうれしかった。
昨年に行くことができたMetrographで予告を見て一目惚れして、なんでこんなのが単館なんだよう、と憤慨しつつもお願いだから終わっちゃいませんように、とお祈りしていたやつ。 米国の配給はOscilloscope。
"Kedi"はトルコ語で「猫」ね。 もちろん。
筋はあってないようなもんで、イスタンブールの町中で暮らすいろんな(ノラ)猫を個々に紹介していって、そこにそれを見守ったりして暮らしている(ノラみたいな)ヒトの声が被さる。個々の猫に危機が迫ったり悲しいこととか奇跡とかが起こったりすることも、猫がしゃべったり助けあったり、感動を運んでくれたりすることもなく、ただ猫は猫として市場で魚を拾ったりのしのし歩いていったり好き勝手に群れているだけで、ヒトの声もものすごく適当にこのこはーあのこはー、と適当なこと呟いているだけ。 かわいらしい音楽や効果音をわざとらしく被せることも、音がぴーん、とかマイナーになって悲劇が訪れたりすることもない - あのやりかた、すごくバカみたいでやなんだけど。
といわけで、ノラ.. というほどノラではない、魚市場があったりする町のなかで適度な距離を置いて猫っぽく暮らす猫と人同士の繋がりよりは猫の方に少し寄っている人との関係がやや猫よりの目線で描かれていて、猫の動画をみるとあたまのなかで、にゃー、とか言ってしまう人が見ると、ずうっとにゃーにゃーうるさくて困るのだが、全体はものすごくあっさりめ、でも地に足のついた素敵な猫映画だとおもった。
あたりまえだけどノラといっても一括りではなくて、いろんな毛並みのいろんな性格のやつがいて、それぞれに固有の行動パターンのなかで周りに少しづつ認知されたり怒られたりつつサバイブしている、それってヒトと同じで肝心なのはやっぱり支えあい助けあい - みたいなとこにはいかない。 わかるだろ、くらいのかんじ、そんなのべつに猫は知ったこっちゃないけど、くらいの緩い距離のとりかた。 その距離感にだけは細心の注意を払っているような。 ここは「かわいい〜」なんてまったく通用しない世界なんだと。
世界から猫が消えたなら? 勝手に夢みて泣いてろヒマ人。
我々はもちろん、今のトルコの情勢がよくないことも、あれだけ猫がいれば日々悲しいことが起こるであろうこともわかっている。 わかっていてあそこまで淡々と猫と人を切りとれるのってよいなー、って。 そして、これはこれでひとつの抵抗のかたちにはなりうるのかもと思った。甘いのかもしれないけど。
そしてこういうのを見たあと、最大の溜息と共にでてくる感想はひとつだけ、猫になりてえ、しかないの。
終わって、上の階の本屋で、”Suite for ”Barbara Loden” (by Nathalie Léger)ていう小さな本を買った。
本屋の横にあるダイニングは11時過ぎてもわいわい賑やか(でも大人ふう)で、ああ近所にこんな映画館があったら、はこの前も思ったことだわ。
ロンドンでは町中であんまり猫みないなー。 と思って歩いていたらこないだ大英博物館の横でキツネ(ナマの、きつね色の)にぶつかって、少しうれしかった。
3.27.2017
[music] Sunn O))) + Hildur Guðnadóttir
21日、火曜日の晩、barbicanで見ました。
彼らがライブやることに気づいたときにはチケットはsold outしてて、でもここはちょこちょこ覗きにいくとたまにフラグが変わって買えることがあって、そうやって取った。
ので米国出張が入ったときにはすこし焦ったがだいじょうぶだった。
Sunn O)))を最後に見たのは2010年、Brooklyn Masonic Templeで"Sunn O))) & Boris present Altar"ていういろんな人(The CultのIan Astburyとか)が出るやつで、真っ暗なお堂(フリーメーソンのお寺だし)のようなとこでいろんな轟音がわんわん鳴ってて、Sunn O)))のところにきたら電源がぶっとんだらしく音がなくなって、暗闇のなかじーっと待ったのだがあまり進展がなくて、そのうちなんでか警察がいっぱい現れたりしたので諦めて帰った。 そういうやばいかんじのだったの。
barbicanはクラシックのコンサートとかもやっている着席で見るホールなのでそういうふうにはならないと思うのだが、とホールに入ってみれば堤防のように防護壁のようにびっちり並べられたアンプが既にじゅうぶん異様な殺気を放っているので、どうしましょうせんせい? くらいのかんじにはなるのだが、もちろん帰るわけにはいかない。
