6.07.2016

[film] The Revenant (2015)

5月5日の子供の日の晩、六本木でみました。
なんで子供の日かというと、熊がでてくるからだよ。

19世紀の米国に実在したHugh Glass (Leonardo DiCaprio) がインディアンの妻(回想のなかで白人に殺されている)との間にできた息子と共に毛皮商の隊列にはいって旅をするうち人とか熊とかに襲われたり、そのうち息子も殺されて、自分も死の淵を這いまわりながら息子を殺したJohn Fitzgerald (Tom Hardy)をえんえん地の果てまで追っかけていくの。 それだけなの。

カメラはずっと血まみれになって震えたり凍えたり吠えたり呻いたり瀕死の、でも死なない死ねないHugh Glassに密着して、雪山とか冷たそうな川とか原野とかに潜ったり這いまわったり、ぜんたいとしてはものすごくしんどい。 なんのためにそこまでやってるんだあんたら、とおこたにみかんの気分に、とってもなる。

そういう映像のスペクタクルとか、ついてない痛いしんどい災厄のオンパレードとか、そういうのを見る(愉しむ)というのもあるのだろうが、どちらかというと、そこまでやらなきゃ、いかなきゃいけなかったんだろうなー、ていうあたりにしみじみしてしまうのだった。 そこってとっても微妙な一線で、あと一歩でつきあってられんわ、になるところを半端なエモとか演技とかがどうでもよくなるくらいのところまで引きずり回して、まだ生きてるのかしら? てそうっと棒でつんつんしたくなるかんじ、というか。
(オスカー主演賞を彼にもたらしたのがあの熊であることは間違いない)

復讐の鬼と化して情念のみで生き残って、みたいなのが通用しないぱりぱりに凍てついた原野でどうやって生き抜いたかというと、殺した熊のお腹に入ったり、崖から落ちて死んじゃった馬のお腹に入ったり、つまりお腹にもぐって皮を纏って再生する - 戻ってくる - んだねえ、ていうあたりと、主人公の生業が毛皮商人、ていうのとか、人の違いなんて皮の厚い薄いとかだけなのかも、とかいろいろ考えさせられた。 

そういう皮を剥がしたりまとったり交換したり、のやり取りの中で作られていった新世界、というところで思い起こしたのがTerrence Malickの“The New World” (2005)で、カメラもEmmanuel Lubezki だし、プロダクションデザインもJack Fiskだし ("The New Woirld"のデザインは彼によるところが大きかったというのは公開当時に彼のトークで聞いた)  失われたなにかが取り憑いて主人公たちを突き動かす、ていうあたりも近いかも。

でもなんだかんだいっても、あの熊だよね。
森で熊さんに出会ったら、きっとあんなふうにされちゃうんだわ、て震えながら思ったし、あそこで熊があと少しだけ踏みこんでがぶがぶしておけばあんなことにはならなかったし、映画だって半分の時間で終わることができたのにさ。   あのぶっとい毛だらけの肩とか腕とか、いいなー。すごいなー。 (いったいなにをしたい?)

"The Revenant2"は、言うまでもなくあの子熊たちが復讐にくるの。 ダブルで。

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