4月1日、土曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXレーザーで見ました。
邦題は『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』 - アウトローっていうよりただのろくでなしども、よね。
元になっているらしいロールプレイングゲームはやったことないしやることもないだろうし、知らない。たぶんNintendoもPlayStationも一生触らないでしぬんだろうな。
監督のJonathan GoldsteinとJohn Francis Daleyは“Spider-Man: Homecoming” (2017)とか“Game Night” (2018)を作ってきた人たちなので、その辺から惹かれた。
騎士団のハーパーズにいたEdgin (Chris Pine)は極道のレッド・ウィザードに妻を殺されてから娘のKira (Chloe Coleman)とふたりになって、友達で力持ちのHolga (Michelle Rodriguez)と詐欺師のForge (Hugh Grant)と彼が連れてきた謎めいた赤いSofina (Daisy Head)と三文魔術師のSimon (Justice Smith)と一緒に窃盗団を組織して、ハーパーズの本拠地に乗り込んで妻を蘇らせるためのタブレットを盗もうとしたところ、そこで嵌められて、EdginとHolgaは牢獄に入れられてしまう。
2年が経って恩赦の審査をするタイミングが来たところでふたりはズルしてどうにか牢獄から抜け出してみるとForgeは領主さまに出世していて、彼の側にいたKiraは父と目を合わせてくれなくて、背後には邪悪な魔法使いのSofinaがいてどうしようもないので、改めてForgeの金庫に入ってタブレットを盗んでKiraを取り戻してふつうの父娘に戻るんだ、って仲間と道具とかお宝を集めていくことにする。
こうしてもう一回Simonを呼んで、Simonはどんなものにも変身できるDoric (Sophia Lillis)を仲間に加えて、あとは常につまんない正論しか吐かない騎士のXenk (Regé-Jean Page)とかも加わって、討ち入りに必要な刀とか兜とか杖とかを集めるために墓を掘って死者を呼んだりすり抜けたり忍びこんだりの冒険があって、最後にはそれらぜんぶを総動員して闘技場のようなところでの危機一髪まみれの大勝負になるの。
ファンタジー・ゲームの世界なのでなんでもありの無法地帯かと思っていると、これまでのゲームのファンにも配慮したキャラクターや物語構成にもなっているらしいことがネット等での受け方を見ているとわかって、でもゲームだのその起源だのストーリーラインだの決まり事だの、そんなの知るか、みたいな人たちにも楽しめるものになっている気がした。ただそのやり方は、キャラクターや物語の幹を太くしたり深化させたり、というよりは可能な限りいろんなネタみたいな要素をナンセンスも含めてぶっこんで、キャラクターや道具を戯画化して「なんだそれ」って突っこみやすくするとか – でも取りこぼしないように目配りはしているから – その程度のもので、小手先の気はするもののおもしろいからいいかー、のような気がする。
なので、真ん中にいるEdginはべらべら空疎な言葉をくりだすだけ(たまにリュートを弾く)のヴェンチャーの起業家みたいな胡散臭さ満載 – “Don't Worry Darling” (2022)でChris Pineがやった役そのまま - で、彼と空っぽな根拠なし正論おしゃべり野郎であるXenkがぶつかり、更にこの手のべらべら詐欺師役がいつでもどこでも見事にはまるForge - Hugh Grantが絡まるので、男どもがロクな働きをしない反対側で、パワーと身体でぶつかっていくMichelle RodriguezのHolga(別れた夫がBradley Cooper..)とDoricが変態するOwlbear(ほしい..)といった女性たちの働きがすばらしい、というか男たち、べつにいらないんじゃないか? くらいに彼女らは強い。Kiraは戻ってきたパパじゃなくて、HolgaとDoricのふたりのほうに惹かれたのだと思う。そして、登場人物間の恋愛関係のようなのが一切出てこないのは画期的。
よって、アニメの実写化の時によく起こる、あのキャラをあの俳優が(嘆).. の傲慢な議論は、今作ではおちゃらけ/すっとぼけ路線に徹することでうまく回避できているように思えたのだが、世の勇者たちはそれでいいのか。これって結局、眉間に皺で見得をきって血を吐いたり腹切ったりして鬱陶しくてしょうもなかった時代劇のオトコ共(”RRR”もおもしろいけどそれでもまだ臭)を無化するようなところがよいと思った。“Pokémon: Detective Pikachu” (2019)の彼とか、“Bridgerton” (2020)の彼とか、いかにもー。
