17日、火曜日の晩、MetrographのVirtualで見たドキュメンタリー。
身も凍るような真実を明らかにしてどうだ! っていうより薄っすらわかっていたことを事実の積み上げと聞き取りから表に出して(政府まで行って)、この明らかにやばい事実がどんなふうに我々の生活に影響するのかをクリアに提示する。 AIやDXが暮らしや経済をより良くするって本当なのか、なにがやばくてどこに注意しなければいけないのか、等々。
MITにいて、後程Algorithmic Justice Leagueを立ち上げるJoy Buolamwiniさんが主人公で、アフリカン・アメリカンの彼女はPCの顔認証で自分の顔がたまに認識されないことがある一方、白いマスクを被るとすんなり認識されることに気付く。なんでだろ? と顔認識をやっている各社に人種(カラー)別男女別の顔認証の認識率のデータを請求してみたら、どの会社のも認識率にバラつきがあり、一番高いのが白人男性のそれで、一番低いのがカラードの女性のそれだった、と。どうしてかというと、顔認証のアルゴリズム(コード)が白人男性のそれを中心として組まれている – そういうバイアスが掛けられているからである、と。
映画はJoyさんだけでなく“Artificial Unintelligence: How Computers Misunderstand the World”を書いたMeredith Broussardさんや“Weapons of Math Destruction”を書いたCathy O'Neilさんの協力を得ながら- こうして次々に登場する女性たちの活躍がすばらしい – この事実を暴いて、これがどういう社会をもたらすのか、その危険性とここまでの経緯を示す。そもそもAIの父とか言われるダートマスの10人って全員男性だし、AIリサーチに従事する女性の割合は14%以下って、女性の目が全く入らない男性中心のやり方考え方で組みあげられてきた仕掛けである、ということは頭に入れておいた方がいい。(いや、今の社会の成り立ちからしてそうじゃん、ていうのはそうだけど、そんなこと言っても始まらない)
この仕組みがもたらす悪い例として突然顔認証のロックシステムが導入されて棟に入れなくなる住民が続出したブルックリンのアパートとか、これまで何度もいろんな賞を受賞してきたヒューストンの小学校の教師のレーティングのスコアが突然悪くなったりとか、ロンドンでは街角の監視カメラで全く身に覚えのない人がシステムに引っ掛かって職務質問されたりとか。
いまのAIにはいろんなタイプがあるし、機械学習のアルゴリズムにもいろんなのがあるのだが、ここでは各論に入らずにアルゴリズムを積み重ねられたデータをベースに予測したりスコアリングしたり判断したりするためのロジック、として紹介していて、重ねられたデータが偏っていると精度は落ちるしその結果もぶれる。問題は入り口の仕組みがブラックボックス化された状態でPCカメラの顔認証から検索エンジンからクレジット・スコアリングから既にいろんなところに組み込まれて社会で活用されて(使うことを強いられて)しまっていること。いきなり問題が出てなんだこれ? って掘っていくとすみませんそれは仕様です、とか言われてその仕様ってなに? と更に掘ると開示できないアルゴリズムです、になっていたり。
この特性を使って国民を統制しているのがアメリカと並ぶAI大国である中国で、この国はAIによるモニタリング・スコアリングをする/していることを国民に明確に宣言して、この国でちゃんとした社会生活を送りたければ規範に従順なよいこになることだ – AIはぜんぶ見ているぞ、ってやってる。
アメリカや他の国は、当然そちらには行かずに市場原理に任せて推し進めようとした訳だが、上に書いたような問題が確認されて、これはシステミック・レイシズムを助長する可能性もあることだから巻き戻さないと、とJoyさんたちのような人達が動き始めたり、英国ではBig Brother Watch – 勿論オーウェルから来た名前 – といった人達が活動をしている。
