16日、金曜日の晩、Union SquareのRegalで見ました。
20分前に行ったら席は半分以上埋まってた。 ガキ共はぜんぜんいないかんじ。
オープニングから昔のテクニカラーのロゴとかのレトロ風味で、ああそういうかんじなのね、と。
車がぱんぱんに糞詰まって身動き取れないLAのハイウェイで、車からひとり降りてふたり降りて歌って踊りながら群舞のうねりに連なっていって、これがワンカットのしゃんしゃんで決まって、終わると客席はみんなわー、て拍手する。ほう、そうくるのね、と。
この渋滞のなか、車と車ですれ違ったのが売れない女優のMia(Emma Stone)と売れないJazzピアニストのSebastian(Ryan Gosling)で、このときはつーんやな奴て互いに無視して遠ざかり、その後、オーディションに行っては失敗しているMiaとレストランでピアノ弾いては追い出されたりしがないウェディングバンドで演奏したりしているSebastianは、出会うべくして出会って、そこから先は歌って踊って恋をして、それぞれの女優になる夢・ピアノ弾きになる夢に向かって突っ走るミュージカルで、なんも考えなくても楽しく見ていられる。 最後はめでたく幸せなハッピーエンド、ではなくてちょっと甘苦いツイストもあって、なるほどなー、ひととひとがくっつくっていうのはー、てきゅんとする。
歌もダンスもふたりの絡みもとっても洒落てて考えてあって、それはNYというよりはやはりLAの街とか建物とか道路の間(ま)とか昼間の/薄暮の/街灯の光とかの開けた空間のなかで見事な弧と輝きを描いて、カメラが切り取る枠のどこにもぴったりの色(Miaのドレスの色)と形にはまるようにデザインされている。(エンドロールでコレオグラフ - Mandy Mooreだって! とざわざわする人たち多数)
クリスマス前、たぶんみんな大好きになるに決まっているデート映画で、あんま異論はないのだけど、あえてなんか言うとしたらね、GAPとかの冬のCMのダンスを延々繋いだだけみたいなかんじもして、それのどこが悪いのさ? ていうのはまだ考えているのだが、物語の底流に流れる主人公たちの「自己実現」とか「ゴールイメージ」みたいな生真面目な根性道とアクロバティックで流麗で軽く弾けるダンスの間の溝が微妙なぎこちなさを生んでいる気がした。 これと同様のじたばたのぎこちなさは監督の前作”Whiplash” (2014)にもあって、(あとちょっと毛色は違うけど、”Silver Linings Playbook” (2012)のダンスとか)、そんなのがんばるのが嫌いなやつの気のせいじゃろ、かもしれないのだが、例えばね、渡米直前までFilm Forumで特集をやっていたBusby Berkeleyのあの怒涛の至福の波状攻撃と比べてみたとき、いったいどこのなにが違ってみえるのだろうね、とか。
おいらは自己実現とか聞くとシラけておちょくりたくなって我慢できなくなくなる80年代のひとなので、ついそんなふうに見てしまうのだったが、監督にとっては80年代のほうがそういう蔑視の対象なのかしら、と”Take On Me”とか”I Ran”の扱いを見てておもった。べつにいいけどさ。
ただやっぱり、歌って踊って恋をすることの掛け値無しの歓びとか、天に昇って突き抜けるような爽快さとか、そういうのにどこまでも、バカなんじゃないかっていうくらい溢れていてほしかったかも。 それだけでひとは何度でも恋をするのだし歌うのだし踊るのだって… 昔のミュージカルが教えてくれたのって例えばそういうことだったのだし。
でも、そういうのぜんぶぶっとばすくらいにEmma Stoneがすっばらしいので黙る。Ryan Goslingは時としてしょうもない薄らとんかちの腑抜けに見えることがあって、これはこの映画に限ったことではなくて - “Blade Runner 2049”が楽しみ - 本人も意識しているんだろうけど、この映画ではその辺がきちんと機能していた、ていうかEmmaのあの瞳に勝てる歌もダンスもあったもんじゃないねえ、て気がした。
あと、とてもLAに行きたくなる映画だった。 今はクローズしているAngels Flightとか、この映画用に動かしたんだって。
ら ら らん。
12.23.2016
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