あと、唯一でてくる(あれ一匹よね?)太っちょドラゴンがたまんなかった。あれができるなら”How to Train Your Dragon”の実写もできないかなー … やめたほうがよいかなー。
最後に流れてくる80’sのばったもんみたいなこの曲はなに? と思ったらTame Impalaだった。更に続いてひどい音質の曲がながれて、日本語で歌っているらしいのが聞き取れたが、日本語版テーマ曲とかくそくだんないやつ、まだやってるのね。
4.07.2023
[film] Dungeons & Dradons: Honor Among Theives (2023)
4.06.2023
[film] 女の暦 (1954)
4月1日、土曜日の昼から午後にかけて、シネマヴェーラの特集『香川京子 畢生の純情派』から2本続けて見ました。
香川京子さんは、2003年にNYのリンカーンセンターで小津の生誕100年の特集上映があった時、『東京物語』(1953) のトークで登場して、結婚したあと、夫の駐在についてアストリアに住んでいたと聞いていいなー、って。アストリアよいとこ。
原作は壷井栄のデビュー短編集『暦』(1940)から、監督は久松静児、脚色は井手俊郎、中河百々代。
小豆島の見晴らしのよい一軒家に杉葉子と香川京子の姉妹が暮らしていて、両親は他界して、二人は生き残っている5人の姉妹のうち、結婚していない4番目と5番目で、杉葉子は学校の先生で庭に朝顔を植えてでっかい花を咲かせる・結婚なんてするもんか、って元気で、香川京子は留守番と家事をしつつ、畜産農家で働く舟橋元とこっそり会って – デートについてくる豚たちかわいい - 結婚を考えたりしている。
今年は両親とか祖父母のx回忌とかいろいろ重なるので法事をしましょう! ずっと会っていないお姉さんたちを呼びましょう! って姉妹は広島にいる長女の田中絹代、大阪にいる次女の花井蘭子、東京にいる5女の轟夕起子に手紙を書いたり、東京出張のついでに会ったりして手はずを整える。
最初に帰ってきたのが夫の三島雅夫と大喧嘩をしてもう絶対に戻らないという勢いの花井蘭子で、次が5人の子供を抱えて貧乏生活がとまらない田中絹代、最後に夫が労働争議で収監されている轟夕起子が現れて久々の再会を喜んだ後に、いろいろ事情はあれど結婚したってロクなことはねえぞくそったれ、って互いの家の愚痴合戦になり、そこに結婚反対派の杉葉子がそれみたことか、て乗っかるので、この機会にみんなの前で自分の結婚のことを切り出そうと思い詰めていた香川京子はどうしよう.. ってなって、それでも意を決して、舟橋元から貰った首なし鶏一羽を差し出してわたし結婚します、って言ってみると、その場の一同大爆笑になったので、彼女は泣いて家を飛び出しちゃうの。
時間が経つと轟夕起子が慰めてくれたり、他の姉たちもおめでとうよかったね、って言ってくれるのだが、なんであそこで突然爆笑になっちゃったのか、ちょっとわからないかも。まずはふつうにおめでとう、ではないの?
でもとにかく、法事が終われば姉たちは散々文句をぶちまけていた自分たちの家に - 田中絹代はお腹を空かせた子供たちが心配そうだし、花井蘭子は夫が来てくれたのでご機嫌直っているし – いそいそと戻っていくので、杉葉子はふん! っていつもの自分に返るの。
みんなそれぞれ、いろいろ大変だけどよかったねがんばろうね、みたいなとこに落ちて、映画はそんなんでも家族があるといいよ、のようなかんじなので、杉葉子がんばれ、になる。あんなよい場所に一軒家でひとり暮らしできるなんてうらやましいし。
あと、とにかく豚さんがー。
暁の合唱 (1955)
↑のに続けて見ました。フィルムセンターの16mm - 途中でリール交換タイムが入る。原作は石坂洋次郎の同名小説 (1947)、脚色は八住利雄、監督は枝川弘。
香川京子は女子大の試験に向かう朝、成績優秀だったので試験は心配していなかったのに、家の弟の将来のこと - パイロットになりたいって - を考えてしまい、試験場に行くのをやめて、そこに貼ってあったバス会社の求人広告を見て、その場で申し込んで住みこみの車掌として働き始める。はじめは車掌でも将来は運転手になりたい、って床磨きから入って、事務所では社長の小沢栄太郎の他、社長の甥で遊び人の根上淳とか、運転を教えてくれる運転手の高松英郎とか、いい人たちがいっぱいで、彼女が盲腸で倒れるとか立ち往生したバスでのお産がはじまるとか、困難がやってきてもみんなやさしく手伝って協力してくれて、運転免許も取ることができるのだが、最後にはやっぱり結婚話を持ってきた社長の前に屈して(あんなの断れないし)その相手がたいして好きそうにも見えない根上淳なので、えー、ってなり、結末はあまりに安易だし気持ちわるいし。
バス路線でのそこに乗り合わせた人々を巡る出来事が「よい話」の方に転がってほんわかする系のお話しだけど、なんで終点に結婚がいるねん?
