8月5日、日曜日の昼にCurzonのBloomsburyで見ました。
原作 - 監督のDaniel Kokotajloの長編デビュー作。”Apostasy”ていうのは「背教」のこと。
Manchesterの北の方にあるOldhamていう町にあるJehovah's Witnesses = エホバの証人の教団コミュニティとその信者である家族 - 母Ivanna (Siobhan Finneran)と娘2人 - 姉Luisa (Sacha Parkinson)、妹Alex (Molly Wright)の3人 - のお話。 3人はずっと教団の敬虔な信者で、街角でパンフを配ったり家を個別訪問して布教したりしているのだが、Luisaが大学でクラスメートとの間に子供ができたら穢れることじゃ、と教会への出入りを禁止され、生来血液の病気を抱えているAlexは医者の前で輸血は受けないから、と言って映画の真ん中くらいで突然亡くなってしまう。
教会側はAlexの死を悼んで讃えるし、Ivannaは信者であることをやめないのだが、お腹が大きくなっていくLuisaの状態を見たり世話をしたりしながらIvannaは本当にこれでよいのか、これら全てが神の意思だとするなら自分の信仰は本当にここに、この教団と共にあってよいのか、と自問するようになっていく。
95分の短い、低予算の映画なのでほんとうにこれだけで、最後までIvannaやLuisaが極端な行動に出ることはないのだが、その空虚さと静けさの中、数少ない登場人物たちの間で進行する対話で示される彼女たちの裏側の葛藤や煩悶、その緊張の糸の強さときたらとてつもない。 監督は実際に教団の中で育ってその教えに浸かってそこを抜けた人だそうで、ここに誇張や虚構はあまりない - それくらいにそれぞれの会話やショットは削ぎ落とされていて無駄がない。
であるからといって、エホバの証人をカルトである、邪教である、と糾弾するような内容のものにはなっていない。どちらかというと現代の全ての信仰 - 本来は人を苦しみから救って幸福に導くはずの教えや集団が、結果的に特定の人々を抑圧したり疎外したりしてしまう - 例えばこないだ見た”The Miseducation of Cameron Post” (2018) – UKは今週公開 - にもあった - その状況を通して現代における信仰のありようを問い直しているように思える。 これって昔からあったことなのだろうか?
それは何を、誰を信じるのか、という信仰の問題だけではなく、それよりもう少し広い、特定のソーシャルな何かに依拠したり準拠したりしなければ生きていけない(と刷り込まれている)社会意識のようなところにも突っこんできているように思える。
本当にひとはひとりじゃ生きていけないものなの? どんな人種、階層、性別、職業のひとでも最低限ひとりでも生きていけることを保証したり支えたりしてくれる社会でなきゃいけないんじゃないの? 最近表にでてきた(気がする)これら極めてまっとうな意識とか感覚に対する「社会」の側からの反動的な抑圧(どっちが先、というのはあるか)、のようなのが象徴的に描かれている気がした。
ハラスメントする側のやらしい物言いとか、やたら恫喝したり説教したがる男共とか、最近目につき鼻につくこいつらって、どこから湧いてきたのだろう。新種の虫かよ、とか。
その辺から現代のカルトのありようを考えてみるのにもよい材料だと思うので見てみて。
でも地味すぎて日本公開は無理だろうな。カルトだらけの国なのにね。
9.04.2018
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