4月20日、火曜日の晩、MetrographのVirtualで見ました。
昨晩の(だけど英国は深夜過ぎて起きていられないので翌朝になる)オスカーで、Best International Feature Filmを受賞したので先に書いておく。今年の同賞候補は”Collective”も”Quo Vadis, Aida?”も悪くないと思うのだが、Mads Mikkelsenひとりが持っていった、としか言いようがない。デンマーク映画で、原題を翻訳にかけると”Binge drinking” - 酒浸り。英語題は”Another Round” - こっちの方がいいかも。
冒頭に黒に白抜きの字幕で、キルケゴールの”What is Youth?”と”What is Love?”が表示される。
それからなにかのお祭りだか大会だかで、ビールを浴びるように飲みながらぐるぐる狂喜して走って競争している若者たちの姿が描かれる。下戸の人から見たらホラー映画ではないかと思う。
そうやって青春の飲酒を謳歌していたであろうMartin (Mads Mikkelsen)は高校の歴史の教師で、いまは明らかに仕事への情熱を失って目は虚ろで挙動も不気味で、生徒はだいじょうぶかこいつ、という目で彼を見ている。同僚の教師 - Tommy (Thomas Bo Larsen)、Peter (Lars Ranthe)、Nikolaj (Magnus Millang)も同様で、音楽や哲学やスポーツの担当教科それぞれでどんより目的を見失った状態になっていて、家族との間もうまくいっていないので、みんなで集まって対策を協議する。Martin以外の3人は酒を飲みながら。
その会で、ノルウェーの精神科医Finn Skårderudの学説 - この人は実在する人だが本当にそれを言ったかどうかは不明 - 人間の血中アルコール濃度(BAC)は常に低すぎるのでこれを0.05%に保つように努力している – とか、ヘミングウェイは日中浴びるように酒を飲んでいたが午後8時以降は一切口にしなかった(それでも名作をいっぱい書いた)、とか、要するにちょっとくらい飲んだって構わないのだ、ということをみんなで確認(正当化)して、測定器で各自モニターしつつBACを0.05%に保っていったらどうなるか - 常時0.05%で満足できるかどうか、を試してみる。つまり普段のお水の瓶に透明なお酒を混ぜて飲みながら仕事をしたらどんなことになるだろうか、と。
こうして0.05%のガイドラインに合意して足を踏みこむのがPart1で、Individual BAC(アルコール濃度は人それぞれでいい)を追求してみるのがPart2で、Maximum BAC(行けるとこまで行ってみろ)がPart3。アルコール依存症の恐怖を訴える啓発ビデオのような章立てで、でもなによりもすごいのは、しばらくなんらかの事情で飲酒をやめていたと思われるMartinが酒を一口流し込んだ途端に顔色が変わり目になにかが蘇るその瞬間の変容ぶりで、これを特殊効果とか無し(カメラの動きはちょっと絶妙)の演技のみでやっているのだとしたらMads Mikkelsenおそるべし、しかない。
こうして生徒に評判の悪かった彼の歴史の授業は生徒も教師もノリノリのそれに変わって、他の仲間たちも同様で教育の方での効果は現れるのだが、それぞれの家庭ではおねしょしてしまったりあなた何やってんのよ、になっていって、やがてやっぱり事故が。
お酒を飲むのが好きな人にとってお酒を飲むことがどんなふうに彼らの日々の活動や行動を活性化して明るく楽しくしてくれるのか、お酒を断つことがどれだけ彼らの活動を萎ませてくれるのか(+少しだけ家族とか周囲への影響云々)を主に酒飲みの目線で綴っていくのだが、酒飲みでない人にとってはドラッグ依存症の人々の映画を見るのと同じで、飲まなきゃ/関わらなきゃいいのに… しかないのはいつものこと。手を出さざるを得ない閉塞感とアルコールと再会したときの歓びとか(”I miss you too.”)は、あのラストシーンで十分に表現されている、と思うものの、だからわかるだろ、わかってよ、にそう簡単にはならない。酔っ払いに嫌なことをされた記憶はそう簡単に消えるもんではないからー。
あとは冒頭に出てきた一気飲み競争みたいなのとか、教職の人がそうなっちゃうかーとか、この辺はその土地の文化みたいなもの – だとしたらやっぱしきついかも。酒は人をつなぐから、とかわけわかんない題目で強要されるのってまだ会社社会ではあるのだろうけど、これも酒を飲んで楽しい人の言い分でしかないのでいい加減やめてほしい。
そういうのを除けば、こないだの”Days of Wine and Roses” (1962)などと並べて、酔っ払いの奇妙な挙動とか生態を横で眺める(だけの)映画としてはわるくないの。こういうのって中年男性が演じるからおもしろい、っていうのはそれなりの理由があるからよね、とか。上に書いたお酒に向かう文化とか態度みたいなのの強さ弱さって国や地域によってたぶんいろいろ違いがあるよね、とか。
映画としては、真ん中にMads Mikkelsenがいたことが全ての成功の要因だとしか思えない。ほんとそれだけで、それくらい彼の存在がでっかい。