50年代にっぽんのこういう家族が絡むコメディ、おもしろいのはおもしろいから今後も見たいけど、結構きつくなってきたかも。 結婚や家を出ること作ることを巡る騒動があっても、結局、結婚するのが一番だし子供をいっぱい産むのがあたりまえだし。で、そのメンタリティは今の今までなーんの反省もなく維持されたまま、個々の人としてはみんなよい人で、悪意なくにっこり笑いながらぐいぐい押しつけてくる。戦前からずっとこのまま芋づるの官民一体で。この目の前にある気持ち悪さをとりあえず横に置いて昔話を楽しむ、なんて芸当はムリだししんどいし。リアルはこんなもんじゃない甘えるな、とか言われそうだし。
4.05.2023
[film] Das geschriebene Gesicht (1995)
3月30日、木曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
邦題は『書かれた顔 4Kレストア版』、英語題は“The Written Face”。チラシには『黄昏の夢、あるいは夢の黄昏』とある。
監督はDaniel Schmid、撮影はRenato Berta。 ユーロスペースで過去何度か行われた気がするDaniel Schmid特集で昔も見ている。
坂東玉三郎、女優の杉村春子、日本舞踊家の武原はん、舞踏家の大野一雄、日本最高齢の芸者-蔦清小松朝じへのインタビューや彼らの過去&現在の活動(映像)を織り交ぜつつ紹介するドキュメンタリーのパートと、フィクション(であろうがなかろうが)パートの『黄昏芸者情話(The Twilight Geisha Story)』からなるのだが、Daniel Schmid自身の言葉として、これはドキュメンタリーではなくフィクション - 黄昏についての物語で、黄昏とは映画のことなので、これは映画についての映画なのだと語っていて、Daniel Schmidは自身の作品 -『人生の幻影』(1983)でも『トスカの接吻』(1984) でも、黄昏を撮り続けてきたひとであるから納得する。なので、これは海外からやって来た映画監督が日本の伝統芸能を取りあげてよくできましたー(日本すごい)などというものではまったく、ぜったいないの。
黄昏とは、終わっていく、消えていく運命にあるものがそれを受け容れつつその最後の光のもとでなにかを浮かびあがらせようとする最後の振る舞いとかひと息とか試みとか – そのなにかには自身も他者も世界のすべてが包摂されて、やがては暗闇がやってくる(のがわかっている)。 ここにおいて和だの洋だの、いったいどんな意味があろうか?
ここで前日の『音の映画 Our Sounds』(2022)のトークにあった、芸能におけるコスモロジーの回復 – 闇を手繰って音(光)を獲得していくような話と、この映画の黄昏において光が減衰していく話が重なる気がして、それにしてもここで見ることができる坂東玉三郎の舞い「鷺娘」「大蛇」「積恋雪関扉」のとても美しい、とは一言で言えない異様な艶やかさや動態、埠頭の水の上に浮いているような大野一雄の立ち姿、杉村春子の『晩菊』のはしゃぐシーン、三味線を手にする蔦清小松朝じのテンション、すべてが来たるべき闇に向けて、そこにある音や葉や羽を落としていくような、それでも次に継がれていく芸能のありようについて考える。
もうひとつ、フィクションパートの『黄昏芸者情話』のほうは、古い屋形船の上で若い二人の男たちが芸者に扮した坂東玉三郎を陰で取りあうさまを、サイレント映画の画面設計で見せて妙に生々しい。この「情話」は玉三郎がソロで見せる3つの舞いのバリエーションなのか、更に化粧と衣装を落とした彼が90年代の街中を車で行ったりホテルにいたりする現代のシーンもあって、これらを総合するとやはりぜんぶフィクションなのだ、というのが一番しっくりくるのかも。
あと、「描かれた」ではなく「書かれた」顔である、ということ。彼らの顔は、自由に受け取ったり解釈できたりするイメージとして描かれているのではなく、大昔からテキストとして書き継がれて読むことのできる人が読んで咀嚼し、写しとったり上書きしたり推敲したりしながら舞台の上などで実行してきたものである。そういう厳しさ(今の世だったら許されないような嫌なこと - 差別や迫害も含め)が表出したものなのだ、というのの反対側で、それが書かれたものであるならば(翻訳が必要かもしれないが)我々はそれを読むこと、演じることができる、という開かれたありようもある - 男が書いた女の貌を男が舞う、演じる、というアート/芸能。
そして、この書かれた顔はどのようなドラマ(これも書かれたもの)の台本にのって、どのような役割を演じて、歌って、舞ってきたのか/演じていくことになるのか、など。芸能の世界の底なしの広がりの交点にいる玉三郎と老いた者たちはなんでそんなふうにいるの? あることができてきたの? など。とてつもなく男性中心社会、というのも、あることはある。