でも監視カメラはテロの防止や犯人の特定に役立っているし、AIは仕事の改善や効率化に役立っているんじゃないの? 必要なんじゃないの? という側面は当然ある。問題は、アルゴリズムがどういう仮説やシナリオに基づいてデザインされたのか、それがどんな結果をもたらすものなのか何の測定も検証もされないまま気が付いたら社会のインフラやプラットフォームに組み入れられて稼働している、ということなの。あと、これらの仕組みはデジタル上にぜんぶあるので、悪いことをしようと思ったらデータも含めてコピー悪用とか改竄ができて、しらっと人を殺す基盤にもなりかねない。そのガードはどこまでできているのか、とか。
AIにおける倫理の問題 – 特にAIがしてはいけないことは何なのか? って大昔からSFではテーマになってきたことが目の前に現れてきている。映画の話題から少し離れるけど、アメリカと中国の間に挟まれたEUがなんで個人情報保護にあんなに過敏なのかというと、この点 - 自分のデータがどこでどう使われるべきか - を初めからクリアにしておかないと、こういうシステムを起点とした差別や分断が起こりうることを予見していたから。自分のデータは自分のもので、他者やシステムに勝手に使われるべきものではない。これだけアメリカのプラットフォームが席巻している状態では結局やられてしまうのかも知れないが、言うべきことは言うし守れるものは社会として、社会が守るよ、と。
にっぽんは... お上が施しを与えるみたいに振りまくこの手のサービスを有難く頂戴する民、っていう土壌があって、その隣に印鑑とか戸籍とか恐竜みたいなのもいて、そこでのAIはアメリカ市場型でぶちあげて勝手に好き放題されて、問題がでると中国型に開き直る – それは排外主義と連動して隣組に並ぶ新たな恐怖ムラを形成するに決まっているし、もうできているのだと思うし。だから見通しはすごく暗い。デジタルの上で人権はどうあるべきか、守られるべきはなんなのか、の議論なしで - リアル社会ですら有形無形の圧やらバイアスまみれなのに、マイナとかデジタル庁とか、ちゃんちゃらおかしいわ(←おかしくない。まさに地獄)。
こういったことを視点も含めてとてもわかりやすく整理してくれる女性による女性のための映画だと思った。 いや、女性でなくたって勿論必見だよ。
アメリカの大統領選は、ようやく笑ってよい段階まできたのかしら? まだ油断できないのかしら?
この4年間、あれの顔を見て声を聞くことすら耐えられなかったので、CNNから遠ざかっていた。ブッシュの8年間以上にしんどいものがあった。 それがようやく終わってくれるのかー。(まだ冷凍庫から出てきたばかりで心の底から笑えてない..)
11.24.2020
[film] Coded Bias (2020)
11.23.2020
[film] Pauline à la plage (1983)
11日、水曜日の晩、MUBIで見ました。
Éric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの3つめ。英語題は”Pauline at the Beach”、邦題は『海辺のポーリーヌ』。 ロメールの名前が日本に大々的に入って来た最初の作品で、当時おしゃれな男女はみんな行くべし、みたいに紹介されていたので、ひねくれて自分が見たのはもう少し後になった。ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞している。
今回の箴言はクレティアン・ド・トロワの"Qui trop parole, il se mesfait" - “A wagging tongue bites itself" - 「言葉多き者は災いの元」 - そりゃそうだな、しかない。
ノルマンディの方の海辺の別荘にティーンのPauline (Amanda Langlet)といとこで年長のMarion (Arielle Dombasle)が車でやってきて滞在する。ふたりでこれからのバカンスの恋の展望や見通し、野望などについて語り、海辺にいくとMarionはウィンドサーフィンの先生をしているEx.のPierre (Pascal Greggory - わかーい)と再会し、Pierreの近くにいた中年ハゲのHenri (Féodor Atkine)と出会って、そのまま4人でディナーをしてまた恋愛について語りあって、更にカジノに踊りにいって、PierreはMarionとよりを戻そうとするのだが、結婚も含めて過去の失敗に慎重になっているMarionにはそう簡単には巻かれない。
