2.27.2023

[film] Corsage (2022)

2月21日、火曜日の晩、英国のMUBIで見ました。

オーストリアのMarie Kreutzerの作・監督による、オーストリア/ドイツ/ルクセンブルク/フランス映画。主演のVicky Kriepsが製作にも入っている。

ハプスブルク家のオーストリア皇后エリザベート(1854-1898)の40歳の誕生日に向かう1877年頃の王宮/家庭生活を中心に描く。手法としてはSofia Coppolaの”Marie Antoinette” (2006)やPablo Larraínの”Spencer” (2021)でも描かれた王族~王妃のふざけんじゃねえよ‐やってらんねーや、の日々をフィクションとして綴っていくのだが、今作の破壊力は格段で、一番好きかも。

コサージュ、は装飾の飾り花のことではなくて、ドイツ語でコルセットのことで、冒頭、Empress Elisabeth of Austria (Vicky Krieps)は侍女にコルセットを付けて貰いながら紐をきつく締めるよう、もっと、もっと、って何度も指示して、そこからウェストのサイズを書き留めたりして、お湯につかったりダイエットしたり、こんな風に周囲やしきたりやソーシャルから求められること、夫のためにすること、自分でなんとかしたいと思っていること、などの間できりきり(でも)つーんと振る舞いながらずっと爆発しそうな何かを抱えこんだり飲みこんだりしている(ことが窺える)。”Corsage”というのは彼女の身体をきつく縛りあげる器具であり、それをまずコントロールする/できる - 失神したりも含めて - のは自分であり、でもその装着を要請してくるのは当時の社交界なり文化なりで、その縛り要請に応えることで彼女はその特権も含めて一員として認められる、そういうのの象徴(まずは器具・道具)としてあって、自分はその内側で絞られて締められて耐えるしかない。

16歳の時に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚したが、夫 (Florian Teichtmeister)はずっと公務で忙しく半別居状態で、彼の浮気の現場も目撃しているし、息子の皇太子Rudolf (Aaron Friesz) – 後にMayerling事件を引き起こす彼ね - も既に手を離れて好きなように動き始めているし、戦争が起こりそうな雰囲気もあるし、彼女が自分の才覚や美貌で彼らを繋ぎとめていいようにできるのはとうに無理であることは十分にわかっている。なのでハンガリーの貴族と浮気したり、英国の田舎に出かけていったり(会うのはダイアナのSpencer家)、鬱の解消のためにヘロインに浸かったり、好きなようにやらせて貰いますから、って中指突き立てて王宮の外に出ていく痛快さ。

それだけではなくて、女性の精神病患者がいるサナトリウムを訪れて、ヒステリーで拘禁されている患者をお見舞いする。この頃のウィーンの精神医学の発達の並びでクリムトっぽい肖像画を描いてもらっているElisabethのこと、更に当時の新技術として登場した写真や映画で撮られる自分の像と、どちらが真実と言えるのか、など虚像(虚飾)と実像、イメージを巡る当時の潮流 – その乖離や断層が、その周辺の欺瞞や腐蝕のなにもかもが彼女には見えていて、ぜんぶがうっとおしいし。

いろんなエピソードを重ねながら、自分を飾ってくれる美と、それらに対する愛しさと、自分の手から否応なく零れ落ちていくそれらと、でも失われずに終わりに向かってどん詰まっていく時間と、でもそんなの自分のせいでもなんでもないし大きなお世話だしうるせーよ、っていう普遍的なところは今の時代にもそのまま当てはめることができるので、”Marie Antoinette”にもあったような現代のアイテムもちょこちょこ出てくるのだがその現れ方は随分ちがう。”Marie Antoinette”がNew Waveの優しさと柔らかさで包んでくれたのに対し、こちらにははっきりとフェミニストPunkの刺々しさと不機嫌と毒がある(よいこと)。

こないだの『彼女のいない部屋』にひとり座っていたVicky Krieps、あの静かな切迫感 – とても大切なものが失われている – なにかが欠落してゆっくりと狂ったり腐ったりしていく、その事態をはっきりと自覚し始めたときの彼女の眼差しとかほつれて広がる髪の毛とか、それをいきなりばっさりしちゃうとことか、ほんとに強くて目が離せない。そこからのあの最後の方、タトゥーを彫ってからのー。 とにかくぜんぜん湿って暗くならないところがすごいったら。 