前座のHildur Guðnadóttir(どう発音するのかいまだわからず)さんは電気チェロ、ということだったがほとんどがヴォイスお経がゴッシーにうねりまくるかんじで終わって、彼女はこの後のSunn O)))のほうにも参加していた。 休憩時間、まさかSunn O)))の観客はアイスクリームには行くまい、と思っていたのに割とみんなぺろぺろしているので、ふん俗物どもめが、とか思いつつ自分もマンゴーのを買って食べる。
Sunn O)))のライブは、べつにいいよね。 オレンジの煙もうもうのなかStar WarsのJawaの恰好のでっかいひとがひとり仁王立ちで祈祷みたいなのをごにょごにょ始めて気がつくと同じ恰好のメンバー4名が周りで蠢いていて、煙がオレンジから青に変わって更にけたたましくなり、そのうちお腹へって眩暈がしてきたので入口でもらった耳栓をしてみたのだがあまり効果はなくて、やがて祈祷のひとが消えて替わりになんかのお化けみたいなでっかいのが出てきて怪獣のように暴れはじめて、と思ったらとつぜんぷつんと終わる。
客席は総立ちで喝采していたが、なんかわかんねえけどすげえ、としか言いようがない拍手だった、よね。
彼らのあいだでいろんな教義だの戒律だのイデオロギーだのあるのかもしれないしそういう教義だの戒律だのが世界を創ったのかもしれんしこれから創るのかもしれないけど、どっちにしても世界がたち現れたときに鳴っていた音、生物がいない世界で響いていた音はたぶんこんなふうじゃ、とそこらの世界観、宇宙観、なんとか「観」的ななにかをふっとばすくらいに彼らの音は強固に分厚く鼓膜をぶち抜いてあたまぜんぶを圧してくる。 こんな雑音、という以前のところでこんなふうに鳴っている音がある、ヒト(かどうかわかんないけどねあの連中)によって再現しうる音がある、ということは知っておいたほうがいい。 見るべし聴くべしとか声高にいうつもりはないしそういう類のものでないことはわかっているけど、音楽は、アートは、ただ気持ちよくなったり元気をもらったりするだけのもんでは断じてない、ひとを殺すことだって戦争を起こすことだってできる、そういう制御不能なおそろしいなにかにもなりうる、てこと。 だからこそ我々はこんなふうに世界の奥底に降りてその地鳴りや地熱にじかに接しておく必要があるのだと思う。
アートを学ぶっていうのはそういうことで、Sunn O)))とかのライブに来るとそういうことを考えたりもする、し、花火大会のめちゃくちゃ盛大でやかましいやつ、わーい、みたいに思ったりもする。 ライブで接しなければまったく、なーんの意味もない、というあたりも含めて。
なんか撮影していたので、そのうち映像としてリリースされるかもしれません。
物販(お札とか絵馬とか)はやはりすごい行列だった。
彼らがライブやることに気づいたときにはチケットはsold outしてて、でもここはちょこちょこ覗きにいくとたまにフラグが変わって買えることがあって、そうやって取った。
ので米国出張が入ったときにはすこし焦ったがだいじょうぶだった。
Sunn O)))を最後に見たのは2010年、Brooklyn Masonic Templeで"Sunn O))) & Boris present Altar"ていういろんな人(The CultのIan Astburyとか)が出るやつで、真っ暗なお堂(フリーメーソンのお寺だし)のようなとこでいろんな轟音がわんわん鳴ってて、Sunn O)))のところにきたら電源がぶっとんだらしく音がなくなって、暗闇のなかじーっと待ったのだがあまり進展がなくて、そのうちなんでか警察がいっぱい現れたりしたので諦めて帰った。 そういうやばいかんじのだったの。
barbicanはクラシックのコンサートとかもやっている着席で見るホールなのでそういうふうにはならないと思うのだが、とホールに入ってみれば堤防のように防護壁のようにびっちり並べられたアンプが既にじゅうぶん異様な殺気を放っているので、どうしましょうせんせい? くらいのかんじにはなるのだが、もちろん帰るわけにはいかない。
前座のHildur Guðnadóttir(どう発音するのかいまだわからず)さんは電気チェロ、ということだったがほとんどがヴォイスお経がゴッシーにうねりまくるかんじで終わって、彼女はこの後のSunn O)))のほうにも参加していた。 休憩時間、まさかSunn O)))の観客はアイスクリームには行くまい、と思っていたのに割とみんなぺろぺろしているので、ふん俗物どもめが、とか思いつつ自分もマンゴーのを買って食べる。