あと、パンフレットの終りに掲載されているプロデューサーの堀越さんとアソシエイト・プロデューサーの松本さんの対談 - 『80年代シネクラブの総決算としての『書かれた顔』- にある撮影の舞台裏がめちゃくちゃで、総決算としか言いようのないおもしろさ。いろんな意味で奇跡のような作品だったのだな、って。
4.04.2023
[film] 音の映画 Our Sounds (2022)
3月29日、水曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。
上映後に宇野邦一さんと監督ハブヒロシさんのトークつき。
映画のサイトには、”Bộ Phim: Âm Thanh Của Chúng Ta”とベトナム語があって、これを翻訳にかけると『映画:僕らの音』。 岡山県高梁市の日本語教室に集まったメンバーたちが登場して「みんな で あつまって いっしょに うた を つくる ドキュメンタリー・ミュージカル・フィルム』とのこと。(そのひらがなの、かたことのたどたどしさに寄り添いながらつくられた映画があり、それを聞く我々もその域内に取り込まれていくイメージ)
画像のない映画、ということで時間になると予告編もなしに突然電気が落ちて、正面のスクリーンは灰白色の、なにかが映り始めそうな淡い瞬きの状態(これ好き)を維持したまま、音(だけ)が聞こえてくる。最初はPCを操作している音からTV会議かなにか、向こう側に繋がって(繋がったから)挨拶しているような様子がうかがわれて、向こう側は片言の日本語を喋り、たまに疎通に困ると翻訳ソフトにタイプしてベトナム語に変換して会話が成り立っているらしい様子とか。
次のシーン(場面が切り替わったり何が見えたりするものでもないので、この言い方でよいのか)では音のトーン(というか肌理というか、その音がどういう環境のもとで鳴って響いているのかがおおよそわかる)が変わり、ひとつの部屋とか教室のようなところで直接会って話しているようで、その次には電車の音(よい音)が入ってみんなで外に遠足に行っているようだ(行先は神社)、とか。
彼らが話しをして、こちらに聞こえてくる内容はというと、好きな言葉、とか、海の向こうにいる家族のこととか、いくつかの言語が混じったシンプルな受け答えが殆どで、容易に想像できそうな異国で暮らす困難など、ストレートに個別の問題を提起したり喚起したりするものではなく(あったのかもしれないけど、編集されていたりするのか)、気がつけば遠くでかたかたリズムが鳴っていたり、言葉が鼻唄のように流れて繋がり始めたり、合図や掛け声もないままにその小さな囁きや呟きの音やノイズがより大きなうねりに取り込まれて、気がついてみればものすごく気持ちよい歌と音に囲まれている。その気持ちよさって、ヘッドホンやライブで聴く音楽のそれとはちょっと違うかんじで、でもとにかくすごくよいのでびっくりする。あと1時間、あれだけずっと流れていてもよかった。
前方のスクリーンを睨んでもなにも出てこないし、目を瞑ると寝てしまう気もしたので、スクリーンを「見る」しかなかったのだが、やはり、どうしてこんなにもこの目と頭は「見る」ことをしてしまいたがるのか、とか、リスニング・パーティとはどう違うのか、とか、そんなことを考えていた。それは普段映画を上映している場所で行われているから、とかタイトルに「映画」と入っているからではなく、「映画」の定義がどうたらでもなく、それにふれている時の知覚のありようとかその推移とか往復運動は、「映画」のそれとしか思えなかったので、これは映画と呼んでもよいのかも。
そしてそこから、これを「映画」とした時に改めて見えてくる貌のようなもの、映像をシャットアウトして初めて聞こえてくるもの/知覚されてくるものについても考える。移民の人たちの声や歌は、映像と共に示されたら果たしてこんなふうに聞こえてきただろうか、など。(あと、少し昔だと七里圭の『闇の中の眠り姫』(2007)とかもあった - けどこれとも違うな、とか)
上映後の監督と宇野邦一さんの対話は、30年代にアルトーが演劇について考えていたこと - 映像をなにかに従わせてはいけない - からドゥルーズの、見ているものと聞こえているものの共犯関係を断ち切る、という話まで、そしてやっぱり、Derek Jarmanの”Blue” (1993)への言及があり、更にリュミエールからではなく芸能 = performing arts の系譜・世界観から共同作業としての映画を捉え直す。芸能の根本はコスモロジーの回復でありストーリーを伝えるため(だけ)の閉じたものではない、と。 まとまりすぎるくらいにまとまってしまったのできょとん? ってなったけど。
4.03.2023
[dance] ROH Live Cinema Season: Like Water for Chocolate
3月28日、火曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
英国Royal Opera Houseのライブ配信シリーズで、Royal Balletによる『赤い薔薇ソースの伝説』。