翌日以降も未練たらたらMarionを追っかけるPierreと、大人のHenriに興味があるっぽいMarionと、女ならなんでもいいらしいHenriに、浜辺でPaulineを見初めた青年Sylvain (Simon de la Brosse)が加わって、浜辺とHenriの家とMarionの別荘を中心にくっついたり離れたり逃げたり隠れたり追っかけたり嘘ついたり、バケーションで夏だし海にいるんだから恋するしかないだろ、っていうぎらぎらした連中が輪になってダンスしていく中、Paulineはなんか違うんじゃないか、って思い始めて…
Éric Rohmerの監督作でタイトルに女性の名前が入っているのはそんなに多くなくて、これと、“Four Adventures of Reinette and Mirabelle” (1987)と“Claire's Knee” (1970)くらいではないかしら。(“Chloe in the Afternoon” (1972) は原題がちがうから外す)
で、これらはみんな恋を知る前の女の子(たち)に訳知り顔のやらしい大人のおっさん(たち)が近寄っていくような、見る人が見たらはらはらどきどきのトーンのやつで、やーねー、って。
あと、喜劇と箴言シリーズの中では、この作品だけ唯一、仕事 vs. バカンス vs. 家庭 x 恋愛 というロメール四大元素のうち、仕事が一切入ってこない。生きるため、生活するために誰もが奴隷としてやらなければいけない仕事からフリーになったところで恋と、その可能性とか歓びなどが語られる。(『緑の光線』はこれに近いけど、仕事の影というか呪いは常につきまとう) そしてそこに - 夏の恋に登場人物全員がフォーカスしたときに起こる悲劇というか喜劇というか、だからと言ってどうにもならないんだわこれが、という…
登場人物が全員海辺のゆるい邸宅にいて、割とすることがなくて恋の手前でだらだら回したり回されたりする話し(そして最後に車で去る)というと、“La collectionneuse” (1967) - 『コレクションする女』が思い浮かんで、あそこにあったやーらしく高慢ちきな男性目線を女性(少女)の側に転回させるとこんなふうになるのかもしれない。どっちにしても極めていい加減で適当なこと言ってらあ、ってみんなが突っ込みたくなるかんじは満載なのだが。
突っ込みどころがいっぱいで、海にいって泳いでごろごろするか、テーブル囲んで食事したり飲んだりするか、ベッドでいちゃつくか、ひとりで本読んでぼーっとするか、全員この4地点をぐるぐる回ってくっついたり離れたり、という点ではホン・サンスのに近いところもあって、目的のためには手段を選ばず.. みたいなやらしい男共がいっぱい出てくるところなんて特にそう。
でも最後は店じまい〜 のようにすたこら逃げるかのようにして終わるのはよいの。 恋なんていらない。 彼女は来年も海辺にやってきた/くるだろうか、については関係者を召集して集中討議してほしい。
このまま何もなければ、BFI Southbankは3日から再オープンする予定。 12月はいろんなクラシックと、恒例のクリスマス映画特集とMarlene Dietrichだって。 楽しい映画が見たいな。
11.22.2020
[film] Make Way for Tomorrow (1937)
15日、日曜日の昼にCriterion Channelで見ました。邦題は『明日は来らず』。
監督は、同年に傑作コメディ - ”The Awful Truth”をリリースしているLeo McCarey。彼はこの作品でオスカーの監督賞を受賞しているのだが、彼自身が受賞すべきはこっちじゃなかった(got it for the wrong film)、と言っている。”The Awful Truth”も問答無用の傑作だとは思うけど、比べられるものではないけど、確かに”Make Way for Tomorrow”のがすごいと思う。
あまり映画を見ても泣かないほう(誰と比べて?)なのだが、どうしても何度見てもぼろぼろ泣いてしまうのが数本はあって、筆頭はNicholas Rayの”They Live by Night” (1948) -『夜の人々』で、そしてもこれもたぶん - まだ2回目だけど。初めて見たのは2010年に暮れにMoMAの映画部門で、絶対ハンカチ持参するように、って書いてあったのに無視していったらぼろかすにやられて、ううどうしようこれじゃ帰れない、って横とか後ろ向いたらアメリカ人もみんな同様にぼろぼろに泣いてた。
