また戻って、シネマヴェーラの清水宏特集。 5月5日の午前にみました。
なにを見たっておもしろくてしょうがない。
学生の頃の佐分利信が、学業を続けるために恋人の三宅邦子とさばさば別れて東京に渡って高杉早苗のとこに婿養子入りする。 他方、佐分利信の親友で医者のぼんぼんの上原謙は親の反対を押し切ってカフェの女給の桑野通子と駆け落ちして、やや勝ち組っぽい佐分利信の夫婦が東京にやってきた上原謙夫婦(+子供)の住居を近所に世話して、そこから始まる二組の夫婦の交流とか暮らしぶりあれこれを - そんな家庭日記。
佐分利信組のほうはお上品でハイソで、陽気で豪放な桑野通子がドライブする上原謙組はやや抑えめにしたいところなのだが、桑野通子がいいじゃないのー、ておとなしい高杉早苗を映画とかいろんなとこに引っ張りまわして(なぜかふたりは仲良しに)、そうしているうちに美容室をやっている独り身の三宅邦子にぶつかって、なんとしても自分の過去の恋愛は隠蔽(して妻にいい顔)したい佐分利信の気まずいうろたえぶりがなかなかざまあみろなのとか、佐分利信の友人のデブでビルのオーナーが三宅邦子に美容室のフロアを用意してあげるから結婚させろていう、とか、病気で夫の実家に拉致隔離されてしまった子供の奪還に向かった桑野通子がじじいと対峙するのがたまんないのとか。
38年に書かれた「家庭日記」がいまだにこんなにも生々しくスリル満点なのはなんでなのか? たぶん、ここに出てくるオトコの目線や価値観がぜんんっぜん、変わっていないからかも。その価値観の根っこにあるのは「家庭」とか「家」というやつで、なんでみんなそこにしがみついたり、それを/それで、なんとかしたりしようとするのだろう、と。
子供を引き取りに来た桑野通子と高名な医師であるらしいくそじじいのいう「大事な孫をお前のやうなやくざな母親の元で育てさせてたまるか」ていうがちんこのにらみ合いと切り返しのすさまじさ - 字幕つけるんだったら極太で「ザ・家父長制」としかいいようのないクソ加減ときたらくやしくて腹立たしくてしょうがなくなる(べつにあんたが… )。
この辺の反省しない、ゾンビのようにそこらじゅうから湧いて出るくそじじい共のとにかくしぶとくてしょうもないことったら、なんなのかしら、てあたまきて、こんなふうにひとの普遍的な善い面(子供たちとか、有りがたうさん、とか)、悪い面を際立たせるのがうまくて、それを他の巨匠のように生の過酷さみたいなとこに収斂させず、日記とかスケッチみたいなスタイルのなかでさらさら流してきゅんとさせる。ていうのがえらいなー、て思った。
6.06.2016
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