12.08.2023

[film] 兄とその妹 (1939)

12月3日、日曜日の夕方、国立映画アーカイブの特集『返還映画コレクション(1) - 第一次・劇映画篇』で見ました。
監督・脚本の島津保次郎の「松竹最後の作品にして最高作」と作品説明にはあったので。

間宮敬介(佐分利信)と妻あき子(三宅邦子)、敬介の妹文子(桑野通子)の三人は同じ家に仲よく暮らしていて、敬介は会社の専務との囲碁に付きあわされて冒頭の場面でも午前1時に帰宅して、あき子と会話して寝るだけ、小さな貿易会社で翻訳事務の仕事をしているらしいモダンな - 洋服かっこいい - 文子は同情しているのか軽蔑しているのか関係ないふりをしている。

場面は会社での敬介の仕事ぶり- 数字に強くて優秀で上を含めて周囲から認められている反面、囲碁ができるから上に気に入られているんだろ、とか河村黎吉をはじめとするやっかみ組も湧きはじめている – と毎晩そういう糞玉にまみれたりして家に帰ってくる夫をどんなふうであれ朝に晩に受けいれて送りだすあき子の会社員の家世界と、大変ね~ とか言って距離を取りそっちを見ないようにして我が道を行こうとする文子の世界、このふたつをじーっと描いていく。めちゃくちゃ地味だし、ここからどう転がるんだ? って思いつつもなんでか目を離すことができない。

文子の会社に仕事でやってきた有田(上原謙)が文子を見初めてお付き合いしたい、と申し込んでくるのだが文子はめんどくさいので結婚してます、ってウソをつくと有田は叔父である敬介の会社の専務に報告して裏をとって(… こわすぎ)、改めてどうでしょう? になったり、間宮の家で行われた文子の誕生日の会で交わされるなんだかみんな遠くにきちゃったわね、の会話とか、3人で箱根にピクニックに行って富士山を手のひらの上に乗せたりとか。会社的なあれこれから離れたところでの文子とその兄、その義姉の世界は割と穏やかだったりする。

敬介のいろんな仕事とか数字のしがらみにまみれて、でもすごく大きな不満も不安もなく流れ流されていく日々と、ただの妹ではなく「その妹」 - “The 妹” - と特別に強調されてしまうくらいに浮きあがった - 浮きあがるように造形された文子の世界が彼女の縁談話と共にゆっくりなにかに絡みとられようとした時…

敬介の会社の出世に関わる中傷のほんとにどーでもよい愚痴ごたごたは、現代の会社でもゴルフや飲み会の場でふつうにありそう - なので翻訳なしで言語が伝わるくらい鮮明に理解できる - で、そういう肥溜めみたいなところをしゃぶ漬けになって生き抜いてきたあれら神経のないじじい共が戦中戦後を支えてきたのだから、この国のいまの停滞だって推して知るべし。

で、ぶちきれて河村黎吉をぶん殴る敬介をやや離れた距離でとらえるシーンはありがちな爽快さからはやや遠めで、あららやっちゃったよ、を第三者が遠くのなにかをとらえて目撃する図に近くて、でもあの引っ叩きかたはちょっと痛そうでよかったかも。

こうして会社にいられなくなった敬介は、彼の経験したような柵を振り払ってひとり会社を立ち上げていた笠智衆 - 文子が名刺を貰っていた - のところに向かい、彼からは一緒に大陸での仕事をやらないか、って誘われて任されて、「その妹」もまた申し分なさそうだった上原謙との縁談を蹴っとばし、3人揃って中国行きの飛行機に乗り込むのがラスト。飛行機が滑走路を走り出した時、窓から外を見ていた文子が車輪に草が絡まっているわよ! ってなにが楽しいのか楽しそうに言うのだが、ここにはどんな意味があったのだろうか?  ① そんなふうに絡まったって意味なさそうだけど、まるで私たちみたい ② 飛行機が飛びたった後に絡まったのが原因で大爆発しちゃえばいいのに ③ 絡まって大陸に渡ったあとに外来種として根をはって生きるわよ ①が妻で、②が妹で、③が夫の視点、だろうか…  