Bark (Victor Moore)とLucy (Beulah Bondi)の老夫婦が暮らしている家に既に独立してそれぞれ家庭を持っている5人の子供たちのうち4人 - ひとりはカリフォルニアで遠い - が集まって楽しく話し始めたところで、Barkがもう働いていないので、この家を手放さなければならなくなった、という。なんで突然そんなこと言うのよ、って子供たちは非難動揺するのだが、彼ら二人を一緒に引き取れる広さと余裕のある家のある子はいなくて、Barkは娘のCora (Elisabeth Risdon)のところに、Lucyは長男のGeorge (Thomas Mitchell)のところに別々に引き取られていく。
Lucyが滞在するGeorgeの家には17歳の娘がいて、Lucyが来てしまったので彼女はこれまでのように友達を家に呼べなくなったり、Georgeの妻が自宅の居間でやっているブリッジ教室の時間に現れて場をかき乱してしまったり、本人はまったくそんなつもりはないのだが、ゆっくりと息子の家族との間に溝が出来ていく。Barkも近所のユダヤ人の友人と楽しく過ごしたりしているものの、娘の家族からはやはり疎まれていて、風邪をひいて辛そうなBarkの様子を見たCoraは暖かい土地での療養が必要だからとカリフォルニアにいる娘の方に移ってもらう算段を進めて、Georgeの方も「Lucyのために」NYのアッパーステイトにあるケアホームを探し初めて、親は子供たちがどう思っているのかをそれぞれに察して、特に文句も言わずに出ていくことに同意する。 この辺は見ていてとっても辛くて奥のほうがひくひくしてくるのだが、泣くのはまだ早いの。
Barkがカリフォルニアに旅立つ日に子供たちは一同に会してお別れディナーをすることにして、でもその午後はふたりだけで過ごしたいから、と新婚の頃の思い出の場所を巡っていく。プロモーションをしていた車の後ろに乗せてもらって街中のドライブを楽しんで、思い出のホテルに着いてバーでホテルの人に当時のことを語ったら歓待してくれて、楽しくなったから子供たちの方はいいや(いいよ、って見ている方も頷く)、ってそのままホテルで食事をしてダンスをして… ここで出会う人たちがみんな天使のように素敵な人たち - ダンスホールのバンドリーダーの人とか - でふたりの思い出を暖かく祝福してくれる。
この辺からじわじわくる - 見つめ合うふたりが本当に嬉しそうで楽しそうで、心の底からその時間を慈しんでいるのがわかるから。
で、ふたりは駅のホームに向かってBarkは列車に乗りこみ、Lucyはホームでお別れのキスを... 大決壊。
さらに、ふたりがさっきダンスで踊った”A Let Me Call You Sweetheart”がふわりと被さってくると、大津波が ...
ふたりはまた会えるって互いに信じて疑わないの、でもひょっとしたらこれが最後になるかもしれないこともわかっているの。そういうとき愛し合うふたりはどんなふうに見つめ合って微笑んで手を振り、その手を離すのか。(こういうのって書けば書くほど野暮になる) いまコロナで、こんなふうに離れ離れになってしまった人たちもいっぱいいるんだろうな、って思ったら更に悲しくなって。
小津の『東京物語』(1953) にも影響を与えた作品と言われていて、あれも泣けるけど、泣けるからいいってもんじゃないし比較できるものではないのだけど、こっちのがなんかいっぱい溢れてくる。
泣いちゃうから見ろ、っていうのはいじめているみたいで嫌なのだが、この映画を見て泣くのは悪いことではないと思うの。
11.21.2020
[film] Smooth Talk (1985)
14日、土曜日の午後、BAMのVirtual Cinemaで見ました。今年のNYFFでリストア版がリバイバル公開されていた作品。
邦題はそのまま『スムース・トーク』で、日本ではビデオスルー?。
Laura Dernさんが強烈な印象を残した“Blue Velvet” (1986)のひとつ前に主演した作品で、86年のSundanceのドラマ部門ではGrand Jury Prizeを受賞している。