Sunn O)))のライブは、べつにいいよね。 オレンジの煙もうもうのなかStar WarsのJawaの恰好のでっかいひとがひとり仁王立ちで祈祷みたいなのをごにょごにょ始めて気がつくと同じ恰好のメンバー4名が周りで蠢いていて、煙がオレンジから青に変わって更にけたたましくなり、そのうちお腹へって眩暈がしてきたので入口でもらった耳栓をしてみたのだがあまり効果はなくて、やがて祈祷のひとが消えて替わりになんかのお化けみたいなでっかいのが出てきて怪獣のように暴れはじめて、と思ったらとつぜんぷつんと終わる。
客席は総立ちで喝采していたが、なんかわかんねえけどすげえ、としか言いようがない拍手だった、よね。
彼らのあいだでいろんな教義だの戒律だのイデオロギーだのあるのかもしれないしそういう教義だの戒律だのが世界を創ったのかもしれんしこれから創るのかもしれないけど、どっちにしても世界がたち現れたときに鳴っていた音、生物がいない世界で響いていた音はたぶんこんなふうじゃ、とそこらの世界観、宇宙観、なんとか「観」的ななにかをふっとばすくらいに彼らの音は強固に分厚く鼓膜をぶち抜いてあたまぜんぶを圧してくる。 こんな雑音、という以前のところでこんなふうに鳴っている音がある、ヒト(かどうかわかんないけどねあの連中)によって再現しうる音がある、ということは知っておいたほうがいい。 見るべし聴くべしとか声高にいうつもりはないしそういう類のものでないことはわかっているけど、音楽は、アートは、ただ気持ちよくなったり元気をもらったりするだけのもんでは断じてない、ひとを殺すことだって戦争を起こすことだってできる、そういう制御不能なおそろしいなにかにもなりうる、てこと。 だからこそ我々はこんなふうに世界の奥底に降りてその地鳴りや地熱にじかに接しておく必要があるのだと思う。
アートを学ぶっていうのはそういうことで、Sunn O)))とかのライブに来るとそういうことを考えたりもする、し、花火大会のめちゃくちゃ盛大でやかましいやつ、わーい、みたいに思ったりもする。 ライブで接しなければまったく、なーんの意味もない、というあたりも含めて。
なんか撮影していたので、そのうち映像としてリリースされるかもしれません。
物販(お札とか絵馬とか)はやはりすごい行列だった。
3.25.2017
[log] March 25 2017
土曜日夕方、JFKまで車で久々に1時間超えでやっとこ着いて、チェックインカウンターのお母さんみたいにがっしりしたおばさんにラウンジにはあんた用にディナーが用意してあるから、この便の機内ではあんまりでないからしっかりお食べ、とか説教みたいに言われて、でも夕方にLESのフライドチキンのお店で唐揚げふたつと異様に軽くておいしいワッフル - 今日はNational Waffle Dayだよ! - をいただいてお腹いっぱいでひたすら眠いのでたぶん食べなくてもなんとかなる気がする。
とにかく帰りのJFKに来て、トニックウォーターだけ飲んでいて、これまでNew York - London間て片道ばかりで往復はなかったと思うので、少しうれしい。 3泊くらいで来るとこんなかんじになる、というのも体でわかったし。
20:15の出発まで好きなだけ思いっきり動き回れるはずの土曜日で、でも体力の消耗とはしゃぎすぎて買いすぎての心配と、そういう気疲れ防衛で動けなくなってしまう心配とかいろいろ交錯したのだったが、結果はこんなもんじゃろうか。
全体としては、寒かった。 まだ先週のスノーストームの雪があちこちに残っていて着いた日の晩はマイナス4℃だったし、翌朝はそのままマイナス6℃だったし。 でもなんだかとっても嬉かったことも白状しよう。
美術館3, 映画1, レコ屋はRough Trade NYも含めて3, 本屋3, 手荷物が肩に食いこんで痛い、くらいには買ってしまった。 想定外、とは言わせないけど、ロンドンになさそうなもの、を手に取り始めてしまうとしょーもないことになること、はようくわかった。 ロンドンとNYはちがう。 ちがうって散々言ってたしわかってたよね? なんでそれなのに手をだすのか、なんかのびょうきなのか。