オスカーの他のは - “The Father”だけまだ公開されていないので未見だったが、あんなもんかしら程度(あんま興味ない)。 Best Documentary Featureだけなー。”My Octopus Teacher”、別に悪いとは思わなかったけど、仕事に疲れて虚無に囚われた白人男性がタコに教わる、ってその目線がなんかやなの。タコでもクラゲでも虫でも教わるのはいっぱい、いくらでもあるよ、謙虚になればいいだけなのに。 今はみんなああいうのを求めているんだろうな、って。
St. Ivesから戻った土曜日は、少し寝てからグリニッジ天文台とかを見にいった(外から見ただけ)。日曜日は、Stratford-upon-Avonにシェイクスピア先生の生家とかRSCとかを見にいった(どこも外から見ただけ)。その場所に行って外から見てここかーってイメージするだけでもいいの、になってきた。
4.27.2021
[film] Druk (2020)
4.25.2021
[log] St. Ives
もう自分に残された時間はあまりないので行きたいところに行っておかなきゃシリーズで、西の外れのSt. Ivesに行く。 ヴァージニア・ウルフの父親の別荘があって、夏の間、彼女はここで幸せな時間を過ごして『灯台へ』のモチーフも - Godrevy Lighthouseをはじめ、この土地のあれこれから作られているという。
ずっと行きたいな、とは思っていたのだが問題はやや遠いことで、ロンドンから電車で片道約5時間かかる。日帰りは無理かな、だったのだが帰りを夜行列車 - 夜22時に出ると朝5時にパディントン着 (行き帰りの時間差はわかんない考えない)にすれば行けそうであることがわかった。週末ぜんぶ使ってしまうのはあれなので金曜日に休んでしまえばいいや。
例によってお天気は気になったのだが、iPhoneの天気予報はこの一日ずっとイカの足みたいな模様がでていてよくわからなくて、でも天気図をみると変な前線もなさそうなので決行した。今回は海だし先週の丘みたいなこと- 体中ぼろぼろ-にはなるまい、と。
家をだいたい6時に出てパディントン発6:37の電車に乗る。この季節の車窓から、は本当に素敵で緑がぱりぱりしてきれいだし、羊羊羊 - いろんな羊 - 馬馬牛、のパレードなのだが原っぱを見ているとうさぎがぴょこぴょこしていたりキジみたいな変な鳥がいたり鹿が走っていったり、今回はロバもいたし。途中で干潟のようなのが現れてあらすてき、と思ったら海がどーん、てきたし、まったく飽きない。
この電車の終点は英国のいちばん西端の岬に近いところなのだが、St. Ivesはそこのひとつ手前で降りて2両編成のローカル線に乗り換えるの。ここでも海がでっかく見えてしかも遠くにいるやつはGodrevy Lighthouse ではないか。
降りて最初にいったのはヴァージニア・ウルフ(の父親の別荘)のTalland Houseで、もうとっくに人手に渡っていて改築中だったのだが高台に建っていて、彼女はあの窓からSt. Ives Bayを、Godrevy Lighthouse を眺めていたんだわ、って。
そこから町の方に降りて、その向こう - 北の反対側の海まで行ってみる。こちら側にはTateの分館のTate St. Ivesがあって開いていたら入って当然なのだが、いまはまだ。すごくかっこよい建物だった。
天気予報のイカの足マークはやはり風が強いという印だったかと気づく程度に風も陽射しも強くて、でも3年くらい前にGreenwichのNational Maritime Museumでみた英国のビーチ写真展に沢山あったいたように、ついたてをしてその中で読書をしている人たちがいっぱいいて微笑ましい。彼らはこんなふうに毎週通ってついたて立てて本を読んでいるんだろうな。
高台にあるSt Nicholas Chapelまで登ってしばらく大西洋も見納めかな、って海の向こうのアメリカのほうに手を振って、町の商店街を歩いてみる。建物も含めて小綺麗なお店が多くて住みやすそうで、ヨットハーバーはないけどサウサリートみたいなかんじかも。お店では当然にコーンウィールのスコーンとか粉ものお菓子がいっぱい並んでいてお昼につい買ってしまう - つい、って言わずにはいられない粉ものの魔力重力。
対岸の遠くに見えるGodrevyの方にも行きたくて、でも検索するとバスでは2時間とか出てしまうしUberもないのでタクシーを見つけて行ってもらうことにした。湾をぐるうっと回るので結構な距離だったが公園(National Trustのだった)の手前で降りてGodrevy Lighthouseの方を目指す。 風はこっちの方が強力で砂がばりばりなのと足元の岩場の岩も丸いのから尖ったのまでいろいろで、風で飛ばされないようにする - 何度か飛ばされたことあり - のと躓いて転ばないようにする - 極めて頻繁にすっ転ぶ - の両方に注意しながらそろそろ進む。でもさいあく、なんのガードもない崖から落っこちるかすっ転んで流血しながら海に落ちるか、その程度だろうし、それでもいいや、って。