原作はアリゾナで実際に起こった連続殺人事件に想を得たJoyce Carol Oatesの1966年の短編 - "Where Are You Going, Where Have You Been?"で、アメリカではアンソロジーの常連で、翻訳も『あなたはどこへ行くの どこから来たの』、『どこへ行くの、どこ行ってたの?』といったタイトルでいくつかのアンソロジーに収録されている(どちらも未読)。この短編は、Bob Dylanの"It's All Over Now, Baby Blue"を聴いた後に書かれて、Dylanに捧げられている。
尚、この間のNYFFでのリバイバルの際に行われたLaura Dern(主演)、Joyce Chopra(監督)、Joyce Carol Oates(原作)という女性3名(+モデレーター)によるZoomのトークがYouTubeにはあって誰でも見れるから見てみて。
15歳のConnie (Laura Dern)は父母姉と原野の一軒家に暮らしていて、父(Levon Helm!)は寛容で、母(Mary Kay Place)はややうるさくて、姉(Elizabeth Berridge)は定番よいこで母のお気に入り。季節は夏で、Connieは友人2人とつるんで着飾ってビーチとかモールとかに出かけては男を値踏みして引っかけようとしたり引っかけられようとしたり、実際に声を掛けられると逃げたり隠れたり、夜に車でふたりきりになっても怖くなって逃げたり、そんなことばかり繰り返している。
家を出て遊びにいく際の言い訳は家族には嘘とバレてて、母からは姉と比べてこの娘は.. っていつも言われるのでたまにペンキ塗りを手伝って少し歩みよったかに見えてもその翌日には双方が同じことを繰り返して元の険悪な状態に戻る - 遊びに出たくてたまらない(けど自分内でぐるぐる回る)& ティーンの事情もわかってあげたいところだけどやっぱりムリ(これもぐるぐる)の親娘の緊張と攻防は誰にも思い当たるところがあるし、大人の世界の憧れ - 音楽がかかって男女で賑わう夜のバーガーショップとか – はとても生々しく蘇るものがある。
ここまででも十分なドラマになるところなのだが、後半、近くの親戚の家に家族みんながバーベキューに出かけてしまい、家にひとり残されたConnieのところに車に乗った男ふたりが訪ねてくる。ひとりは夜のバーガーショップで声を掛けてきた気がするArnold Friend (Treat Williams)で、もうひとりは助手席でラジオをずっと耳にあてて音楽を聴いててほぼ喋らない。
若いのか中年くらいなのか外見ではよくわからないArnold FriendはConnieのフルネームも今家族がどこにいて何をしているのかも全部知っているようで、なによりも怖いのは彼女の不安や動揺を見透かしているかのようにとにかく車に乗ってどこかに行こうぜ、と執拗に誘ってくること。なんで彼はそんなに自分のことを知っているのか、車でどこに向かって何をしようというのか、疑いがとぐろを巻いてそれらに巻かれて窒息しそうになって... 彼はそこを先回りして覆い被さってきて、いいから行こうよなんで行かないの? と。そのConnieの内の葛藤とArnoldとの息詰まる攻防ときたら閉じ込められた家での殺人鬼との闘いのようにも見える。
その舞台となるConnieの家のかさかさに白っぽく乾いた雰囲気もよくて、これってJoel Meyerowitzがケープコッドの家を撮った写真集 - “Cape Light” (1979) - 名作 - を参考にしているそうで、なるほどー。
あとは彼女のような思春期の危うい揺れが最悪の男によって連れていかれてしまったその先を描いたのがLaura Dern主演で”The Tale” (2018) - 『ジェニーの記憶』- として変奏されている、ということは強調されてよいことかも。
というわけでLaura Dernさんがすばらしいことは言うまでもなくて、もういっこ、Levon Helmの、自分内ではハッピーだしなんも干渉しないけど何が起こっているかはわかってるから、という父親役も素敵だった。
音楽はRuss Kunkel & Bill Payneの乾いたかんじがたまんないのと、Musical directorとして入っているJames Taylorの”Handy Man”が最後にこびりついてくる。
UKのトレンドにJimmy Somervilleの名前が出ていたので、え、死んじゃったの!? って見に行ったらバスキングで歌っている人の傍に寄っていって一緒に歌った、というだけだった。 お元気そうでよかった..
