4.19.2019

[film] Ya shagayu po Moskve (1963) 

先々週の終わりに日本に行って、拘束されない時間にどこでなにをするか(そればっかり考えてた)、になって、展覧会はあんまなくて(混んでるし)、お買い物もそんなに沢山はしたくなくて(お金ないし)、じゃあどうするかというとやはり映画くらいしか思い当たらず、そんなときにシネマヴェーラって不滅で世界最強だわ、と改めて思った。やっていた特集は『ソヴィエト映画の世界』で、昨年Barbicanで見たMikhail Kalikの”Goodbye, Boys” (1964)なんて本当にすばらしかったし、まだ知らないのいっぱいあるだろうなー、って。

『私はモスクワを歩く』 - これは6日の夕方に見た。 丁度2日前に監督のGeorgiy Daneliyaが亡くなられたばかりで、その追悼もあるし。

冒頭、モスクワの空港で夫を待つ若い女性にVolodya (Aleksei Loktev)が「幸せかい?」とか聞くやりとりからしてなんか素敵で、友達を訪ねてきた彼は、地下鉄で夜勤明けのKolya (Nikita Mikhalkov)と出会って、そこから道端で犬に噛まれたり、ズボンを縫うのにKolyaの家に行って家族に紹介されたり、Kolyaの友達の結婚式とかいろいろいっぱいあって、最後は地下鉄の階段で見えなくなるまでばいばいする、ほんとに「私はモスクワを歩く」 - ただそれだけなの。

モスクワの、通り雨がさーっと抜けるかんじとか、空が遠いかんじとか、夜に町をうろつくかんじとか、モスクワはほんの少しだけ行ったりしているのであー、ってなって、それにしても”Goodbye, Boys”もそうだったけど、なんで去っていってしまうもの、二度と会えなくなるものをこんなにさらりと吹っ切って素敵に描けるのだろうか。

Dvoryanskoe gnezdo (1969)  "A Nest of Gentry"  - 『貴族の巣』

次の2本は8日の朝いちから続けて2本。料金が1本単位の入替制になって昔みたいにずーっといられなくなっていたけど、しょうがない。 どちらもツルゲーネフ原作の2本(どちらも未読)。

貴族のLavretsky (Leonid Kulagin)が長かったヨーロッパ生活から戻ってきて廃墟と化していた自分の館に溜息つきながらもここに腰を落ち着ける決意をして、それから近所のカリーチン家を訪ねて、美しい女性に成長していた娘Liza (Irina Kupchenko)と再会して、彼には贅沢に溺れてうざいからパリに置いてきた妻Varvara (Beata Tyszkiewicz)がいて、Lizaには決められた官吏の男がいるようだったが、彼女は自分と一緒になるべきだって近づいていいかんじになったところで突然死んだはずだったVarvaraが現れて、傷ついたLizaは修道院に行くと言いだし、巣には戻ったものの最後にはひとりになってしまう。 巣を中心に根を張った貴族の高慢が時間の流れとともに巣ごと根ごと腐っていく様を描いて、でも祖国だしここなんだわ、ってしょんぼりするの。 屋敷のなかも屋外の景色も服装も、1月にBunkamuraで見た展示『ロマンティック・ロシア』の世界そのままだったかも。

上映された35mmプリントは見事に焼けてまっかっかで、ちゃんとしたカラーで見たい気もしたが、これの錆びて朽ちていくかんじ、これはこれでー。

Biryuk (1978)  - 『猟人日記 "狼"』

これも35mmだった。豪雨で行き場のなくなった地主が近辺からは「狼」と呼ばれて避けられている森番(Mikhail Golubovich)の家に逃れるのが冒頭で、彼はまだ幼い娘のUlitaとその下の赤ん坊と暮らしていて母は出て行ってしまったという。狼は人間嫌いで、農民たちも彼を嫌って袋叩きにしたりしてて、Ulitaと赤子はどうなるんだろうかわいそうだよう、とはらはらしているとやっぱり..

ぜんぜん救いのない農奴の暮らしのありようが狼の目、娘の目、農民のあがき、貴族の高笑いのコントラストのなかに描かれていて、森は深くて暗くて、その強度ときたらすごいし。

ああいう世界だったんだろうな、ていうのと、でも今もあるよね、ていうのと。

久々の東京の湿度にううむ、ってなりながら視野はもう存在しないソヴィエト(の都市、貴族、農奴)に釘づけ、という食べ合わせがやや変なかんじはしたけど、ぜんぜん悪くなかった。

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