小津的な穏やかさとも溝口的な厳しさとも成瀬的なやりきれなさともどこか違って、どこにも向かうとも知れずに車輪に絡み取られて飛んでいってしまう平熱の雑草感があって、これはこれですてきだと思った。

12.07.2023

[film] The Lost Moment (1947)

12月2日、土曜日の昼、シネマヴェーラの『文学と映画』特集で見ました。もう止まらない。

原作はHenry Jamesの”The Aspern Papers” (1888) - 『アスパンの恋文』。原作と同じタイトルで作られた2018年の英独映画は未見。監督は俳優でもあるMartin Gabel。

邦題は『失われた時』。Henry Jamesがフィレンツェ滞在中に聞いたMary Shelleyの異母姉に纏わる実話が元になっていて画面に出てくる詩人のポートレートはPercy Bysshe Shelleyのそれ、だって。

19世紀の詩人Jeffrey Ashtonが恋人に宛てて書いた恋の手紙を探し求める出版人の Lewis (Robert Cummings)は、詩人の当時の恋人で手紙の受取り人だったJuliana Bordereau (Agnes Moorehead)がまだ生きている、という情報を得て、ヴェネツィアにある彼女の邸宅に向かう。彼自身がJeffrey Ashtonの熱烈なファンだったし、その幻の書簡集を出版すればベストセラーの一攫千金間違いなさそうだったし。

でも玄関で応対に出てきた侍女は明らかに何かに怯えて恐れているようだし、彼女を使っている家政婦の振るまいも口調も意地悪だし、家のすべてを仕切っているTina (Susan Hayward) - Julianaの姪だという - は氷のように冷たく怪しい。でもなんとかよぼよぼで椅子に座った枯れ木のようなJulianaに会うことができたし、彼女が要求してくる法外なお金を気前よく払って暫く屋敷に滞在させてもらうことに成功する。

そのうち邸のどこかから音楽が聴こえてきて、それに導かれるように奥の部屋に入るとドレスも髪型も替ったのか替えられたのか目がどこかにいっちゃったTinaがいて、自分はJulianaなのだと言う… ではあの老婆は… ? そしてJeffreyの書簡は… ?

お屋敷設定も画面の雰囲気もどうみたってホラーでしょ、なのだが、ぎりぎりどうにかサイコホラー、程度に留まってしまって、終わりもなんかもこもこ部屋の暗がりにフェードアウトして一夜の夢、みたいになってしまったのはやや残念だったかも。お屋敷の雰囲気も猫も、クールなSusan Haywardも最後に立ちあがるAgnes Mooreheadも、一見いい人ふう(でも裏は.. )のアメリカンのRobert Cummingsも悪くないのになー。


The Breaking Point (1950)

上のに続けて見ました。 邦題は『破局』。
原作はErnest Hemingwayの“To Have and Have Not" (1937) - 『持つと持たぬと』。Howard Hawksが原作とおなじタイトルで1944年に映画化したやつ – 邦題は『脱出』- 脚本にWilliam Faulknerが参加してHumphrey Bogart、Lauren Bacall 、Walter Brennanが登場する豪華版のとは雰囲気から何からぜんぶ全然ちがうのだが、こちらもまったく悪くなくて地続きなかんじ。監督はMichael Curtiz。

釣船 Sea Queen号の船長をやっているHarry Morgan (John Garfield)は妻 (Phyllis Thaxter)と娘ふたりに囲まれて家庭はそこそこ平和で幸せなのだが船の金繰りがうまくいかなくて、陽気だけど怪しい金持ち風でぶとその連れLeona (Patricia Neal)を乗せたら運賃を踏み倒されて、困ったのでしぶしぶ怪しい弁護士Duncan (Wallace Ford)が持ってきた話 - 8人の中国人をメキシコからカリフォルニアに密入国させる仕事を受けたら、受け取った代金が足らなかったので岸に戻って連中を下ろして、その際のごたごたで引率していた奴を撃っちゃって、やれやれさいてーだわ、って戻ると船を取りあげられて散々で、完全にお手上げになってしまったので最後の最後の賭けでもういちどDuncanの仕事を受けることにする。