11.20.2020
[film] Crock of Gold: A Few Rounds with Shane MacGowan (2020)
14日、土曜日の昼、DOC NYCで見ました。間もなく英国でも見れる(当然)のだがどうしても待ちきれずー。
The Poguesの創設メンバーでフロントマンだったShane MacGowanの評伝ドキュメンタリー。監督はJulien Templeで、彼は76年にSex Pistolsのドキュメンタリーを撮っている時にそこらにいたShaneと出会い、彼に最初にインタビューをしたのは自分なのでこのドキュメンタリーは自分のものなのだ、という。その他のShaneとの対話(にあまりなっていないけど)の相手としてJohnny Depp、 シン・フェイン党のGerry Adams、Bobby Gillespie(見るからにびびっている)、コメントを言うのがNick Cave、など。ひとめ見てとっても男臭そうで、実際相当くさい。
冒頭、88年のTown & Country ClubでのThe Pogues & Kirsty McCollの”Fairytale Of New York”のライブ映像がでて、もう何百回も見ているのにKirstyの横顔が大写しになっただけで泣きそうになって(スクリーンで見てたらぜったい大泣き)、Jem Finerの姿が見えてPhilip Chevronの姿が見えて、でもこの映画の主役はThe Poguesではなくて、Shane MacGowanなの。
57年のクリスマスの日に生まれ(生まれたのは英国)、アイルランドのTipperaryで親戚もいる大家族のなかで育って、3歳頃からパブのテーブルにあげられて酔っ払いと歌をうたって6歳から酒とタバコを覚えて、最初の方はそんな家族とアイルランドの風土や文化や人がShane少年をどう育てていったのか、アニメーション等を交えて追っていく。
そこから父母とロンドンに越して(バービカンに住んでいたんだって)、Tipperaryでは詩を書いて文学のスカラシップを貰っていたのでウェストミンスターの学校に入るのだが、アイリッシュだからといじめにあって行き場を失い、酒とドラッグに溺れて放校になり、どん底にあった彼を救ったのがパンクで、Clashのギグで後にMo-dettesのメンバーとなるJane Crockfordに耳を食いちぎられて血まみれになっている写真が彼を有名にして、そこから暫くして自分のバンドThe Nips - 正式名称はThe Nipple Erectors – を始めて、短命に終わったこのパンクバンドと並行して自身のアイリッシュルーツと向き合うようにSpyderとJemと一緒に"Pogue Mahone" – The Poguesを結成する。そこから先はいいよね。
上映後のトークでJulien Templeは、バンドのディスコグラフィやライブを時系列で追って、関係者が総出でコメントを述べていくような形式 - 最近多い”rockumentary”にはしたくなかった、と強く語っていて、確かにそういう構成にはなっていない。あくまでShaneの個人史を追いながら、あの時代の英国にアイリッシュとして生き、周囲から弾かれて壊れかけた青年がパンクと出会って、パンクはそんな彼をどんなふうに受け容れたのか、が(実際には地獄だったかんじもあるけど)軽妙に、でも十分な説得力をもって描かれている。いっこ印象的だったのは、学校で除け者にされていたShaneが聴いていたのが周囲で流れていた移民の音楽 - スカだったとか。あとは文学の話 - James Joyceは勿論、Flann O’Brien にW. B. Yeats(には割と批判的)に、ふらふらしていた頃に公園で出会った浮浪者たちの話とか。
The Poguesの初期のライブの様子を見るとやはり最初の2枚までがピークだったのかなあ、88年MZA有明で我々が見てびっくりしたときは既に終わりの始まり、だったのだろうなー、というのは改めて思った。こうしてこの辺りからバンドは転がり落ちていって、横浜のWOMADでShaneはバンドをクビになる – ここがJames Fearnleyによるバンドのメモワールの出だしなのね。
エピソードで面白かったのは彼らがブレークしたElvis Costelloとのツアーの話。Cait O'Riordanを巡る攻防とか。
初期の勇ましいジャンキーっぷりと比べると車椅子に乗って身を傾けたまま終始ふがふがしている今のShaneはおじいさんとしか言いようがないのだが、よく生きてここまで来てくれたありがとう、と思った。88年のライブでやられてから来日公演はずっと通って、NYではShane MacGowan and The Popesのにも行って、どんどんだめな方に墜ちていく彼を見てきて、でもいいじゃんか、って。
映画でも触れられているけど、そして今日もまたあの箇所がBBC界隈で話題になっていたけど(どうでもいいわあんなの)、”Fairytale of New York”の歌詞ってほんとうにすばらしい。特に終盤の”I could have been someone.. “ 以降のところなんて、この映画を見てから聴くとじーん、って。 今年もこれからNYのことを想って何度も何度も聴くことになるんだわ。
11.19.2020