しかもこれらを買って運ぶ先は定住先ではなくて、仮の宿なんだよ、あと1ヶ月したら出ていかなきゃいけないんだよ、どういうことか、どうなっちゃうかわかっているよね? ねえ。 とこんなふうに頭のなかでやりとりをするのに疲れちゃって、そこになんか読みたいのとか聴きたいのが転がっていたんだもの。 ついふらふらと(殴)。
3日くらいの滞在なのでメトロカードは$20のやつを買えば十分だろうって、でもそれはすぐになくなって$10足して、それもすぐになくなって$10たした。 それくらい全開で動いていたようで、でも全く疲れず、この場所は.. とか意識せずにぐいぐい動くことができて、ここもロンドンとは違うなあ、だった。 あそこではまだアプリとか標識の助けがないと行きたいところには行けない。 早くNYみたいになったらいいな。
22日の昼間、JFKに着いたら空港内のTVではウィンチェスターのテロで大騒ぎになっていた。
その前の日におうち探しで散策していた近所だった。 いまは祈ることしかできないし、その資格すら十分ないのかもしれないけど、でも待ってろ、なかんじはある。
着いたら日曜の朝8時くらいで、夏時間になっているはず。 もう冬がいなくなっていますように。
ではまた。
とにかく帰りのJFKに来て、トニックウォーターだけ飲んでいて、これまでNew York - London間て片道ばかりで往復はなかったと思うので、少しうれしい。 3泊くらいで来るとこんなかんじになる、というのも体でわかったし。
20:15の出発まで好きなだけ思いっきり動き回れるはずの土曜日で、でも体力の消耗とはしゃぎすぎて買いすぎての心配と、そういう気疲れ防衛で動けなくなってしまう心配とかいろいろ交錯したのだったが、結果はこんなもんじゃろうか。
全体としては、寒かった。 まだ先週のスノーストームの雪があちこちに残っていて着いた日の晩はマイナス4℃だったし、翌朝はそのままマイナス6℃だったし。 でもなんだかとっても嬉かったことも白状しよう。
美術館3, 映画1, レコ屋はRough Trade NYも含めて3, 本屋3, 手荷物が肩に食いこんで痛い、くらいには買ってしまった。 想定外、とは言わせないけど、ロンドンになさそうなもの、を手に取り始めてしまうとしょーもないことになること、はようくわかった。 ロンドンとNYはちがう。 ちがうって散々言ってたしわかってたよね? なんでそれなのに手をだすのか、なんかのびょうきなのか。
しかもこれらを買って運ぶ先は定住先ではなくて、仮の宿なんだよ、あと1ヶ月したら出ていかなきゃいけないんだよ、どういうことか、どうなっちゃうかわかっているよね? ねえ。 とこんなふうに頭のなかでやりとりをするのに疲れちゃって、そこになんか読みたいのとか聴きたいのが転がっていたんだもの。 ついふらふらと(殴)。
3日くらいの滞在なのでメトロカードは$20のやつを買えば十分だろうって、でもそれはすぐになくなって$10足して、それもすぐになくなって$10たした。 それくらい全開で動いていたようで、でも全く疲れず、この場所は.. とか意識せずにぐいぐい動くことができて、ここもロンドンとは違うなあ、だった。 あそこではまだアプリとか標識の助けがないと行きたいところには行けない。 早くNYみたいになったらいいな。
22日の昼間、JFKに着いたら空港内のTVではウィンチェスターのテロで大騒ぎになっていた。
その前の日におうち探しで散策していた近所だった。 いまは祈ることしかできないし、その資格すら十分ないのかもしれないけど、でも待ってろ、なかんじはある。
着いたら日曜の朝8時くらいで、夏時間になっているはず。 もう冬がいなくなっていますように。
ではまた。
3.22.2017
[log] March 22 2017
自分がどう動いているのかもよくわからないくらい、なんだか慌しくて、でもそれは100%自分のせいなのでなにをどうすることもできない。 とにかくずうっと眠い。
昨日は会社を早めにでて部屋を4つ見てから、近所のイタリアンデリでラザニア買って帰って、洗濯の合間にそれを食べてお掃除して洗濯もの干してからBarbicanにSunn O)))のライブを見にいって、戻ってきてからまたお片付けしてパッキングして、結局TVの”Hot Tub Time Machine”を最後まで見ちゃって、少しだけ寝て起きてさっき朝焼けのヒースローに着いて、これからNYに向かうの。
ヒースロー、朝で空いていたせいか車で30分かからなかった。