今度のは競馬場の売り上げ金をかっさらう予定のギャングたちを犯行後に乗っけて沖のほうに逃げる、というやつで、強盗はうまくいったのだが車に乗る前にDuncanは撃たれて消えて、危ないから来るな、って言ったのに乗りこんできた相棒のWesley Park (Juano Hernandez)もギャングが乗り込んできた直後にやはり撃たれて海に沈められ、ぜったいこうなる、って予測して銃器を仕込んでおいたHarryとギャングのガチの撃ち合い殴り合い - 狭い船内の至近距離でのどんぱちが痛そうで - になって…

この映画でのHarryはとにかくずっとどこまでもついていないので、どのへんが”The Breaking Point”だったのか、最初に踏み倒されたあたりか、銃で中国人を殺しちゃったあたりか、苦虫顔が止まらないJohn Garfieldにしてみればぜんぶだ、ずっとだ、なのかも。HarryとLeonaの仲を疑った妻がいきなり髪をブロンドに染めて子供達にぜんぜん似合わないよママ、って引かれるあたりだったりして。

最後にパパはどこ? って消えてしまったWesleyのうちの坊やがひとり..

でもあんなことになった後は、もう船の商売は二度とやらない/できないであろう、かわいそうなHarryのうち..  って。

12.06.2023

[film] 春の画 SHUNGA (2023)

11月30日、木曜日の晩、シネマート新宿で見ました。
春画についての美術ドキュメンタリー。監督は平田潤子。

少し前にやっていた「春画先生」というフィクションの方は、映画としてはよいのかも知れないし評判もよさそうだったのだが、大筋を聞いただけでちょっと無理、これならまだホラーのがまだまし、って思ってしまって見ていない。昭和?

アートとしての春画を、鈴木春信、葛飾北斎、喜多川歌麿、鳥居清長といった画家、彫師、摺師まで含めてなんであんな「もの」とか「こと」を、あんな形象に描いたり彫ったりしたのか、というのと、その異様な、奇想なあれらがどんなふうに、なんで時代を超えて伝播していったのかという流通のはなしと、それらが現代のコレクターや研究者、画家や愛好家たちから見てどんなふうに見えたり熱中させたりするのか、という3軸くらいで見ていく。

大きな話題となった大英博物館での春画展の話や海外のコレクターも出てくるが、春画ってこんなにすごい、日本の(伝統)美術すごい、という熱はそんなにはなくて、なんであんなこと・こんなことをこんな変てこふうのびろびろで描いたのか、現代まで残って大切に保管されてきたそれらを改めて眺めて、なんなのこれ? のようなクールなトーンで貫いているところは好感が持てたかも。美しい、というより相当におかしく変な絵もいっぱい出てくるので、いろんなことを考えさせられる。

自分は大英博物館の展示はぎりぎりで見逃して、永青文庫の時には通って、もともと浮世絵の紙の肌理が好きだったので春画もおおぉう! だったのだがひだひだとかちりちりとかよくもまあ、という感覚は来て、みんながよく言う- 映画のなかでも語られる(にっぽんの、日本人の)性に対する「おおらかさ」については、何に対しての「おおらか」っていうのか、そのニュアンスって「ウェルカム」なのか「無頓着」なのか「放置」なのか「どう受けとめようが勝手じゃ」なのか、とか、エロへの「おおらかさ」とは別に、虐めとか凌辱とか差別とか暴力とか村八分についてもおなじ温度感(態度)の「おおらか」なのだろうよ、とか、その表裏でどこまでも隠蔽してぜったいに「恥」の部分を見せないようにする、っていうのも同じようにあるよね、そんなポジティブに語れることでもないような。

あと、これら - いまの世に残って収集されているような絵って、それなりに当たって刷られて流通した、ということで、こういうのが売れてみんなが嬉々として眺めて悦んでいた、ってどういうかんじなのだろうか。同じ日の少し前に見た『月夜鴉』での、階級社会(春画って平安の頃からあったらしいのでその頃からにしてよいのか?)を貫く串刺しで横断できるはけ口として機能した春画、という側面はあったのだろうか? いまの公共の場やスマホやWeb上に有無を言わせずうんざりするようなエロが流れてくる/流しておいて平気な神経もこれと同じようなことなのか(やや乱暴すぎかな)。

あと、春画の来歴やディテールについて解説・説明をする(だいたい)初老の男(複数)の説明する語り口みたいのが - リアルな春画先生なのだろうが – なんかどうにもやらしく見えて、他にどうしろっていうのだ、かもしれないけど、あれってなんなのだろう、と少し気になった。聞き手の性に関する知識の有無やその粒度を測ったり探ったりしながら自分と同じ知覚や感覚の地平に立たせようと誘導しているような。西欧の風景画を説明するときに、あんなふうな語り口になるだろうか? とか。これって、絵を理解するとはどういうことか、みたいなところにも繋がっていくのだと思うが、はて、ここでの「理解」とは?

