2.21.2023

[film] Saint Omer (2022)

2月16日、木曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。
2022年のいろんなベストの上位にリストされていたAlice Diop監督作品。確かにこれはすばらしかった。もっと早くに見るべきだった。

撮影は“Portrait of a Lady on Fire” (2019)や“Atlantique” (2019)のClaire Mathon。

39歳のFabienne Kabouが生後15カ月の娘を浜辺に置き去りにして殺した事件、2016年に行われたこの裁判を傍聴したAlice Diopが撮ったフィクション。この裁判での実際のやりとりも脚本には反映されているという。

冒頭、真っ暗な浜辺に向かって何かを抱えた女性が歩いている – 暗すぎてよく見えない – その夢でうなされているのを横にいた夫に起こされたのがRama (Kayije Kagame)で、最初の方は彼女が大学で教えている様子 - 『二十四時間の情事』(1959)で女性が丸刈りにされて引き回されるシーンを見せながらデュラスに言及する – と、夫と一緒に母のところに会いに行くところが映しだされる。そこでRamaの子供時代のビデオ、ビデオではない彼女の少女時代の回想?も出てくる。母は背中を向けてそっけない。

そこからSaint Omerの町に旅をしたRamaはそこで行われる裁判の傍聴の席につく。彼女はこの事件をもとに記事を書こうとしていることが後でわかる。

Ramaと同じくセネガルからフランスに来たLaurence Coly (Guslagie Malanda)が夜の浜辺に幼い娘を置き去りにして殺した事件についてのもので、遺体発見者の証言 - 最初は難破した移民船のかと思った – とか、逮捕の時の状況とか、セネガルの両親との関係、なぜセネガルからフランスに来たのか、フランスの大学では哲学を専攻したかったが父親と衝突して援助を切られ、かなり年上の既婚男性とつきあって囲われて彼の子供を妊娠して、病院にも行かずに部屋でひとりで子供を産んだ、などなど。大学でウィトゲンシュタインを専攻した彼女に対し、なぜセネガルから来てウィトゲンシュタインを?(という質問がとぶの。うるせえよ)

Colyの受け答えは終始落ち着いていて明晰で、子供の父親である男性の証言にも嘘はないようなのだが、ここで明らかにされた過去~現在までの事情や経緯となぜ彼女は娘を殺したのか、の核心に話が行くと彼女の供述がぶれたりよくわからなくなってくる – と追及する側も彼女も“sorcery” – 「魔術」について言及を始めたりする。果たしてそれは誰が誰にかけた魔術なのか?

法廷でのやりとりを聞いて誰もが困惑する。誰もが彼女を「理解」しようとする – でもできない/わからない – 彼女もわからない、という - それは何故なのか? 彼女の声を聴く、彼女を理解する、とはどういうことなのか?

法廷でのやりとりをじっと聞いてColyを見つめるRamaの姿 – それは彼女の内側にも向かっているよう - が何度もカメラにとらえられ – 更にホテルに戻ると倒れこむように横になったり、更にColyの母と話をしたりするうちに、妊娠4ヶ月であるRamaにとってColyの語ることがとても他人事とは思えない苦痛と共にやってくる – そこに彼女の幼い頃の記憶が重ねられていく。そして更に、やや唐突に接続される、パゾリーニの”Medea” (1969)の子殺しのシーンと。 混乱・錯綜している? おそらくそうではない…

ずっと無表情で感情を表に出さないColyとRamaが一瞬、目を合わせてColyが静かに微笑む瞬間の戦慄。

被告側の弁護士 (Aurélia Petit)による最終弁論 - カメラは彼女を正面から捕らえ、彼女もこちらを見据える – が凄まじい。これは人種、ジェンダー、階級、文化、権力、旧植民地と旧宗主国、歴史、などすべてに関わること - 見えていなかったこと、聞こえていなかった声についての、すべての女性に関わることだ、と。それを落ち着いて受けとめる裁判長 (Valérie Dréville)もすばらしい。見事な女性映画だと思った。

このシーンをやるために、Alice Diopは『私たち』のようなドキュメンタリーではなく、「物語」 - フィクションとして切り出す必要があったのだと思う。

同じことが日本で起こるとどんなことに/どんなふうになるか、容易に想像がつくし、いくらでも見てきた - 産後鬱による心神喪失状態、で片付けてなにも見ようとしない、見る必要がないという - ほんとにひどいわ。


NOUS (2021)

2月13日、月曜日の晩、Amazonで見ました。『私たち』、英語題は”We”。
Alice Diopによるドキュメンタリー。 同年のベルリン国際映画祭でEncounters Awardを獲っている。

冒頭、並んで森の奥の方を双眼鏡で眺める白人の親子がいて、どうも鹿を探しているらしい。
ここから始まって、パリのRER B線の沿線に暮らすいろんな人々のスケッチを、車の整備工とか大聖堂でルイ16世の死を悼む人々とか、姉の看護師についていく話、ドランシー収容所に収監された人々の記憶とか、作家Pierre Bergouniouxへのインタビュー - 自分の住んでいる場所に文学的アイデンティティを与えたかった - とか、監督自身の古いホームビデオのなかにいる母や家族たち、その記憶。そして最後に再び冒頭の親子たちを含む大勢での鹿狩り、に戻っていく。 

いろんな見えない、見えにくい、或いは自分のなかにしまわれていた人たちとその記憶。それらすべてを「沿線沿い」とか、「歴史」とかで適当に括って積みあげて、「私たち」として強引に引っ張りだして定義しなおそうとする試み、そしてそれは確かに「私たち」である/になるのだ、という強さ。こうして固定された画面が映し出す世界のなんと強く、くっきりと見えることか。

そしてこの強さ (=) 意志は”Saint Omer”にも継がれている。当然。Alice Diopのこれから撮る映画の出発点となる、宣言のような映像と「私たち」。なぜいま、これが必要なのか、ということ。

我々のよく知る「わたしたち」〜 矢野顕子の「愛するために愛してる わたしたち♪」にもこれは繋がるの。

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