なああああんで、駐ロンドンになったのに最初の出張がNYなんだよおかしいだろ、ていう声とかつぶてとかがわんわん飛んでくるが、そんなことをまず考えてしまう君らのアタマをなんとかすべく、こうやって動いているのよ、ていうとよけいにわーわー言われる。
ただしばらくの間、おうちを見つけたりいろいろあるし、あんま動くつもりはなかったのでいろいろ予定も入れかけていて、昨晩のSunn O)))をやったライブのシリーズ(Convergence 2017ていうイベント)では、今晩、Manuel Göttsching performs E2-E4 + The Ash Ra Tempel Experienceとかあって、あとちょっとでチケットを買うところだった。 他には金曜日にTim Kasherさんのライブもあるし、BFIでもいろいろやっているし。
NYは土曜日の晩に発って日曜日の朝に戻ってくるので、土曜日の夕方くらいまでは自由に動けるはず、なのだがそういう状態での「自由」がどの程度のもんになるのか、これは体力も含めた実験みたいなもんで、なんのための実験かというと何回も行ったり来たりするための、だよね。(石ころ)
もうレコード屋も本屋も毎週通って欲しいの買ったりするようになっているので、東京にいたときほど、海の向こうの本とかレコードに対する飢えや渇きはないはずだよね、だからこれまでの出張のときみたいにそんなに買うものはないはずだよね、て自分のなかの真面目なパーツがいうのだが、ふしだらで不真面目なほうはイギリスとアメリカはぜんぜん違うのだから比べたってしょうがない、とか言ってる。
でもとにかくおうち決めないとほんとにやばい状態になりつつあるし、いくらレコード買ったって再生するオーディオすらないでしょ、置けないでしょ。 だから、そこは戻り次第あらためてちゃんとしましょうね、と。
ではまた。
昨日は会社を早めにでて部屋を4つ見てから、近所のイタリアンデリでラザニア買って帰って、洗濯の合間にそれを食べてお掃除して洗濯もの干してからBarbicanにSunn O)))のライブを見にいって、戻ってきてからまたお片付けしてパッキングして、結局TVの”Hot Tub Time Machine”を最後まで見ちゃって、少しだけ寝て起きてさっき朝焼けのヒースローに着いて、これからNYに向かうの。
ヒースロー、朝で空いていたせいか車で30分かからなかった。
なああああんで、駐ロンドンになったのに最初の出張がNYなんだよおかしいだろ、ていう声とかつぶてとかがわんわん飛んでくるが、そんなことをまず考えてしまう君らのアタマをなんとかすべく、こうやって動いているのよ、ていうとよけいにわーわー言われる。
ただしばらくの間、おうちを見つけたりいろいろあるし、あんま動くつもりはなかったのでいろいろ予定も入れかけていて、昨晩のSunn O)))をやったライブのシリーズ(Convergence 2017ていうイベント)では、今晩、Manuel Göttsching performs E2-E4 + The Ash Ra Tempel Experienceとかあって、あとちょっとでチケットを買うところだった。 他には金曜日にTim Kasherさんのライブもあるし、BFIでもいろいろやっているし。
NYは土曜日の晩に発って日曜日の朝に戻ってくるので、土曜日の夕方くらいまでは自由に動けるはず、なのだがそういう状態での「自由」がどの程度のもんになるのか、これは体力も含めた実験みたいなもんで、なんのための実験かというと何回も行ったり来たりするための、だよね。(石ころ)
もうレコード屋も本屋も毎週通って欲しいの買ったりするようになっているので、東京にいたときほど、海の向こうの本とかレコードに対する飢えや渇きはないはずだよね、だからこれまでの出張のときみたいにそんなに買うものはないはずだよね、て自分のなかの真面目なパーツがいうのだが、ふしだらで不真面目なほうはイギリスとアメリカはぜんぜん違うのだから比べたってしょうがない、とか言ってる。
でもとにかくおうち決めないとほんとにやばい状態になりつつあるし、いくらレコード買ったって再生するオーディオすらないでしょ、置けないでしょ。 だから、そこは戻り次第あらためてちゃんとしましょうね、と。
ではまた。
[film] Singles (1992)
3月20日、月曜日の晩、Prince Charles Cinemaでみました。