フード越しのぼうぼうの風の音(吹きあげられた砂の音)と満ちてきているのか引いているのか波と岩場の間にたつ音が素敵ったらなくてぜんぜん飽きることがなくて、岩場で座ったまま1時間くらいぼーっとして崖の上の草のなかで1時間くらい寝ていた(よく寝る)。 少し離れた岩の向こうの海の間に岩のように見えたのが動いてきょろきょろして消えて、あとでこの辺にはGrey Seal - ハイイロアザラシが生息していることを知る。言ってくれたら1日粘ったのに。
本当は日没(20:30くらい)まで - 灯台が動き出すところを間近に見たかったのだが夕方に向かって寒さと風がきつくなってきたのと、灯台の灯りを見るのであれば、ヴァージニアが見たであろう距離から見るのが適切ではなかろうか、と思ったのでSt. Ivesの方に戻ることにして、砂浜を経由してバス停まで40分くらい歩いた。Sunset Surfingに向かう沢山の車とすれ違って、やっぱりサーフィンするのか、って。
St. Ivesの町に戻ったのは20時くらいで、寒くてへとへとで、でも食べ物屋はとうに閉まっていてハーバーで開いていたカウンターでFish & Chips(Halibutの)を買って、風が吹く店外で震えながら食べた(店内で食事はしてはいけないの)。揚げたてはとにかく、なんだっておいしい。
電車は21時半だったので、駅前のGodrevy Lighthouseが見えるところに座って灯台に灯りが点くのを待つ。日没を過ぎて相当暗くなっても光は来なくて、『緑の光線』(1986) のDelphineの気分で待って、光が見えたときには泣きそうだった。あんなに小さく光って、でも小さいから/小さくてもはっきりとわかる。それは360度回り続けていて、その様子はこちらにはわからない - こちらにずっと光が来ているわけではない。こちらから見るとゆっくりと同じリズムで明滅を繰り返している。でも間違いなくこちらに届いているなにかがいかに大切なものか、ということ。 波の押して引いての干満と同じように。
(よい灯りだったな、ってしみじみして、帰りの電車でTLみたら東京は消灯8時とかいうニュースでもちきりで、ばっかじゃねーの、って思った)
夜行列車は21:55発で05:07にパディントンに着くやつ。 寝台車もあるのだがそれは満員で取れなくて、あるのはふつうのリクライニングもしない椅子席で、西海岸から出張でNYに戻る時の飛行機便を思い出した(あれも夜22時発で朝の6時くらいに着いた。時差があったけど)。西海岸からの便の場合、エコノミー3席分を独占できるとそこに横になれて楽だったのだが、電車のは2席で、その幅は中途半端で不自然な格好で横になったり窓にずるっとなるしかなくて、でも疲れていたのか寝る → 体が痛くなって起きる → 姿勢を変えて寝る、を繰り返し、3回くらいへんな夢を見た。そうやって落ちて、最後に目が覚めたら周りに誰もいないので、え? って時計を見たら6:40だった。どっかの車庫に入っていたらどうしよう、って慌てて外にでたらいつものパディントン駅だった。 外の世界はみんな死滅していた.. でもよかったのにな。 それにしても到着して1時間半、寝ているやつは放っておくのね…
iPhoneによると12.5マイル歩いて、131階分登り降りしたって。先週のがきつかったんだけどな.. ていうかもう懲りてあと3年は運動しないとか言ってたくせに。
4.23.2021
[film] Promising Young Woman (2020)
4月16日、金曜日の晩、Sky TVで見ました。なんかTVではふつうにがんがんリピート放映している。
昨年、英国の一回目のロックダウン終了後の映画館で予告がかかっていたので、もっと早く見れると思っていたのに結構時間が掛かって、気が付けばオスカーにノミネートされていたりBAFTAでもオリジナル脚本賞とかOutstanding British Film of the Yearとか獲っちゃったりすごいことになっている。チープなB級の佳作 – ざっけんじゃねえよくそったれー 以上。でいいのに、とか。
作、監督はこれが長編作デビューとなるEmerald Fennellで、Margot Robbieがプロデューサーとして入っている。Variety誌の批評家が主人公の役はCarey MulliganよりもMargot Robbieの方が相応しいのではないか、と女優の外見にまで言及したことで謝罪騒ぎにまで発展したの(ちゃんと読んでいないのでどっちがどう、については保留)は記憶に新しい。こういうところも含めて各方面にいろんな議論を呼んでもおかしくなさそうな作品。
Cassandra - Cassie (Carey Mulligan)はバーで酔っ払ってぐでんぐでんで制御不能になっているところに声を掛けてきた男を引っかけて(男性からすると彼らが引っかけて)、部屋に招かれてコトに及ぼうとしたところで素面になり「なにやってんだおら」って恫喝して脅迫して、というのを繰り返してノートに記録している。
