4.18.2019

[film] Az én XX. századom (1989)

11日、木曜日の午前、シネマカリテで見ました。『私の20世紀』- ”My 20th Century”。
ここの大きい方のシアターの最前列はいつ来ても気持ちいいねえ(空いていれば)。

昨年見た”On Body and Soul” (2017) の監督Ildikó Enyediのデビュー長編 - ハンガリー映画の4Kリストア版。こんなのがあったのね。

19世紀の終わり、NJのMenlo Parkの研究所で発明されたばかりの白熱灯のショーをしているエジソン – なぜかどんよりしている - がいて、空には星が瞬いていて、同じ頃ブダペストに双子の姉妹Dóra (Dorota Segda)とLili (Dorota Segda)が生まれて、母 (Dorota Segda – ぜんぶで3役!)は亡くなってふたりで街角に立ってマッチ売りをしているのだが、凍える晩、ふたりの酔っ払いに連れ去られてふたりは散り散りになる。

1900年になる前夜、別々に大きくなったDóraはオリエント急行に乗ったりしているちゃらい色仕掛け詐欺師に、Liliは爆弾抱えたしょぼい革命組織に入っていて、そのふたりのじたばたに挟まって絡んでくるのがZ (Oleg Yankovskiy)っていう紳士なんだかペテン師なんだかわからない旧態然とした謎のオトコで、ここにクロポトキンの『相互扶助 進化の原因』があり、ヴァイニンガーは女性解放運動なんてさ、と語っていたり、地下には新しい考え方や世界観が入りこもうとしていて、インフラのところにはエジソンの電気に無線、テスラの電撃が入ってきて世界はより明るく、速くなっていくぽい。

これが作られた89年(『追憶の1989年』)を考えると当然来るべき21世紀を見据えて作られたものだと思うが、トーンとしては「私の20世紀」なんて、こんなもんだったのよわかる? ていうややとぼけたシニカルな目線と、それでも、明るい未来とはぜんぜん違うなにかだけど、少なくともロバはいるからさ、なんて言ってみたり。

ここの、私の20世紀、というときの「私」とはどこの誰で、「世紀」として切り取られる時代にはどんなものが込められているのか。まずは女性、であること、そして進化(進歩史観)、みたいのはあるのかも。 親を失ってしまった女性たちが詐欺をするか革命をするかしか行き場がなかったような暗い時代になにが進歩や進化をもたらすものとして持ちあげられ、なにがそこから失われたりこぼれ落ちていったのか。といったことをモノクロの闇の奥から問いかけてくる。そのままでは夢として忘れられてしまいそうなことを、いろんな光の環の点滅とともに照らして軌跡を描いてみせる。

そしてここから暫くするとヨーロッパでは大戦が始まって、それどころではなくなってしまう。その少し前の少しだけ夢をみることができた頃のおとぎ話。この先に安易に「幸せ」とかを置かなかったのは正しいこと。

とてもロマンチックなおとぎ話、ということでいうと、こないだの“On Body and Soul”は同じ夢を共有してその中で鹿になっている男女ふたりのお話だった。この「私の20世紀」もそれ自体が共有された夢 - あるいは未来に共有することを夢みられるようななにか、として作られた、とは言えないだろうか。(そこにおいて”Body”や”Soul”が明確な意味をもったように「私の」が意味を持つの)
曾祖母の古い写真をぼーっと見ていたら突然彼女が話しかけてきたよ、みたいな。

これを90年代の頭に素で見ていたらどんな感想を抱いたかしらん?  今とは随分違っていたはず。

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