NY滞在中のアート関係をまとめて。
今回、時間があいているのは土曜の朝から夕方までで、なんとしても行きたかったのはBrooklyn MuseumとNeue Galerieで、このふたつを日中両方行くとそれだけで終わってしまうので困って呻いていたのだが、Brooklynのほうは木曜日だけ晩の10時までやっているというので、木曜日に行った。
入口のホールでは、"Brooklyn Comedy Marathon: Fierce, Funny, and Feminist"ていう寄席イベントをやってて、女性がいっぱいでわーわー楽しそうだった。
以下、Brooklyn Museum内の見た順番で。
Iggy Pop Life Class by Jeremy Deller
すっぱだかでポーズをとるIggy先生が絵のモデルになって、NYの、18歳から80歳まで22人のアーチストを含む人たちによって描かれた彼の裸体のドローイングが並んでて、それに加えて美術館のコレクションのなかから男の裸に関係した絵とか彫刻とかオブジェとかも一緒に展示している。
そういえば彼の裸って現代のポップカルチャーにおいて、もっともポピュラーなかたちで、犬系ロックミュージックの象徴のように認知されてきた(...そうかも、と少し考えてなっとく)のだから、それをデッサンていうRaw Powerでもって寄ってたかって描きたおす、ていうのはおもしろい試みよね。 デッサンもそれぞれに味があってよいかんじ。
そしてそれらに博物館ぽく古代からの陳列物を並べてみるとなんとも言えずおもしろくて。きんたまの神話性というか。
Marilyn Minter: Pretty/Dirty
ボードにエナメルのべったりねっちょりびろびろ系のエロ画とか、大きめの絵がいっぱい。
でもあんなふうに間隔置いて並んでいるとあんましこないかも。
粘液がだらだらびろーーってだらしなく際限なく繋がっていくみたいなかんじが間隔やフレームによって分断されてしまう、よりガラスの向こう側に行ってしまうからだろうか。
というようなことを考えたり。
Pretty / Dirtyというのは反対語だろうか、くそみそってことだろうか、後者だよね?
というようなことを考えたり。
Georgia O’Keeffe: Living Modern
これが見たくてきたの。
Georgia O’Keeffeのファッションまで含めて、つまりは彼女が生きた時代とそこにあったスタイル、彼女が選びとったスタイルまでひっくるめて彼女のアートを整理して捉えなおしてみましょう、という試み。
「アメリカの近代絵画」みたいなザル展覧会に行くと必ず彼女の絵が女性アーティスト代表みたいに、添え物みたいに置いてあることが多いが、それってなんかおかしいよね、といつも思っていて、ひとつにはなんでいつもそういう「とりあえず」みたいな扱いなのか、というのと、もうひとつは彼女の絵そのものがアメリカの他の近代画家たち - Edward HopperでもJackson Pollock でもなんでもいいけど - となんか、本質的に違う気がしていて、その違和の根っこが、ファッション - 具体的には服とか雑貨とか - という別の光を当ててみることで明らかになっているのではないかと。
展示はテーマ別に彼女の絵以外には彼女が愛用していた洋服とか和服(に下駄まであった - 男モノの)とか靴とか”Living Modern”としかいいようのないいろんなモノたち。
(”Modern Living”ではなく”Living Modern”なの、進行形)
あとはAlfred Stieglitzによる彼女のポートレートもたくさんあって、彼女はそれを自分の鏡のように使ったし、そのクールな肖像が彼女をミューズにしていったし、ということもあったのだろうな、と。
彼女のアートを画家、美術家としてのそれではなくファッションを含めた角度から切り取ることがいけないとはぜんぜん思わない。 (じゃあウォーホルはどうなのよ、とか)
むしろ、ファッションも含めてアートを全方位のものに - PopやChicやCoolな方に - ドライブした、それをウォーホルよかぜんぜん前倒しでやっていたのが彼女だったのはないか。
なので、お花や牛骨の絵ばかりが雑巾とか納屋みたいなアメリカン「モダン」アートのなかに小綺麗なインテリア雑貨みたいにぽつんとあると、微妙なかんじになっちゃったのではないか、と。
で、そうやって全体として眺め渡してみると、とても気持ちよくてかっこいいのだった。 砂漠の風をかんじるというか。
Alexei Jawlensky
25日の朝11:00、開館と同時にNeue Galerieに入って見ました。
抽象手前のカンディンスキーなんかと交流のあったロシア人画家、くらいのことしか知らず、纏めて俯瞰するのはこれが初めて。
初期のロシアで勉強していた頃の絵はとても上手できれいで、それが西のほうに向かうについて抽象化されただんだら模様に変貌していって、それはゴッホだったりマティスだったり表現主義だったり印象派(セザンヌ)だったりいろいろなのだが、全体としてみればJawlenskyとしか言いようのない力強さに溢れていて - この時代のひとはみなそんなふうだけど - 絵の一枚一枚から漂ってくる臭気みたいのが濃い。
後半、有名な”Savior’s Face” (1919) から30年代の”Meditation”まで、延々並ぶ瞑想顔の連なりは圧巻で、それはひたすらの祈りというよりはなんでもかんでも取りこみすぎて考えすぎてどんどん顔色が青黒く赤黒く身動きとれなくなっていく、そんなふうで痛々しく、それが展示の最後の小部屋で、体の自由が利かなくなった状態のところまでいくと更にすごくて、消えてしまうことを承知のうえで、でもそこにあろうとする燃えかすが最後の光を放っていたのだった。
Raymond Pettibon: A Pen of All Work
25日の朝寝床で、もっとなんかないかなー、とあさっていたらこんなのをやっていたので行った。
午前にNeue Galerie、午後にNew Museum。
個人的には2014年のMike Kelly, 2015年のJim Shawに続く(便所の)落書き系(ほめてるの)。
若めの子にはSonic Youthの”Goo” (1990) のジャケットで、年寄りにはBlack Flagのロゴで有名よね。
先のふたりの展覧会も、今回のにも共通してびっくりするのはその物量で、New Museumの3フロアびっちり。割とちゃんとした絵みたいの(失礼な)からノートの端の落書きみたいのまで、とにかくいっぱい。 書きたいことがいっぱい、というよりは、隙間をごちゃごちゃ埋めていくうちに溜まってしまいました、のようなかんじ。 筆というよりはペンのひとで、ペンでカリカリ引っ掻いている忙しない音が聞こえてくる。
Black Flagの初期の7inchのジャケットとかも並んでいて、たまに中古盤屋で2nd editionとか3rd Editionとかいって売っているその全貌が明らかになったのだった。
あと、Mike KellyもJim Shawもそうだったが、げろげろの絵の合間にすんごくかわいいのが挟んであったりして悶絶するの。
まったく油断ならないの。
今回のGeorgia O’Keeffe → Alexei Jawlensky → Raymond Pettibon ていうのはてんでばらばらでとってもおもしろかったが、目とあたまはとっても疲れたらしく、帰りの飛行機では水のボトル貰ったらすぐに落ちてんの。
3.29.2017
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