彼女は有望かつ優秀な医学生だったが、在学中のパーティで同級生のAl Monroe(Chris Lowell)にずっと一緒にいた幼馴染の親友Ninaをレイプされ、それに続く自殺で失って - 映画のなかではNinaとの具体的な思い出もレイプという言葉もそれらの映像も一切出てこなくて、Cassieの口から語られるのみ - 彼女はその後に大学を辞めて、カフェのカウンターでバイトをしながら、事件に関わった連中 - 加害者の男子だけでなく、現場で様子を傍観していた同窓生の女子も、Ninaの訴えを証拠不十分として却下した医学部の学部長(女性)も、Ninaに嫌がらせをして告訴を取り下げさせたアルの弁護士 (Alfred Molina)も、それぞれのやり方で – なかなかひどい – 痛めつけて踏んづけていく。
他方で同居している両親はずっと独りでいるCassieを心配しているし、Ninaのママ (Molly Shannon)ももう忘れてあなたの道を行って、というし、偶然再会した同級生で小児科医のRyan (Bo Burnham)とはよい関係になりそうだし、もういいか.. になった辺りで、会って過去を掘り返して酷い目に遭わせてやった同窓の女性が暴行の現場を撮影した携帯の映像を持ってきて、そこにRyanの姿を見つけた彼女は..
みんな揃って加害者をくそ擁護して「正論」を振りかざしてCassieだってひどいじゃないか、とかぴーぴーわめく卑怯者が群れをなすのが容易に想像できる(いまのにっぽんだ)が、なにが正しいのかとか正義なのかとか、そういう問題提起をしたい映画ではない気がして(もちろんしたい人はどうぞ)、幼馴染を殺されてブチ切れたPromising Young Womanがいかにひとりひとりを血祭りにあげていくのか。 Quentin Tarantinoがオトコのねちっこさで嬉々として練りあげる(みんなかっこいい! って喝采したりする)復讐のドラマとは別の角度で、絶望の底に叩き落されたひとりの女性が(そこから這い上がるのではなく)がむしゃらに走り抜けようとするその突端を淡々と追っかけている気がした。見たけりゃ傍聴券でも貰ってその辺で見てな、って。
おそらく両親が用意した高校生時代の状態のままで時間が止まっているCassieの部屋のインテリアも、「復讐」に向かう時の彼女の装いもメイクも、もうすでに(Ninaとともに)彼女も既に死んでいることを示している気がした。Ryanとの出会いはほんの少し彼女を生の方に向かわせてくれるかに見えて、それが実は… 地獄っていうのはこういうどこまでも抜けられないどん詰まりの事態をいう。 だからせめて、みたいなラスト。
あと、こういう話は今も過去もいくらでもあったんだろうな、とふつうに思わせてくれる感があるって、なにがどうなってきたからなのか。果たして10年前、20年前にリリースすることが可能だっただろうか? これまでもレイプに対する復讐劇はあったけど、これは痛手を負って”Promising”も”Young”も剥奪された白人女性が白人社会でどうやって生きていこうとするのか、そういうドラマ。
Harley Quinnよか数段苛酷できつくて、ここのCarey Mulliganはすばらしいと思った。
夕方のBBCでLes McKeownの訃報を伝えている。スコットランドっていうところにはイギリスとは違う文化があるらしい、って知ったのはこのバンドあたりからだったかも。
4.22.2021
[film] Starlet (2012)
4月14日、水曜日の晩、アメリカのMUBIで見ました。
“The Florida Project” (2017)の、”Tangerine” (2015) – 未見 - のSean Baker監督作。日本はビデオスルーらしく、邦題は腹が立ったので書かない。酷すぎる。恥を知れ、だわ。
冒頭、ぼんやりしたベージュの壁紙のようなのと黄金の藁みたいのがちらちら映っていて、それが主人公Jane (Dree Hemingway)の部屋と寝起きでぼさぼさの彼女の髪の一部であることがわかる。彼女はカリフォルニアのサンフェルナンド・バレーで友人のMelissa (Stella Maeve)と彼女のBFのMikey (James Ransone) – ふたり共終日ビデオゲームばかりやっている - の家の一部屋にチワワのStarletと一緒に間借りしていて、なんも気にせずにぼさぼさの状態で起きあがるとそのまま外に出てヤードセールで買い物したりしている。
ある日、Janeが入口がぼうぼうの木で覆われた一軒家のヤードセールでおばあさんから魔法瓶を「返品不可だからね」って念を押されて買って、家で使おうとしたら瓶のなかから輪ゴムで丸く束ねられた$100札の塊がゴロゴロ出てきて、なにこれ? になる。 棚ぼたで使っちゃえ、って少し使ってみてからやはり気になったのかおばあさんのところに戻ると彼女はめちゃくちゃ不機嫌で返品できないって言っただろ、って扉をびしゃんて閉めて追っ払おうとする。その言い方やり方がなんか気になったので、スーパーの出口で彼女を待ち伏せして一緒に帰ったり、彼女が週末に通っている町のビンゴ場に出かけていったりする。