他方で、そういうのから離れた(ジャンプした?)ところにあるとしか言いようのない奇想系の絵の奇想天外な、ファンタジーとしてのおもしろさと楽しさ。あはは、って笑ってそれで終わりにできるのが理想、なのかな、とか。

結局、ひとが春画を見るとき、そこに描かれていない裏や奥や隠や襞なども含め、実はものすごくいろんなものを見ようとしているのではないかと、そんなことを思うひとが一番不純であるに決まっている。

12.05.2023

[film] 月夜鴉 (1939)

11月30日の午後、国立映画アーカイブの特集『返還映画コレクション(1)―第一次・劇映画篇』から見ました。
上映後に木下千花さんのトークあり。

この特集だと、11月29日に石田民三の『三尺左吾平』(1944)を見てて、でもこれここで前に見たことあるやつだった。彼の最後の作品というのもあるのか、ちょっとパワーがないような。

監督は井上金太郎、原作は川口松太郎、脚本は秋篠珊次郎&依田義賢、解説文にはスクリューボール・コメディタッチとあったが、すばらしい芸道物 – 見ていておおこれはすごいぞ、ってぞくぞくしてくるやつ、そうあることじゃない。

三味線の家元 - 杵屋和十郎(藤野秀夫)の娘のお勝(飯塚敏子)は三味線の腕は確かなのだが、20代後半で貰い手/貰われ手もいないままずっとひとりでへっちゃらで、このままではこの家を継げない、って父親は嘆いてばかりで、そんななか若い17歳の和吉(髙田浩吉)がお勝に稽古をつけてください、田舎の家に戻されたら死んでしまいます、って彼女に泣いて頼んであまりにうるさいので、しょうがないねえ、ってビンタ体罰満載の特訓を施していくうちに四季が過ぎる。

こうして気がつけば誰のところに出してもおかしくない凄腕にしれっと育っていた和吉 – でもメンタルはなよなよのままお勝にべったり - が、お前たちいいかげんにしないか、になってきた父和十郎や親族たちをあんぐりさせて蹴っとばしていく終盤が痛快で、ああよいものを見た、になる。

最初のうちは余裕たっぷりに和吉をしごいていたお勝が、情が移ったのかどこまでも犬のように慕ってくるのに負けたのか和吉を好きになってしまい、このままわたしが傍にいてはいけない、って決意したお勝が、小さい姪っこに和吉への伝言 – 舞台で弾く時は遠くの一点を見つめるように、っていうのと、もう出ていきます、ひとりで強く生きて – を残して、それでもやっぱり我慢できずに客席から和吉の芸をじっと見つめるお勝と、ずっとめそめそして合同リハーサルにも出れずに周囲の顰蹙まみれのぶっつけで舞台にあがった和吉の目がひとつの線で結ばれる瞬間の鳥肌ときたら。

どうかこのまま悲恋で終わったりしませんように、って最後まで気が抜けず祈るように見ていたのだが、なんとかどうにかなって、このふたりは永遠になったの。

出演時、高田浩吉のリアル年齢は27歳で、飯塚敏子の方は24歳、和吉のほうが3歳上だったのだが、まったくそうは見えない上手さ、というか始めのほう、仏頂面のお勝が田舎のぼんくら顔の和吉をどついてひっぱたいて和吉がそれに応えてがんばるうちにふたりの顔立ちがどんどん四季と共に変わって移ろって、そこにスクリューボールコメディに必要な階層の壁や障害が被さって最後に恋するふたりの顔になって寄り添っていくのがたまんなくよいの。 あと10回くらいは見たい。