音楽は鼻歌のように脇を流れていくCamilleがよくて、他にはKris Kristoffersonの“Help Me Make It Through the Night”とか”As Tears Go By”とかも同じ宮廷音楽のようなトーンで流れてくるのがおもしろい。

ああなりたいもんだと思った。貴族じゃないけど。

2.26.2023

[film] The Black Windmill (1974)

2月19日、日曜日の昼、StrangerのDon Siegel特集で見ました。行きたいのにぜんぜん行けないー時間がないー。

原作はClive Egletonの小説”Seven Days to a Killing” (1973)、Don Siegelがヨーロッパで撮った最初の作品でスパイもの、主演がMichael Caine、こんなのふつうに見る。邦題は『ドラブル』。

冒頭、軍用基地の立入禁止エリアに入って模型飛行機を飛ばそうとしていた子供ふたりを注意した大人たちがそのまま子供らを車に押し込んで連れ去る。

MI6の諜報員John Tarrant (Michael Caine)はIRAに武器を売っているグループに潜入すべく、メンバーのCeil (Delphine Seyrig)の家で彼らと会った後に、会議中の諜報部に戻って大ボスのSir Edward Julyan (Joseph O'Conor)とすぐ上の上司のHarper (Donald Pleasence)に報告すると、そこに離婚した妻(Janet Suzman)から電話が入って、Johnの息子のDavidを誘拐した - 返してほしければ、最近おまえのとこが作戦の資金として調達した50万ポンド相当のダイヤモンドをよこせ、という。

「ドラブル - Drabble」と名乗る謎の犯人側(男)とやりとりを繰り返しながら、Harperはこんな直近のやばい内部情報を知っている奴とは? って局の内部にスパイがいる可能性についても疑念を抱いて調べ始めて、JohnはそんなことをしていたらDavidはどうなる? っていうのと、上の連中にそもそも取り引きするつもりがなさそうなことに気づいたので単独で行動をするようになり、その反対側でHarperはそんなJohnが怪しいと睨んで - Johnの部屋で寛ぐCeilのヌード写真が見つかったり(これ実は犯人側の仕込み)、彼の行動の監視も始める。

こうしてJohnは犯人側と直接交渉すべくHarperの命令と偽って貸金庫からダイヤモンドを引き出して、指定されたパリに向かうが、そこに息子はいなくて、渡したところで罠にはまってフランス警察経由でHarperに引き渡され、送還される途中で再びドラブル一味に襲われて、そのどさくさを切り抜けてなんとかイギリスに戻る - カレーからのホバークラフトなんてあったのね - あったまきたJohnはMI6内部に潜むモグラを炙り出すべく、ドラブルの名前で幹部に片っ端から電話をかけて、ブライトン近くの風車小屋 - ここにDavidがいると言われた - に来るように伝えるとー。

Johnのてきとーなフェイク声色でダイヤを引き出せたり、MI6幹部を呼び出せたり、いきなりCeilを殺しちゃったり、甘くておかしなところはいっぱいあるものの、007みたいな秘密兵器には頼らず(機銃仕込みのカバンくらい - でもそんなにヒットしない)、建物の上下に入りと出を多用した - アメリカだと原野の平屋とか納屋とかハイウェイになっちゃうところを狭い小路とか階段の昇り降りとかの細かな力技で通してしまった、しかも最後の決闘の場所が風車小屋 - なんで? 探すのも大変だろうし数が少ないからすぐ見つけることできるし - っておもしろすぎる。

とにかく敵でも味方でも、誰かがいたり待ったりしている目的の部屋にたどり着くまでの、路地の奥の先を抜けたところとか、オークション会場の裏側にあるオフィスとか、ぐるぐる階段ばっかりとか、ぜったいエレベーターを使わずに地下鉄の階段だろうが(地下鉄の階段なんてエレベーターが故障した時しか使わない、それくらいしんどくて無理)一気に駆け上がってしまう - そこからそのまま地下鉄に飛び乗ってあかんべーをするMichael Caineとか、建築物や乗り物のありようによってアクションを貫くテンションとスリルはこうも変わってくるものかー、とか。

今回の特集にはないけど、Don Siegelがこの2本後に撮った”Telefon” (1977)とか、小学生の頃に二本立てで見て、エスカレーターを使った追いかけっこがすごくおもしろかった記憶がある。必死に逃げる人はどんなことをしても逃げるんだなー、って。

あと、人間関係もあっさりしているのか複雑なのか、Johnと別れている妻(の最初の方のめそめそモードから、ある電話をきっかけに劇的に変わるとことか、Sir Edward Julyanの執拗かつ不気味にいやらしいかんじとか、部屋と同じように考えているところに奥まっていてなかなか到達しにくい。