おばあさんの名前はSadie (Besedka Johnson)と言って、今は身寄りもなくギャンブラーだった夫に先立たれてからずっと一人で、というようなことを不機嫌の合間に目を合わせないでぽつぽつ喋ってくれるようになるのだが、魔法瓶のお金のことはどうやら全く記憶にないらしい。でもその件とは別にJaneとSadieはだんだん距離を縮めていって、Sadieが夫と行ったという廃墟になっている動物園に行ったり(このシーンすてき)、一緒にSadieがずっと憧れていたパリに行く計画を立てたり、互いに互いのことをどう、って言うわけではない/言うほどのものではない、茶飲み友達のような仲になっていく。
そんなことをやっているJaneはなにをしている人かというとポルノ女優で、撮影する場面も描かれたりするのだが、極めてクールにただのお仕事として淡々とやっていてスタッフからの評判もよくて、同居しているMelissaも同じプロダクションにいてこちらは態度が悪いってクビにされたりする。でもJaneがその仕事をしていることがSadieとの関係に絡んでくることはない。 せいぜいどちらも自由時間が沢山あって、その時間とそこでできることを楽しもうとしている、とかその程度。
そのうちにMelissaがJaneの(Sadieの)お金をたまたま見つけてしまったり、Starletと留守番をしていたSadieがStarletを見失って強い陽射しのなか泣きながら探しまわったり、いろんなことがあって、ふたりはそれぞれお互いに言えないことを抱えた離れられないふたりになっていくの。
“The Florida Project”でも描かれた、どうしようもないけどこれしかないのだ/これでいいのだ、っていう腐れ縁のツヤをもった輝きとその渦に見ている我々も巻きこまれていくのだが、あの映画がFlorida郊外の煤けた陽光に満ちていたのと同じように、この映画もカリフォルニアのからからした白い光に溢れていて、陰鬱な老後や先の見えない人生の暗さからは程遠い。その光と共にあれこれ忘れて真っ白になって構わないや、になりそうで、だからこのふたりはこんな仲になれたのかもしれない、とか。
でも、“The Florida Project”もそうだったけど、お願いだから犯罪とか事故に巻きこまれたりしないで(強い太陽が呼び込む邪悪ななにか、という妄想)、っていうところではらはら怖くてしてしょうがない。今回は特におばあさんと犬で、SadieだけじゃなくてチワワのStarletもおそらくしおしおの老犬みたいなので(かわいいけど)、突然倒れちゃったりしたら、という恐怖が隣り合わせで。
最後、ふたりはパリに向かうために空港に車を走らせる。この時点のふたりの想いはそれぞれに微妙で複雑で、でもなんかうまく言い出せなくて言葉少なくて、Sadieは彼女の亡夫の墓に寄ってほしい、って頼むの。ここでどんなことがあったか。このあとに二人はどうしたのか、とか。とてもよいエンディングだと思った。
Jane役のDree HemingwayさんはMariel Hemingwayの娘さんなのね。で、Sadie役のBesedka Johnsonさんはこれが映画初出演で、これ一本だけ撮って、2013年に亡くなっている…
音楽はぜんぜん知らない静かめのエレクトロみたいのが多くて悪くないのだが、今ならLana Del Reyあたりがとても合う気がする。
箱詰めの手前の、本棚の上とか手前に積みあがっている山を取り崩す作業に取り掛かって、こんなところにこんなものが、とか、これはどこで手に入れたのかしら、大会を始めている。このへんがまだ余裕で一番楽しくて、これが当日になると適当につっこみ始めてごめんもう二度と引っ越しなんてしないから、になるの。この二度としない、を何回やっていることか。
4.21.2021
[film] The Frightened City (1961)
4月13日、火曜日の晩、Amazon Primeで見ました。
60年代初のロンドン – SOHOからWest Endの界隈でギャングが跋扈する地下世界を描いたBrit Noirの古典で、ジェームズ・ボンドになる前のSean Conneryが出ていることでも有名な作品。邦題は『殴り込み愚連隊』 - あんま殴り込まないし愚連隊でもないけど。
いろんなお店から用心棒代を定期的に頂戴して、これに従わないお店は嫌がらせでぐしゃぐしゃにする、っていうのを裏の生業にしているクラブオーナーのHarry (Alfred Marks)が、お金持の会計士Waldo Zhernikov (Herbert Lom)と組んで、更にきっちり儲けられるようにギャングのボス5人を集めてシンジケートを作ってそうやって得られた収入を均等分けにするビジネスを考えて、ギャングのボスたちは合意する。
もちろん警察もこの動きを感知して警部のSayers (John Gregson)を取り締まりにあたらせて、ギャング側でもムダなく動けるようにイキのいい若者Paddy Damion (Sean Connery)を雇って周辺の見回り立ち回りにあたらせる。PaddyはWaldoのオフィスにいた移民の女性Anya (Yvonne Romain)に惚れて..