[film] Gunda (2020)
13日、金曜日の晩、DOC NYCフェスティバルで見ました。5回分の回数券を買って。
DOC NYCは2010年からNYのIFC Center(映画館)を中心に始まったドキュメンタリー映画のお祭りで、最初はNYの周辺を題材にした新旧のドキュメンタリーを集めて上映していて、2012年頃に現地で見ていたことがあってすごく面白かった。毎年案内だけは来るので見たいようーだったのが、今年はバーチャルでやってくれる。
いまのこのご時世、しょうもない陰謀論(陰謀じゃなくて陰謀論)ばっかりで、まとめサイトどころかメディアそのものも腐ってきていて、どうしてかというと誰もが手近のすぐに読めてわかりやすくて心地よい「現実」を求めているからだと思うのだが、そういうのの「理解」って人についても出来事についてもそれなりの時間をかけて向き合わないと無理なんだよ - ほら、ということを良質なドキュメンタリーは教えてくれる。最近自分がドキュメンタリーばかり見ているのはそういうことなのかも。
ノルウェー=アメリカ映画で、Joaquin Phoenixがエグゼクティブ・プロデューサーに入っていて、Paul Thomas Andersonが絶賛して、NYFFでも上映されていた。NYFFもバーチャルでやっていたのだが、VPNで繋ぎにいったら”Proxy経由はだめよ”って言われてしまったので諦めたの。
モノクロ(ややセピアがかっている?)の、でも解像度は高い映像で、小屋の入り口に頭だけ見せて転がっているでっかい豚さんがいる。しばらくするとその顔に被さるようにちっちゃい3匹の子豚がぴょこぴょこ現れて暴れだして、ブーフーウーかよ、とか思うのだが、この時点 - 開始約3分 - でやられる。
字幕もナレーションも音楽もなくて、彼らが”Babe” (1995) みたいに喋りだすこともなくて、小屋のなかにカメラとマイクを置いて映りこむもの聞こえてくる音を全開にして豚さんと同じように寝転がって、気分はほぼ豚か小屋に住む虫になるかんじ。寝転がっていた大豚は子豚たちのママで、暫くは授乳できーきーおしくらまんじゅうをする大小の肉の塊ばかりなのだが、いくらでも見ていられる。ママが子豚一匹を踏んづけて(早くどいてあげてよ)、その子豚は片脚を引き摺るようになるのだがそんな子豚の様子も追っていけるくらいの映像の近さと細かさ。
それから画面は木の繁みに捨てられた(?)籠から姿を現すニワトリたちの方に行って、うち一羽は片脚しかなくて、たぶんこの子たちは不要な奴として捨てられた鶏たちであることがわかるのだが、その一羽の表情とか動き – そのフィギュアの強さときたらすごい。絶対彼は自分がどういうことになっているかわかっていて、これからどうすべきかを考えて、次の一歩を(一本しかない脚で)踏みだそうとしている。まるで西部劇のオープニングみたいに。
続いては牛がいっぱいの牧場で、牛たちの顔や体にはハエがわんわんたかってすごいのだが、そのうち2頭が頭と尻尾を互い違いに縦に並んで、それぞれの尻尾でそれぞれの顔に寄ってくるハエを掃うようになって、それを他の牛たちも組をつくってなんとなく真似していくの。エコシステムの組成。 なんかすごい。
そこからまた元の豚親子に戻って、子豚たちは結構大きくなって母豚と外を歩き回るようになっているのだが、ある日車がやってきて..
すべて同じ牧場で撮られたものかと思ったら、ロケーションはノルウェー、スペイン、UKとぜんぶ分かれているのだった。 人間の姿は影もなく、声も言葉も一切聞こえてこない、字幕はエンドタイトルのみ、それでもドキュメンタリーと呼べるのか、監視カメラの映像と同じようなものではないか、と言うかもしれない。けど彼らのキュートさに粉々にされながら見ていると、「家畜」という人が作りだした「種」とは異なる生命のありようについて、食肉という古来から続いている食のありようについて、気がつけば振り返っていたりする。Joaquin Phoenixの狙いもその辺にあったのではないか。
我々はなにをやってきたのか、なんということをしてきたのだろうか、と。このシステムを変えようとかそういう話ではないし、簡単に変えられるとも思えないし、自分がヴィーガンになるとも思えないのだが、この後に彼らに起こるであろうこと(についてのドキュメンタリーは結構見ている)を想像したり、反省したり感謝することくらいはいくらでもしてよいはず。
あと、おいしい食事は本当に人を幸せにしてくれる、その横にここの豚さんたちの映像を重ねてみること、かな。
とにかく、豚マニア、鶏マニア、牛マニアの人、動物映画好きの人もそれぞれ必見。
UKやヨーロッパ諸国がこのタイミングでロックダウンに入っているのはこのクリスマスをみんなで迎えられるように/迎えたい – なんとしても。という思惑があるわけだが、仮にフルとは言わないまでもそこそこ楽しむことができるかも、となった時、食べ物をどこからどうするか、をそろそろみんな考え始めている。これまでパリに日帰りで買い出しに行っていたのだが、今年は無理そうだし(まだ希望は捨てていない)、そうなると春から夏にかけて発見した近所の八百屋や肉屋で賄うしかない。これらのお店の実力はまったく申し分ないのだが、来月のあの頃にどんなものが入ってきているか予測がつかない(基本旬のものしか置いていないから)..
