6.25.2015

[film] Mad Max: Fury Road (2015)

20日土曜日の夕方、六本木でみました。 3DのDolby-Atomos。
"Beret Morisot"からはフェミニズム映画の流れ、というつもりで。 いちおう。

とにかく自分のまわりのTLとか見ると誰もが、かっこいいとかやられたとか泣いたとか涎垂らして洟垂らしてガキみたいに大絶賛ばっかしなので、少しはネガティブなことも書いてやろうか、くらいのことは思う。

核戦争後に荒廃して沙漠になっちゃった世界で、水を独占する化け物みたいなImmortan Joeが帝国を作って奴隷かかえてやりたい放題をやってて、そこからお使いに出たImperator Furiosa (Charlize Theron)が道を外れて怪しい動きを始めたので帝国はみんなでわあわあ追っかける。 その追っかける車のひとつに括り付けられたMax (Tom Hardy)がいて逃げる機会を窺っていて。

筋はこれだけ。 約束の地を求めて遠くまで突っ走って逃げ切った後で、そんなのないんだ、とわかって、もう一回戻ってくる。 車の一団がわぁーって火花を散らしながら地の涯に消えて、またわぁーってどんぱちしながらこっちの方に戻ってくる。 それだけなの。

映画そのものの流れとか編集とか疾走感とかバカバカしさとかその反対側にある世界観とかメッセージの強さとかそういうのはぜんぜん問題ないとおもうし文句ないし。 人物キャラの深さ浅さみたいなところも、そういうのを蹴散らすくらいシンプルで豪快で、世界観と連携してアクションが止まらずに流れていって、子供にもわかる、それでいて落とし前はつけて、言うことは言う、みたいなところもある。 

わたしは”Mad Max2” (1981) を公開当時に名画座の併映でみて、あまりにバイオレントでマッチョなのでうんざりして3も見なかった、そういういくじなしなので、今度のももうやだ、だったの。 車が四方八方にふっとんだり、火花が散って大爆発したり、ひとも彼方にとんでいったり、みたいのはふつーに好きなんだけど、今回のにあんましのれないのはなんでだったのかしら。

あんなでかい金属塊の車で砂漠のまんなかを猛スピードで走って、しかも血を抜かれてそれを燃料にされながらなんて想像しただけで車酔いと脱水症状と熱中症がいっぺんに来そうだし、しかもその状態で矢だの弓だのナイフだの鉄砲だの棍棒だの掟破りの乱暴のぐさぐさぼこぼこなんでもありで、なぜならそれはそういう世界なんだから黙れ、て言われる。

そしてこのエクストリームな世界は、今の我々の世界と繋がっているのだと、このわかりやすさはそのままいうだろう。  強い奴のまわりに強いいじめっ子が集まり、弱いものは底に吹き溜まって抜けだせず、両者は安全に交わらないままに支配は続いていって、どっちの層からもはぐれた半端モノたちが路上で交わったとき、花火があがってその均衡は崩れる。

でもなんか、きつい。 こんななかでも、生きろ! 戦え! とか言われるんだったらやなこった、ていう。
FuriosaにもMaxにもなれないし、べつになりたくもないし。
映画は森と原っぱと川とブランコとお食事と猫が映っていればいいわ。(← なんかあったらしい)

フェミニズム云々もどうなのかしらん。 あの勝ち負けに性差ってあんま関係ない - Furiosaは男でもおなじ動きをするだろうし、囚われの女たちも役割は所謂「女たち」 -  よね。

あー、でもおもしろいよ。 少なくとも歌舞伎町とかでしゃー、とかこまこま喧嘩してるようなのよか断然。

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