ストーリーにうねりがあったり、でっかい激突の山場や凄惨な殺し合いがあったりするわけではなくて、オーソドックスなアンダーグラウンドのギャング vs. 警察の押して引いて群れて散ってを、スウィンギン・ロンドンの盛期へと向かうロンドンの盛り場の瞬きとそこに見え隠れするあれこれを、バーからクラブから路地裏からいろんな明るさと闇の間に浮かびあがらせる。ひとりひとりの俳優の顔つきも含めてとても後に残る。実際にこんな人達がうろうろしていたんだろうな、って既に知っている気がする顔たち。
Sean Conneryは表情の作り方とか余裕たっぷりのぴっかぴかに(もうヘアピースを付けているらしいが)出来あがっていて、女性に対する立ち回りも含めて既にじゅうぶん007ぽい。つまり007というのはこういうアンダーグラウンドから湧いてきたあんちゃんに先端のスーツと銃器類を持たせただけなのではないか、って。
ロンドンの繁華街のSOHOとかWest Endって映画ではいろんな描き方をされてきて、このエリアに根付くのはギャングとかやばいのばかりではなく、アートとかファッションとかゲイカルチャーとかカフェカルチャーとか、路地裏の、穴倉の奥の方から表通りのカジノとかクラブまで、その成り立ちと集まってくる人々に応じたいろんな表情があって(ということを見たり聞いたり読んだりして知った。これらを総合して解説した本ってあるのかしら?)、これらは当然他の都市や地域とは異なる独特の発展(と言ってよいのかどうか)をしてきている。それがその都市をそういうものとして形づくる。
以前、Michael Caineが彼のドキュメンタリー上映後のトークで、60年代初めのロンドンには本当になんでもあってやろうと思えばどんなことでもできたけど、それらをすべて潰してしまったのがドラッグの登場だった、と語っていたのを思いだしたり。
ノワール系の映画だと“The Naked City” (1948)のJules Dassinがあの映画の手口をロンドンに持ち込んでRichard Widmark主演で撮った“Night and the City” (1950) とその原作のGerald Kershによる小説(1938)を見たくて読みたい。“The Naked City”のNYがまだ微かに残っている(Criterion Channelに短編ドキュメンタリーがある)ように、“Night and the City”のロンドンもまだ辛うじて残っているらしい。スポーツ用品店とかスニーカー屋ばかりがなんであんなにいっぱいあるのか、とか少し疑問だけど。
でも最近の - Guy Ritchie以降というべきか - ロンドン(& 英国)を舞台にしたやくざ、ギャングものはなんかあまりに野卑で男臭くて、クラブでは必ずストロボがびかびかで音楽がどうどうやかましく鳴ってて、暴力描写も痛そうなのばかりだし、とても苦手なのだが、あれらってなんでみんな見たいの? とか。でもこれらも40-50年経てば、この時代の都市の記憶として語られることになったりするのだろうか。
昭和の時代のやくざ映画とかに記録されていた東京や大阪のネオン街や路地裏がいまどんなふうになっているのか、考えたくないくらい全てどこかに消えてしまって、そんな惨状なので後の時代の映画にはろくなのがない - 画面にばーんと出た瞬間にそれがどこの都市なのかわかんないのって、それだけでテンションが半減する気がする。
こんなふうに映画を見たり絵画や写真を見たりして、ロンドンを去りたくないようばっかりやり始めるの。NYから戻るときもそうで、これを続けていると何を見てもここやあそこを思い出してしょうもない、になる。
4.20.2021
[film] Conte d'hiver (1992)
4月11日、日曜日の昼、Film ForumのVirtualで見ました。
ロメールの「四季の物語」を順番に見ていくシリーズのふたつめ。英語題は”A Tale of Winter”、邦題は『冬物語』。
冒頭、盛夏のブルターニュの海岸でFélicie (Charlotte Véry)とCharles (Frédéric van den Driessche)がとても楽しそうにキスして抱きあって写真を撮って、などをしてて、別れ際に帰ったら手紙書くから会おう、ってFélicieに住所を貰ったりしている。
そこから5年後、12月14日 金曜日から新年にかけて、ベルヴィルで母 (Christiane Desbois)と、あの夏にCharlesの間にできた娘のElise (Ava Loraschi)と一緒に暮らすFélicieの日々を追っていく。Charlesからの手紙は結局届かないまま彼女はひとりでいるらしい。