Prince Charles CinemaていうのはLeicester Squereの裏手にあるぼろそうな映画館で、ふたつのスクリーンで新しいのと名画座系のをごった煮で流していて、プログラムは毎日変わる。 今晩は”Ghost World” (2001)の35mm上映でメンバーだと£1で見れているし、今週の金曜の晩には”The Breakfast Club" (1985) をやると思ったら、成瀬の「浮雲」の35mm上映なんかがぽつんと入っていたりする。 油断ならない。 70mmとか35mmフィルムでの上映をいっぱいやってて - 昨晩の予告は"Interstellar” (2014)の70mm上映一本だけ - 気になってはいたのだが、ついに足を踏みいれることになってしまった。
先月の"Dirty Dancing"の30周年記念上映だと、あーあ、なのだが、"Singles"が25周年で、とか聞くとちょっとまてふざけんな、くらいのかんじにはなるよね。
で、この晩は,"Singles"の35mm版上映に続けて、"Almost Famous"も35mm、ということでこの並びで、どっちも35mmで見れることなんてもう死ぬまでないかも、と思ったので見てきた。 そんなひま、1ミリだってないのに。
シアターは、昔からたぶん映画館か劇場だったところで、椅子とかぼろぼろで深くて、あんま傾斜がないのがちょっと、なのだが、天井高くて音もすばらしかった。
Singles (1992)
これ、当時劇場では見ていなくて、これが公開された年は自分が米国に渡った年でもあって、当時のシアトル - グランジシーンに対するうんざり、ていうのもあったし、同様にMTVで始まっていたリアリティTV - "Real World"にもうんざりで、おまえらリアルリアルって、ばっかじゃねーの、そんな雑巾みたいに小汚い自分さらして何が楽しいの? ていう典型的な80's vs 90'sのくだんない諍いのまんなかでぶつぶつ言ってて、見る気にならなかったの。 見たのはその数年後にTVで、印象はずいぶん変わって悪くないじゃん、くらいで、そしてようやく昨日の。
この25年で、自分のなかのグランジに対する評価は180度ひっくりかえったし、シアトルにも結構行ってシアトルのひとがなんであんななのかもなんとなくわかってきたし、人って変わるもんよね。 納得できない(したくない)のは25年、てとこだけよね。
という状態で見たので、ああもうこれってすごいいいじゃん、しかなかった。 いくつかのカップル、いくつかのシングルス(空間のことでもある)のくっついたり離れたりのスケッチ、それだけなのだが、Matt Dillonのバンド野郎から彼に惚れちゃった Bridget Fondaから、会社員まで - そして、ああ、Bill Pullman.. - いろんなかっこ、いろんな髪型の人たちがふつうに隣同士で共存してカフェ(まだスタバはない)やライブハウスで会ったりだべったりしていたんだねえ、と。 みんな、孤独を極端におそれるわけでもなにがなんでも結婚を、でもなくて小汚さもそこそこあるけど、あれはただ無頓着なだけで、そこらの猫みたいにスペースが空いたらそこに座る、そんなもんなんだよね、って。
で、それらの雑多な愛すべき人たちとかいろんな音たちを天使のように包んでくれるのがPaul Westerbergの音楽なの。 彼の音だからこそできた芸当、かもしれない。
なにが流れてきてもどれもこれも名曲にしか聴こえないの。
なんかね、この頃、この映画で描かれたような(ある意味)理想郷って、いまはどこにあるのか、誰が描くことができるんだろうか、って。 それくらい遠くに来てしまったかも感があって考えさせられた。 それが25年ていうことだ、なら黙る... か、でも黙っちゃいけないよねこれ。 なんで右向いても左向いてもディストピアとか格差とか壁とか、そんなふうになっちゃったのか。 テクノロジーを使ったソーシャルななんか、が出てきたあたりからだろうか。 ここでのテクノロジーなんて、テープ使った留守電とか、車庫のリモコンとかそんなもんで、それでじゅうぶんだったのにね。
Richard Linklater の”Slacker” (1991)との違いについて考えることに意味はあるだろうか。
たぶんある。
終わったとこで、まばらな拍手。 そうかここはロンドンだった、と。
Almost Famous (2000)
これは2回めに米国に渡る直前くらいに劇場でみた。 この頃のCameron Croweは既に自分のなかでは巨匠だったのでなんの問題もなかった。