欧州スパイものってこんなかんじ? というのを確かめつつ撮ってみた試論、のようなー。

2.24.2023

[film] Seule, Géorgie (1994)

2月19日、日曜日の午後、イメージフォーラムの特集『オタール・イオセリアーニ映画祭 〜ジョージア、そしてパリ〜』で見ました。

昨年の今頃は岩波ホールでジョージア映画祭だったあの季節枠、なのかしら。イオセリアーニはぜんぜん見れてこなかったのでこの機会にきちんと見たい。ここんとこ、他にいろんな特集があるのできちんと追える保証はまったくないけど、がんばる。

日本ではこれが初公開となる、全3部(第一部:91分、第二部:69分、第三部:86分)からなる TVドキュメンタリーとして作られた約4時間(あっという間)のドキュメンタリー。邦題は『唯一、ゲオルギア』、英語題は”Georgia, Alone”。

ソ連が崩壊した後、周辺各国で内戦が勃発して、ゲオルギア(ジョージア)もその最中にあって、このままでは祖国が無くなるかもしれないという危機感から製作されたという。

第一部が"Prelude"で、ジョージアとはどんな国なのか、その歴史と文化をざっと概観し、第二部の"Temptation”で、ロシア革命後、大国ロシア~ソ連との関係で国の輪郭が揺れ出すところを、第三部の"The Ordeal"で、(当時)試練のどまんなかにあって大変なジョージアの現在、を描こうとする。

第一部の冒頭で、壮麗な、おとぎ話のような山とか尖塔とかの昔から続く風景に続けて、内戦下で機関砲や機関銃を近距離で撃ちあっている首都トビリシの現状が対比される。なんでこんなことになったのか、を掘りさげるべく、まずはすぐそれとわかるバレリーナ - Nina Ananiashviliさんの - まだ米国に渡る前だろうか - 美しい舞いと、オペラ歌手(知らない)とピアニスト(知らない)の映像を導入として、ジョージアの豊かな文化とそれを培った歴史・風土が紹介されていく。太古から壺で作られているワインとか、33文字からなるかわいいアルファベットとか、あのたまんないパン(あーたべたい)とか、文明の真ん中にはカトリック~ジョージア正教を軸とした祈りの伝統、歌の伝統があり、中世のタマル女王の黄金時代を迎えるも地理的にはシルクロードはじめ、クロスロードのど真ん中に位置していたので常に戦火にさらされて、この辺はジョージアのいろんな映画で描かれてきた(その抜粋)、と。

そうして1914年に第一次大戦が起こり、1917年に十月革命が起こり、翌年に国として独立して1921年にソ連に移行する。昔からはっきりとした文化と国民意識でもって土地、大地に刺さってきたジョージアという国がより大きな歴史のうねりに巻かれるようになる、でもどんなにぼろぼろにされたって聖ゲオルギオスはそこにいて、見ているのよ、って。ジョージア文化の表象たちがどれだけ強固な意志とともに自分達のものとして形作られてきたものだったか、見ていけばわかるように構成されていて、揺るぎない。

第二部は、幸福な時代のはずだった独立~ソ連化が表と裏でどんなふうに進んでいったのか、ソ連(スターリン)の頃のプロパガンダ映像(スポーツ)、工業化、システム化がもたらす弊害とかやばさ(密告とか拍手を先に止めないとか)が国を蝕んでいくこわさがあり、他方でチャブキアーニ(舞踊)とかブレヒトの『コーカサスの白墨の輪』とか、止むことのなかった映画製作とか、文化は波に揺さぶられながらも常に饒舌だった、と。

第三部は伝統的な多声合唱団の紹介から入って、この様式のブルガリア~サラエボ~スペイン~ブルターニュ~アイルランドまでの伝播とか、キリスト教やユダヤ教など異教に対する寛容さ、共存へと向かう意識の高さが伝統としてあることを謳いつつ、でもな、って1989年のトリビシ事件に端を発した独立運動がなんであんなに泥沼化していったのか、を1991年に初代大統領となったガムサフルディア - 彼がジョージアを売った恥野郎 – の動き、更にその後のシェヴァルドナゼの動勢と共に追っていく。ニュース映像を繋いでいくスタイルながら、イオセリアーニの切迫感 - 国が失われてしまうかもしれないという危機感が前の二部とは全く異なるテンポとテンションを持ちこんで一気に走り切ろうとする。

