27日、日曜日の昼間、日比谷でみました。 『シークレット・オブ・モンスター』
まずはなんといっても、冒頭から炸裂するScott Walkerのスコア - がじがじのゴスオケがとんでもなくすごいので、まずはそれだけでも。 日比谷のしょぼい設備でもあんなだったので、鳴りのいいとこで浴びたら鼻血に耳血に。
1919年、ヴェルサイユ条約締結のためパリ郊外の古屋敷に滞在しているアメリカ人官僚の一家がいて、不在がちで厳格な父(Liam Cunningham)と、数か国語を話せる少し謎めいた母(Bérénice Bejo)と、小学生低学年くらいの男の子Prescott(Tom Sweet)がいる。 最初のほう、教会の仮装劇のあとに何が気にくわなかったのか暗がりから関係者たちに石を投げて捕まって、こいつは問題児なんだな、ということがわかって、その後、Tantrum(癇癪) 1 〜 3までの各章で、主に彼の母、メイド(ばあや)、フランス語の家庭教師(若い娘)と彼との間の不機嫌や諍いを経て癇癪が弾けるさまが並べられていく。
基本は子供のおむずかりなので、なんか気に食わなかったんだろうな、くらいで、映画を見る限りでは明確な理由づけも説明もされるわけではなくて、それの後処理についてもこっぴどく叱って矯正した、みたいなところもないので、放置された癇癪玉が閉ざされた環境のなかで膨れあがっていったんだろうな、くらいのことはわかる。
Prescottの挙動、目つき、言葉遣い、などなどから彼の内面にある邪悪さ、不寛容、頑固さ、強靭さ、等々はうかがえるものの、周囲の大人たちもそれなりに腐れているので、それらがカルト・オカルトを孕む映画っぽい惨劇に転がっていくことはなくて、だからいっつも突っこんでわるいけど邦題の『シークレット・オブ・モンスター』の「シークレット」が明らかになるわけではないし「モンスター」なんて欠片も出てこない。 後に独裁者になってしまうかもしれない男の子供時代はこうでした、というだけで、でも、だからこそいろんな想像が広がっていく。 彼はあの後、父と母をどうしたのか、アメリカ人という箍をどうしたのか、とか。
いろいろ不安定な戦時下、不機嫌を増幅させていくガキ、というと「ブリキの太鼓」(1979) があったりしたが、あれは大人になることを拒否した子供の話で、こっちは子供であることを拒否した子供の話、という簡単な区分けは、例えばできるのかもしれない。 あるいは成長を歪めてしまう戦争という装置とか。 いや、でも、そんな単純なもんでもないでしょ、あのぐずぐずした天気と荒んだ土地とあの古屋敷があって、とぐろを巻いた親たちがいて、頭の奥であんな音が鳴っていたら、大人だって子供だって十分蒸されてできあがってしまうのではないか、のような描き方をしているところがよいの。
で、最後に出てきたあのハゲが”Leader”なの? 東條英機かとおもった。
とにかく音楽が。
あーあ。SWANS …
12.07.2016
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