原作は世界的ベストセラーとなったLaura Esquivelの同名小説 - “Como agua para chocolate” (1989)、1992年にはメキシコのAlfonso Arauによって映画化されている(どちらも未読で未見 - 渡米していたからか)ものを3幕からなる新作バレエとして2022年6月に上演したもの。ABTの方でも先月プレミアされている。
バレエはライブで、をずっと信条にしてきたので(床を叩く音とか客席のどよめき- 小さい悲鳴とか、理由はいろいろ)、バレエの配信はこれまで見ないことにしていたのだが、この国でバレエをライブで見ようとすると料金がバカ高くて、興行界の方も観客の方もそこになんの課題も感じていない幸せに腐れた世界のようだからもう配信でいいや、にした。
振付・監督はChristopher Wheeldon、音楽はJoby Talbot、セットデザインはBob Crowley - Luis Barragánに影響を受けた茶褐色。メキシコ音楽に関するコンサルと指揮にAlondra de la Parra、原作者のLaura Esquivelも協力していて、最後の方でメゾソプラノの歌唱も入る。収録されたのは、メインがFranchesca HaywardとMarcelino Sambéの回。
インタビューで関係者も語っていたが、この時代にレパートリーでもモダンでもない完全に新しくまっさらな原作もののプロダクションを一から作る、しかも舞台は手慣れたヨーロッパではなく、原作も古典ではない、マジック・リアリズムがうねりまくるラテンアメリカ小説で、これなら実現までに数年かかった、というのも頷けてしまう。よくこんなの作ったよね、っていう感嘆がまずくる。
冒頭、スクリーンに「末娘は結婚せず母親が死ぬまで面倒を見なければならない」という文言が出たあと、黒衣(反対を向くと白)の13人の花嫁がぞろぞろ現れて後方横一線に並んで不吉に舞台を眺めている。台所で生まれた家の末娘Tita (Francesca Hayward)は料理人のNacha (Christina Arestis)に料理を教わりながら、近所のPedro (Marcelino Sambé)と仲良くなって、このままずっと一緒にね、って思っていたら、TitaのママのMama Elena (Laura Morera)はしきたりだから一緒になることは許さぬ、ってPedroはTitaの姉のRosaura (Mayara Magri)と結婚することにされていて、それでもPedroはTitaの近くにいられるのなら、と結婚を承諾するのだが、結婚式でTitaの料理とケーキを食べた出席者たちはおかしくなってNachaは死んでしまったり、もうひとりの姉のGertrudis (Meaghan Grace Hinkis)はなにかに目覚めたのか革命戦士と機械の馬に乗って駆け落ちしてしまうし、ここから一族全体を覆う呪いと地獄 - 会うも地獄会わざるも地獄 - の情念の日々と世界が繰り広げられていく。
第二幕でMama Elenaによって強引かつ物理的に引き離されたTitaとPedroの苦しみと、それにより精神を病んでしまったTitaを救うジョン医師 – Dr. John (Matthew Ball)の登場とふたりのにじり寄りと接近、Mama Elenaの死と共に明らかになる彼女の悲しい過去、そして亡霊/怨霊としての復活、捩れが戻ったと思ったら今度はPedroが倒れる等、昼メロ並みに大波大嵐のてんこもりで、ただTitaとPedroの愛と絆の深さはふたりの一幕目からのダンス、というより親密かつエロチックな絡みで十分伝わってくるので、そんなに踏み外しているかんじはないの。
でも、二幕までの怒涛の流れ比べると、第三幕はやや蛇足というか、なくてもよいくらいかも。古からのしきたりがパワーを失った – のは別にそんなのなくて当然なので、ママとRosauraの死により消滅、で十分な気もした。
ホット・チョコレートを作る時に牛乳の替わりに水で作る、原題はそのための水(お湯)を指してて、ここから、情熱 - 激情に溢れた状態、更にはオーガズムを指したりもするそうで、それは中盤に向けての水が絡まるようなふたりの舞いを見れば納得できるのだが、邦題だけだとなにがなんだかさっぱりわかんないよね。 映画と翻訳本の日本でのリリースは同時(1993年)のようなので、映画のタイトルに引っ張られたのだと思うけど、なんか勿体ない。少なくともこのバレエは「伝説」を語ろうとしているものではないし。
家の、しきたりの呪縛と恋の挟み討ちで純粋な少女が狂ってしまう、というお話しだと、その狂いようから”Giselle”などを思い浮かべて、”Giselle”は相手の男がくずだったからという違いはあれど、あれも母親と娘が始めにあった、とか、あれは本人が亡霊になったけど、これは母親が亡霊になる、とかいろいろ思ったり。あと、ヨーロッパとラテンアメリカにおける狂気の現れようの違いとか。
これ、日本でもごく普通にありそうな話だねえ、ってMama Elenaが亡霊となって現れるところで「新八犬伝」の玉梓が怨霊みたいだ、と思ったり、でっかい人形劇にしてもおもしろくなりそう、とか。”Like Water for Sticky Rice”か。
