10日の月曜日の晩、BFIのJoan Crawford特集で見ました。邦題は『哀しみの恋』。
監督は”Laura” (1944)のOtto Preminger。
Daisy Kenyon (Joan Crawford)はマンハッタンのヴィレッジのアパートにひとりで住んでデザイン関係の仕事をして、女友達とはふつうに夜遊びにも出たりしているのだが、そこには頻繁に弁護士のDan (Dana Andrews)が訪ねてくる。Danは成功している弁護士で、妻とふたりの娘がいて裕福で幸せそうで、でもDaisyはずっとこういう関係を続けていてもしょうがないと(明確には言わないけど)、元軍人で妻を亡くしているPeter (Henry Fonda)とデートをするようになって、そのうちDanにはPeterと結婚するかも、だからもう来ないで、という(たぶん駆け引きはんぶん)。
他方でDanの家ではDaisyとのことがばれて、彼の妻は訴訟起こす、って彼の同僚に弁護を頼んで、娘たちは(ママのとこには行きたくないようって)泣いて騒いで大変で、DanはこれでぜんぶおじゃんなのだからDaisyには改めて一緒になろうそれが一番いいだろ、って迫ってくる。
でも裁判に巻き込まれてまるで罪人みたいに見られるわDanはしつこいわPeterは暗いわ、なにもかもうんざりしたDaisyは湖のほうに車を走らせて..
ものすごい悪女ふうできんきんのFemme fataleなDaisyがNoirふうに男共を絡めとって家庭込みで潰しにかかる、そういうお話しではなく、むしろ逆で、Daisyはごくふつうに落ち着いた大人の恋をして、できれば結婚できないかしら、程度なのになんでこんなにこじれてくるのかなあ、なんで? でも男たちはDaisyのことを解っていて幸せにできるのは自分しかいないのだから(その自信はなに?)、会いたいときにはアパートにいてくれなきゃやだ、みたいに攻めてきて、それがトライアングルになると更にひどくなって、なんであんなのがいいんだ? の突っ込みと共にぐじゃぐじゃになって、Daisyかわいそうとしか言いようがないの。
“Laura”でもうまく描かれていたドアとか電話の使い方が見事で、なんでそのドアを開ける? とか、なんでその受話器をとる? とか終始はらはらしっぱなしで、ドアを開けるごとに、電話に出るたびに新たな厄介事がのしかかってくる、そんなプチホラーのように見ることもできるかも。(Noirの映画見てるといっつも思うけど、なんでみんな電話にでるのだろう? 無視できないのかしら)
最後のほうで、横並びしてDaisyに電話をかけまくるDanとPeterをみて、なんなのこのバカ男共は、って思った(客席からも嘲笑が)。 こういうろくでなし男ばかりに引っかかる女性にも問題があるのでは、とかいう話題は昔からあるけど、問題なのはこんなふうに女性を電柱かなんかだと思っているイヌ以下のてめーらのほうだからね。
いきりたったDanがDaisyの部屋にばんって入ってくるなり牛乳瓶からミルクを飲むシーンがおかしくて、他にもこういう変なのは一杯ある。不可思議だからおかしい、というより説得力ありすぎる状況で更に渾身の力を込めてなんかやっちゃうのがおかしいの。 恋愛ってそういうもの?
恋に惑って揺れるDaisyを演じたJoanは”Possessed”のように取り憑かれて凍ってしまった人格ではなく、年齢もあるし相手と時と場合の間で揺れてぶれまくる柔いひと - でも最後の最後にかろうじて自分を掴んで抱きしめる、そういう変遷まで含めて繊細に演じきっていていつものようにすごい。
最後の決断には少しえー、だったけど。
あと、Henry Fondaって、こういう恋愛ドラマ、なんか向いてない気がしてならない。暗くない?
9.20.2018
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。