彼女が勤務しているMaxence (Michel Voletti)の美容室に行くと、彼はここを畳んで彼の地元のヌヴェールに帰って店を開く予定だという。離婚協議していた妻とは話がついたので一緒に来ないか、というのでその週末にヌヴェールに行って準備中の店の場所をみて彼と過ごして行くことに決めて、並行して付き合っていた図書館司書のLoïc (Hervé Furic)にはさよなら、って告げて(”I like strong men, not bookworm”だって.. )、Eliseを連れてMaxenceのところに向かう。
のだが、行ってみると彼女たちの住むところは店の上階で落ち着かないし、開店直後のせいかMaxenceは慌しくてあまり相手をしてくれないし、そのくせ「マダム」って呼ばれてしまうし、Eliseはつまんなそうにしょんぼりしているので、結局3日くらいでパリに戻ってきてしまって、じゃあLoïcのところに戻るかというとそうでもなくて、(Loïcによれば)パスカルとかプラトンを経由して(そんな議論は知ったこっちゃないけど)わたしはやっぱりCharlesを待つのだ、現実的でないかもしれないけどそれしかできないのだ、と。
この後、Félicie はLoïcに誘われて町のシアターにシェイクスピアの『冬物語』を(やや渋々)見に行って、そこで5幕のハーマイオニーの彫像がかの「信じる力」によって動き出すところを目に涙を浮かべて見つめて、ああこれなんだわって感動していたら、やがてバスの向かいの席にCharlesを見つけてしまうという - しかも彼の隣には『緑の光線』(1986) のMarie RivièreがDora という名前でいたりする。(彼女はわかっているわよ、っていう顔をする - 気がした)
CharlesはDoraは恋人でもなんでもなくて、結婚もせずにずっとFélicieのことを思っていたというので結果はよかったよかったになるのだが、でもよかったねえ、のハッピーエンディングで締まる信じるものは救われるという諺とか格言のお話しではなくて、『美しき結婚』 (1982)のようにどこまでも理想の結婚相手を追い求めるのだ、という話でもなくて、彼女がCharlesとLoïcとMaxenceと付きあいつつもなぜCharlesのことをずっと、だったのかその理由がどう、ということでもなくて、彼女がそれを自分で決めて貫いたクリスマスと年の瀬、そこだけなのではないか、という気がした。
夏や春のイメージが多いロメールの映画のなかで、冬のというとやはり『モード家の一夜』(1968)が浮かんで、あれも運命的ななにかを強く信じる主人公のJean-Louis TrintignantがMaud (Françoise Fabian)とFrançoise (Marie-Christine Barrault)のふたりの女性の間で悩み、そこにキリスト教だのパスカルだのが絡んでくる話だった(気がする)。 こっちでは性別が変わって、子供のできる順番が違っていたり。
もういっこ、シェイクスピアの『冬物語』にあったメタシアター的な構造は、ここではFélicieと3人の男性とのそれぞれの関係のなかで、例えばクリスマスや新年を共に過ごす「家」とか「一家」のありようを対象化しているところに出てきているように思えた。それはやはり冬に起こること - ほんの暮れの2〜3週間の間に - で、そういうのの積み上げで世界は出来あがってきているのだ、って。
個人的にはFélicieに都合よく使われていた(ように見える)Loïcは幸せになれたのだろうか、っていうあたりが気になる。
18日の日曜日は、かつてない規模と重度の筋肉痛 - まだこんなに筋肉だの筋だのに覆われていたのか恥知らず! - で30分くらいかけて起きあがり、でも予約してあったので、館内ツアーを再開したShakespeare's Globeに行った。ここはオープンエアだからツアーができるのね。昨年こそは行って演劇見よう、って思っていたのに結局間に合わなかった… って泣いてもしょうがない。 まだ舞台には最後の公演「真夏の夜の夢」の飾りが残された状態で、ツアーそのものは約50分くらいにオリジナルのグローブ座の話から当時の観客のことからシェイクスピア演劇そのものにも触れ、舞台の上から上の方の椅子席まで連れていってくれて、すばらしくコンパクトにまとめられていたのでおすすめ。
4.17.2021
[log] Top Withens
もう自分に残された時間はあまりなくて、でも国を跨いでどこかに行ったり飛行機に乗ったりすることは未だ許されていないのでどうするかというと英国内でいつかは行こうと思っていて行けていなかった場所を地道に潰していくしかない作戦をはじめる。もちろん普段の日は仕事もあるし引越しの箱詰めもあるのでなにが地道だ、とかどこまで足を伸ばせるのかとか、なんとも言えないのだが、やってみよう。