上映後の木下さんの講義 – トークというより講義 – はものすごく濃くてとても勉強になった - あのスライドほしい。

特に芸道物 – パフォーミングアーツ- 芸道に精進する人物と恋人など人間関係の相克を描くドラマが戦時中の逃避として機能した、という点。 芸道で描かれる古いがちがちの芝居の世界が戦時のプロパガンダと地続きの土俵にあるその向こう側で、芸道の世界は精進すれば、実力をつけさえすれば女性であろうと身分がどうであろうと関係なく、明治であろうと江戸であろうと時代の壁すらも超えた「自由」や「恋」を享受することができた。それがどんなに儚く切ないものであったとしても - 切なくあればあるほど。

そして、そんな自由のなかで自在になされたメディアミックス。原作小説からのアダプテーションだけでなく、新派の舞台なども含めて。

あと、今回の特集であるところの「返還映画」について。元はアメリカの日系コミュニティで上映されていたものが接収されそれが返還されて、本土でオリジナルが焼失などしても、こうして見ることができる。 というのと、なぜ接収されたのか、を考えるとき、芸道物の八方美人なところが戦争と占領下においてどんな見えかたをしたのか、等。

12.04.2023

[film] The Story of Temple Drake (1933)

11月25日、土曜日の夕方、シネマヴェーラの『文学と映画』特集で見ました。  

邦題は『暴風の処女』...  こういう古い映画の邦題って、昔は昔の土壌や呼び込み目的の勢いで付けちゃったのもあると思うのだが、いまの世に照らして明らかに変なのって、直していった方がよいのでは? 本当にその映画が好きならそこはわかってくれると思うし、それでも文句言ってくるのがいたら、あんた誰? だよね。

原作はWilliam Faulknerの小説”Sanctuary” (1931) – こんな話だったっけ? - 1961年にはTony Richardsonが小説のタイトルで再映画化している(未見)。

ヘイズコード施行のきっかけのひとつにもなったプレ・コード映画で、監督はStephen Roberts。プレ・コードのって今見ると微笑ましいものあったりするのだが、これはちょっと.. かも。

ミシシッピの田舎に暮らすTemple Drake (Miriam Hopkins)は祖父が判事で弁護士の恋人Stephen (William Gargan)から婚約を申し込まれてもやなこった、っていっぱいいる遊び仲間のToddy (William Collier Jr.)と酒場で呑んでぐでんぐでんになった帰り道、酔っ払い運転で衝突事故を起こし、Toddyは怪我で動けなくなり、その近くの酒場のLee (Irving Pichel)とすごく悪そうなギャングのTrigger (Jack La Rue)に捕まって囚われて、TempleはLeeの妻と若者に監視され、翌朝にTriggerは若者をあっさり殺してTempleをレイプすると町の売春宿に連れて行って隠してしまう。

そのうちLeeが若者の殺害容疑で捕まって裁判にかけられるが、Triggerの報復が怖くて彼の仕業だとは言えなくて、その弁護にあたったStephenがLeeの妻からTempleの居場所を聞いて現地に向かうと…

ものすごく陰惨な、アメリカの田舎の怖くてやばくて踏み入れたくない沼のようなところが全部みっしり詰まっているやつで、そういうのから離れたところにいたかっちりした家のお嬢さんが少し羽目を外したらあんなふうに転げ落ちて引き摺りこまれてあーあ、っていう。最後の裁判のシーンでも、やはり関係者全員が暴力にすくんでしまってどうすることもできず、Templeひとりががんばるもののばったりしてしまう。すべての悪も闇も地続きで逃げ場のないSanctuaryの恐ろしさ – Faulknerだねえ。


Sabotage (1936)

11月28日、火曜日の晩、シネマヴェーラの同じ特集で見ました。

邦題は『サボタージュ』、英国映画でアメリカでの公開タイトルは“The Woman Alone”。監督はAlfred Hitchcockで、原作はJoseph Conradの小説“The Secret Agent” (1907) -『密偵』。Hitchcockは同じ1936年に“The Secret Agent”というタイトルの作品も出していて、こちらの原作はW. Somerset Maugham だと – ややこしい。