ロックライターとしてそのキャリアを始めたCrowe自身の自伝的な作品、というだけでなく、大人になる、ということと子供の音楽としてのロックがいかにして大人のそれになる/なりうるのか、という成長のはなしと、そこに産業としてのロックの興隆も絡めてダイナミックに描いている。 たしかにこうだったんだろうな、としか言いようのない説得力があるという以上に、はっきりとあの時代に向けた彼のラブレターでもあって、それがだらしない自己撞着にぶつかることなく真正面からロックの普遍性と可能性を語っていて、ぜんぜん異議なしである、と。 嫌だったのは邦題だけで、いまだにクソだとおもうわ。
35mmだとほんとにカラーが美しくて溜息ばかりだったのだが、その溜息すらも止まってしまったのがPenny Lane - Kate Hudsonの尋常じゃない美しさで、眩しすぎてとんでもないとおもった。 Emma StoneもJennifer LawrenceもここでのPennyにはかなわないだろう、くらいのすごさ。 番外編でモロッコに渡ったPenny Laneのその後、とかやってくれないかなー。
あと、Cameron Crowがその後も地味に追い続けているアメリカの家族の姿、の最初のかたち、がここにはあるの。(パパが弱かったりいなかったりママが強かったりいなかったり、いろいろパターンはあるけど、でも娘だけは不思議とぜったいかわいいの)
あと、Billy Crudupは、63年の”Jackie” 〜 73年のこれ 〜 79年の”20th Century Women”でいちおう筋の通った生き方をしている気がする。
終わったとこで、こっちは大拍手だった。
エンドロールで流れる”Feel Flows”がまた泣けるのよね。
ライブから帰ってきたところでふらふらなのだが、いまFilm4のチャンネルで”Boyhood” (2014)の最後のとこをやっていて、ううむ、て思った。ぜんぜんあたまが回っていないのだが。
とかぼーっとしていたら”Boyhood”は終わって”Hot Tub Time Machine” (2010)が始まってしまった。やばい。作業にかからねば。
Prince Charles CinemaていうのはLeicester Squereの裏手にあるぼろそうな映画館で、ふたつのスクリーンで新しいのと名画座系のをごった煮で流していて、プログラムは毎日変わる。 今晩は”Ghost World” (2001)の35mm上映でメンバーだと£1で見れているし、今週の金曜の晩には”The Breakfast Club" (1985) をやると思ったら、成瀬の「浮雲」の35mm上映なんかがぽつんと入っていたりする。 油断ならない。 70mmとか35mmフィルムでの上映をいっぱいやってて - 昨晩の予告は"Interstellar” (2014)の70mm上映一本だけ - 気になってはいたのだが、ついに足を踏みいれることになってしまった。
先月の"Dirty Dancing"の30周年記念上映だと、あーあ、なのだが、"Singles"が25周年で、とか聞くとちょっとまてふざけんな、くらいのかんじにはなるよね。
で、この晩は,"Singles"の35mm版上映に続けて、"Almost Famous"も35mm、ということでこの並びで、どっちも35mmで見れることなんてもう死ぬまでないかも、と思ったので見てきた。 そんなひま、1ミリだってないのに。
シアターは、昔からたぶん映画館か劇場だったところで、椅子とかぼろぼろで深くて、あんま傾斜がないのがちょっと、なのだが、天井高くて音もすばらしかった。
Singles (1992)
これ、当時劇場では見ていなくて、これが公開された年は自分が米国に渡った年でもあって、当時のシアトル - グランジシーンに対するうんざり、ていうのもあったし、同様にMTVで始まっていたリアリティTV - "Real World"にもうんざりで、おまえらリアルリアルって、ばっかじゃねーの、そんな雑巾みたいに小汚い自分さらして何が楽しいの? ていう典型的な80's vs 90'sのくだんない諍いのまんなかでぶつぶつ言ってて、見る気にならなかったの。 見たのはその数年後にTVで、印象はずいぶん変わって悪くないじゃん、くらいで、そしてようやく昨日の。
この25年で、自分のなかのグランジに対する評価は180度ひっくりかえったし、シアトルにも結構行ってシアトルのひとがなんであんななのかもなんとなくわかってきたし、人って変わるもんよね。 納得できない(したくない)のは25年、てとこだけよね。