11.18.2020
[film] Les nuits de la pleine lune (1984)
7日、土曜日の晩、MUBIで見ました。英語題は“Full Moon in Paris”、邦題は『満月の夜』。
Éric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの4つめ。冒頭に出てくる箴言は - “He one who has two wives loses his soul, he who has two houses loses his mind” – これ、ル・カレの『パーフェクト・スパイ』にも同じようなの出てこなかったっけ?(←確認したいのだが、本が..)
パリの郊外のアパートに恋人のRémi (Tchéky Karyo)と暮らすLouise (Pascale Ogier)がいて、パリのデザイン事務所でインターンをしているLouiseはそこにもアパートを借りていて、そこを起点にパーティに出かけたり友達を呼んだりしている。Rémiは筋トレ野郎でテニスとかもやっているので彼女が朝帰りする頃には寝ているし、互いに干渉しなくていいでしょ、と。
そうやって夜遊びするLouiseに近づいているのが作家のOctave (Fabrice Luchini)で、妻子持ちでずっとべらべら喋っていて高慢ちきで見るからにやなやつなのだが、パーティで彼が傍にいてくれることとか、彼の助言や(時としてうざい)おせっかいは、パリに遊んで生きる彼女のなにかを満たしてくれているらしい。
でもそのうち、パリと郊外の家を行ったり来たりが続いてRémiからもOctaveからもあれこれ言われて互いにぎすぎすしたり疲弊したりが嫌になったLouiseは、その辺にいたバンドのサックス奏者Bastien (Christian Vadim)を引っかけて夜の街に..
Louiseはパリにいるといろんな人が声をかけてくる、と言い、他方でわたしにはひとりになれる場所が必要、とも言い、ふたつの部屋についてもどっちも必要だ、と言いつつ、どちらにも長く居られないので往復を繰り返す。そんな居場所を失った亡命者のようにパリに滞在して満月に向かって走っていくの。
これはいろんな点で喜劇と箴言の他の5作品とは異なっている気がしてー。
まず84年という時代とパリという地域の特性が前面に出ている、ということ。Louiseの住んでいるところはパリとの対照でなにもない荒地のように描かれて、駅に近いのだけがよいところ、とか言われる。『飛行士の妻』(1981)もパリだけど、あれはパリじゃなくても成立しそうなお話しで、『満月の夜』の主役はLouiseとパリの街で、あの当時のあのファッションとチープな音楽(担当のふたりはStinky Toysの人達だったのね)と田舎モノには逆立ちしても真似できないデコールや小物のセンスがある。
そしてもちろん、主演のPascale Ogierの突出っぷり。他の作品でも女優さんはみなすばらしくて、それぞれ周りの人達とのやりとりの中で押したり押されたり泣いて泣かされ突っ走ってをしていくのだが、ここでのOgierは自分の、世界の女王としてすべてを決めて闇も光も堂々とひっかぶる、その舞台の上にいる強さ。Production DesignもCostume Designも彼女で、Renato Bertaのソリッドなカメラが捉えたパリの夜も含めてこの映画の主なところを決めてしまっている。
こうしてフロントに出てきたPascale Ogierに対する反動というか痛めつけというのか、この作品は6作のなかでもっとも暴力(SM?)的な要素と予感に満ちていると思う。後半に向かうにつれて執拗になっていくOctaveの言い寄り(ほぼハラスメント)とかLouiseとわかりあうことができないよう、って突然自分をぶん殴ってしまうRémiとか。
この辺で、ホン・サンスのことも少し思った。中心にいるPascale Ogierがこの映画のリリース直後に夭折しなければ、ホン・サンス映画のMin-hee Kimのようなミューズになっただろうか?(いや、それはまずない)
喜劇も箴言も場所や時代を超えた普遍性をもって伝えられて広がってきたもので、今回追ってみた6作(『緑の光線』だけこれから)のちっとも古びていないかんじは見事としか言いようがないのだが、この作品だけは別の意味でクラシックになっていると思った。 公園とか海辺にはない、それって満月の力なのかもしれない。