ロンドンで、Karl Verloc (Oscar Homolka)の経営する映画館 – だけじゃなく広域 - で停電が起こって、客との間で金返せ返さないの騒ぎになって彼の妻(Sylvia Sidney)が対応している陰でVerlocはこっそり裏口から帰ってきてなんか怪しくて、彼は翌日にも怪しげな連中と会って、今度は停電なんかじゃなくもっとでっかい「花火」を打ちあげるのだ、って次のテロを指示されて、そんな彼をスコットランドヤードのTed Spencer (John Loder)が隣の八百屋の店員となって監視していて、Verlocの協力者は彼の家族内にもいるのかいないのかを探っている。

初めから犯人の顔も名前も割れていて、起こりうる破壊工作の内容も分かっている中、それを実行するのは怪しまれている自分ではないことを監視・追跡している側に示すために犯人が取った非道な手とは。 まさかね… まさか… って油断していたらそれがまんまとその通り - ではない巻き添え多数で起こって騒然・愕然とする中、まさかあなたが… って、導火線に火がついたように次の殺人と鼠取りと爆発が連鎖して、それにしてもあれでよかったのか? いやよくない、なぜなら..  という地続きの気持ち悪さが残る。

誰かが誰かを貶めたり暴きたてようとするその企みや試みは、必ず別の第三者の思惑によって妨害されたり壊されたりしつつも、でもどっちにしたって落ちるのだ、という小物の神が支配する小さな不条理を、四畳半の小さな舞台設定のなか、でもでっかい普遍の世界と日常のなかに描き出していて揺るがない。ここで感じる気持ち悪さって、ここの、いまの世界のものなの。

Verloc役が当初想定されていたPeter Lorreだったらなー、Sylvia Sidneyとの間でもっとすごい背筋の凍るようなものになったのではないか。

劇中に出てくるのはディズニーのアニメーション - “Who Killed Cock Robin?” (1935)で、久々にあの音頭が…  

12.03.2023

[film] My Foolish Heart (1949)

11月25日、土曜日から始まったシネマヴェーラの特集『文学と映画』 - 見たことがあるのも含めて改めてできるだけ見たい - から見ました。

神保町シアターでやっていた『文学と恋愛』特集からのも何本かみたのだが、映画の出来とは別にやっぱりあれこれ日本的ななんか等がきつかった。なんで自分が海外の方に向かおうとしたのかを改めて見て確認してしまった、というか。

邦題は『愚かなり我が心』。原作はThe New Yorker誌に発表されたJ. D. Salingerの短編 - “Uncle Wiggily in Connecticut” (1948)「コネティカットのひょこひょこおじさん」、短編集『ナイン・ストーリーズ』にも収録されている。監督はMark Robson。

雨の日、ひとり車を運転するMary Jane (Lois Wheeler)がEloise (Susan Hayward) と娘のRamonaの暮らす家を訪ねる。Mary JaneとEloiseは女学校時代からの友人のようだが暫く疎遠になっていたところも含め、かつていろいろあったらしい。

Mary JaneはEloiseの夫のLew (Kent Smith)のこともよく知っているので、二人の別れ話を聞きにやってきたらしいのだが家出のための荷造りを始めたEloise がある服を手にとると、ああーってなって過去に。

パーティでEloiseの用意した服をいけすかないやつがけなして悔しくて泣いていたのに当時つきあっていたLew は相手にしてくれなくて、そこでばったりぶつかった軍人のWalt Dreiser (Dana Andrews)が慰めて付き合ってくれて、最初はうさんくさく見えたこいつが悪くないようでEloise はだんだんはまっていって、LewはMary Janeにあげちゃって、そろそろ結婚を、ってなるのだがEloiseは妊娠してしまい、それを理由に結婚を迫るのはなんか違う、って黙って悩んでいると召集令状がきて、彼はなんも知らないまま戦地に向かう手前の事故で死んじゃって…. あたしのばかばかばか … って嘆いて引きずる「愚かなり我が心」 なの。

サリンジャーの原作だと、Ramonaのimaginary friendのことと、グラス家の三男だったWaltおじさんが戦死したことを聞いたりする話なので、ずいぶん、すごい改変したもんじゃ - これなら怒るだろうな、って思ったけど、戦時の女性を中心に置いたメロドラマとしては、そんなに悪くなかったかも。