こうして先週の土曜日はNorwichに行って大聖堂を見て、行きたかった本屋(The Book Hive)は開いていなかったので外から眺めただけで、更に電車に乗って昔の観光地 - Cromerのビーチに行って北の暗い海を見つめた。
今週 - 今日は、長年のなんとしても案件だった嵐が丘のHowarth と小説で描かれた原野ひと揃えを見て歩いてきた。最大の懸念はお天気で、崩れて寒いと頭いたくなるし、でも暑いのは苦手で嫌だし、でもそれを言っていると延々行けなくなるのでこの日だって決めたら快晴で天気よすぎて雰囲気が.. でも贅沢いわない。
電車を乗り継いで更にバスに乗ってHowarthの町に行って、ブロンテ姉妹の生家だった博物館はまだクローズしていたけどショップは開いていたので地図 - ちっとも役に立たなかった - を買って、ここから歩いてTop Withensを目指す。はじめは原野の端っこだけみて触ってこれがそうかー、ってわかればいい程度のつもりでいたのだが、結局どうせ行くなら… になってしまう弱さ。
天気の次の懸念は自分の体力で、とにかくここ1年、運動みたいなことは一切やってこなかったし、その前からだってずーっとなんもやってこなかったし、運動に必要となりそうな持久力と耐久力は本屋・レコ屋巡りと美術館廻りとスタンディングのライブとたまに食物を求めて並ぶ、これらのため「だけ」に最適化されてきたので、この状態で吹きっさらしの原野を歩いたらどうなるのか、わかんなかった。まあ広義の本漁りとアート探訪ということにすればがんばれるかもな、ってヒトゴトで。
博物館を出たらもう横の敷地で羊がわあわあ鳴いてて、ああ羊の国だったのだわと思いつつ、延々続く畑路をどうするこれ、とか思いながらまずはBronte Waterfallに向かって歩きはじめたのだが、そこまでの微妙な畝りになだらかだったり急だったりの高低、岩と砂利と泥のミックスからなる獣道のような足回りに脚がぐだぐたになり、ほうら言わんこっちゃ、になったのだがここから引き返すのはそれはそれで面倒な気がしたので(←墓穴)2分くらい休んで、次のTop Withensに向かうべく滝の上の方に登ってみたら、案内板には1 mileとかあるのにTop Withensがうーんと遠くに虫みたいにちらちらしていて、あーしぬかも、って思いつつもそこに向かうしか道はない。
天気がよいので人が出ているかと思ったがそんなでもなくて、彼方にぽつぽつ、程度。前を行くひとが消えたり現れたりするのは高低差があるからよね、とか考える余裕があった頃はまだよくて、なんでただのばーんと広がる原野にしか見えないのにこんなに登ったり降ったりするんだ、とか、なんでこんなありえない平原の奥に農家(の跡)みたいのが建ってるんだ、とか、こんなんじゃ一家そろって荒むわけだわ、とか呪いの言葉を吐く余力もなく、登りきる前に倒れて運ばれたりしたらみっともないな、と思ったことだけは憶えている。
とにかく時間をかけてぼろぼろの状態でTop Withensにはたどり着いて、寝転がって2年くらい前に賞味期限の切れてるカロリーメイトを水で流しこんで、草の間で少し落ちて(気持ちよかったー)少し回復した気になったので帰ることにした - 帰るしかないだろ。
歩きだしてから帰りの経路をよく考えていなかったことに気づいたがみんなが歩いていく方にいけばよいのでは - あと同じルートで戻ってもつまんないし往きは相当きつかったし - ってヒースやいろんな草の茂みの中を歩いたり羊と睨みあいをしたり - 角があるやつであの目で睨んでくる - していたらあーらふしぎバスが通っている通りに出たのでバスがくるのを待ってそれに乗ってHowarthに戻った。
景色はとにかくでっかく横斜め方向に広がってくれるので気持ちよいのだが目先足先は草ぼうぼうだったり泥ぐしゃだったり岩だらけだったり酷くて意地悪で、ここに小説や映画で描かれたような風ぼうぼう雨ざあざあの横殴りがやってくると、間違いなく誰かのせいにしてみたり葬ってやりたくなったりするだろうな、って。例えばこういうどうすることもできない理不尽な力に振り回されるようなところで文学の想像力が育まれる、ていうのはとてもよくわかる。というかこの場所であんな物語を創造したのってやっぱりすごい。この驚異の前にはどんな映画化の、映像の力もかなわないのではないか。
iPhoneの計測によると11マイル歩いて、88階分登ったって。 もうあと3年くらいは運動しないことに決めた。