この辺、こないだイメージフォーラムで見た『新生ロシア1991 The Event』(2015) – 感想書いてないけど – を思い出して、どちらを見ても(どちらの国でも)フロントに立って広場に押し寄せていくのは市民 - 大勢の市民で、この辺の不屈さって、当たり前といえば当たり前なのかもだが、すごいな、って。(自分のいる国が異常なんだよ。民主主義以前に)

そして、そういう市民(歴史も背景も異なっているので単純に当てることはできないにしても)が前に出ていって闘っているのを毎日のように目の当たりにしているのが、今のウクライナで、つまり人がどんどん亡くなっていて、この状態が独裁政権時代を通じて100年以上続いている。じゃあ何ができるんだよ、かも知れないけど目を逸らしてはいけない。

そして、今の日本 - 日本すごいって虚構のイメージに酔って、実体はがたがたで自滅/自壊しつつある – ここも国が亡くなってもおかしくないくらいのところに来ていると思うのだが、この国にイオセリアーニ的な視点で歴史や美についての映像を作れる人って誰かいるだろうか? って。 吉田喜重が最後だったのではないか。あーめん。

こんな唯一の貌を見せられたら、後のも見たくなるに決まっているー。

2.23.2023

[film] Ant-Man and the Wasp: Quantumania (2023)

2月18日、土曜日の午前、109シネマズ二子玉川で見ました。 IMAX 3Dで。

“Quantumania”には”ant”と”man”が入っている、と。そんな言葉遊びみたいなとこを含めて、不思議の国のアリスをやりたいのかと思った。 1作目がScottで2作目がHopeで、3作目はCassieのお話になる - ハンプティ・ダンプティみたいのも出てくるし。でも(みんなが悲鳴をあげていたように)狂言廻しとなるLuis (Michael Peña)がいない…

監督はAnt-Manの過去2作も作ってきたPeyton Reedで、Peyton Reedならばきっと... でも.. というNew Yorker誌のRichard Brodyのレビューを見て、ううむやはりそうかー、と思って、でも見る。
“Babylon”よりはぜんぜんましだと思ったよ。 コミックだし。

Scott Lang (Paul Rudd)はサン・フランシスコでご機嫌な日々を送っていて、City Lights Bookstore - 似てるけどレイアウトが変だ、と思ったらロンドンにセットを作ったって - で自伝の朗読会をしたり、でもCassie (Kathryn Newton)が警察に補導されたり、すべてが快調というわけでもない。

誕生日に家族みんな - Hope/Wasp (Evangeline Lilly), Janet (Michelle Pfeiffer), Hank Pym (Michael Douglas)でのお祝いの場でCassieが量子世界とのポータルよ!って得意げに披露したらおばあちゃんのJanetが怒り狂って、すぐ止めなさい! って言ったところで全員が向こう側に引き摺りこまれてしまう。

落ちた先の量子世界ではScott/CassieとJanet/Hank/Hope組で別れてしまい、変な連中とか生き物とかに遭遇しながら互いを探していく。Janetはこうなることがわかっていたふうなのでみんなでどういうこと? って聞くと、いろいろあったのよ.. しか言わない。

Janetがひとり向こう側にいた時に彼方から現れて困っていたところ助けてあげたKang (Jonathan Majors)が実は最悪・極悪の粘着野郎で、ひとりででっかい帝国を築きあげていて、Janetが間一髪でKangが再び外宇宙に出て破壊活動ができないようにしておいたのをなんとかしろ - 機械をもとに戻せ、ってJanetたちに迫って襲いかかってくるの。

というのがメインのライン - Kang軍 vs. Ant-Man&反乱軍 - なのだが、かつてJanetとなにかあったらしいLord Krylar (Bill Murray)とか、1作目で弾き飛ばされて改造人間(ハンプティ・ダンプティ)になっているDarren (Corey Stoll)とか、反乱軍のJentorra (Katy O'Brian)とか、いろんな連中が顔をだしてくるし、なんといっても蟻だから、とにかくわらわらごちゃごちゃしていても文句は言えない。

Janetはかつてここの世界で本当になにをやらかしていたのか - 家族の間に巻き起こる疑念とか、よくある父と娘の葛藤とか、Kangの背後にいるのは誰なのかとか、みんな無事に戻ることはできるのか - これだけあったら個々のパーツは薄まっちゃうし、テンポはどうしても鈍くなる。これまではLuisの3人組がうまく合いの手を入れてくれたのにそれもないし。戦争の規模からしたら”Avengers: Endgame” (2019)と同じくらいのぐじゃぐじゃ、のように見えるけどそこをなんとかしないと戻れない。