The Fountainhead (1949)

上のに続けて見ました。邦題は『摩天楼』。
原作はAyn Randの同名小説 『水源』(1943) で彼女は脚本も書いている。監督はKing Vidor。

現代建築家のHoward Roark (Gary Cooper)は確固たるデザインの理念 - モダンであるとは - 等々を以ってギリシャ風とか蹴散らして強引に貫き過ぎるので顧客はみんな離れていって無一文になっても石切場で土方とかをやってる頑固者で、大衆紙New York Bannerの建築コラム担当のDominique Francon (Patricia Neal)はそんな彼に惹かれるのだが、もうひとりの建築コラム担当に反Roarkキャンペーンを張られて、社主で富豪のGail (Raymond Massey)はDominiqueに惹かれて、凡庸なぼんくら建築家と結婚していたDominiqueをそいつからひっぺがして自分の妻にして、でもDominiqueはRoarkと運命の出会いを…

最近は割と当たり前になっている感のある濃ゆい登場人物たちが財力と情念で思いのままに運命を転がし高笑いして、でもやられる方だって一筋縄ではいかない連中なのでガチでぶつかりあってとんでも展開の後にすべてが .. という大味すってんてんドラマの原型の趣きもあるような。この辺の大鍋を振るようなタッチが原作者としてはふざけんな、になったのではないか。

でも個々のパート - RoarkとDominiqueが石切場で出会うとこの睨み合いとか、Roarkが裁判で建築のあり姿や使命について演説するとことか、ぜんぜん悪くないし、Gary CooperとPatricia Nealの並んでいるのも素敵だし、このノリで現代の大御所がリメイクしたらおもしろくなるにちがいないー、って。

あと、やっぱり時代劇だなー って。いま建築についてあんなことを言ってもただの教科書知識にすぎなくて誰ひとり聞く耳もたない。ここ20年ですっかり変わってしまったマンハッタンのスカイライン、あんなカビの培養シャーレみたいのがよいとはちっとも思えないし、神宮外苑の件を例にとるまでもなく、問題となるのは建築家ではなく「ディベロッパー」とかいうロボットみたいな企業体なのでどうすることができようか? とか、「モダン」とか言われる建築家はとうにこの「ディベロッパー」業界に囲われているので… 以下えんえん。


この特集、ほんとになに見てもおもしろいよ。

12.01.2023

[music] John Zorn 70th Anniversary Special

11月26日、日曜日の午後から晩にかけて、新文芸坐で見て、聴きました。

John Zornの60歳の誕生日の時 – 2013年9月はNYの彼の小屋The Stoneを中心に一ヶ月間還暦お祝いのライブが続いて、そのいくつかは行って、9月2日お誕生日のBirthday Inprov Nightも行った(ことがこのサイトにも書かれている)。なので今回もSFやNYのホールで行われた70歳記念に行きたかったのだが無理だったのでせめてこれくらいは、と。

John Zornそのひとについては勿論80年代から知ってはいたが、Painkillerなどはやや怖くて謎のイメージがあり、実際にライブを見た最初は2002年の2月、Knitting FactoryでのMassacre – dsはCharles Haywardだった - のライブのゲストだった、かしら。

その後、やはりNYのダウンタウンの潰れてしまったライブハウスTonicの資金集めとかクローズ前のライブとか、The Stoneができてからはそこでのとか、ライブで演奏する姿を見ている回数でいえば、実は彼のが一番多いのかもしれない。夏に観光で行ったNYでも食堂のテラスに彼がいてお喋りしているのを見たし。

今回の誕生日イベントはMathieu Amalricがひとりで撮影して監督している(編集はCaroline Detournay)ドキュメンタリー・フィルムのZorn I, II, IIIの現時点までに出ている3本の一挙上映と、その後で東京作戦アニバーサリー部隊 - 東京部隊アニバーサリー作戦と間違いがち – のライブという、これだけどかどかやったらなんか少しは彼にも届くのではないか、くらいの。


Zorn I (2010-2016) (2017)

