12月22日、パリのガルニエ宮、土曜日の午後のマチネーで見ました。最初は慌ただしい師走だし軽くバスチーユの方で”Cinderella”でも見ようと思っていたのだが、やっぱしこっちにした。
会場に入る前、遠くの道の奥に黄色いベストの人たちが動いていくのが見えて、警備の人たち車たちが大勢そっちに向かっていくようだったが、それだけだった。 滞在中も特に不便はなかったかも。(.. でも、そういえば、シャンゼリゼ通りも凱旋門もまだ行ったことないのだった)
『椿姫』- Alexandre Dumas filsの小説をもとにJohn Neumeierが振付したもので、一度見てみたかった。Frederick Ashtonが63年にRudolf NureyevとMargot Fonteynのために振付した”Marguerite and Armand”は、2017年の6月にRoyal Balletで見ていて、その公演はたまたまZenaida YanowskyのFarewellだったのだがものすごーくよくて、でもこれは30分くらいだし、音楽はリストだしぜんぜん別もの。 ちなみに、感想書いてないけど昨年リリースされたドキュメンタリー - ”Nureyev”は、バレエ好きなひとは必見。
ガルニエ宮は3回めで、キャンセルが出たとこをえいってやったら1階の一番前の一番端っこが取れた。Royal Opera houseもMetも最前の席は足下が見えにくいのであんまし、なのだが、ここの最前は悪くなかったかも。(でもこの演目ではArmandの友人役(?)のひとがステージの端 - 目の前にどっかり座ってて置物みたいに目まで一切動かさないのでなんか落ち着かなくて、胡椒かけてやろうかと思った)
で、このNeumeier版は3幕もの、休憩2回、音楽は全編ショパン。
この回のMarguerite役はAmandine Albisson、Armand 役はAudric Bezard。
プロローグから亡くなったMargueriteの遺品整理でしめしめ暗めで、そこから彼女との思い出を手繰って綴っていく、という形式で、”Marguerite and Armand”のどうせ死んじゃうんだから踊っちゃえ、の切羽詰まった熱情とはぜんぜん違うふてくされたような諦念が支配していて、だから2幕目の避暑地での鮮烈さが際立ってたまんないのだが、ところどころひらひらした散文調の、モダンに近い軽さがあって、これってなにかしら? て思って、ひょっとしてショパンの音楽のせい?(深く沈みこんでから怒涛の盛りあがり、みたいのがなくて、先の見えているドミノ倒しみたいにひたすら転がっていって止まらないかんじ) パ・ド・ドゥも互いの重力に絡み取られつつ丸裸にしていくような天からの糸はなくて、蜻蛉のように軽くて儚くて、その中をいつまでも漂っていられたら、みたいなノリで、素敵だった。
ぜんたいとしては一時大好きだったけど失われてしまってもうどうすることもできないものを掌の中で静かに転がす、その生々しい感触が残る。
Lo Schiaccianoci - The Nutcracker
バレエをもういっこ。 12月29日の晩、ミラノのスカラ座で見ました。
なにがなんでも、という程でもなくて、ミラノ行くなら『最後の晩餐』とスカラ座は行くよね、くらいのノリで、たまたま取れたから行った、のだった。
George Balanchineの『くるみ割り人形』は90年代にNew York City Balletのを観光客のアテンドも含めて散々見てて、たまに学芸会かよ、みたいなレベルのときもあったりしたのでそんな好きではない(この系列で一番すきなのはMark Morrisの”The Hard Nut”)のだが、ここのは舞い降る雪も含めてものすごくちゃんとしたプロダクションになってて、踊りの粒も揃っていた。クリスマスの贈り物が子供たちに夢と冒険を運んでくる、って考えてみればこんなにバレエ向けのテーマはないと思うのだが、それに相応しい華やかさがあった。こうでなくちゃね。
スカラ座は入り口の大きなツリーの下でいろんなぬいぐるみが蠢いていて(たぶん生きていないやつ)、それだけでたまんなかったのだが、客席側もさすがに豪華だった。特に正面のテラスの王様が座るようなとこ、すげーって見上げるしかなくて、そうするだけでああわれわれはヒラの平民になっちゃうんだわ、って。
これであと残っているのは、ウィーンの国立歌劇場と、ブエノスアイレスのコロン劇場とサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場と … まだ結構あるじゃん。
1.10.2019
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