で、それらをカバーしてがんばるのがよくできたムコ殿 - Scott Langひとり - そういう話(ヒーローもの)なので仕方ないにしてもちょっとかわいそうだった。本来一緒に戦ってくれそうなHankはJanetの件で明らかに拗ねているし、Cassieは彼からすればまだ子供だし、Janetは劇薬っぽいし、Hopeは親の側と夫の側、両方を眺めてバランスを取ろうとしているようだし。

どうせならJanetがすべてを清算するの巻、にしてもよかったのに。それくらい今回のMichelle Pfeiffer、気合いが入っていると思った。Michael Douglasに対しても相当言いたいことありそうだし。

それかHankが、おまえが何をしていたかはすべて蟻たちに聞いたぞ! ってJanetに突きつけると、ほんとあんたってくそみみっちい男ね! って、Janetは返して、そのまま『ローズ家の戦争』(1989)の泥沼に(それどころじゃない)、とか。

Cassieの話に寄せるなら、Jentorraとの恋とかDarrenとのこととか、でもそれだけだと弱いかー。

へんな生き物もいっぱい出てくるのでなんでもありそうなのに、巨大化するのが父娘とアリくらい、ってなんかつまんないかも。ばかでかいチェシャ猫とか出してほしかったな。「可能性」のとこの増殖だって、もっといろんな可能性があったのではないか。

などというようなことを際限なくだらだら書いていける/書きたくなる、というのはやはりScott Langとこの世界が好きだからだと思った。

音楽はところどころで中途半端によくて、そしたらやっぱりChristophe Beckだった。
あと、ぜんぜんわからなかったが、あれってEelsのMark Oliver Everett だったのかー。

"Gangsta's Paradise" (1995)のPVのパロディをMichelle PfeifferとJonathan Majorsでやってほしい。

エンドロールで出てきたあの人については、今後のMCUのエンドロールぜんぶにいちいち出てきて「ほら、あれがあいつだ」ってお約束で言うようにしてくれないか。

2.22.2023

[film] 女性の勝利 (1946)

2月18日、土曜日の午後、国立映画アーカイブの「日本の女性映画人特集」で見ました。
監督は溝口健二、脚本は野田髙梧と新藤兼人、編集に杉原よ志、メイクに増淵いよの。 溝口の戦後第1作だそう。

新進気鋭の女性弁護士ひろ子(田中絹代)は恋人で評論家の山岡(徳大寺伸)が5年間の勾留から解かれて戻ってきたので嬉しい反面、獄中で衰弱しきってそのまま病院送りになったことについては頭にきていて、あの硬直した検事だの司法制度をどうにかしないと、ってぷんすかしていると呼んだか? って検事の河野(松本克平)が顔をだす。彼はひろ子の姉みち子(桑野通子)の旦那なのでどうにも面倒くさくてやなかんじ。

この後も戦後の司法への市民参加を巡ってひろ子と河野はことごとく対立して、河野はこの立ち回り如何によっては検事正になれるかも、って意固地で必死だし、彼を支える姉とのお家内事情だってあるし、でも山岡をあんな目に合わせた河野を許すことはできないし。

そんな時、ひろ子は同窓生だった朝倉さん(三浦光子)が乳児を抱えて道端で困窮しているのを目にして少し気にしていると、職場の事故で寝たきりだった彼女の夫が亡くなり、更にある晩混乱した朝倉さんが訪ねてきて、子供を誤って殺してしまった、と(彼女が訪ねてきて自分のやってしまったことを告白するシーン、カットなしでものすごいテンション)。

病状が日に日に悪化していく山岡からも励まされ、朝倉さんを弁護して河野と法廷で全面対決することになったひろ子は、そして挟まれてどうにも苦しいみち子は…

全体の分量からは大きくないが、これは”Saint Omer”から続けてみると、テーマとして連なるところの沢山ある(年齢差は70以上...)ど真ん中の法廷ドラマにしか見えなくて、司法は法を適正にドライブしたりエンジニアリングしたりの技術者に徹するべし、という河野と、世の中の事情や動きと乖離した法は人を殺すのでそんなのぜったいにおかしい、というひろ子の主張 - 要は法が先か人が先か - 正面からぶつかってすごい迫力なのだが、裁判の休憩時間に入ってみたら山岡は亡くなってしまうわ、みち子は河野の家を出るというわ、どんでんがあって、よし! って再びリングに向かうひろ子を正面からとらえて終わるの。