という状態で見たので、ああもうこれってすごいいいじゃん、しかなかった。 いくつかのカップル、いくつかのシングルス(空間のことでもある)のくっついたり離れたりのスケッチ、それだけなのだが、Matt Dillonのバンド野郎から彼に惚れちゃった Bridget Fondaから、会社員まで - そして、ああ、Bill Pullman.. - いろんなかっこ、いろんな髪型の人たちがふつうに隣同士で共存してカフェ(まだスタバはない)やライブハウスで会ったりだべったりしていたんだねえ、と。 みんな、孤独を極端におそれるわけでもなにがなんでも結婚を、でもなくて小汚さもそこそこあるけど、あれはただ無頓着なだけで、そこらの猫みたいにスペースが空いたらそこに座る、そんなもんなんだよね、って。
で、それらの雑多な愛すべき人たちとかいろんな音たちを天使のように包んでくれるのがPaul Westerbergの音楽なの。 彼の音だからこそできた芸当、かもしれない。
なにが流れてきてもどれもこれも名曲にしか聴こえないの。
なんかね、この頃、この映画で描かれたような(ある意味)理想郷って、いまはどこにあるのか、誰が描くことができるんだろうか、って。 それくらい遠くに来てしまったかも感があって考えさせられた。 それが25年ていうことだ、なら黙る... か、でも黙っちゃいけないよねこれ。 なんで右向いても左向いてもディストピアとか格差とか壁とか、そんなふうになっちゃったのか。 テクノロジーを使ったソーシャルななんか、が出てきたあたりからだろうか。 ここでのテクノロジーなんて、テープ使った留守電とか、車庫のリモコンとかそんなもんで、それでじゅうぶんだったのにね。
Richard Linklater の”Slacker” (1991)との違いについて考えることに意味はあるだろうか。
たぶんある。
終わったとこで、まばらな拍手。 そうかここはロンドンだった、と。
Almost Famous (2000)
これは2回めに米国に渡る直前くらいに劇場でみた。 この頃のCameron Croweは既に自分のなかでは巨匠だったのでなんの問題もなかった。
ロックライターとしてそのキャリアを始めたCrowe自身の自伝的な作品、というだけでなく、大人になる、ということと子供の音楽としてのロックがいかにして大人のそれになる/なりうるのか、という成長のはなしと、そこに産業としてのロックの興隆も絡めてダイナミックに描いている。 たしかにこうだったんだろうな、としか言いようのない説得力があるという以上に、はっきりとあの時代に向けた彼のラブレターでもあって、それがだらしない自己撞着にぶつかることなく真正面からロックの普遍性と可能性を語っていて、ぜんぜん異議なしである、と。 嫌だったのは邦題だけで、いまだにクソだとおもうわ。
35mmだとほんとにカラーが美しくて溜息ばかりだったのだが、その溜息すらも止まってしまったのがPenny Lane - Kate Hudsonの尋常じゃない美しさで、眩しすぎてとんでもないとおもった。 Emma StoneもJennifer LawrenceもここでのPennyにはかなわないだろう、くらいのすごさ。 番外編でモロッコに渡ったPenny Laneのその後、とかやってくれないかなー。
あと、Cameron Crowがその後も地味に追い続けているアメリカの家族の姿、の最初のかたち、がここにはあるの。(パパが弱かったりいなかったりママが強かったりいなかったり、いろいろパターンはあるけど、でも娘だけは不思議とぜったいかわいいの)
あと、Billy Crudupは、63年の”Jackie” 〜 73年のこれ 〜 79年の”20th Century Women”でいちおう筋の通った生き方をしている気がする。
終わったとこで、こっちは大拍手だった。
エンドロールで流れる”Feel Flows”がまた泣けるのよね。
ライブから帰ってきたところでふらふらなのだが、いまFilm4のチャンネルで”Boyhood” (2014)の最後のとこをやっていて、ううむ、て思った。ぜんぜんあたまが回っていないのだが。
とかぼーっとしていたら”Boyhood”は終わって”Hot Tub Time Machine” (2010)が始まってしまった。やばい。作業にかからねば。
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