戻ってきています。 へろへろ。
ドイツ行く前、29日の金曜日の晩、19:20くらいに駆け込みで見ました。
『グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家』
間にあってほんとによかったー。
地震災害にあわれてしまった所蔵元のチェント市立絵画館には申し訳ないけど、これだけのものが東京で見れてしまうのはありがたやありがたや、としか言いようがない。
評価とか名声とか、この時代(まあすごい時代なのよ)の画家の周辺にはずっと付いてまわるもので、そういうのは勝手にやらしとけ、と言いたくなるくらいに絵はでかでか堂々とそこにあって、しかもテーマときたら聖母とか巫女とかキリストとか放蕩息子とかアポロとか聖フランチェスコとかクレオパトラとかばっかしなので、握りこぶしで盛りあがるしかないかんじ。
というわけでゲーテ先生(わたしはゲーテ先生が誉めるものには問答無用で従う)が「イタリア紀行」のなかで絶賛した「聖母のもとに現れる復活したキリスト」(1628-30) とか「被」の一文字と聖母の仰角がたまんない「聖母被昇天」(1622) とか、いろんな「巫女」に「サモスの巫女」(1651) に「ルクレティア」(1644) に、どっしりした構図のなかで絶妙の浮遊感をみせる布の膨らみにひだひだに陰翳の配置と決してこちらを向かずに宙を彷徨う人物の目線 - 17世紀における神を求めて止まない彼らの魂の声が。
もういっこの展示 - これも5/31迄だった「世紀末の幻想―近代フランスのリトグラフとエッチング 」もすばらしかったの。
ヴュイヤールの「風景と室内」-料理する女 (1899)に始まって、ウジューヌ・カリエールのポートレート - 「ポール・ヴェルレーヌ」とか、最後のほうのポール=アルベール・ベナールの「ケープをまとった女」 (1889)、「見知らぬ人」 (1900)といったごにょごにょした闇の向こうで蠢く情念とか。 刻印されたり傷つけられたりした版の反対側で、その反射として炙りだされてくる闇の深さと虚ろさにしびれる。
グエルチーノから約250年の時と場所(イタリアからフランスへ)を経て、でも描かれた魂のストレートな生々しさと人々の目の虚ろさは、とても似通ったなにかを指し示しているような気がしてならなかったの。
関係ないけど、いま、TVでローザンヌをやってて止まんない。 若いよねえ、とか言いつつ久々にバレエ熱が ...
6.06.2015
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