判決が結局どうなったかについて、映画のなかでは示されない - 圧力とか配慮とかいろいろあったのだろうか? - のだが、それでも十分「女性の勝利」と言いうるだけのいろんな材料は十分に示されていた気がした。

他方で、でもやっぱりごく最近になっても、司法って相変わらず法(と権力の、制度の)ドライバーにしかなっていないよね。まずは世の中のせいにして、だれに守られているのかなにを守りたいのか、目と耳を塞いで法と判例の方だけをみて適用/運用しているだけのしょうもない人たち(だらけのように見えてあたまくる)。

素敵な法衣(RBGの襟!)を纏ってヒールを履いて、しゃんと立つ田中絹代、かっこよいねえ。


胸より胸に (1955)

↑のひとつ前に見ました。
原作は高見順の小説、監督・脚本は家城巳代治、沼崎梅子が編集。独立プロ - 文芸プロダクションにんじんくらぶの第1作だそう。

戦後、浅草のストリッパーとして前向きにがんばる志津子(有馬稲子)がいて、彼女に勝手に思いを寄せる大学の助教授の波多野(冨田浩太郎)とその先輩で既婚(やがて離婚)の日下(下元勉)がいて、波多野は志津子と結婚してくれると思ったのにこいつらは高慢ちきの偏見まみれのなんでこんなのが大学にいるんだのどうしようもないクズ(あまりにひどすぎてびっくりよ)だったので見切りをつけて、彼女は結局傍に寄ってくるトランペット吹きの吉植(大木実)と暮らすしかなくて、でもこいつも結局はガサツな乱暴者のヒモでよくなくて、でもなんとか幸せを掴まなきゃってがんばって働いても踊っても疲れてきて…

北鎌倉で海に向かって突然走り出したり、弾かれたように踊りだす有馬稲子とか、町工場で明るく働く春江(久我美子)とか、ダメ男どもに「あんたが一番好きなのは「自分」だけなんだ」って冷たく言い放つ水戸光子とか、女性たちのすばらしさと比べて、あるいはみんなで合唱して(仕事は苦しいけれど~♪ とか)盛りあがる巷の暖かさと比べて、男たちのどうしようもなさばかりが最後までべったりと残って、しぶとく残るのがそっちの方ばかりなのはやはり残念だったかも。

この後に見たのが↑の 『女性の勝利』だったのでまだ救われたような。 逆だったらしんどかったと思うー。

2.21.2023

[film] Saint Omer (2022)

2月16日、木曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。
2022年のいろんなベストの上位にリストされていたAlice Diop監督作品。確かにこれはすばらしかった。もっと早くに見るべきだった。

撮影は“Portrait of a Lady on Fire” (2019)や“Atlantique” (2019)のClaire Mathon。

39歳のFabienne Kabouが生後15カ月の娘を浜辺に置き去りにして殺した事件、2016年に行われたこの裁判を傍聴したAlice Diopが撮ったフィクション。この裁判での実際のやりとりも脚本には反映されているという。

冒頭、真っ暗な浜辺に向かって何かを抱えた女性が歩いている – 暗すぎてよく見えない – その夢でうなされているのを横にいた夫に起こされたのがRama (Kayije Kagame)で、最初の方は彼女が大学で教えている様子 - 『二十四時間の情事』(1959)で女性が丸刈りにされて引き回されるシーンを見せながらデュラスに言及する – と、夫と一緒に母のところに会いに行くところが映しだされる。そこでRamaの子供時代のビデオ、ビデオではない彼女の少女時代の回想?も出てくる。母は背中を向けてそっけない。

そこからSaint Omerの町に旅をしたRamaはそこで行われる裁判の傍聴の席につく。彼女はこの事件をもとに記事を書こうとしていることが後でわかる。

Ramaと同じくセネガルからフランスに来たLaurence Coly (Guslagie Malanda)が夜の浜辺に幼い娘を置き去りにして殺した事件についてのもので、遺体発見者の証言 - 最初は難破した移民船のかと思った – とか、逮捕の時の状況とか、セネガルの両親との関係、なぜセネガルからフランスに来たのか、フランスの大学では哲学を専攻したかったが父親と衝突して援助を切られ、かなり年上の既婚男性とつきあって囲われて彼の子供を妊娠して、病院にも行かずに部屋でひとりで子供を産んだ、などなど。大学でウィトゲンシュタインを専攻した彼女に対し、なぜセネガルから来てウィトゲンシュタインを?(という質問がとぶの。うるせえよ)

Colyの受け答えは終始落ち着いていて明晰で、子供の父親である男性の証言にも嘘はないようなのだが、ここで明らかにされた過去~現在までの事情や経緯となぜ彼女は娘を殺したのか、の核心に話が行くと彼女の供述がぶれたりよくわからなくなってくる – と追及する側も彼女も“sorcery” – 「魔術」について言及を始めたりする。果たしてそれは誰が誰にかけた魔術なのか?