年代で区切ってあるので、その時代のいろんな土地でのライブ活動やリハーサルの風景を追っていく。ここまでの3部作全体に言えることだが、John Zorn自身が演奏に加わって吹いたり弾いたりしているライブ映像はそんなになくて、ライブイベントのあるその土地に行ってオーガナイズしたり、リハーサルの場面で奏者に細かに指示を出したりしている場面の映像が多い。彼を中心とした音楽のギャングのような凄腕たちの即興だろうが前衛だろうが、の面々 - 巻上さんも - の凡そが紹介され、ライブで音を出しているその時間、よりも音が音楽となるその瞬間を掴まえようとしているかのようで、こういう場の見せ方にJohn Zornの音楽に対する姿勢や態度が反映されているのだった。 リハーサル場面では”Freud” (2016)の弦に細かな指示を出していたり。

あと今は別の場所に移転してしまったがThe Stoneの旧館での演奏風景とか懐かしい。ここは本当に「彼の小屋」で、凍える冬に屋外で並んで待つのは本当にしんどかったのだが、時間になるとJohn Zornがドアを開けて、彼に$20とか代金渡して、終わると映画にもあったようにお片付けも彼がやってて、他にはバイトみたいな人がひとりいるかいないかくらいの、本当にコンパクトなスペースで、そんなに数を通えたわけでもなかったけど、そこで鳴り響く音楽ときたら極上でとんでもなくて、そこではもちろんJazzだの即興だのジャンルなんてどうでもよくなるの。


Zorn II (2016-2018) (2018)

リスボンでの音楽イベントの準備風景と彼の”Necronomicon” – だったかな?のリハーサル風景を追っていく。59分なので、こんなのあっという間。


Zorn III (2018-2022) (2022)

フィンランドのソプラノ歌手Barbara HanniganとピアノのStephen Goslingが、Zornの “Jumalattaret” (2012)をリハーサルを通して仕上げていくさまをずっと追っていって、これがもう本当にすばらしい。音楽ってこういうふうにできて練られて形になっていくんだ、って。最初は難しすぎてできない、という彼女に音楽の「完璧さ」について手紙で返す箇所も含め、教育者としての彼のすばらしさを思い知る。なにより音楽ドキュメンタリーってこうあるべきでは、というのがJohn Zornの譜面を追う姿、指示をだす姿、喝采する姿、などに凝縮されていて、そこらのフィクションなんかよかよっぽど感動する。

どの作品も終わりには”To Be Continued …”と出るので次の機会にはあと3本くらい増えていますように。


John Zorn's Cobra 東京作戦 アニバーサリー部隊

プロンプター巻上公一を含めて14名のバンドがJohn Zornの”Cobra”を演奏する。映画館なので楽屋もなく、映画上映が終わって外に出るとバンドの人たちがふつうに映画館のフロアに座っていておかしかった。

そういう状態なのでリハーサルの時点から入れてくれて、この曲の難しさについて – この曲のルールを知って演奏することができのはJohnの他には巻上さんだけで、ルールとセオリーの説明を始めたら1日掛かる、そういうものなのだ、など巻上先生によるレクチャーも入る。

演奏者の自発性がひとつのキーであり、プロンプターと各演奏者、演奏者同士の目合図の取り合い奪い合いが重要な要素となるこの曲で、奥行きが狭く13名が横長に広がるしかない - プロンプターはステージを降りて座席の最前列に立つ - 映画館のステージはめちゃくちゃやりにくそうであったが、それもまたスリリングな要素のひとつではあり、実際に聴いてみると、あーこういうやつかーそうだろうな、しかない。鎌首をもたげたコブラに睨まれてしまうのと同じで目を離せなくなり耳もついていくのが精一杯で、噛まれた毒がまわるのも早い。ここにJohnがいたらさっき見た映画のように微笑みながらなにかを教えてくれたに違いない。なんだかんだあっという間で、これは体験するしかないやつだった。


RIP Shane McGowan.. いつかこの日が来ることは覚悟していたけどやっぱり悲しい。
”If I should fall from grace with God where no doctor can relieve me” - ライブのたびにまたShaneのやつ... って笑いあいながら、それでも、それだからこそあんなに歌って叫んで踊った、どれだけ一緒に地面を蹴っ飛ばしたことだろうか。そのうちお墓参りいくからね。 ありがとう。安らかに。

ああそしてElliott Erwittも…