でもやはりこれはロープや布といった縛るもの覆うものと生身の女と男の身体がどうやってそれらに絡み絡まれ覆われて、数十年に渡るがんじがらめの隙間や切れ目から互いを見つけてその身をなにがなんでも委ね解き放そうとしたのか、その身悶えに寄り添おうとしたダンス、なのだと思った。テーマだけならAkram Khanあたりがとりあげてもおかしくなさそうな。
真ん中のふたりは本当に素敵で申し分なくて、他の(唐突すぎてわけわかんない)革命軍のパートですら力を抜かない見事な踊りを披露してくれた。
配信で見たバレエはやっぱり、そこはなんで引いて全体を見せない? とか、なんで上半身しか見せない? とか、なんでそこで切ってあっち側に飛ぶか? とかなかなかのストレスが押し寄せてきた。これならいっそFixで全景だけ映してくれていた方がまだ。 やっぱりライブで見たかったなー。
カーテンコールの後はあそこの狭い通路を抜けて地下鉄のCovent Gardenの駅に向かい、混雑のなかエレベーターでホーム階に下りて電車がくるのを待って … を脳内再生してしんみりしたの。
4.02.2023
[film] Irma Vep (1996)
3月26日、日曜日の午後、”Les vampires”の上映の合間に日仏学院で見ました。
作・監督は後に2022年のHBOの同名ドラマシリーズを手掛けることになるOlivier Assayas。
大学で19世紀末の連続大衆小説作家のGustave Le Rouge (1867-1938) - Paul Verlaineとも親交があった - について論文を書いたAssayas がその同時代に映画を撮っていたLouis Feuillade (1873-1925) に関心を持つのは当然の流れだったと思うのだが、”Les vampires”のオリジナルのストーリー展開や設定をそのままなぞるのではなく、舞台を現代に置いて、どちらかというとサブキャラに近いIrma Vepをフロントにして、更にその映画制作の現場を - バックステージものとして撮ることには、ものすごく一貫した意味と倫理(のようなもの)があるはず。 (その辺の話を聞けたかもしれない31日のAssayasのオンライン講義を聞けなかったのが悔しいよう)
まず時代設定は現代に置かないと意味がない - オリジナルはあの時代の世相や街のありようをダイレクトに映し出すことでLes vampiresという組織の出現と暗躍を生々しく活写しようとした、これをガイ・リッチーがシャーロック・ホームズでやったような荒唐無稽な時代劇パッケージにしてしまうことだけは避けなければならない。
他方で、ギャング団やその抗争、事件を巡る捕物などにしてしまうことも同様の理由でそんなに意味がなさそう、となった時に唯一、フロントに立って磁場となり惹きつけてかき混ぜてくれそうなのが”vampire”のアナグラムとして生成加工された”Irma Vep”なのではないか、と。
そしてその舞台は、普通の会社組織でも裏社会でも社交界でもないようなところでなんかないか? って見回してみたら足下にあった。映画制作の創作現場が首をつっこまざるを得ない表と裏の社会の割れ目の諸相あれこれ、縛りとストレスとプレッシャーまみれの「現場」こそ、現代のIrma Vepが - 配役でもリアルでも - 出現してもおかしくなさそうな坩堝、と言えるのではないか。
最後にあるのが、連続ドラマがその本質として持ちうるスピード感とか追い立てられ感のところ。これを実現するには予算とか規模とか簡単ではなさそうなので、まずは1本ものでデモのようなラフスケッチのようなのをさらっと描いてみたのが96年版、そこから26年後に本来あるべき姿だった連続活劇巨篇として完成させた。
というコースで考えてみることもできるし、実はそんなのはぜんぶはったりで、Maggie Cheungの魅力にやられてしまった悪の首領Assayasが、彼女に近づいて捕えるために張り巡らせた罠 - スクリーンテストとぜんぶ後付けの口実 - だった説も根強い。(うーん、後者かな)
こうして、香港映画のアクションスターとして”Irma Vep”を演ずるべく監督のJean-Pierre Léaudに呼ばれて、フランス語がまったくできない状態で、先が見えていない撮影現場に放り出されたMaggie(役名もMaggie Cheung)の格闘の日々 - 呼んでくれた監督の期待に応えるべくあのコスチュームで動き回ってみると、その扮装が彼女にIrma Vepを憑依させて、実際にホテルで盗みを働いてしまったり。
現場の方は、かつてカルト的な人気を誇り慕う人も多かった監督があまりに好き勝手にやり過ぎて現場をコントロールできないことが露わになり、その結果逃げたのか外されたのか、新たな監督 - Lou Castelに変わって、その彼は主演女優がアジア系であることが納得できないらしい。(1910年代のヴァンピールがどんな人種・階層構成だったのか、それが90年代にどうなっていてもおかしくないのか、は考察に値するテーマではないか?)