法廷でのやりとりを聞いて誰もが困惑する。誰もが彼女を「理解」しようとする – でもできない/わからない – 彼女もわからない、という - それは何故なのか? 彼女の声を聴く、彼女を理解する、とはどういうことなのか?

法廷でのやりとりをじっと聞いてColyを見つめるRamaの姿 – それは彼女の内側にも向かっているよう - が何度もカメラにとらえられ – 更にホテルに戻ると倒れこむように横になったり、更にColyの母と話をしたりするうちに、妊娠4ヶ月であるRamaにとってColyの語ることがとても他人事とは思えない苦痛と共にやってくる – そこに彼女の幼い頃の記憶が重ねられていく。そして更に、やや唐突に接続される、パゾリーニの”Medea” (1969)の子殺しのシーンと。 混乱・錯綜している? おそらくそうではない…

ずっと無表情で感情を表に出さないColyとRamaが一瞬、目を合わせてColyが静かに微笑む瞬間の戦慄。

被告側の弁護士 (Aurélia Petit)による最終弁論 - カメラは彼女を正面から捕らえ、彼女もこちらを見据える – が凄まじい。これは人種、ジェンダー、階級、文化、権力、旧植民地と旧宗主国、歴史、などすべてに関わること - 見えていなかったこと、聞こえていなかった声についての、すべての女性に関わることだ、と。それを落ち着いて受けとめる裁判長 (Valérie Dréville)もすばらしい。見事な女性映画だと思った。

このシーンをやるために、Alice Diopは『私たち』のようなドキュメンタリーではなく、「物語」 - フィクションとして切り出す必要があったのだと思う。

同じことが日本で起こるとどんなことに/どんなふうになるか、容易に想像がつくし、いくらでも見てきた - 産後鬱による心神喪失状態、で片付けてなにも見ようとしない、見る必要がないという - ほんとにひどいわ。


NOUS (2021)

2月13日、月曜日の晩、Amazonで見ました。『私たち』、英語題は”We”。
Alice Diopによるドキュメンタリー。 同年のベルリン国際映画祭でEncounters Awardを獲っている。

冒頭、並んで森の奥の方を双眼鏡で眺める白人の親子がいて、どうも鹿を探しているらしい。
ここから始まって、パリのRER B線の沿線に暮らすいろんな人々のスケッチを、車の整備工とか大聖堂でルイ16世の死を悼む人々とか、姉の看護師についていく話、ドランシー収容所に収監された人々の記憶とか、作家Pierre Bergouniouxへのインタビュー - 自分の住んでいる場所に文学的アイデンティティを与えたかった - とか、監督自身の古いホームビデオのなかにいる母や家族たち、その記憶。そして最後に再び冒頭の親子たちを含む大勢での鹿狩り、に戻っていく。 

いろんな見えない、見えにくい、或いは自分のなかにしまわれていた人たちとその記憶。それらすべてを「沿線沿い」とか、「歴史」とかで適当に括って積みあげて、「私たち」として強引に引っ張りだして定義しなおそうとする試み、そしてそれは確かに「私たち」である/になるのだ、という強さ。こうして固定された画面が映し出す世界のなんと強く、くっきりと見えることか。

そしてこの強さ (=) 意志は”Saint Omer”にも継がれている。当然。Alice Diopのこれから撮る映画の出発点となる、宣言のような映像と「私たち」。なぜいま、これが必要なのか、ということ。

我々のよく知る「わたしたち」〜 矢野顕子の「愛するために愛してる わたしたち♪」にもこれは繋がるの。

2.20.2023

[theatre] National Theatre Live: The Seagull (2022)

2月14日、火曜日の晩、TOHOシネマズ日本橋で見ました。

上演はHarold Pinter Theatre - 日本食材スーパーのお向かい、なつかしい – で、チェーホフの同名の古典劇 (1895)をAnya Reissが脚色し、James McAvoyの”Cyrano de Bergerac” (2019) – あー見てないや – のJamie Lloydが演出している。

