27日、フランス映画祭の3本目。
今回の映画祭はAssayasの"Clouds of Sils Maria"だけ前売り買っていて、あとはいいや、だったのだが、これ、Mia Hansen-Løveの新作だったことに気づいて、なら見なきゃだめでしょ、となり、どうせ当日券で並ぶのだったら他のも取るしかないな、となって、初日はぜんぶ見ちゃったの。
で、見てみるとVincent Macaigneは出てるわ、Greta Gerwigさんは出てるわ、20年に渡る骨太の音楽・青春大河ドラマとしてなかなかすばらしいのだった。
92年の暮れ、Paul(Félix de Givry)とCyril(Roman Kolinka)、その仲間たちはクラブからの朝帰りに朝靄のなかで聴こえてきた音に啓示を受けてこんな音楽をやってみたい、とみんなで”Cheers"ていうユニットを立ち上げて、持ち出しで手作りのパーティを始め、やがてそこからDaft PunkとかCassiusとかが登場し、フレンチ・エレクトロの流れとシーンを作ってのし上がって、そこから萎れていくまでのあれこれ。大枠の栄枯盛衰を "Paradise Garage" ~ 2003年くらいからの"Lost in Music"の2部構成で描く。
脚本担当の監督の実兄Sven Hansen-Løveさんが当時のシーンの中心にいた、ということもあり考証面の生々しさライブ感は半端なく、これに加えてくっついたり離れたりの青春群像はMHLのこれまでの作品で十分に確立されているし。~ Que sera, sera ♪ ~
なので、例えば同系の音楽実録ドラマ - “24 Hour Party People” (2002) なんかと比べると映画としての粒立ち際立ち具合は数段上なの。
だけど、あの映画で描かれたJoy Division瓦解からMadchesterへの流れとこの映画で描かれたフレンチ・エレクトロの勃興は、同じような快楽を求める旅だったとしても、結構ちがうよねえ、と改めておもった。
Madchesterのほうははっきりと歴史の分断切断、忘却を指向していた。あらゆる繋がりを断ち切って、自身をも切り捨てるようにIan Curtisが亡くなったあとも、それはたんに新たな秩序(New Order)として再生してしまえばそれでいいか、程度のものだった。
この映画で描かれたシーンは米国のハウスミュージックへの憧憬とリスペクトから入って、それを自分たちの踊り場に接続して継承拡大して踊り続けることを狙ったものだった。 その野望はラストで朗読されるRobert Creeleyの詩 - “The Rhythm"にも見事に集約されている。
であるが故にこの映画が描いた約20年の昇ったり下ったりは大陸をまたがるスケールで我々を驚かせて感動させたりもするのだし、映画では萎んだように見えるフレンチ・エレクトロが終わったかんじなんてぜんぜんしない。 それはずうっと続いて今もフロアを揺らしている。
この映画での音楽はフロントにあるのかバックにあるのか、あまりぱっとしない若者たちの像にみごとにはまってしまうことに感嘆した。 浮いてしまうこともウェットになることもなく無愛想に、でも気がつくとそこでどこどこ鳴っていて、そういう種類の音楽なんだろうな。
彼らが最初にこれを始めた頃のアメリカのParadise Garageへの憧れって、例えばヌーヴェルバーグがアメリカのB級映画への憧れから始まったのと同系の大陸指向、と見てよいのだろうか、と、これは自らをシネフィルです、と言い切ったSvenさんに聞いてみたかったことではあるの。
わたしはこの辺の音はぜんぜん詳しくないのだが、2002年の6月にCentral Parkで行われた”Paradise Garage 25th Anniversary”ていうのには興味本位で行った。 Larry Levanはとうに亡くなっていたが、集まった人たちはだらだらゆるゆるみんなずうーっと止まらずに踊り続けていて、これは強いねえかなわないねえ、てしみじみおもった。 Frankie Knuckles(もすでに故人だけど)もDavid Moralesも、とにかくしぶとい。盤に溝があるかぎり、その上をハムスターみたいに回り続けている。
131分、踊ったあとのような心地よい疲労感がなんともいえなかった。
6.30.2015
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