Jean-Pierre Léaudはヴァンピールのサタナス(の映し絵)で、彼が自死したあとに別の首領に替わって組織は壊滅する - 本作の上映タイミングがそのエピソード7-8と9-10の間に置かれたのは偶然なのかヴァンピールの策謀なのか。
Louis Feuillade的な世界(観)をどうやったら現代社会(pre 911)で映像化できるだろうか、というとりあえずやって見る系のデモセッションなのでどうしても座りがよくなくて、あんなざらざらノイズまみれの画で撮られた、というのと - それでもその向こうに立ち上がるMaggie Cheungの姿がそれとわかればOK、なのかも。Sonic Youthの”Tunic (Song for Karen)”が鳴り出すところ - この時期のSonic Youthはよいねえ - と、Jean-Pierre Léaudが失踪前に遺していったアイビームの落書きのとこだけで十分、実際あれで1/4世紀は持ちこたえたのだった。 2022年版も、時間をおかずに再見せねば。
RIP 八重洲ブックセンター;
わたしは学生の頃にここでバイトしていた。まだ人文書コーナーが2階にあった頃の2階にいて、とても楽しかったのだが、新刊が入るとつい取り置きしてしまうので月の手取りが5千円くらいにしかならなくて、これはだめだろう、って自分からやめた。本が好きなら本屋やれば? ってたまに思っても自分で打ち消してしまうのはここでの経験があったからなの。その呪いが解かれた、と解釈してよいのか?
RIP Ryuichi Sakamoto;
音楽はなぜそんなふうに鳴って聴こえて、その粒や束がどんなふうに耳の奥を伝わってきて、美しいとか哀しいといった不思議ななにかを我々のなかに呼びさましたり訴えてきたりするのか、を常に考えてわかりやすい言葉と音楽で教えてくれる - その思考の最中に引き入れてくれる人であり音楽だった。 その意味での「教授」で、でも決して権威にはなることなく、常に思索者、実践者として導いてくれた。
ありがとうございました。
こちとら安らかどころじゃないってのにさ..
4.01.2023
[film] Les vampires (1915 - 1916)
3月24日、金曜日の夕方にep.1-2-3(39分-17分-48分)を、25日、土曜日の午後にep.4-5-6(38分-45分-72分)を、26日、日曜日の昼にep.7-8(55分-65分)を、間に”Irma Vep” (1996)を挟んで、夕方にep.9-10(60分-68分)を見ました。
邦題は『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』。英語題は”The Vampires”。
上映している3日間、ほぼずっと雨がざあざあの暗く湿った週末で、そこがまた雰囲気としてはたまんなくて、低気圧頭痛と共に吸血の沼に沈められてしまうようだった。
作、監督はLouis Feuillade。ピアノ伴奏は柳下美恵さんで、演奏がとにかくすばらしくて、特にGaumontのロゴが表示されたあと、低音のテーマがでけでけ鳴り出すところがたまんなかった(まだたまに頭の奥で鳴ったりしている)。あのピアノ伴奏付きでDVDだしてほしい。
Louis Feuilladeの作品は、シネマヴェーラで一日がかりで上映したりしていた”Judex” (1916)もあったのだが、まずはどこかでこっちを見なきゃ、ってずっと思っていて、その熱が昨年のTIFFでのOlivier Assayasによる(オマージュというのかリメイクというのかなんというのか)”Irma Vep” (2022)を見て再燃したので、なにがなんでも見なきゃ/見たい、になっていたところでの今回の特集。
1910年代のパリを舞台に当時の観客を熱狂させていた連続活劇のフィルムが30年代、ふつうに舗道に捨てられていて、それをアンリ・ラングロワが拾ったとかいうそれ自体ノワールっぽいいかがわしさ満点のエピソードも含めて、吸血ギャング団は実在していて今も秘密結社として暗躍しているのではないか、とか。
各エピソードのタイトルは、以下のとおり。こうやって並べてみても(こういうタイトルの本が並んでいるのを想像したりすると)、不穏でやばいかんじが満載で、しかも表紙にIrma Vepの絵があったりしたらすぐ手にとるしかない。