Previewは2019年の12月で、でも開始間もなくのCovidまん延によりPreviewのみで終わっていた – なのでこの公演は、2年間の中断を経ての(厳密には)リバイバルとなるのだそう。

NTLによくあるイントロ - 作家とか演出家へのインタビューもなしにいきなり始まる。ぼんやりした模様のように並んでいる影が形をとって、その焦点があうと簡素なステージ上に出演者全員が簡素な椅子に座って、横並びでこちらを向いている。服装も地味でシンプルで、壁はウッドチップの模様の壁紙がぺたんと、牢獄ほど冷たくはないがリビングのように暖かくもない。待合室? のような。

発話する場合は立ちあがって相手の方を向いてなにか言ったり合いの手を入れたりするものの、直接的なアクションに繋がったり激しい感情をのぞかせることもないし、その波動が周囲を急かして動かすこともない。どこか誰かに言わされているかんじ。言われなければぜったいチェーホフだとはわからない。ベケットとか不条理劇のような噛みあわないトーン。

母のIrina (Indira Varma)がいて、息子のKonstantin (Daniel Monks)の芝居が不評 – 貶されるというよりわかんないと言われる - で、母は人気作家のTrigorin (Tom Rhys Harries)と関係があり、そこに新進女優のNina (Emilia Clarke)が入ってきて..  会話が進むにつれて、舞台上にいる他の親族や村人たちとの関係も明らかになっていくのだが、家や場面の転換と共に扉をくぐったり抜けたりを通じてお喋りのアンサンブルやリレーが「物語」を「顛末」に向けて転がしていくチェーホフのコメディ/ドラマの騒がしさ、人々の密なかんじからは程遠い。

これってリモートワークでのZoomの会議みたいな建付けなのだろうか。ムダの塊のようなチェーホフの会話劇を効率化・生産性向上のツールであるZoomを介して洗濯してみたらどうなるか、って。 全員が縦横のグリッド上にいて等価で、派手に目立つことは憚られて、誰かひとりと話したくても全員に伝わってしまうので、ホットなやり取りは無理か、ってクリックして入ってからそこに居ることを強いられ、勝手に抜けるわけにもいかなくて、たまにフリーズしたりホワイトアウトしたり、などなど。でも、居心地わるくても伝えられるべきこと、決められるべきことはここでぜんぶ捌くべし、OK? などなど。

ぜんぶで二幕あって、幕間でライトが落ちている間もKonstantinは舞台上の椅子に座ってぼーっとしたり床に転がったりしていて – 夜の動物園のようにぼんやりと確認できる - 二幕目に入るとステージの一部が取り払われてより骨組みのみのメタ演劇っぽい広がりが現れ、Konstantinが劇作家として人気がでて有名になるにつれNinaとの距離も縮まっていくのだが、Konstantinのどんよりはっきりしない態度は変わらないままで… 名声とか影響力とか世代的なあれこれと同様、恋愛も芸術もとめどない片思いばっかしでなんか疲弊するねえ、どうしていったらよいのかしら.. みたいなところで終わる – 画面上からひとりひとり消えていくようにして。 はて、「かもめ」ってこんな話だったかしら? という圧倒的に腑抜けたかんじ(よい意味で)と共に。

これがWest EndデビューとなるEmilia Clarkeはきらきら圧倒的に光っていて、母役のIndira Varmaの過去に生きて動じないかんじも、ふたりに挟まれるTom Rhys Harriesの神話的に堂々としたかんじも、これに対してずっと途方に暮れた眼差しと表情で遠くを見たまま漂ってぼそぼそしたDaniel Monksがすばらしい。彼は障害者俳優なのだが、この人がこの位置にいることで芝居の像は変わるのか変わらないのか、それはどうしてなのか、などを考える。

他方で、このやり方でシェイクスピアでもイプセンでもピンターでもなく、チェーホフを上演することの意味を考える .. 程には自分はチェーホフを知らないのが残念だった。それなしでも十分おもしろいのだが。

ところで、直近の映画のMichael Mayerによる”The Seagull” (2018)って、結局日本公開はされなかったの? IrinaをAnnette Beningが、NinaをSaoirse Ronanが演じて、巧い人ばかりだったのでアンサンブルとしてはとてもスリリングでよくて、これと一緒に見たらいろいろ発見もあったかもしれないのにー、とか。