6月3日の金曜日の晩、有楽町で見ました。
今やっているロメール特集のなかでは3本目、もう5本見ているのだが、ここから書いてしまおう。
『緑の光線』。上映前に金井美恵子さんのトーク付き。
会場になっている映画館は死ぬほど嫌いな家電量販店の上のほうにあって、エレベーターで上に昇るにしても、反吐がでそうな宣伝音楽の泥屑にまみれないといけない。そうしないとおしゃれなフレンチ・ヴァカンス映画には辿り着けなくて、そうやって映画でうっとり潮風を纏った気分になれたとしてもエレベーターで下に降りてしまえばそれは途端に腐った塩辛みたいな居酒屋臭に変わってしまう。 まあ今、シネコンも含めてふつうの洋画好きが置かれているのはだいたいがこんな状況なんですわ。
この「緑の光線」がリリースされて、ロメールの新作をふつうに見れていた頃はこんなひどくはなかったかも、いやたいして変わんなかったのかも、とか思って、上映前の金井さんのトークでロメールの映画を誰かと一緒に見にいくと、見終わった後で必ず言い争いとか諍いごとになって気まずい雰囲気になる、という話があったのを思い出し、それって映画のなかの世界と見終わった後に現れる世界との間のギャップというのか、なんでギャップが人を苛立たせるほどにそびえ立ってしまうのかというと、それだけ映画のなかの世界が肌に近いところまで近づいてきて五感を覆ってしまうからではないか、とかそういうことを考えた。
今回上映された作品たちは過去何回かの特集(含.米国の)で見ているのばかりだったのだが、思い起こしてみれば、誰かと一緒に見たやつなんて1本だってない(いばるな)。 だからなんの諍いもお咎めもなしに自分の思い込み通りにロメールを丸かぶりで咀嚼してしまったわけで、それって中長期的にみてじぶんの幸せに貢献したことになったのだろうか? なんか決定的な過ちを犯してしまっての今、なのではないだろうか?
とか、楽しかったトークのあとに背中に変な汗をかきつつ再見した「緑の光線」。
友達と行く予定だったヴァカンスにふられ、焦りながら入れてもらった友人の家族旅行では周りにうまく馴染むことも自分を軟化させることもできず、すぐに泣いちゃってそれでも独りじゃいやなのだめなの、ってめそめそし続けるヴェジタリアンのデルフィーヌ。 シネヴィヴァンで公開当時(もうだいたい30年前よ..)に見たときは、そうだよねえわかるよ、がんばれデルフィーヌ! だったのだが、今回再見すると、さすがにやっぱし、デルフィーヌ、それじゃちょっとまずいかも、めんどうな女になっちゃうかも、だった。 でもそう思う反面で、この後の90年代以降にはなにがなんでもまみれて繋がれ、みたいな変な抑圧勢力が来ることになっちゃうので、これはこれでいいんだ、いいんだよデルフィーヌ、になった。
でもそういうところに落着して下界に降りると引っかき傷だらけで改めてうんざりすることになるんだねえ... もうそういう歳でないことはわかってるけどさ。
最初に見たとき、実は緑の光線が見えたか見えなかったかがすごく微妙で心配で、ああ自分はこの先幸福になれないのかもしれない、だったのだが、今回の上映ではとってもよく見えた。 それだけでも行く価値あるよ。 人生でそう何回も見れるもんじゃないんだよ、緑の光線は。
金井さんのトークに戻ると、ロメールの映画はワイズマンのと同様、通い始めると止まらなくなって中毒になる、というのはとってもよくわかるのだった。 あと、「モード家の一夜」を見たあとでFrançoise Fabianを貶してしばらくしたら早死にしちゃった編集者のはなし(あのひとね)とか、そのまま小説になりそうだわ。
それにしても、これのま裏でジャック・ロジエの「オルエットの方へ」をやっていたなんて。
しかも、こっちのほうがおもしろいのよ... ってトークで言っちゃうなんて(まあ、そうだけど)。
どうでもよいけど、会場で某芥川賞作家を久々に見た、と思ったらトークが終ったら帰っちゃいやがるの。
6.06.2016
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