ep1:“La Tête coupée”『首なし死体』、ep2:”La bague qui tue”『殺しの指輪』、ep3:”Le Cryptogramme rouge”『赤い暗号文』、ep4:”Le Spectre”『幽霊』、ep5:”L’évasion du mort”『死者の逃亡』、ep6:”Les Yeux qui fascinent”『幻惑する眼』、ep7:”Satanas”『サタナス』、ep8:”Le maître de la foudre”『稲妻の主』、ep9:”L’omme des poisons”『毒の人』、ep10:“Les noces sanglantes”『血に染まった結婚』。
各エピソードの個々の筋を追っていくのはしませんけど、ポイントはこれが1本の長いドラマではなく、連続活劇ドラマとして作っていく端からリリースされていったことで、たぶん観客は「幻惑する眼」にやられて催眠術にかけられたように次を追っかけて劇場に向かった、その目は彼方の第一次大戦の方からも、戦場に吸い込む魔の力として吹いてきて、これが生きて最後に見る映画になる、Musidoraが生きて最後に見る女性になるのかもしれない、そんな切迫感も感じられたりもする。(このかんじが画面上のどこから来るのか - 死体の雑な扱われ方とか、だろうか?)
新聞記者のPhilippe Guérande (Édouard Mathé)はあちこちで頻発する怪事件の裏にヴァンピールという組織が動いていることを突きとめ、その動向を追っているうち、オフィスでファイルが盗まれていることがわかり、横にいたMazamette (Marcel Lévesque)を捕まえるのだが、彼は3人の可愛い子ら(写真を見せる)を養うために仕方なくヴァンピールで働いているのだ、って泣き言を言って許してもらって、これ以降Guérandeの協力者としてなくてはならない存在になる – というかこの人、後半はGuérandeよかずっと活躍して偉いのだけど。
最初のエピソードで、死体のすり替え - 死んだと思ったら生きてた、とか別人だった & 生きている方だっていくらでもすり替わる、っていうヴァンピールのやり口というか方程式が示され、それに従って団の親玉も最初のLe Grand Vampire (Jean Aymé)からSatanas (Louis Leubas)へ、最後のVénénos (Frederik Moriss)へと変わって、その攻め方も変えていくようだし、Irma Vep (Musidora)も敵対ギャングのMoréno (Fernand Herrmann)のところで動いたり戻ったり、敵も味方も変幻自在に規模や姿を変えて、でも人殺しとか悪いことはいくらやっても懲りない飽きないような。(でも人数いる割にはそんなに稼げていないのではないか。みんな副業なのかな)
エピソードが細かく切られているので気にならないだけなのかもだけど、悪玉善玉それなりに間が抜けていて、あちこち突っこみどころは満載で、Guérandeは記者みたいなことをほとんどしていないようだし、警察はあまりに間抜けでなにもしていないようだし、悪い奴らもいちいち催眠術かけたり麻酔したり針仕込んだりしてないですぐに殺しちゃえばいいのに、とか。
でも本作で見るべきはやはりそこではなく、そうやって地下・地中で蠢いてやまない悪への渇望 – なんで悪いことをしちゃいけないのか? - をそこらの路上とかドアの向こうから突然にやってくるもの – そして突然暴力的に日々の均衡や安定を壊すものとして描いて暴いてしまったあたりではないだろうか。(やっちまえ! のやりくちが映像として街中に広がっていく)
結局、ヴァンピールとは何だったのか、何を起源として、そこにどんなルールがあって、何がメンバーを惹きつけて集めるのか、なにひとつ明らかにされていない、けど、リーダーが替わってもみんな楽しそうに宴とかやっているし。Mazametteだって最初は生活のために入っていたし、これなら加わっておいてもいいんじゃないか、というような秘密結社のありよう。
その反対側の、正義の味方っぽいGuérandeとMazametteもなんのためにやっているのか、見返りとかあまりなさそう(アメリカのお金持ちから棚ぼたはあったけど。Guérandeはいつの間にか婚約したりしてるけど)だし、その割には絶えず危険に晒されるし、シリーズ全体を通してみれば、どうみても悪の道に誘っているようにしかー。
あと、Irma Vep = Musidoraのなんとも言えない魅力については、明日の日仏で『ドン・カルロスのために』を見てから改めて。
こういうの、映画館でエンドレスで流し続けてくれて、ふらっと入って見たいとこ見て、さっと抜けたりできたら最高なのになー。