1日の木曜日の晩、やっぱり「断絶」も見ておきたい、ということで見ました。
映画の日だったのかー。
"Road to Nowhere"との対比で、いろいろある気がした。
もちろん、それぞれ単独で見ても十分おもしろいに決まっているのだが、約40年を隔てて世界がどう変わったのか、あるいは変わらなかったのか、そのへんが。
Monte Hellmanの映画史とかいうよりも先に。
若者ふたり - The DriverとThe Mechanic が、公道でレースをやってお金を稼いでいて、そこにどっかから流れてきた娘 - The Girl とか、ふたりを勝手に競争相手と思い込んだ別の男 - G.T.O とかが絡んできて、最後はみんなまたばらばらになって、それだけなの。
構造的にはほんとにスカスカで、それは彼らの乗る車が速く走るために余計なものを全てとっぱらってしまったのと同じように、中味はなんもない。 戦慄も墓銘碑も教訓もなんもない。
そんなわけで興行的にはみごとに失敗した、と。 そりゃそうかも。
物理的に前方に道が広がっていって車が走っていく - "Road to Anywhere" というそれだけのことが示されている。
あまりに中味がないので、何回見ても - もう4回くらい見ている - その内容を忘れてしまう。
他方、"Road to Nowhere"は、これと真逆で、いろんなものが積み重なって積み上がって、誰もその全体像を掴めない、そんな世界のありようが示される。 何かを見えなくさせるために、映画撮影の現場にいろんな思惑や密談が持ち込まれ、その総和と重みで舞台装置は内側から崩れてしまう。
こちらは、あまりに中味がありすぎて濃すぎて、たぶん何回見てもやっぱし忘れてしまう気がする。
どちらも、ものすごくあたりまえのことを言ってもいる。
軽くて、道があればいくらでも走れるし、重くて、道がないのであれば、走れなくて、そこに蹲るしかない。
もうちょっとふつうの重さにしとけば、とか軽くすれば走れるのに、とか言わない。
そうはなりようがない、そう簡単にはできないことはみんなようくわかっているの。
どちらの映画も、カメラは徹底して世界の外部に立とうとする。登場人物たちの内面には決して立ち入らず、解決策や方向性を示すこともしない。 世界観すらも提示されない。 未知の動物の生態を追うように、特定の集団とその周囲を追っている。
で、その結果どういうことが起こるかというと、「断絶」ではフィルムが火をあげて燃えだし、"Road to Nowhere"ではフィルムはまっくろに炭化していくの。 ここにきてはじめて、フィルムの向こう側の世界がこちら側に浸食してくる。 最後の最後に。
そのへんから70年代とか00年代とか、言えないこともないのかもしれんが、そこはあんまし。
「断絶」で好きなのは終りのほうで、The Driver"がThe Girlに車の運転の仕方を教えるとこ。
彼女が"I can't do this!"てキレて、彼がなだめてキスすると"I can do this..."てそっとハグするの。
彼女のシャツがピンクで、彼のシャツがブルーで、カメラの動きも含めて、ここだけなんか別の映画みたいなの。
3.05.2012
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