11日の金曜日の夕方、BFIのAntonioni特集で見ました。
“L'Avventura” (1960) - こないだ見た、”La Notte” (1961) – まだ見てない – に続く「愛の不毛3部作」の最後のなのだと。
邦題は『太陽はひとりぼっち』。(.. ふたりいたら暑いよね)
冒頭はイエイエみたいなポップスで、それがいきなり現代音楽ふうのクールなのに変わって、Vittoria (Monica Vitti)が恋人(たぶん)のRiccardo (Francisco Rabal)の部屋で絵とかオブジェを背景にじりじりにらみ合いをしてて、扇風機がぶーんて鳴ってて、Vittoriaは”I’m leaving”て告げて朝の通りに出てすたすた歩いていってしまい、Riccardoも少し後を追ってくるが諦めて帰る。
Vittoriaは株にはまっている母親がたむろする証券取引所で Piero (Alain Delon)と出会い、興味半分で付きあってみるのだがこいつは顔はきれいだけど頭はからっぽで車とか女とかにしか興味がないようで、これはこれでふーん、で、それ以外に近所のアパートに住む女友達とのケニアの話とか、夜中の犬の群れとか飛行機の雲とかに夢中になるところがあって、モダーン・ラブのいろんな様相が。
VittoriaとかPieroそれぞれ、或はふたりの間になにか決定的な出来事が起こったり、それによって恋が発生したり消滅したりすることはなく、両岸で灯がちかちかする程度で、最後まで印象に残るのは”I’m Leaving”といってすたすた向こうに去っていく(そして戻ってこない)彼女の姿で、それは恋が不発に不毛に終わったから、というよりもそういうものであることがわかっているから向こうに動いていく、ただそれだけのことのように見える。
無機的な、キリコの絵にあるパースペクティブで並んだ建物に風景、そこを背景に描かれる株式売買の狂熱に幻滅に平熱、ケニアの野生、川に落ちてしんだ酔っ払い、水溜りに水貯めに、なにも言わない四角い建物たち、これらの間に恋はどう配置されるのか? ホットなのかクールなのか、ホットなのかもしれないけど、だからってなんで男に寄ったり寄られたりしなきゃいけない? そういうもんなの? というような根源的な問いが、たぶん根源的じゃないかもだけどどうする? みたいな描き方で、或いはじりじりやってくる日蝕のときの太陽を眺めていて白黒の境界がわからなくなって痺れているような状態で描かれて、そこにMonica Vittiの強い野良の目で睨まれるともう黙るしかない。
愛の、恋の不毛、というよりそんなの最初からなくてもやっていけそうなんだけど、と言ってみたときに風景は変わってみえるのか、というと実はそんなでもないのでどうしたものか、というと別にどうってことはないの。 道路はあんなにも前方に広がっているのだし、最後の数分間の気持ちよいことときたらなんなのだろう?
昨年のちょうど今頃はベルイマンの神の不在3部作ていうのに夢中になっていた気がして、あれは画面の枠の中で宙吊りにされた神の不在がぶらぶら揺れて催眠術のようだった(と今にしてみれば..)が、今年のこれは画面の向こう側とこちら側で溝も境もないままにひたすらしょうもない風景が広がっているだけのようで、それがつまんないかというとぜんぜんそんなことはなくて、こういう形で迫ったり広がったりしてくる空や風景というのもあるのだということを教えてくれる気がした。
これが公開当時日本で興行的に当たったというのはAlain Delonが大きいのかもしれないが、当時の太陽族とやらのしょうもない胡散臭さに感応した部分もあったのかなかったのか、わかんないけど。 男なんてろくでもない、どーでもいい、ていうトーンが初期のAntonioniにはいっぱいあるかんじがして、もう少し見てみたくなっているところ。
BREXIT、やめちゃえ。
1.16.2019
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